牧師 ショートメッセージ                    
毎週の礼拝週報に掲載している東村山福音自由教会 早坂牧師の
『早坂牧師より愛をこめて』ショートメッセージです。

伝えたいもの』 (12.5.20)

 「金銀は我にない。しかし、あるものをあげよう。」キリストの弟子にとって、このような言葉を語れることほど幸いなことはないと思います。逆に金銀ぐらいしか与えられるものがないというのなら、まことに寂しいことのように思えます。私たちには、人に伝えたい、ぜひとも知って欲しいと思えるものがあります。どうしても伝えたいと思えるものを持っているということは、なんと幸いなことでしょうか。どんなに腕の優れた芸術家でも、伝えたいものを持たない人の作品には、力がありません。伝えたい思いがないのならば、歌唱力が良くても、聴くものに届きません。逆に言うと、たとえ技術が高くなくとも、本当に伝えたいものを持っているならば、それがにじみ出るようにして伝わっていくものです。私たちキリスト者は、イエス様の十字架を、その御名を伝えたいと切に願います。実はそう思えるものがあるということだけで、本当に幸せです。すべての人に知って欲しくてたまらない良い知らせ。神の福音が、ここにあるのです。私たちは胸を張って言うことができるでしょう。「金銀はないかもしれませんが、私たちに与えられたはるかに素晴らしいものを、あなたにもただで差し上げましょう!」


一歩外に出る恵み』 (12.5.13)

 年に一度の野外礼拝の日です。母の日ということもありますが、神様の造られた自然の中で、神様のみわざを感じつつ礼拝できることも素晴らしい恵みだと思います。屋外の空気を吸いながら、持ち寄りのお弁当を分かち合って食べるお昼の交わりも、主が下さった神の家族の交わりです。私たちは毎日の同じ繰り返しの中にいると見えないことがあるのですが、しばしばこのように、いつもとは違った環境に身を置き、いつもとは違った何かに気づくことも大事なのではないかと思うのです。ついつい、慣れ親しんだ狭い生活環境の中に私たちは安住します。そこが永遠の住まいではないことを知っていながら、なおそこが安心できるので、そこに留まろうとします。しかし、神様はいつも新しいことをなさいます。ですから、しばしば私たちは外に出て、神様のなさることに目を向けていくということが必要です。そしてまた、自分の心の殻から一歩外に踏み出す勇気を神様が下さるように祈りましょう。まだまだ私たちが体験できていない、驚くほどの恵み、素晴らしい出会いがそこにあるのです。自分を守る城壁を崩して出て行き、神様の用意されている新しい恵みに触れていきましょう。


人を生まれ変わらせる神の力』 (12.5.6)

 月曜日に草加教会に行ってまいりました。そこで二つの嬉しい出来事がありました。一つは、数年前にご奉仕させていただいた聖書講座の受講生との再会でした。信仰歴も浅い中での、まったく初めての受講だった。ゆえにその時には難しくてわからなかった所も多かったけれど、今になって振り返ると、あの学びが色々な場面でつながってきて、感動を覚えるとおっしゃるのでした。私もお話している中で、受講していた時とは、この方の表情がまったく違うことに気づきました。ここ数年の歩みにおいて、神様から豊かに取り扱われて来られたのだなと感じ、とても嬉しく思いました。第二のことは、草加でのユースの集会で、イエス様を信じる告白に導かれた子がいたということです。眠そうにしている子、帰りたそうにしている子がいるように感じる中での奉仕は、いつも闘いがあります。自らの未熟さを痛感させられる瞬間なのですが、だからこみわざをなさるのは主なのだと教えられるのです。いずれの出来事も、人が主イエスと出会い、神の恵みのうちに変えられ、成長していく姿を見させていただいた出来事でした。やはりこのところに、主に仕える者の何にも変えがたい喜びがあるのだと思います。神のいのちのみことばは人を生まれ変わらせる力を確かに持っているのです。


いのちのことばをしっかり握って』 (12.4.29)

 新年度の年間聖句は、ピリピ215-16です。そこでは、邪悪な曲がった世代の中にあって、いのちのみことばをしっかり握り締めて、世の光となるべきことが語られています。暗闇の世にあって、いのちのみことばを握る私たちだけが、光を放ち、道しるべとなることができるのです。私たちが、流されて、この世に合わせていたら、誰がこの光を人々に示すことができるでしょうか。情報過多のこの時代だからこそ、唯一まことの真理、神のいのちのことばに堅く立ち続けることが、世の光となるのです。何を信じていいのか。何を頼みとしていいのか。人々は迷い、戸惑い、不安な中にいます。原発、地震、財政破綻、就職難、高齢化、様々な情報が私たちの不安をあおります。サタンは多くの偽りを信じ込ませ、私たちに偽りの解決策や偽りの平和を与え、それで満足させようとします。しかし、私たちはそれらに惑わされず、全知全能の神の真実に立っていくべきです。それこそが、この世界への宣教となります。闇の中にいることにまだ気づけていない方々、気づいていても光への道がわからない方に、私たちは道しるべとなって、人々の救いのために貢献させていただきましょう。


国境を越えて』 (12.4.22)

 先週木曜日の夜、米国福音自由教会のユースの働きの代表者ら4名との懇談会が持たれました。私も関東南地区のJYLCの顧問として出席してきました。今まであまり国際交流をして来なかった分野でありますが、これからの協力の可能性についてとても興味深く話を聞かせていただきました。私も以前から、高校生や大学生ぐらいの世代を海外のミッション(もしくはビジョンを得る)ツアーに連れて行きたいと思っていたので、良い示唆を与えられる機会でした。今後、米国の高校生などを教会として受け入れたり(新会堂を建て、宿泊できると良い)、あるいは米国の福音自由教会にショートステイなどの形で送り出したり、そのような交流を通しての人材育成ができるのならば、とても実りある働きになると思います。海外留学者が減少傾向にある昨今ですが、島国日本にいるだけでは見えないものが多くあります。ぜひ若いうちに多くのキリスト者に海外で色々なものを経験し、神様から教えられて欲しいと願います。英語のできない私ですが、改めて英語を学び、このような働きに参与できたら幸いだと思わされました。日本に留まらず、国境を越えて主にある交わりが持てることは、本当に幸いなことだと改めて思わされています。ぜひ、皆さんも覚えてお祈り下さい。


二人弟子の感動』 (12.4.15)

 聖歌隊が毎年のようにイースターに歌う曲「二人弟子の歌」は、よみがえられた主と出会った感動を歌ったものだと思います。この弟子たちは、聖書によれば、イエス様の十字架の死を経て、失意の中に故郷のエマオへ帰る途上にありました。そこで復活のキリストと出会ったのですが、彼らの信仰の目は閉ざされており、主だと気づかなかったのです。しかしながら、主が祝福の後にパンを裂いた時、彼らの目は開かれました。ここに聖餐の恵みの一端を見ます。私たちが聖餐にあずかるとき、信仰の原点に立ち返らされます。十字架の死と復活をもって私たちをあがなって下さった主が今ここに臨在されていることを深い感動と共に味わうのです。また、彼らは、思い返すうちに、この方と語り合っている間も、聖書の説き明かしを聞いている間も、自分たちの心はうちに燃えていたではないかと気づきます。私たちも主に祈り、主からのみことばをいただく時にこそ、真に心からの感動が与えられ、内側から燃やされていくものです。それは私たちの力ではなく、主イエス様との交わりのうちに自然と湧き上がってくるようないのちの輝きです。イースターは過ぎましたが、主がいつも私たちのすぐそばに臨在され、私たちは親しく語らう恵みに生きていることをいつも忘れないでいましょう。


苦しみを乗り越える力』 (12.4.8)

 誰もが苦しみを避けたいと願います。しかし私たちが生きている限り、苦しみは避けては通れません。ならば苦しみの意味を知り、どのように乗り越えていくべきかを学びたいと思うのです。その秘訣はキリストの姿にあります。キリストは、苦しみだけを見てはいなかったのです。その苦しみのただ中に「神の素晴らしい計画」を見ていました。その計画とは、キリストの十字架の死と復活によって、すべての人に罪の赦しと天国への道が備えられるという計画でした。ですから、苦しみの先には大いなる栄光があり、キリストはそれを見て喜びを抱いていたのです。十字架の死の後には栄光がありました。復活のいのちが、私たちすべての人を罪と死の支配から救い出したのです。キリストが苦難を乗り越えられたのは、その使命に歩み、そのために苦しむことを己の喜びとされたからです。私たちは誰でも、このキリストを自分の人生の主としてお迎えし、キリストにならい、キリストと共に歩むことができます。キリストの弟子となるとき、すべての苦しみに意味があることを知るでしょう。そして、苦しみの後には栄光が待っていることも知り、苦難を神と共に乗り越える者と変えていただけるのです。


十字架への備え』 (12.4.1)

 本日はしゅろの日曜日、受難週の始まりです。この日、主イエスは、自らの苦しみが目の前に迫っていることを知りながら、エルサレムに入城します。人々はそのイエスを、イスラエル再興の指導者として歓迎し、しゅろの葉を持って迎えるのですが、後に手のひらを返したように彼を十字架につけることに賛同します。月曜日には、キリストは「宮きよめ」と呼ばれる行為をなさいました。それは神の神殿が、お金儲けを目的とする者たちでごったがえしていたからです。キリストはその様子を見て、非常に厳しい態度で商売をしていた者たちを追い出します。「主の家は祈りの家であって、お金儲けの場ではない!強盗の巣にしてはいけない!」とおっしゃったのです。一方で、体の不自由な者たちや、イエスを指して「ダビデの子にホサナ!」と賛美する子どもたちを退けようとする宗教指導者たちがいました。主イエスはこれらの指導者たちに対しても、その考えが間違っていることを気づかせ、神の宮は、神を求めるすべての者たちが等しく招かれる場であることを教えます。そして、主の宮は心からの祈りと賛美で満たされべきことを明らかにされたのです。


(かて)としてのみことば』 (12.3.25)

 旧約時代、エジプトから逃れたイスラエルの民は、荒野をさまようことになります。そこで課題となったのは食料のことでした。しかし神様は、毎朝栄養豊かなマナという食べ物を備えて下さいました。それは何日分も保存しておくことができないものでした。毎朝一日分だけを集め、その日の糧としたのです。一ヶ月分ためることができれば楽だと思うかもしれませんが、神様はあえてそれができないようにされました。それは、毎日必要な糧を神様からいただき、一日一日を神様に感謝して生きるためでした。イエス様が来られてから、イエス様はご自分を指して「いのちのパン」だとおっしゃいました。旧約時代のマナを引き合いに出しながら、ご自身を日々食べるようにと弟子たちに教えたのです。その意味は、イエス様のみおしえを日々いただくようにとのことです。ですから私たちは毎日食事を摂るように、神のみことばの糧を毎日いただきます。よく噛み、味わい、体の栄養としなければ生きる力は出てきません。ゆえに、みことばもただ読むのではなく、神様の思いをよく汲み取り、それを生活の中に適用することで、血となり肉となるのです。聖書を観念的に読まずに、生活の糧として味わっていきましょう。それこそが、私たちの霊肉の健康のために最も大切なものだからです。


神様からの贈り物』 (12.3.18)

 私たちは裸で生まれて来ましたが、すでにこの世界には私たちに必要なもの、また私たちを感動させるものや楽しませるものまで備えられていました。目に見えないものも、目に見えるものも、この世界にあるすべてが神様からの贈り物なのです。そして何よりも素晴らしい贈り物は、神のひとり子キリストご自身です。キリストを通して与えられる罪の赦し、永遠のいのちは何にも替えがたい贈り物です。キリストを信じるなら、私たちは神の恵みのすべてを余すところなく享受できると言えます。その中の一つとして、聖霊の現れとしての「賜物(たまもの)」が私たちには与えられています。それは神の栄光を現すために与えられた、恵みに満ちた様々な徳であり、能力でもあります。悔い改め、信仰、愛、喜び、平安などの実を、私たちの生活の中で結ぶことができます。さらに、与えられた賜物を用いて、神様への感謝を表し、応答としてささげ、神の栄光を現すことができるのです。神様はこのような数々の素晴らしい贈り物を、あなたに用意しておられます。最高の贈り物であるイエス・キリストを信じるなら、誰でも神の与えたもうたくさんの贈り物をいただくことができるのです。


大震災から1』 (12.3.11)

 3/11は私たちにとって忘れられない、いえ、忘れてはいけない日になりました。これまでに体験したことのない、恐ろしい大震災。その被害は私たちの想像をはるかに超えるものでした。多くの方が他界され、今なお、通常の生活に戻れずにいる方々もたくさんいらっしゃいます。関東においても、続く余震におびやかされ、停電や物資の不足に右往左往しました。私たちは自らの命やその生活について、神様の許しなしには何もできないことを改めて思い知らされた出来事でした。私たち人間の無知、愚かさ、無力さを謙遜に受け止めなければならない時でありました。人は神様の許しなしには1分たりとも生きることができないのです。そして今、首都圏に震度7規模の震災が数年内に来る可能性が高いと政府が発表しています。しかし、その発表がどこまで信頼できるものなのか、それさえも私たちにはわかりません。ですから、私たちは、いつそのような震災が来ても良いように、できる備えをしていかなければならないのだと思います。何よりの備えは、これらのすべての背後におられる全能の神様を恐れることです。キリストを信じて、死への完全な備えを持つことで、心に平安をいただいて歩むことです。あなたは本当の意味で、震災への備えができていますか。


最高の宝を携えて』 (12.3.4)

 パウロの宣教の情熱に、心を打たれます。彼はなんとかして幾人かでも救うために、その人たちの今ある立場を理解しようと努力しました。彼らに少しでも受け入れてもらえるよう、できるだけ同じ立場に立つよう務めたのです。私たちは、自分たちの利益のためには、人々から受け入れられようと努力することはしています。けれども、その人たちの救いを心から願って、その人たちを愛するゆえに、その人たちと同じ立場に立とうとすることは、簡単にはできないのではないでしょうか。けれど、「すべてのことを福音のためにしています」と告白していたパウロは、まさにその言葉の通りに、なんとかしてこの福音を一人でも多くの人々に届けたい。その一心であったのだと思うのです。キリストを知ってからは、キリスト以外のものが「かすんで見える」ほど、キリストのうちにある宝が素晴らしかったのです。私たちも、これほど素晴らしい宝をいただいているのです。これをまだ知らない方々に、ぜひなんとかして少しでも知っていただきたい!そのような思いで、日々、福音を携え出て行きましょう。どうか、恵みの神が、むなしさの中にある人々にこの福音を届けさせて下さいますように。


気づきを与える関わり方』 (12.2.26)

 私たちが考える教育というものは、自分が体得しているものを子や生徒、部下に伝授していくという方法が取られることが多一般的です。この方法も有益であり、また必要なものです。しかし一方で、「指示待ち族」と呼ばれる若者が増えています。それは、何も考えず、命令されたまましか行動できない人たちのことです。次のステップとして重要なのは、本人が自分で学び、自分で気づきながら、成長していけるよう助けることです。そのためには、その人の持っている豊かさを引き出せるように質問したり、考えさせたりしながら育てることが必要です。いわゆるメンター、コーチ的な役割と言えるでしょう。神様は私たち人間を、「神のかたち」に創造されました。それは、神様と同じように愛をもって自発的に行動できる存在です。機械的に指示された通りにしか動けないようでは、人間が持っている本来の賜物を十分に発揮していないと言えるでしょう。人を育てる時にも、命令通りに従う存在を育てるのではなく、その人自身が、喜びをもって自発的に行動し、神の栄光を表していけるようにと、励まし導いていくべきではないでしょうか。ひとりひとりには、神様から与えられている素晴らしい賜物、可能性がたくさん眠っているのですから、それを引き出す助けになりたいものです。


敵を愛して祈る』 (12.2.19)

 「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」(民数12:13) モーセが、その姉ミリヤムのためにとりなして祈った場面です。事の始まりは、ミリヤムとアロンが、忠実に仕えていたモーセの権威を認めることができず、非難したことでした。神様は、このことでミリヤムをさばかれました。彼女は大きな病に冒されてしまったのです。モーセからすれば、自分の正しさが立証され、不当に非難してきたミリヤムがさばかれる現実に、優越感を感じたかも知れません。さばかれたミリヤムを見て、当然の報いと思ったかも知れません。けれども、モーセは彼女のいやしのために祈りました。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」 私たちの敵は、遠くにいるのではなく、すぐ近くにいる人ではないでしょうか。身近な人の中で赦せないと思い、その人が苦しむと、神の報いだ!と心の中で断罪するかも知れません。しかし。モーセのとりなしの祈りこそ、私たちが立ち返るべき愛の祈りです。これなしに、キリストの愛を語ることは決してできないのだと示されます。受け入れやすい人を愛することは簡単です。しかし、主は『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』とおっしゃったのです。私はもう一度自らの心を吟味し、主の前に愛しにくい人を愛することに挑み続けていきたいと思わされました。


重荷を分けることは良いこと』 (12.2.12)

 聖書は神様の配慮で満ちています。神様は、私たち人間を造られた造り主ですから、私たちがどのような弱さを持っているかもよくご存知です。それを補うのに必要な知恵を、聖書からいつも教えて下さるのです。私たちは、自分ひとりではできないと分っているのに、自分がやらなければどうにもならないと思い、背負い込むものです。出エジプト記に出て来る偉大なリーダーであるモーセも同じでした。彼は素晴らしい人で、多くの人に信頼されていたので、毎日朝から晩まで彼のところに相談事が来ていました。頼られることは、私たちにとって嬉しいことです。けれども、彼はそのことのゆえに、疲れ果てる寸前でありました。その姿を見たしゅうとのイテロのアドバイスが聖書に記録されています。「あなたのしていることは良くない。このままでは、あなたもこの民も疲れ果ててしまう。だから、みんなで分担して、より重要なことだけをあなたが判断しなさいと教えたのです。しかも、それが神様のみこころであり、そうすることであなたも守られ、この民全体も平安を得るだろうと説得しました。ひとりで背負わなくていい。いや、むしろ重荷を分かち合うことが神様のみこころなのだと知ると、私たちは随分と楽になるのではないでしょうか。それが良いことだと聖書は教えてくれるのです。


変わらぬ神のゆえに』 (12.2.5)

 私たちはある時は信仰深く、ある時は不信仰です。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、ある時には素晴らしい信仰者の姿であり、ある時には不信仰な罪深い歩みをしてしまいました。創世記12章から紹介されている彼の人生は、まさにその繰り返しです。特に彼は同じ過ちを繰り返します。自分の妻サラを妹だと偽り、保身のために彼女を傷つけ、異邦人を巻き込み、損害を与えます。彼のそのような行動は、神様の計画を妨げようとする行動ですらありました。しかし、彼はそのたびに神様のあわれみと真実を体験し、変えられていくのです。私たちは、このように不安定で、たびたび不信仰におちいります。けれども、神様だけは変わらないのです。その約束はとん挫することもなく、そのあわれみは消えることがありません。私たちは不誠実でも、神様はいつも誠実で真実です。私たちが寄って立つべきところは、不安定な自分ではなく、変わらぬ愛の計画を持つ神様なのです。そして、私たちの成長とは何でしょうか。立派に強くなることではありません。むしろ、己の弱さ・罪深さを受け止め、この神様を信頼していく者となっていくことが成長なのです。そのようしてアブラハムは成長していき、神様に心から信頼するゆえに、イサクをささげる決意ができる者となっていったのです。


神様が下さるチャンス』 (12.1.29)

 私たちが何かを頼まれた時、「YES」か「NO」かの選択を迫られることになります。ある人はあまり「NO」が言えず、たいていのものを引き受けてしまい、後で苦しくなることがあります。ゆえに、すべてを引き受けることが正しいわけではありません。しかし、自信がないゆえに、面倒であるゆえに、簡単に「NO」と断ってしまうのも非常に残念な話です。それはもしかしたら、神様が下さっている貴重な、そして素晴らしいチャンスなのかもしれません。それを受けることでしか得られない恵みが、必ずあるはずです。ですから、まず神様の前に静まって祈りましょう。自分にこの話が来たのはなぜかと神様に問いかけ、考えてみることです。もしかしたら、「あなただからこそ」頼まれたのかもしれません。自分より能力のある人も、強い人も、器用な人もきっと大勢います。それでも、あなたが選らばれたのは、あなたでなければならない何かがある。それを神様は知っておられるのです。それは、試練でも同じかも知れません。すべての人が同じ試練を通るわけではありません。それなのに、あなたがその試練を通らされるのは、そこに意味があるからです。人知をはるかに超える神の壮大なご計画がそこには確かにあります。それは、単なる苦しみではなく、尊いチャンスなのかも知れません。


知って欲しい!』 (12.1.22)

 「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペ1:18-19より) パウロはキリストを信じた者たちのために熱心に祈りました。神様が下さる恵みの豊かさ、そこにある希望、神ご自身がどれほど力ある偉大なお方であるか。それをもっともっと知って欲しいと切に願いました。そしてパウロ以上に、神様ご自身が私たちに知って欲しいと願っています。それも、知識として知るのではなく、体験して欲しい、味わって欲しいと願っているのです。味わうにはどうしたら良いでしょうか。はたから見ているだけでは、その味がわかりません。食べてみることが大事です。それはつまり、一歩を踏み出してみることです。チャレンジしてみることです。恐れを抱いて、踏み出せないとき、私たちは新しい恵みを知ることを自ら拒んでいることにもなります。神様はあなたが信仰の一歩を踏み出して、神様の臨在とその恵みとを体験して欲しいと心から願っているのです。


救われなさい』 (12.1.15)

 「今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」(使徒2:36) 聖霊に満たされたペテロは、ユダヤ人たちが十字架にかけて殺してしまったイエスこそ、まことの神の子、救い主だったのだと指摘します。そして、悔い改めてバプテスマを受け、 「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2:40)と言いました。ペテロにとっては、自らが心から愛し尊敬していた主イエス様を殺した人々は、普通に考えれば怒りや憎しみの対象であってもおかしくないと思うのです。けれども、ペテロは彼らに悔い改めて救われなさい!と熱心に語りました。主イエス様が十字架の上で、ご自分を殺そうとする者たちのために祈られた姿が重なるような気がします。何よりも、主の十字架の死と復活の目的が、罪ある人間の救いのためであったことがはっきりと示されたのです。私たちもまた、聖書を通して、「罪を悔い改めて救われなさい」とのメッセージをいただいています。同時に既に救われた者はペテロと同じように、「どうか救われて下さい」と大胆に語り続ける者でなければなりません。「どうしたらいいのですか?」と道に迷う人々に、私たちは「悔い改めて主を信じ、洗礼を受けて下さい。救われて下さい」といつでも救いを宣言する者であり続けましょう。


世の吸引力と神を愛すること』 (12.1.8)

 「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」(Tヨハ2:15)。世を愛するほど心を奪われてはならないと神様はおっしゃいます。なぜなら、世を愛することと、神様を愛することとは相反するからです。誰も二人の主人を愛することはできず、二人の主人に同時に仕えることはできないからです。しかし、この世のものは魅力的です。その吸引力は、私たちを破滅に至らせるほどです。私たちはしばしば自分を滅ぼしてでも、この世にある罪の楽しみに留まり続けます。ギャンブル、アルコール、インターネット中毒、性的中毒、財産への固執、権力や地位への固執など。個人差はありますが、誘惑を強く覚える部分を誰もが抱えているはずです。世の吸引力は、私たちが思う以上に強く、また思う以上に私たちを傷つけ、やがて破滅へと至らせます。これが世を愛することの結果です。世を愛することは、結果として神様に敵対し、サタンを愛することとなります。しかし、神様は私たちが、世にある物を楽しまないようにと言っているのではありません。神様を第一とするとき、この世にあるすべてのものが、神の栄光を表す道具として輝いていくようになります。ですから、世ではなく神様を愛することによってはじめて、あなたも世にあるものも、美しく調和が取れて輝けるのです。


生きている神に』 (12.1.1)

 新年に多くの人が神社、寺院に参拝します。それは一年の平和、健康を神に願い、神を礼拝するという行為です。日本ではそのような習慣が明治時代からありますが、その願いが確かに聞かれているという確信を、どれほどの方が持てているだろうかと思います。そうした信仰心があるならば、本当にその祈りを聞いておられる「生きている神」、「力ある神」に祈り求めて欲しいと思います。神様は、人が作った宮に縮こまって住まなければならないほど小さなお方ではありません。「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」(使徒17:24) と聖書にあります。ここにあるように、私たちの祈りを聞ける力ある神様は、全世界を造られた天地万物の主以外にはありません。この神様は「まどろむこともなく、眠ることもない」(詩篇121:4)方ですから、あなたの祈りを新年の初めからでも聞いていて下さいます。ぜひ、この生きておられる神様に、私たちの心の願いを知っていただき、このお方の祝福を受ける年を歩んでいただきたいと心から願います。とこしえに生きておられる神の祝福がありますように。


主があなたとともにおられます』 (11.12.25)

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:28) マリヤへの受胎告知に先立って、この恵みの言葉が語られたのです。マリヤは何の挨拶かと戸惑いましたが、この後に神の御子をお腹に宿すと言われます。結婚もしておらず、男性を知らない処女マリヤは、驚きを隠せませんでした。これからどうなるのか不安になることは自明の理です。御使いはこのマリヤの不安に先立って、「主があなたとともにおられます」と語られたということです。孤独ほど、私たちをおびえさせ、不安に陥れるものはありません。しかし、確かに恵みの主が、信じる者とともにあるのだと教えられているのです。それは、マリヤから生まれた救い主イエスが「インマヌエル」という名を持つ方であることからも明らかです。その意味は、「神がともにおられる」です。クリスマスは、神が人となって、私たちと「ともに歩んでくださる」ために来られた特別なお祝いです。神の御子がただ生まれたというのではなく、神が降りて来られ、人となり、ともに住んで下さったという意味を持ちます。キリストはその信じる者とともにおられ、決して見捨てることはありません。「主があなたとともにおられます。」この宣言を自分のものとする方法は、ただ救い主を信じるだけです。信じる者に、主がともにおられます。


心の貧しい者は幸い』 (11.12.18)

 イエス・キリストはダビデ王の子孫と言う意味では王族の血筋であり、神の子という意味でも私たちが近寄り難いような権威と栄光をお持ちの方です。しかしながら、その方がどこにお生まれになったのでしょうか。その両親ヨセフとマリヤは貧しい者たちでした。また、人間の住む部屋ではなく、汚らしい不衛生な家畜小屋に生まれました。そして動物のエサとなるほしくさを入れる飼葉おけがベッドの代わりでした。キリストは王であり、神である方なのに、極貧の中にお生まれになったと言えるでしょう。それは、それは私たちの心の貧しさの中に来て下さったということです。自己中心やねたみ、憎しみ、そうした罪深い汚れた心の中においでになり、きよめて下さるためです。心の貧しい者は幸いであると聖書は語ります。孤独やむなしさ、悲しみや不安と言った、負の心を自分で認めて、このキリストに助けを求める人は幸いだと言っているのです。それは、求めるならばキリストによって慰められ、満たされていくからです。また、当時最も社会的地位の低かった羊飼いが、真っ先にイエス様の誕生にかけつけました。王宮などに生まれていれば、彼らは門の中に入ることすらできなかったでしょう。キリストはすべての心の貧しい者、弱い者たちを助け、救い出すために来られたのです。


あなたの隣に』 (11.12.11)

 私たちの神様ははるか遠くいる、見知らぬ神ではありません。また、聖書の神様は、決して人間に無関心なお方ではありません。それどころか、私たちひとりひとりの名前を呼び、親しく愛して下さる神様です。人間がわかるように、人間の言葉で聖書を与えられた神様は、私たちと同じところに来て下さいました。神様は、そのことを正しいことと考えられました。聖書の時代のユダヤ人にとっても、聖なる神様が、汚れた人間の間に住むなどとは、考えられないことでした。しかし、神様は人の考えをはるかに越えるほど、人を愛しておられるのです。聖なる神様は、自ら罪の世に降って下さり、私たちと同じように様々な苦しみを通り、試練の道を辿られたのです。このお方が、イエス・キリストです。キリストは、私たちをご自分の兄弟と呼び、私たちが神の栄光を受けるようにと神への道を開いて下さいました。その方法は、力で罪人を屈服させるものではなく、愛を示す方法でありました。武力で制圧することではなく、真実を語り、人が自らの意志で神に従うように招かれる方法でした。全知全能の神様は、あなたの隣に来られた愛と真実の神です。あなたに手を差し伸べておられます。


苦しみから歌が・・・』 (11.12.4)

 「苦しみから歌が生まれる。悲しみから愛が生まれる。それはイエスのみわざ。はかり知れぬ神の奇跡」 とある賛美の歌詞です。この歌詞に「アーメン(本当にそう思いますの意)」と言える人は、実際にそれを信仰生活の中で体験した人でしょう。私たちにとって、苦しいことや悲しいことは、少しも歓迎したくありません。けれども、苦しみ、悲しみ、痛みは、私たちが本物の愛を知るために、そしてまことの神様を求めるために通るべき大切な道なのです。私も個人的趣味レベルですが、何曲か賛美を作詞、作曲したことがあります。その度に思わされることがあるのです。それは、人から愛される賛美というのは、ただ文字に音がついたものではなく、それを作った人の「生きざま」や「信仰」が歌となって神に献げられているのだということです。その人が深い苦しみの中で見出した神にある希望。自己嫌悪の闇の中で出会った神の赦しの愛。孤独の闘いのうちに語られた神の約束、「わたしは君を離れず、君を捨てない」。それらの深みを知るのは、苦しみや悲しみの中にある時です。私たちの成長とは、神の愛と真実とを、そうした日々の歩みの中で見出していくことではないでしょうか。


聖書翻訳』 (11.11.27)

 南地区修養会では、聖書翻訳の編集委員長を務めておられる津村俊夫先生から、みことばの確かさ、その豊かさについて教えられました。また、聖書翻訳の必要性や、そこにある様々な課題なども分かち合っていただき、恵み豊かな修養会でした。個人的にも、神学校時代にお世話になった先生で、久しぶりにじっくりとお話を聞くことができ感謝でした。2016年に、新改訳聖書の「全面改訂版」が出る予定です。諸教会から、それに対する様々な意見、要望が出ています。けれども、「ここが悪い」という意見は多いのですが、それをこのように変えたら良いという対案が出て来ないことがほとんどだと聞きました。実際、対案を検討してみると難しいもので、総合的にこれがベストだと思える訳語が見つからず、古いままの言葉に戻るということがよくあるようです。これは、何をするときにも重要なことで、否定的な意見を出す場合、必ず対案を出すということを心がけましょう。良い物を築くためには、助けとなる建徳的な意見が多く必要なのです。私たちもまた、このために祈り、また関心を持って聖書を学び、神のことばである聖書をより多くの方に親しまれるよう協力していきましょう。


神の祝福に生きる』 (11.11.20)

 奴隷としてエジプトに売られてきたヨセフは、最悪と思える環境の中でありましたが、神と共に歩んでいたゆえに祝福にあふれ、何をしてもことごとく成功しました。神が彼とともにおられただけで、彼は祝福を受け、幸運な人となりました。彼が管理したおかげで、未信者であったエジプト人の主人の家全体が祝福を受けました。この主人は、ヨセフを通して神の栄光を見たことでしょう。詩編1篇には、主の教えを喜びとして、その教えに留まる者への祝福が歌われています。その人は、水路のそばに植わった木のように豊かな実を実らせ、その葉は枯れることを知りません。その人は、「何をしても栄える」と言うのです。神が私たちを愛し、祝福したいと願っているのですから、私たちはその祝福を熱心に求めるべきではないでしょうか。ヤコブが一晩中御使いと格闘して祝福を求めたように、私たちは神の祝福を求めて良いのです。私たちが神と共に歩み続けるなら、そこには祝福が途切れることなく注がれます。私たちと関わるすべての人々の目にも、それが証しされることでしょう。あなたを祝福することを通して栄光を受けて下さる神が、今日もあなたとともにおられます。


キリストの打ち傷によって』 (11.11.13)

 様々なストレス過多の時代です。自然災害、放射線、経済破綻などの不安がいつも私たちを取り巻いています。数年前には考えてもいなかったことを今は考え、心配しなければいけない時代にとなってしまいました。そのような社会の中で、私たちは疲れ、また深く傷ついています。誰かが攻撃的になっていたり、感情的になっているのは、深い痛みや孤独、不安が原因かもしれません。個人的には、いやしばかりを強調することに抵抗を感じる面もあります。けれども、それでもなお主にあるいやしの大切さを意識させられるのです。イザヤ書53章にある「苦難のしもべ」としての主イエス様のお姿に目を留める時、私たちはいやしとはどのようなものかと気づかされます。主キリストが私たちの代わりに病も傷も、苦しみも担って下さるのです。主キリストが私たちに代わって打たれて下さったのです。そして、主キリストの打ち傷によってのみ、私たちは真にいやされるのです。そこには、神の変わらぬ愛があります。その愛が私たちを包み、その御手が私たちに置かれると、私たちは心も魂も、また体もいやされるのです。偽りのいやしではなく、本物のいやしを主に求めて歩みましょう。


知らず知らずのうちに』 (11.11.6)

 罪のひとつの性質として、パンをふくらませるイースト菌のように、わずかな罪を容認すると、そこから多くの罪へと発展していくという性質があります。言葉の乱れが、その人の心の乱れにもつながると言われるように、言葉だけならいいだろうと思っても、汚れた言葉を使い続けることで、いつの間にか考え方も少しずつその汚れに慣れていくものです。ちらかった部屋をそのままにしておくと、少しずつその状態に慣れ、次第にもっとちらかっていてもなんとも思わなくなるという事もあります。そのようにして、恐ろしいことに罪は知らず知らずのうちに、少しずつ私たちをむしばんでいく大病なのです。これぐらいは大丈夫と思っているうちに、いつの間にか体全体をむしばむ病におかされているということになります。聖書にはその警告が繰り返し語られ、小さな罪のひとつであっても主の前にすぐに悔い改め、赦しにあずかることを大事にしなければなりません。その良心が麻痺し、罪を重ねても心が痛まなくなってしまう前に、聖霊の促しに敏感になって罪を悔い改めることを大事にしましょう。誘惑からはいつでも身を避け、神の聖さのうちに留まることを忘れてはいけません。


東京武蔵野教会30周年に思う』 (11.10.30)

 先週は私たちの親教会と言うべき存在である、東京武蔵野福音自由教会(MCC)の30周年記念大会がありました。出席させていただく中で、久々にお会いする兄弟姉妹との交わりに、同窓会のような喜びを体験しました。しかしながら、それ以上に主の真実を思い知らされる時でした。教会は生きています。ゆえに、成長するものであり、あるいは衰える時もあるものです。元気な時もあれば、病の時もあります。主のみこころにまっすぐに歩めている時もあれば、道をはずれてしまい、主を悲しませてしまうこともあるでしょう。けれども、このキリストのからだなる教会を、主は「わが愛する子」と呼び、そこに真実を尽くして下さるのだと改めて教えられました。主は、小さな種から芽を出させ、枝葉を生じさせ、やがて実をならせて下さいました。そこからさらにあちらこちらに遣わされ、3つの教会となっただけでなく、世界各地で主に仕える者が起こされていることはなんという喜びだろうかと思います。そのために労してきた先輩たちの信仰の遺産という恵みが、そのようにして主にあって結実している姿に気づかされ、主の真実に心を打たれました。このお方は、私たちの群をも同じように愛し、私たちに想像をはるかに超える恵みと祝福をすでに備えておいでなのです。


聖霊による宣教と教会形成』 (11.10.16)

 ある時期、聖霊を必要以上に強調し、教会に分裂が起こるという出来事が続いたことがあります。そうした反動もあって、聖霊の働きについてはあまり積極的に語られない教会も増えてしまいました。けれども、問題なのは聖書から逸脱した聖霊についての教理を教える行為です。そういう意味でも、聖霊についての聖書的な理解に立つことがとても重要です。使徒の働きを通して教えられることは、御父の約束された聖霊が信徒に降るときに、世界宣教が始まり、教会が築かれていったということです。聖霊降臨が、宣教と教会形成の開始の合図となったと言っても良いと思います。私たちは聖霊の働きについて、当時の象徴的に聖霊のしるしを人々に知らせる時代と、今の時代とは異なることを受け止めながらも、聖霊にゆだねて宣教と教会形成をしていくべきであることを教えられます。福音自由教会の信徒の手引きでも、聖霊がすべてのクリスチャン生活の原動力であると教えられています。聖霊の力なしの宣教、教会形成はないということです。私たちは、聖書からさらに深く聖霊のお働きについて学び、力をいただいてこの恵みのわざに励んでいきたいものです。


探し出して救われる神』 (11.10.2)

 日曜日の午後、子どもたちはたいして広くもない教会で「かくれんぼ」をよくしています。ふと、「かくれんぼ」は何が楽しいのだろうかと考えました。隠れていて、見つからないことで得る「してやったり!」という気持ちなのか。それとも、全員を見つけ出した鬼の達成感なのか。見つからないだろうかと冷や冷やするスリルなのか。けれど、小さな子どもたちを見ていると、自分から見つけてもらえるように声を出したり、自分から出て来てしまう子がいることに気づきます。そして、見つけ出されると、とても嬉しそうに見えるのです。その姿を見ながら、もしかしたら、「かくれんぼ」は、誰かに一生懸命自分を探してもらい、「見つけてもらえる喜び」を楽しむゲームでもあるのではないかと思ったのです。考えてみれば、昔、私自身、隠れていたまま見つからなかったことがあります。そして、いつの間にか鬼と見つかった人たちが、あきらめて他の遊びをしていたのです。その時の淋しさは言いようもないほどです。神様は、私たちを探して救い出すために主イエス様をお遣わしになりました。神様は私たちを探し出して、わが子とされ、あるいは友として迎えて下さるのです。


共に食する交わり』 (11.9.25)


 イエス様は十字架にかけられる直前、最も大事な弟子たちとの食事の交わりを持ちました。それが最後の晩餐です。聖書において共に食することが、どれほど重要な意味を持つかということがこの事からもわかります。イエス様は罪人たちと共に食事をすることで、彼らへの愛を示されました。先日の敬老の食事会も、食事をしながらのゆったりとした交わりがとても素晴らしかったと感じました。しかし同時に、食事の交わりには犠牲的な奉仕が必要です。時間をかけて食卓の準備をし、あるいは多くの食器をかたづけなければいけません。私たちは食事の交わりを大事にする一方で、その準備やかたづけも含めて、主にある交わりであると覚えたいものです。祈りつつ愛をもって備えられた食事であるゆえに、私たちは楽しみ喜べるものであり、人と神とに仕える思いでかたづける中に、また深い喜びがあるのだと思います。教会として、そのような食卓の交わりがあること。また、続けられていること。そういう機会や場所があること。それらひとつひとつのことを感謝したいものです。また、そのようにして、豊かな交わりを築きながら、共に成長させていただきましょう。


天に昇られた主のお働き』 (11.9.18)

 復活後40日の間弟子たちと過ごされた主キリストは、弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。キリストを見送る弟子たちの心には、不安や寂しさがあったことと思います。しかし、キリストはご自身の代わりに、すべてのキリスト者を助けるお方、真理の御霊が来られると約束なさっていました。この御霊によって弟子たちはキリストのことばの真意を理解し、神のみこころを行う者へと変えられていくのです。天に昇られたキリストは何をなさっているのでしょう。主は、私たちのために天の住まいを備えておいでです(ヨハ14:2)。また、父なる神の右に座し、私たちを見守り、父の恵みを大胆に受けられるようにと、信じる者のためにとりなしておられるのです(ロマ8:34,ヘブ4:14-16)。また、私たちの罪深さ、弱さをよくご存知の主は、私たちのために父なる神に対し、弁護してくださいます(Tヨハ2:1)。そのようにして天に昇られた主は、私たちのすべてを見守り、支え、ともにいて下さるのです。そして、御霊によってキリストの心をいただいた私たちは、すでにキリストのものとなっており、終わりの時まで主の再臨を待ち望みつつ、勇気を失わずに歩み続けることができるのです。


揺ぎ無い土台』 (11.9.11)

 なんという日々でしょうか。わずか半年前のこの日に、大震災に見舞われ、一瞬にして恐れと不安と悲しみとに襲われたことがまだ記憶に新しいことと思います。原発の問題もまだまだ解決への道筋が見えてきません。しかし、それに続いて今回の台風の被害も今までにないものでありました。地球全体が悲鳴をあげているようです。これらの影響も手伝い、日本は経済的な危機にも立たされつつあります。失業者も、心の病を抱える人も増え続けています。私たちはこの激動の時代にあって、どこに拠って立つことができるのでしょうか。何を自らの礎として安心して歩むことができるのでしょうか。私は学生時代にキリストを罪と滅びからの救い主として信じました。キリストを信じて、すべての罪が赦されたと聞き、天国へのキップを手にしたと聞き、心にゆるぎない土台が築かれました。私はそれから18年もの間、この土台の上に堅く立つことが許され、平安と感謝をいつももらいながら歩んで来ることができました。今こそ、すべての重荷をキリストにゆだね、その確かな赦しと天国へのキップを手にしましょう。この揺ぎ無い土台をあなたの心にもしっかりと据えて歩んではどうでしょうか。


愛と信仰』 (11.9.4)

 愛と信仰は切り離せないものです。愛を求めていながら、信仰に全く関心が無いということは、本当はあってはならないし、信仰を持っていながら、愛について無関心であってはなりません。アブラハムは、その信仰と愛のゆえに、旅人の姿をした主と御使いを温かくもてなしました。神は愛なのですから、その神を信じる私たちは、その愛を信じているのであり、その愛に生きることを求められているのです。愛がなくては、山を動かすほどの信仰があっても役に立たないとみことばにもあります。愛と信仰とは、いつも共にある必要があるのだと気づかされるのです。私たちはしばしば、それを忘れてしまってはいないでしょうか。自分ひとりが神様と親しく語り合い、神様の恵みをたくさん受けらればいい。むしろ、それを妨げないで欲しいと、他の人を退けることさえあるのではないでしょうか。しかし、真に神と親しく交わる者は、隣人を愛することを神から語られるはずです。妻、夫、親、兄弟、子ども、友人、近所の方、職場の方。それらの人々を愛することは、神を信じる者の当然の姿ではないでしょうか。あなたの信仰は、愛によってまっとうされているでしょうか。


力とは何か』 (11.8.28)

 キリストを信じる者すべてに与えられる聖霊の力があります。その力とは何でしょうか。どんな試練にあっても、くじけない強い心でしょうか。病にも打ち勝つ強靭な身体でしょうか。何があっても驚かず、怖がることのない胆力でしょうか。確かに、それらすべてにおいても、主の聖霊は働かれ、力を下さると言えるでしょう。臆病の霊ではなく、力と慎みの霊であるとみことばにあるとおりです。けれども、その聖霊の力の中心は、主キリストを告白する力であり、キリストの栄光を現す力ではないでしょうか。すなわち、聖霊はいつでも私たちを「キリスト中心」の歩みへと導く力を持っているのです。聖霊が弟子たちの上にのぞむとき、力を受けると主は言われました。その力とは、何よりも「主キリストの証し人」となることでした。それは、弱さを抱えたままでありながらも、その弱さのうちに働かれる主を証しするということです。病の中にあっても、主のいやしと助けを信じて力強く歩めるということです。驚き、恐れても、主を見上げる時に不思議な平安に包まれるという神の力です。力とは何か。神の聖霊が、信じる者のうちにあって、いつでも主キリスト中心に歩ませて下さる力なのです。


退屈しない人生』 (11.8.21)

 とあるディボーションの本を読んでおりましたら、このような言葉に出会いました。「人生に退屈している人は、消費するだけで何も生産していない人たちである。」。お金持ちで、何不自由なく過ごしている人々が幸せに見えることがあります。けれども、私たちはみな、神のかたちに造られたひとりひとりです。それゆえでしょうか。持っている財を湯水のように使って、欲しいものを買い、やりたいことをしていても、満たされない者であるように思います。かえってむなしくなるとソロモンは言います。逆に誰かの役に立つ何か。そうしたものを生み出せた時に、私たちの心は退屈から解放され、不思議な喜び満たされるのではないでしょうか。使徒の働き3章で、弟子たちが足の不自由な人に語った言葉。「金銀は私たちにはないが、あるものをあげよう」。彼らは、イエス・キリストの御名によって立ち上がり、歩けと言いました。私たちは、人のために「告げるべき福音」を持っています。「分け与えるべき恵み」を持っています。それは、素晴らしいことです。人々に幸せをもたらす働きであり、エキサイティングな生産です。神の畑で、いつまでも残る食物のためにますます働いていきませんか。


失敗を恐れずに』 (11.8.14)

 ペテロは鶏が鳴く前に三度イエス様を否むという大失敗をします。けれども、私たちは彼をむしろ尊敬すべきだと思います。ペテロのこの失敗は、他の誰よりもイエス様を愛し、従っていこうとしたゆえに起こった失敗だったからです。ペテロのこの失敗は、逮捕されたイエス様の後を追いかけたゆえに起こりました。けれど、他の弟子たちはどうでしょうか。みな逃げ去り、誰もイエス様の後を追いかけなかったのです。それゆえに、「イエス様を知らない」と口にするという失敗はしませんでした。でも、それが神に喜ばれることなのでしょうか。挑戦しなければ、確かに失敗もしません。何もしないでいれば、大きな失敗をすることもないでしょう。けれども、失敗を恐れて、何もしないことこそ、本当の失敗なのではないでしょうか。ペテロはこの失敗を通して成長しました。イエス様は、失敗しながらも、自分を愛して従おうとしたペテロの純粋さを知っていたので、彼に大事な使命を与えました。失敗しないようにと、何に対しても消極的になることよりも、失敗を恐れずに主にあって大胆に挑戦し続ける者にならせていただきましょう。主に用いられる人は、挫折や失敗を通った人だからです。


新しい名の意味』 (11.8.7)

 聖書において、重要な登場人物がしばしば、その人生の岐路において新しい名前で呼ばれるようになるということがある。アブラハム、サラ、ペテロ、パウロ、いずれも神から新しい名で呼ばれるようになった時、人生における重要な節目の時でありました。特にそこには、古い自分に決別して、新しい自分へと変えられていく。神の祝福ある神と共に親しく歩み人生へと入っていく。そんな時であるように思います。私たちの名前自体はずっと変わっていません。けれども、キリストを信じて受洗の恵みにあずかり、「キリスト者」と呼ばれるようになりました。それだけでなく、神の子、聖徒、御国の相続者、天に国籍を持つ者、神の神殿、義とされた者など、多くの恵みの名をいただきました。神は既に私たちをそのような者へと変えておられ、そのように扱って下さっています。けれども、私たちはいつまでも古いものにしがみつき、新しい名に生きようとしません。私たちはもはや、キリストにあって新しく造り変えられた存在です。古いものは過ぎ去ったのです。主の御霊が住み、内側からきよめ、キリストに似る者として下さっています。神の祝福を一身に受ける者として、胸を張りましょう。


按手礼を通して』 (11.7.31)

 先日は、主の御手のうちに按手礼の恵みにあずからせていただきました。皆様のお祈りと、お励ましに心より感謝しています。何よりも、そのすべてを導いて下さり、この恵みを下さった主なる神様への感謝と賛美にあふれています。式の中でいただいたみことばが、使徒の働き20章からでした。その中で、自分自身と群れの全体との気を配れとのみことばをいただきました。また、特に、牧者として仕えさせていただいているのが、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会であるという事の重大さに、厳粛さを感じました。教会は、誰か個人のものでも、ただの人の集まりでもなく、神のいのちが注がれた「キリストのからだ」なのだということに、改めて目が開かれる思いでした。そして、この働きの主体はいつでも神様ご自身であり、この者は神様から預かったみことばを、ひたすらにまっすぐ語り続けることに心血を注ぐべきなのだと教えられました。みことばが、人を育て、きよめ、御国を継がせる力を持っているのだということを、真剣に信じて向き合っていくべきと思わされました。どうか、この者のみことばの務めのために、より一層の祈りをもってお支え下さればと思います。


CSキャンプの恵み』 (11.7.24)

 7/17-1812日でCSキャンプが行われました。子どもが22名、大人が18名、計40名でのキャンプでした。準備不足や天候のことなど、色々な懸念材料はありましたが、神様が豊かに守り導いて下さいました。台風のタイミングもずれ、施設の空調のおかげで暑さからも守られました。二日目の午後は、外でのプログラムでしたが、暑さもそれほどではなく、子どもたちが元気に走り回っている姿を見ることができ、感謝でした。キャンプでは、子どもたちの成長を感じつる一方、私たち大人の衰えも感じられました。しかし、みことばにあるように、私たちの内なる人は、日々新しく成長し続けていきます。体の衰えた分は、若い世代に助けてもらい、知恵と信仰による良きものを次の世代にしっかり引き継いでいきたいと思いました。23日のキャンプがしたいとの声も子どもたちからは出ており、もっともっと色々なものを吸収したいと願う子どもたちの姿が嬉しく思いました。主は、この若い世代に、これから何を担わせようとしておられるのでしょうか。私たちができるのは、信仰を精一杯継承し、主の素晴らしさを伝えていくことではないでしょうか。


逆風は本当に逆風なのか』 (11.7.17)

 前に進もうとしているとき、大きな向かい風にあおられることがあります。マラソンでも、自転車レースでも、あるいはその他の様々なスポーツでも逆風は嫌な条件かも知れません。そんなとき、気持ちが後ろ向きになりそうになります。けれど、ふと考えてみると、その逆風は、本当に私たちに逆らって吹く風なのでしょうか。その風は誰が起こしているのでしょうか。それは直接的には、自然環境そのものかも知れませんし、自分に反対する誰かかも知れません。運が悪かったのだと言う人もいるでしょう。けれども、やはりこの風は、いつでも神様が吹かせている風なのです。もし、それが私たちに向かって吹いてきて、前進する速度を遅くするなら、それにも何か意味があります。そこから大事な何かを受け取るまで、風向きは変わらないかも知れません。けれど、それはいつまでも向かい風ではないのではないでしょうか。それらの風は、やがて追い風になることもあるということを私たちは知っています。大切なことは、私たちが試練という名の逆風に遭うとき、その風の主が、愛と真実に満ちた全知全能の神であることを忘れないことです。このお方から、目を離さないで歩みましょう。


協力していくということ』 (11.7.10)

 個人の自由が大事にされる時代ですが、震災が起こる中で、助け合い、協力し合うことの大切さを改めて思わされています。先週は関東南地区の合同婦人会がありました。こうした地区の共同の働きも、お互いに犠牲を払って協力し合っていく働きです。そもそも、他教会と協力して何かをしていくということは、強い大きな教会のためではなく、小さな力のない教会のためにあるのだと思われます。今の南地区を見渡すと、CSに関してはもしかしたら私たちの教会は一番力を注げており、人数も多い教会かも知れません。私たちの教会もCSの部分では、もしかして他の教会の励まし、助けができるのかも知れません。しかし、もう一つ覚えるべきことは、ある教会がある教会を助けようと協力する場合、助ける側の教会にも恵みがあるということです。だんだんと、自分の教会さえ良ければという発想が強くなっている時代にあって、協力していくことの霊的な祝福を、もっと確認していかなければならないと思わされます。私たちは一見小さな教会ですが、私たちにも他の教会のために何かができる。そういう主の愛に立つ姿勢をもっと豊かにしていきたいものです。


摂理を暗くする者は誰か』 (11.7.3)

 「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。」(ヨブ38:2) 神様がヨブに対して語られた言葉です。人間の中でも最も忠実で正しかったヨブへの言葉がこれなのです。これは私たち人間の無知と思いあがりへの神様からの愛のみことばです。神様の前には、私たちの持っている知識はないも同然のものです。けれども私たちは、その知識により頼み、その知識から来る発想で、この世界のことや神様のことを判断しようとします。ヨブをはじめ、その友人の者たちも、それぞれにヨブの苦しみの理由について、また神について言い分を述べています。けれども、その述べ立てる言い分が、かえって神様のご摂理を暗くしてしまっているというのです。摂理とは、私たち人間の知恵をはるかにこえた神様による調和したご計画。全知全能の神様のみが、すべてのバランスを考えた上で、愛と真実に満ちた摂理をこの世界に実現できるお方です。人の勝手な考え、傲慢な知恵が、しばしばこのような神様の摂理を見えなくしてしまいます。しかし、この神様の摂理に、光が照らされるように歩む者があります。それは、自らを知識なき者、神の前にちりに等しい者と受け止めている者です。また、それゆえに、神様のなさることへの全き信頼を持ちながら歩んでいる者です。


神様を賛美する恵み』 (11.6.26)

 賛美というものはキリスト教会特有のものであり、長いキリスト教の歴史の中で、とても大切にされ洗練されてきたものです。バッハの作曲した賛美の数々は、その音符のひとつひとにまで、神様をたたえる意味が表現されていると言います。また、旧約聖書の中でも、神を信じる者たちは目の前に敵が迫っているときでさえ、賛美を忘れませんでした。それは私たち人間が、神をほめたたえる器として造られているからです。そして、神への賛美は私たち自身を喜びと感謝に導きます。私たちの心は、不平や不満を言いたい放題言っても決して満たされません。しかし、素晴らしいものに出会い、それをほめたたえ、感動を表現していくときにこそ、私たちの心は喜びで輝くのです。ぜひ、曲の美しさだけでなく、その賛美に込められた作者の思い、そこでたたえられている神の素晴らしさ、偉大さに目を留め、味わって欲しいと思います。その神の愛の深さははかり知れず、ひとり子キリストをお与えになるほどでした。十字架に示された神の愛と真実。それもまた賛美の中で歌われ、たたえられています。賛美されるにふさわしい方は、キリストの神以外にありません。


信頼され、任される人』 (11.6.19)

 私たちは人間関係の悩みを多く持ちます。この社会にある悩み事を全部集めて調べたら、きっと9割は人間関係についての悩みなのではないかと思います。そういう社会にあって、心から信頼して任せることのできる人の存在は、大変貴重なのです。私自身が、誰かに重要なことを任せたいと思うとき、それは優秀なだけの人ではありません。そうではなく、他の人から信頼され、皆から愛され、助けてもらえるような人だと思います。正論を言うことができるだけでは、人との関係を建て上げることは難しく、どんなに正しい知識も、人からの本当の信頼を勝ち得ることはできません。信頼される人とは、神様の前に誠実であり、柔和やあわれみの心を持つ人ではないでしょうか。それは教会でも、学校でも、職場でも同じです。正しい知識を、時には懐におさめ、相手を尊重することができること。自分とは異なる立場の意見を聞ける人。人の前だけでなく、神の前に誠実、忠実に歩む人。結局はそういう人こそ信頼され、大切な働きを任されるようになるのではないでしょうか。神様に祈りつつ、心から信頼してもらえるキリスト者として成長させていただきましょう。


新しい心で』 (11.6.12)

 主はいつでも私たちの心に新しいものを与えて下さいます。しかし、いつの間にか私たちはそれまでの習慣や、常識、伝統に支配されています。そこに留まっている方が楽なのです。新しく考え出す必要もなく、それまでやってきたことについて反省する必要もないからです。そうなると、神様がなさろうとしている新しい事に目を向けることができません。ですから、「見よ。わたしは新しいことをする。」(イザ43:19 とおっしゃる神様の声に、心を開きたいものです。イエス様も色づいて収穫間近となっている畑を指して言いました。「目を上げて畑を見なさい。」 どうやって事をこなすか、乗り切るかに関心がいくと、私たちはビジョンを失います。神様が私たちに示しておられる偉大な計画、壮大なビジョンに目がいきません。既に神様がそこに新しいみわざを備えておられるのに、肝心の私たちが古い皮袋のままで、新しいぶどう酒を受け入れることができないのです。新しい心を下さる主のために、私たちは心を開き、しっかりと目を上げて備えていきましょう。あなたは「まだ」と思っていたり、「今までどおり」と思っているかも知れませんが、神のなさることは新しいことなのです。


新しい命の祝福』 (11.6.5)

 ある方が冗談で「子宝教会」と言っていましたが、そう言われても不思議ではないぐらいたくさんの赤ちゃんが与えられていることに驚かされています。主が私をサンライズチャペルに遣わして下さってから8年あまりですが、どれほど新しい生命の誕生を目撃してきたことでしょうか。10名ぐらいの新しい生命が、私たちの教会に加わっていることに感銘を受けます。子どもがいなくて困っている教会が多い中で、次々と新しい生命が誕生し、いつも赤ちゃんや幼児がいるという状況は本当に珍しいと思えます。中には祈ってもなかなか与えられずに来て、あきらめていたときに、主が不思議に与えて下さったというケースもありました。ここに一つの神様の祝福があるのだと改めて思わされています。見よ。子どもたちは主の賜物、 胎の実は報酬である。若い時の子らは まさに勇士の手にある矢のようだ。」(詩篇127:3-4子どもたちは主からの賜物です。それは、勇士の手にある矢のようだとも語られています。矢筒に矢が入っていないようでは、敗北が見えています。しかし、私たちの教会は矢筒が矢でいっぱいなのです。これらの新しい生命は次代を担う希望であり、神様からの祝福そのものだということを共に覚えたいのです。


主が開かれた道』 (11.5.29)

 5/25()。明治学院東村山中学にて講演をさせていただきました。中学1年生の学年修養会のオリエンテーションで30分ほどお時間をいただきました。少しでも聖書について知るチャンスとなってくれたのなら感謝だと思っております。この機会は、本当に主が道なきところに道を開いて下さった結果であると信じています。私も2度ほど学校の宗教懇談会に出席させていただき、少しでも道が開かれるようにと務めてきました。そのような中で、中平兄が教師になって以来初めて中1の担任となり、時を同じくして私たちの教会のJYの働きも再スタートとなりました。神様が時を支配し、導いておられることを感じました。しかし、それからの道は平坦ではありませんでした。修養会で講師として招かれる話が出てから、思うように道が開かれず、一旦閉ざされたかのようにさえ見えました。けれども、主は中平兄を通して働いて下さり、粘り強い交渉や上からの知恵をいただく中で、2回の講演のチャンスをいただいたのです。労して下さった中平兄は、本当に苦しかったと思います。けれども、忍耐深く祈り、交渉を続ける中で道が開かれたのです。あきらめずに主に祈り続け、忍耐深く善をなしていくときに、主は応えて下さるのだという希望が与えられました。主の御名は誉むべきかな!


あわれみの器』 (11.5.22)

 「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですかと言えるでしょうか。」(ローマ9:20 
陶器師が粘土から自由に陶器を造り出すように、神様は私たちをその御手で自由に形造る権利を持っています。私たちがここに存在できているのは、神様が形造って下さったからであり、私たちは自分の存在について、神様に対して何ら反論できるだけのことをしていないのではないでしょうか。しかし、私たち人間は造っていただいたこの口をもって神様に異議を申し立て、その御名を汚すような言葉を吐く者です。神様は私たちを「良いもの」として造られたのに、私たちは神を恐れることもせず、己を神として己の欲のままに生きてきたのです。本来、その人間に対する創造者の答えは「滅び」です。けれども神様はそのような滅びるべき器に、愛と忍耐とによってあわれみを示し、「あわれみの器」として私たちを召して下さったのです。神の民でない者を、神は民となして下さった。愛される器ではない者を、愛することで愛の器として下さったのです。


安易なウソからの解放』 (11.5.15)

 ある営業マンが、会社のお金を使い込んでしまいましたが、それを内緒にしておきました。後から帳尻を合わせれば良いと考え、上司に正直に話すことをせずにいました。最初彼は、後からうまく帳尻を合わせておけば大丈夫と安易に考えて、ウソをついていたわけです。しかし、彼は非常に追い込まれていき、どうにもならない状態になってしまいました。私にも、少しだけ似たような体験があります。お金の問題ではなかったのですが、社会人時代に上司に怒られることが嫌で、その場しのぎのウソをついて、後でなんとかつじつま合わせをしようと考えたのです。そこにはサタンの声がありました。「大丈夫、今はごまかしてこれで通せばいい。バレっこない。」しかし、このように安易なウソが、だんだんと膨らんでいき、どうにもならない状態にまで追い込まれることがあるものです。そこで大切なのは、ごまかさずに最初から正直に話すということです。小さなことに忠実であれと聖書は教えます。小さなことをごまかして生きると、結局は大きな問題を抱えることになるのです。それは私たちを苦しめ、追い詰めます。主の前にも、人の前にも、安易なウソから解放されて、忠実に、また誠実に歩ませていただきましょう。普段から交わりの中で、正直に語り合える交わりを築いていきましょう。


野外集会にある恵み』 (11.5.8)

 年に一度、私たちの教会では母の日に野外礼拝を持っています。会堂で行われる礼拝に比べると、天候に左右されることもあれば、音響の問題もあり、「快適」ではない面があります。とはいえ、考えてみるとイエス様も、山上で説教されたり、湖で語られたりと、屋外での集会が多かったことに気づかされます。そしてイエス様は、「野の花を見なさい、空の鳥を見なさい」と、神が造られた被造物の美しさを示しながら、真理を説き明かされました。そのような場面をイメージしながら、野外での礼拝と交わりを持てれば幸いです。神様は、その被造物の精巧さや美しさを通していつも私たちを楽しませ、感動させ、それらを通してもお語りになっているのです。また、しばしば私たちは外に出ることについて、消極的になることがあります。預言者エリヤも、ある時、ほら穴に引きこもり、恐れとむなしさの中にいました。しかし、主は「外に出て、山の上で主の前に立て」とおっしゃったのです。一歩外に出るという行為は、私たちが主の声を聞きに「自分の殻から出ていく」という行為を連想させてくれます。野外に出るからこそ見えるもの、得られるものが確かにあるのではないでしょうか。


人の道、神の道』 (11.5.1)

 人はそれぞれ自分なりの計画を持ち、人生設計をします。しかし、知恵のない盲目な私たちの計画は、実はそれほど素晴らしいものではありません。誰かを傷つけ、誰かを置き去りにするような自己中心な計画であることも多いことでしょう。そして、うまくいかない時だけ、神の不平不満を言い、「どうしてですか?」と噛み付くこともしばしばです。しかし、神の道は全宇宙規模の調和をもってなされる道です。私たちのように盲目でも、自己中心でもないのです。神の道こそ、私たちの歩みを確にし、平安をもたらす恵みの道です。それがわかっていながら、なお私たちは必死になって自分の方法で良いものを達成しようとします。神の約束が実現すると信じていながら、その実現に至る方法までは、「神の方法」に任せきれない私たちがいるのです。結果、それは私たちを不幸にします。「神の方法」を無視して、幸せになれる人はいません。なぜなら、幸せというものも神が与えるものであり、幸せへ至る道も神が備えて下さる道だからです。私たちは、神を離れては、真の幸せへたどり着くことは決してできません。幸いな神の道を、今日も共に歩ませていただきましょう。


イースターの喜び』 (11.4.24)

 イエスが十字架に死なれ、失意の中にあった弟子でした。イエスこそ救い主であると望みを抱いていた者たちにとって、その死は深い悲しみと絶望でしかありませんでした。そのとき彼らの心を支配していたのは、言い表せない不安と恐れでした。しかし、奇跡は起こりました。十字架の死より三日目のこと。死から復活したイエス・キリストは、これらの弟子たちの前に現われたのです。その手のクギのあとを見せ、体に触れさせながら、ご自分の存在を確認させたのです。「死は終わりではない!」「ここにとこしえのいのちがある!」「主は罪にも死にも、悪にも勝利されたのだ!」弟子たちの心は、大きな感動と喜びにあふれました。聖書の約束も、キリストの言葉のひとつひとつも、真実であったことが証明された瞬間でした。神の約束の真実に、弟子たちは心を震わせ、イエスの「平安があるように」との言葉に、深い安らぎと感謝があふれるのでした。恐れている人はいませんか。不安な人はいませんか。ここに、恐れからも嘆きからも、様々な不安からも解放して下さるまことの神がおられるのです。イエス・キリストは、あなたの心に、その魂に真の平安をもたらすお方です。


受難週の過ごし方』 (11.4.17)

 キリストのエルサレム入城から十字架の死後の復活までの1週間を一般に「受難週」と言います。国によっては、この1週間が休みと同様に静まるところもあるようです。キリスト教において、クリスマスと同等、いや、それ以上に大切だと考えられている時だからです。それはなぜでしょうか。キリストが無罪なのに死罪になり、苦しみを受けられたのが、私たち人間の罪を赦すためだからです。キリスとが十字架刑にかかって下さったのは、すべての人の罪の罰を代わりに受けるためでした。聖書は、人間の罪への報いは死であると明言しています。キリストが私たちの代わりに死んで下さったのです。しかし、それだけではなく、キリストは十字架の死から三日目によみがえります。それは、罪の結果である死を打ち破り、いのちが勝利した瞬間でした。また、キリストがまことの神の子であることを証明し、私たちの死後の復活があることを示して下さったのです。この一週間、私たちの代わりに、罪のない神の御子が苦しんで下さったこと。十字架で身代わりの死を遂げたことを、心から感謝し、その愛を受けとめる一週間にしましょう。神の愛が、この十字架に示されたのです。


家族としての礼拝』 (11.4.10)

 毎年確認をしていますが、私たちの教会は小さな子どもからお年寄りの方まで、家族として共に神様を礼拝することを大事にしています。しかし、子どもには理解できないだろうという発想から、子どもたちを礼拝に招かない教会があります。しかし、そのことがかえって、彼らの礼拝離れへとつながってしまうケースは少なくありません。彼らは、大人たちがどのような姿勢で神礼拝をしているのか、その姿を肌で感じています。説教のすべてがわからないのは、大人も同じです。その礼拝の場にいること自体が恵みと祝福にあずかることになることを忘れてはいけません。しかし、小さなお子さんを持つ方は、他の人への迷惑を考えてしまいます。でも、私たちは家族ですから、騒いでいる子を家族全体でケアしようという姿勢を持つ必要があります。また、そこには何らの区別も設けないようにしたいものです。牧師家庭の子であろうと、愛をもって諭していただければ幸いです。また、CSやJYLCはいわゆる「礼拝」ではありませんので、そこではリラックスして学びと交わりをし、礼拝への備えができれば素晴らしいと思います。家庭でも短い時間でも祈りとみことばの時を持てれば幸いです。


告げ知らせよ!』 (11.4.3)

 「私は、主の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。」(詩篇89:1)  いよいよ新年度の始まりです。2011年度の年間指標聖句として、このみことばを選ばせていただきました。私たちの教会の中に、多くの素晴らしい神様のみわざが起こっていることをしばしば耳にします。しかしながら、それらが教会全体、あるいは教会を越えて多くの方々の耳に届くことは多くありません。しかし、このみことばにありますように、私たちは主の恵みをとこしえに歌い続ける者でありたいですし、代々限りなく主の真実を人々に告げ知らせる者でありたいと思うのです。主の恵み、主の真実、その偉大なるみわざ!主が私たちに一体何をして下さったのかを、その励ましの言葉を互いに分かち合う群となっていきたいと願います。私たちのこの口は、何のために与えられえているのでしょうか。この口は、不平不満を言うことよりも、神様をほめたたえ、人々に恵みの言葉を語るためにこそ、用いられるべきです。素晴らしい恵みを体験したのならば、私たちは黙っているべきではありません。その良き知らせを、人々に伝え、共に喜ぼうではありませんか。


国籍は天にあり』 (11.3.27)

 キリストを信じる者の大きな喜びのひとつは、天に自分の名が刻まれているということにあります。天に国籍を持つ天国人として、この地上の日々を送ることができるのです。天には希望があります。そこから、終わりの日にキリストが再び来て下さることを、私たちは心から待ち望みながら、今を生きることができます。やがて滅びるむなしいものにすがりつくのではなく、朽ちないとこしえの道に生きることができるとは、なんという恵みでしょうか。東北関東大震災で、人の作った物がなんとはかなく、もろい物であるかと改めて気づかされました。日本の半分が一瞬にしてパニックになりました。そのような時に、冷静を保ち、安心して歩めるのは、私たちがすでに神様の御手の中に守られており、どんなことが起ころうとも、最後には必ず天の御国に行くことが約束されているからです。天国への道は、土砂崩れで通行止めになることも、地割れで進めなくなることもありません。キリストが私たちの手を取り、確実に永遠の御国へと導いて下さるのです。


真の知識に立ち、落ち着いて・・・』 (11.3.20)

「熱心なだけで知識のないのはよくない。急ぎ足のはつまずく。」(箴言19:2私のような若い者がしてしまう失敗は、熱心さだけで走り出してしまう傾向があるということです。「熱心なだけの急ぎ足の者はつまずく」とみことばが語っているように、このような緊急なときほど正しい知識を選び分け、それを熟慮してよく祈りながら対処すべきことを思わされています。誰もが助けたい、なんとかしたい、みんなに知らせなければとの思いがあります。しかし、しばしば後先考えずに行動することがマイナスに作用したり、不要な情報が相手を不安にし、混乱させるということもあります。偽りの情報や根拠のない情報もあります。私たちは、世の終わりのときには、偽預言者が現れ、人々を惑わすというみことばを知っていますので、正しい知識に立つ大切さを覚えておきたいのです。サタンは私たちの心を、神様からそらそうと必死です。そして、この世のことへの様々な心配事でいっぱいにし、神の声に聞くことなく焦って行動するようにと私たちを急がせ、慌てさせるのです。このような時こそ、各人が主の前に静まり、主のみこころをいつでも求める必要があるのです。主が下さる真の知識に堅く立ち、落ち着きましょう。


地震に思う』 (11.3.13)

 金曜日、教会で説教の準備中でした。かつてないほどに建物が揺れ、物が落ち、ミシミシと音がする中で、さすがに身の危険を感じました。エレベーターホールに出ると、窓ガラスが割れんばかりに音を立ててきしんでいます。階段で降りるものの、揺れがひどく、思うように降りられません。何かが倒れる音やきしむ音がしました。外に出ると、たくさんの人が騒いでいました。4階から降りて来られた婦人はガタガタ震えていました。電話が通じないので、急いで家に帰り家族の無事を確認しました。テレビでは、津波に飲まれる仙台の映像が流れていました。パニック映画でも観ているかのようです。日本中の人々の心に恐怖が襲ったのではないかと思います。世の終わりが近づいているということを、もっと目を覚まして備えなければいけないのではと思わされました。切迫した再臨信仰を持つ私たちですが、このような現実の中で、恐怖に打ち勝つ希望と平安をもたらすキリスト信仰をますます確かに持つべきことを思わされます。家族や友人を初め、少しでも多くの方に天国への唯一の道をお伝えする責務を改めて思いました。有事のときこそ信仰が私たちを助けてくれます。


喜びをもって仕える』 (11.3.6)

 私たちはみことばを実行する大切さについても、ヤコブの手紙などを中心に聖書が教えていることを知っています。しかし、その際に問われることは、その動機です。パウロはコリント人への手紙の中で、愛がないなら山を動かすほどの立派な信仰があっても無意味だと断言したほどです。奉仕は、神様の愛に対する私たちの応答の一つです。神様の深い愛と、払われた犠牲の大きさを思うと、私たちの何をもってお返しができるだろうかと思います。しかし、もし、私たちが愛をこめて、自発的に主に奉仕をささげるのならば、それは神の愛に対する尊い応答のささげものです。それゆえに、「どれだけの事をなしたか」以上に、「どれほどの愛をもってなしたか」ということが問われるのです。人の目に見え、人からの評価を受けるのは、「どれだけの事をなしたか」です。けれども、「どれほどの愛をもってなしたか」ということは、人の目に見えなくても、神に喜ばれ、またいつまでも残る尊いものです。愛のわざには喜びが伴います。喜びをもって仕える人にさせていただきましょう。


キリストの教会』 (11.2.27)

 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタ16:18これは、イエス様が「教会」について語られたことばです。この岩の上にとは、その前になされたペテロの信仰告白を指しています。それは、イエス様こそが生ける神の御子キリストであると告白するものです。この信仰告白の上に、キリストは「わたしの教会」を建てるとおっしゃったのです。つまり、教会とはキリストに属し、キリストを信じる者が集うところであり、キリストが満ちているところだと言えます。しかも、「ハデスの門もそれには打ち勝てません」とのみことばが続きます。キリストの教会は、死者を待ち受けるハデスの門に勝利するいのちの力を与えられているということになります。ハデスとはキリストを信じないでいる者が、「死後に」魂がを送られる場所です。そのような滅びへと向かう死の力に対し、地上のものである「教会」が打ち勝てるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。神は、キリストをかしらとするキリストのからだなる教会に、それほどの豊かな祝福を与えておられるのです。キリストの教会にある恵みを感謝しましょう。


主を信じて、続けること』 (11.2.20)

 「継続は力なり」と中学時代の教師がおっしゃっていたのを記憶しています。続けることは本当に力になります。とはいえ、聖書を学び続けることも、祈り続けることも、語り続けることも簡単ではありません。でも、あくまでそれを続けるようにと聖書は教えています。松下電器の創業者、松下幸之助さんも、失敗してやめてしまえばそれが失敗になるが、成功するまで続ければそれが成功になるのだと語っています。ダメだったとさっさと自分で結論付けることで、私たちが「失敗にしてしまう」のです。転んでも、倒れても、また起き上がって最後まで走り続けることで、失敗で終わらず成功に達するというわけです。ですから私たちも、何度でも再開すれば良いのだということを忘れないでいたいものです。私たちは結論を急がず、神様がふさわしい時に引き上げて下さることを信じて、続けることを大事にしたいのです。また、継続していかなければ見えないものもたくさんあります。どこまでもあきらめず、失望せず、主のみこころのわざを積み重ねていきましょう。


落ち着くこと』 (11.2.13)

 想定外の出来事に遭遇し、落ち着きを失い、冷静な判断ができなくなることはないでしょうか。慌てて何かをすると、決して良い方向にはならないものです。「慌てる」という漢字も、まさに「心が荒れている」と書きます。心が荒れているようでは、うまくいくものも、決してうまくはいきません。慌てていると、ミスが多くなり、そこに心がこもりません。慌てている姿を見ている他の人までも、心が騒いでしまうのではないでしょうか。では、パニックになりそうなときに落ち着くにはどうしたら良いのでしょうか。聖書にはそのヒントが語られています。第一に、すべてのことには神の計画があることを知ることです。神の関知しない出来事は一つもありません。愛と真実な神様に、ゆだねていきましょう。第二に、神を待ち望めと教えられているように、自分でどうにかしなければと思わず、神様に祈って助けてもらうことです。焦ったらまず祈る習慣を身につけましょう。第三に、普段の生活の中から神様の前に静まり、そのかすかな細い声に聞き入る時を持つことです。まず神に聞く・・・その日々の積み重ねが、有事の時にもあなたを支える落ち着きとなるのです。


仕え合うことは幸せへの道』 (11.2.6)

 茶道の本を読んでおりました。そこには茶道の心とは「仕え合う心」であるとありました。一つ一つの動作が、自分のためではなく相手に礼を尽くし、もてなすためであるということでしょうか。また、そこにはこうもありました。仕え合うという言葉をつなげると「仕合わせ」になると。「幸せ」の語源を調べていくと、もともとは「仕合わせ」と書いていたことがわかります。二つの動作が「合わさって」、「仕合わせ」になるということです。しかも、「仕合わせ」と書く場合は、「幸せ」よりも広い意味を持っていたようです。それは「天のめぐり合わせ」によって、良い面も悪い面も合わさった上での仕合わせであるということのようです。聖書に通じるものを感じます。真の幸せとは、一人で勝ち得るものではありません。人が互いに仕え合う中に、幸せがあるということ。また、良いことも悪いとことも合わせて、そこに神様の最善の導きがあることを信じていくこと。神様と導きを信じること、互いに仕え合うこと。そこに真の幸せがあるのです。


ごく些細なことを通して神を愛する』 (11.1.30)

 私たちのために御子をお与え下さり、恵みと祝福とで満たして下さる神様。このお方の際限ない愛を受けて、それに応えていきたいと願います。しかし、どのようにしてこの愛に応えていくのでしょうか。それは決して大業を成すという大げさな事ではありません。むしろ、ごくごく些細な、誰の目にも留まらないような小さなことを神を愛するために成していくことなのです。小さなことに忠実でない者に、神様は大きな事をお任せになりません。日常の何も考えずに繰り返されている行為の一つ一つをさえ、神様のために、また神様と共になしていくとき、そこにキリストの姿が現れてきます。キリストが「あなたがたは、わたしを離れては何もすることができないのです」と言われたように、私たちは絶えずこのお方のゆえに、このお方を愛する動機で万事をなしていくべきです。このお方を離れては、霊的なわざ、永遠に残る働きは何一つできないのです。私たちは、大きな何かを目指すのではなく、目の前にあるごく些細なことを通して、心から神を愛することをまず大切にしていきましょう。


この上なく静かな平安』 (11.1.23)

 この世の中で、激しい波風が絶えず吹き荒れているのはどこでしょうか。おそらく、私たちの心の中ではないでしょうか。自らの心を治めることほど難しいことはありません。そのような中で、聖書の中には、試練のただ中でもその魂に平安をいただいて歩む秘訣が語られています。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。」(Uコリ5:1)。パウロはあらゆる困難を通らされた人物のひとりですが、驚くことに彼にはいつもこの上なく静かな平安がありました。それは、彼がいつでも地上のことではなく、天にある永遠の家にその心を置いていたからです。この地上の目に見えることがすべてではなく、むしろ大切なものは見えないところにあります。パウロは、地上の幕屋はこわれるものであることを告白し、朽ちることない永遠の住まいが天にこそあることをしっかりと信仰の目で見ていました。私たちの国籍は天にあるということを、絶えず意識して、そこに向かって今日の歩みを一歩また一歩と進めたいものです。


タイガーマスク運動に思う』 (11.1.16)

 ある人が児童養護施設に「タイガーマスク・伊達直人」の名義でランドセルを寄付した出来事が、全国的運動へと発展して「タイガーマスク運動」と呼ばれています。原作アニメでは、タイガーマスクがプロレスでのファイトマネーを孤児院に寄付していたということです。ただ、このタイガーマスクは決して裕福ではありませんでした。孤児院に寄付するゆえに、虎の穴という自分を育ててくれた組織への上納金を払えなくなり、命を狙われるようになるほどです。どのような形であれ、児童施設に寄付が寄せられ、そこにも関心が向けられるようになるのは、大変良いことだと思います。一方で、貧しい中でも寄付をしていたタイガーマスクの姿勢になかなか焦点があてられずに、匿名で寄付する流れを「タイガーマスク運動」と呼ぶことには、少し違和感を覚えます。私たちは、心に余裕があるから、お金に余裕があるから人を助けるのか?と問われることも必要です。主イエス様の姿を見るときに、ご自分にあるものすべてをもって愛して下さった本物の愛を見ます。このような運動が、単なる自己満足の運動ではなく、本当の愛について考えるきっかけになればと切に願います。


成長は隣人に幸せをもたらす』 (11.1.9)

 他人を変えることはとても難しいことですが、自分自身が変えられ、成長していくことは、私たちの決心次第です。私たちの多くは、「あの人が変えられればうまくいくのに」という発想の檻に閉じ込められています。あの人が心を開いて、求めてさえくれれば!あの人が変わってくれれば、私は平穏に過ごせるのに!しかしながら、神様はいつでもこうおっしゃっているように思うのです。「あの人がどうであれ、あなたは私に従いなさい」(ヨハ21:22参照)と。私たちがまず、神様に取り扱われる必要があるのだと教えられるのです。そして、私たちの信仰面、人格面の成長が、どのような飾った言葉よりも隣人に真の幸いを与えるのです。語るに遅く、聞くに早くとのみことばもあります。忍耐と寛容とをもって人と接することも教えられています。私たちがみことばに沿って成長するとき、人々はその成長にある恵みを共に受けます。それだけでなく、そこにある神様の力を発見するでしょう。そして、それを発見した人は、神の御手にある真の幸いに関心を持っていくのではないでしょうか。


主の教えを喜びとしていますか』 (11.1.2)

 詩篇の1篇に、幸いな人についての詩があります。幸いな人とは、主なる神様のみおしえを「喜びとしている」人だと歌われています。みことばを暗誦している人が幸せとは言わず、「喜びとしている」ことが幸せだと歌っているのです。そして喜びのゆえに、ついつい口から出てくるというわけです。私たちは何かとても嬉しい出来事があると、一日中その嬉しい出来事で心が満たされています。何度も、その出来事のあった場面を思い出し、喜びを噛み締めるのです。しかし、私たちは、神様のみことばを義務として味わうことが多く、そのみおしえを喜びとは思えてない場合も少なくないのではないかと思います。忙しい毎日の中で、5分で食事をとるかのように、みことばをかまずに飲み込み、その味の素晴らしさを体験できずに過ごしてしまってはいないでしょうか。主の教えを喜びとする。それは主のみおしえを十分に味わう中で、そこに愛と真理を見出し、そのみことばに生きることで体験的に幸いを知るということです。この一年、主の教えを喜びとする年としたいものです。


弱さを共に担っていく』 (10.12.26)

 いよいよ2010年最後の礼拝となりました。クリスマスもあっという間に過ぎて行った印象です。このクリスマスを振り返り、神である方が、弱さを身にまとい、私たちと同じようになって、その生涯を歩まれ、十字架の死に至ったということを共に覚えました。私たちは、このような人となられた救い主だからこそ、この方にゆだね、共に歩むことが喜びだと感じるのではないでしょうか。私たちは、この方の恵みと真実なお姿に倣いたいと思うのです。クリスマスは、孤独を感じる季節でもあります。身寄りのないお年寄り、病と闘う人々、様々な弱さの上に、孤独が増し加わると人は前を向いて生きていくことが難しくなってしまいます。でも、弱さを抱えていても、それを少しでも理解し、寄り添って歩もうとする仲間がいるときに、勇気がわいてくるのです。私たちは、主が共におられる!それだけでどれほどの慰めと励まし、そして勇気をいただいているでしょうか。同じように、隣人の弱さに寄り添い、共にそれを担っていく愛の人とならせていただきましょう。


共にある喜び』 (10.12.19)

 クリスマスと言えばプレゼント。そのような感覚が世界中にあります。それはそれで、良いことだと思います。しかし、本当の喜びは高価なプレゼントそのものではないのではないでしょうか。私たちがプレゼントをもらって嬉しいのは、そのプレゼントに心がこもっているからです。しばしば、忙しくて一緒にいてあげられないことの代わりにプレゼントを上げて、その人の心を慰めようとする行為があります。そこにも愛があるならば、いくらかは伝わることでしょう。しかし、そこに愛がないのならば、そのプレゼントはむなしく見えてしまうかもしれません。私たちが、このクリスマスに見失ってはいけないもの。それは、どんな物にも優る「共にある喜び」です。インマヌエルと呼ばれるキリストが共におられるゆえに。また、愛する家族、兄弟姉妹と共にいるゆえに。そのゆえに、私たちの心に、クリスマスの喜びがあるのではないでしょうか。教会は、それらが満ちているところです。キリストが満ち満ちており、神の家族の愛が満ちているところ。教会において、本当のクリスマスがお祝いできるとは、なんという恵みでしょうか。メリークリスマス!!


心の拠り所(こころのよりどころ)』 (10.12.12)

 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言423) 私たちの行動は、その心が決めます。心に不安や恐れがあれば、その言動も不安や恐れと関係したものとなって現れます。「怒り」も正義に燃える怒りもありますが、不安や恐れから自分を守るための防衛反応として出て来るケースも少なくありません。自分の思い通りにならないと不安になります。そこで、怒りによって圧力をかけ、周りの人を操ろうとしてしまうことがあるのです。ですから、外側の行動だけを直そうとしても、結局は直すことができず、変わらない自分にいつしか失望してしまうのです。聖書は、その真理を私たちに教えています。この箴言の言葉にありますように、いのちの泉は心からわくのですから、その心にゆるぎない「拠り所」を持つことが必要なのです。嵐が来ても、地震が来ても、揺らぐことのない堅固な「拠り所」があれば、私たちの心は安心します。そして、その心に安心があれば、人を傷つけるのではなく、人を助ける行動となって現れて来ます。聖書は私たちに、安全な心の拠り所を与えてくれます。その拠り所は、罪の赦しを与える神の愛です。


謙遜な者に恵みは尽きない』 (10.12.5)

 聖書の中でも、頻繁に問題とされているのが「思いあがりの罪」すなわち、高慢の罪です。これは、人々の中でも最も正しい人と評価されていたヨブの罪でもありました。つまり、立派な信仰者、尊敬されている信仰者においても、思いあがりの罪は根深く残っているものだということです。そして、その高慢の罪こそは、神様の力が豊かに働くことを妨げる大きな問題なのです。ですから、神様は自分を低くするようにと語ります。自分で自分を高くする者を、神は低く取り扱われ、自分を低くし、謙遜な者を神は高く引き上げて下さるのです。ですから、神様の恵みや祝福を豊かに体験するための秘訣は、謙遜を身にまとうことです。それは、力のない小さな幼子ようになって、神の力ある御手にその身をお任せてしていくことです。苦しみにあうとき、「なぜ、自分がこんな苦しみを?」と抗議するのではなく、自分はこの苦しみを受けて当然であると謙遜に受けとめることです。いや、むしろ苦しみを和らげ、脱出の道まで備えて下さる神のあわれみ深さに感謝する者となることです。


イキイキとした信仰生活のヒント』 (10.11.28)

 私が救われて間もない頃。私たちの信仰がいつまでもイキイキと輝いているために、とても重要なことがあると教えていただきました。聖書を味わうこと、祈ること、礼拝に行くこと。それらは当然ながら必要不可欠です。しかしながら、それだけでは不十分であると聞きました。それは、恵みを人に分かち合うこと。すなわち伝道することが私たちの信仰がイキイキと輝くためにとても重要なことなのだということでした。これは、実際、多くの方が体験しています。自分の内側ばかりを見つめているとき、私たちの信仰は内向きになり、いつの間にか悩みの迷路の中に置かれます。しかし、人々の救いのために目を上げて歩み始めると、不思議に自分の心のうちの悩みや葛藤はやわらぎ、宣教の情熱の中で喜びがあふれてきます。人は、自分のためではなく誰かのために使命感をもって歩むとき、最も美しく輝けるように造られているのです。あなたは今、誰かのいのちの救いのために生きているでしょうか。そこに私たちの焦点が定まると、私たちの信仰は輝き始めるのです。


深みに漕ぎ出して』 (10.11.21)

 主イエス様は、漁師であるペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。夜通し漁をして一匹もとれなかったペテロたちですが、イエス様の指示通りにしました。すると、破れんばかりの大漁が与えられたのです。この出来事を通してイエス様の弟子として招かれたペテロたちは、人を神の救いへと導く、人間をとる漁師になりました。私たちの多くは、深みに漕ぎ出す前に、無難なところで身を守っているように思います。それは、やっても無駄であると思っていることと、ダメだったときにあまりガッカリしないようにと思っているからではないかと思うのです。しかし、イエス様は最初からおっしゃっているのです。「深みに漕ぎ出して、網をおろしなさい」と。私たちは教会の中の内輪の交わりに満足し、深みに漕ぎ出して網をおろすことを忘れてはいないでしょうか。もう一歩踏み出せば、そこに主が備えている収穫があるにも関わらず、私たちはそのわずか手前まで行って、引き返すことを続けているのかも知れません。主は、ペテロに「こわがらなくてもよい」とおっしゃいました。主イエス様は私たちと同じ舟で、深みに出て下さるのです。


子どもたちの祝福』 (10.11.14)

 本日は、子ども祝福式を行います。イエス様は子どもたちを指して、誰でも子どものようにならなければ、神の国に入ることができないとおっしゃいました。それは、大人のように人の評価を気にしたり、人間的な知識に頼ることなく、柔らかい心で神様を求めるということを意味しました。また、それだけでなく、当時の子どもたちは、様々な重要な場所に入ることが制限されており、権利も今ほどは保障されておらず、立場も身分も低い存在でした。そして、もちろん大人ほどの力もなく、知恵もなく、権力もありません。ですから、子どもたちのように自分を低い立場に置き、自分の力では自らの罪をどうにもできない無力な者だと自覚する者こそ、神の国にふさわしいという意味でもありました。けれども、神様はそのような子どもたちを、身元に招きました。そして、彼らを抱いて祝福したのです。現代でも私たちは、子どもたちを軽んじています。礼拝が恵みの場であることを知っているのに、子どもには難しいからと大人が判断して、招こうとしない場合もあります。しかし、聖書に従って私たちはむしろ子どもたちをイエス様のもとにお連れし、祝福を祈るべきです。子どもが家族の中にいるとうことに、どれほど豊かな神様の祝福があるのか、私たちはしっかりと覚えておきたいものです。


救いの恵みを豊かに味わう』 (10.11.7)

 聖書が語る「救いとは何ですか?」と問われたとき、どのように答えるでしょうか。「キリストを信じることで、罪が赦されて天国に行けることです。」という答えでしょうか。もちろん、その通りです。しかし、その答えだけで終わるならば、救いの恵みを日々どのように体験できるのかについて十分知ることができません。神様は、天国までは下を向いて暗い顔をして我慢せよとおっしゃっているのでしょうか。いいえ。私たちに与えられている救いの恵みはもっと豊かで、この地上の日々においても、あふれるばかりのものです。この福音の中心は、私たちが神と共に歩む者となるということです。父なる神とキリスト、そして御霊なる神が三つのご人格を持ちながら、なお一体となっているほどの親しい交わりを持っておられる。その愛の交わりの中に今私たちは置かれているのです。さらに、神様の全世界規模の、すべての歴史を貫く愛のご計画の一部を担うものとさせていただいたのです。主イエス様にお従いするならば、私たちはすぐに消え去るものではなく、永遠に残ることのために生きられるようになります。主を信じて、人生が変えられ、新しい価値観に生かされ、とこしえの働きに主と共に参与できる恵みははかりしれません。


Go in peace! 安心して行きなさい』 (10.10.24)

 先日のほっとカフェでは、1年ぶりに早矢仕先生がメッセージをして下さいました。テーマは「安心」です。私自身も励ましをいただき、教えられることがありました。神様はいつでも私たちに対して、「あなたは大丈夫だから、安心して行きなさい」と語りかけておられます。そこで大切なことは、神様のこのことばを信頼するということです。私たちの心の中に、神様のみことばが留まるならば、私たちは豊かな実を結ぶことができます。実を結ぶというのは、「安心しなさい」ということばを聞いたときだけ、一瞬だけほっとするということではなく、日々の生活の中で安心して落ち着いて歩むという結実です。「大丈夫だよ。安心しなさい。」それを語っておられる方は、偽りの全くない愛と真実に満ちた神様です。このお方が語っておられるからこそ、私たちはこのことばにいつまでも留まり、思い出しては「大丈夫なんだ!」と安心できるのです。私たちの感動はやがて薄れます。しかし、神様とそのみことばはとこしえに変わらないのです。安心して歩みましょう。


わたしを知らなかったのですか』 (10.10.17)

 「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。」(ヨハ14:9) 私たちの信仰生活は、中身のある信仰生活となっているでしょうか。みことばを心のうちに蓄えるだけでなく、そのみことばに生かされ、神様の臨在を体験しているでしょうか。私たちは、神であるのに人となられ、私たちの重荷を背負って下さった主イエス様を知っているでしょうか。すべての罪人らを招き、共に食事をし、疲れ果てているこの者たちのために涙を流し、すべてを投げ捨てて十字架に死なれた主を知っているでしょうか。そのイエス様を通して、みことばを通して、御霊の働きを通して父なる神様を親しく知っているでしょうか。日々の歩みの中で、父なる神を仰ぎ見、親しく語り合い、友として父として慕い求めつつ歩んでいるでしょうか。長い期間教会で過ごし、クリスチャン生活を続けていても、主を全然知らないでいるということが可能です。そのようなもったいない歩みはやめ、主を親しく知る恵みをもっと豊かに体験しましょう。


変えられた人 主の兄弟ヤコブ』 (10.10.10)

 本日からヤコブの手紙からの説教となります。この手紙の著者は、イエス様の実の兄弟であるヤコブだと考えられます。最初、彼は自分の実の兄を神の御子として信じることができず、むしろ否定的、批判的な態度を取っていたひとりでした。けれども、彼はイエス様の十字架の死を目撃し、また復活の主に出会ったことで悔い改めていったようです。彼はやがて、エルサレム教会の指導的な立場になり、熱心な主のしもべとしてキリスト教会に仕えていきます。彼は、この手紙の冒頭で「神と主イエス・キリストのしもべ」として自己紹介しています。それ以上の肩書きは何も記していません。彼は、自分の兄として見る生き方から、主キリストとして見る生き方へと変えられたのです。彼は、自分の実の兄を「主」とも「キリスト」とも呼び、自分のことを「そのしもべ(奴隷)」と呼んだのです。ここに、主を本当の意味で知る者となった者の謙遜で忠実な姿があります。かつての肉の思いを捨て、ただひたすらに主にしもべとして仕えていく喜びに満たされているのです。


キリスト者の成長と人々の救い』 (10.10.4)

 私たちは何をもって、キリスト者の成長と言うことができるのでしょうか。「受けるより与える方が幸いである」とのみことばにあるように、恵みを受けた者が与える喜びに生かされていくとき、そこにひとつの成長を見ることができるのかも知れません。特にそこで重要なのは、救霊の思いや伝道の情熱です。福音の恵みを受けた者は、他の人にその救いの恵みを分かち合い、主キリストの十字架の意味をお伝えする使命があります。また、それは使命であるだけでなく、救われた者の特権でもあり、喜びがあふれ出るときには、人に伝えたいと望むようになるものです。私たちはもっともっと、救いの恵みを共に喜び、その喜びに押し出されるようにして、人の救いのために労する者にならせていただきましょう。私自身も、主に仕える者として、もっともっと神の国の福音を宣教する者へと成長する必要を感じます。この新しい週、この新しい月に、まずは一人の方に素晴らしいイエス様をご紹介する決心をしてみませんか。実は、この真理を早く知りたいと求め、願っている人も世界にはたくさんいるのです。福音を宣べ伝えてまいりましょう。


教会だからこそ』 (10.9.26)

 教会バザーが行われました。リサイクルショップや100円ショップがあちこちにある現代社会で、果たしてバザーにどれぐらい人々が足を運んでくれるのだろうか。そのような不安がありました。しかし、ある姉妹が言っていましたが、教会のバザーだからこそ人が来るということがあるのかもしれません。教会の持つ安心感、温かさなどに興味があり、バザーだからこそ、中に入りやすい。そのようなものがあるように感じます。実際来られた方の中には、教会の掲示物をじっくり読んでいる方がいました。とても楽しかったと言って下さる方も多くいました。遅くに来て、ゲームができなかった子には、教会の子どもたちがたくさんプレゼントしてあげていました。準備はとても大変だったと思うのですが、その過程に祈りと、愛の交わりとがあり、形になったものの中にその温かさがあったのだと思うのです。ビルの3Fというデメリットがあるにも関わらず、人々に神の愛に満ちた教会というものを、少しでも感じていただける機会となったように思い、感謝があふれます。神様のなさることの素晴らしさに、ただただ驚き仰ぎ見るばかりです。


分かち合う恵み』 (10.9.19)

 先週火曜日に、東京カベナント教会にイスを取りに伺いました。教会に着くと、入り口のあたりにイスが用意されており、数人の教会のスタッフがイスを雑巾でふいて下さっていました。無料で譲っていただけるだけでも、大変感謝なことです。しかし、それどころか、きれいにしてお渡し下さり、しかもすぐに運べるように入り口まで全部運んでおいて下さったことに、感動を覚えました。車に積み込む作業も手伝っていただきました。これまで全くつながりのなかった教会であるにも関わらず、同じ主にある兄弟姉妹であることの恵みを感じ、感謝にあふれました。私たちの教会は小さく、経済的にも厳しく、何も分かち合うものがないかのように思っているかも知れません。けれども、ピリピやテサロニケの教会も非常に貧しい教会でした。それにも関わらず、彼らの主にある喜びは、あふれだす富となって、他教会のため、弱い者のために献げられていったのです。私たちもまた、一歩踏み出し、他教会との交わりを大事にし、共に分かち合う恵みにあずからせていただきましょう。


コーラン焼却騒ぎ』 (10.9.12)

 米国のある牧師が、イスラム教の聖典の焼却集会を計画していました。しかも、テロのあった9.11に、それをしようとしていたのです。ネットで配信されているために、世界中で騒ぎになりました。私は牧師として、聖書以外のいかなる書も、神のみことばとして信じることはできません。しかしながら、他の人々が大切にしている価値観を、自分たちの正しさを示すために踏みにじるような行為は、反聖書的であると思います。聖書の中で、異教の民として歩んでいた人々の中で、改心していった者は、自分たちの信仰を踏みにじられたからではなく、まことの神の偉大さを知り、キリストにある愛と真実に触れたからではないでしょうか。預言者ヨナも、異教徒であるニネベの人々を嫌悪し、彼らに宣教するのを拒みました。しかし、神様はヨナの心の狭さ、自己中心な思いを指摘しながら、ニネベの12万以上の人やその家畜までも大事に思っていることを伝えたのです。イスラム教徒の救いを願うキリスト者であるならば、礼儀に反するようなことをせず、彼らの人格を尊び、その救いのために愛と忍耐とをもって祈るべきです。私たちの未信者に対する姿勢はどうでしょうか。


神の報い』 (10.9.5)

 私たちは報いを期待せずに生きることを理想とします。誰かに親切をするにも、そのお礼や評価をあてにしているようでは、真心からのものとは言えません。神を信じて歩むこと、神を礼拝することも、本来の動機としては神から何かをいただけるからそうするのではなく、神が信頼すべき方であるゆえに、また神が賛美され、礼拝されるにふさわしい素晴らしいお方であるゆえです。一方で、神は私たちを深く愛し、私たちに必要な一切のものを与えようとしておられます。また、神のみことばを信じて、そのみこころに歩もうとする者には、報いを与えて下さるのです。私たちはそれを聖書から知ることができます。アブラハムは神からの祝福のみを求め、神の御手にゆだねるという信仰の決意を度々しました。神はその信仰を喜び、慰めの言葉だけでなく、様々な助けや星の数ほどの子孫を与えて下さったのです。望みを見出せないときに、神の約束を信じて歩むならば、やはり神の報いがあるのだと信じることができます。報いが目的ではありません。神を信じて歩むこと自体が素晴らしいのです。しかし、神は真実なゆえに、素晴らしい報いをも備えておられるのです。


自制の恵み』 (10.8.29)

 時々私たちは、美味しいものを好きなだけ食べ、寝たいときに眠り、遊びたい放題遊び続けてみたいなどと思うことがあるのではないでしょうか。しかし、興味深いことに、私たちは自分の欲のままに行動したとしても、決して満たされない者であります。ソロモン王は、贅沢の限りを尽くし、自分のやりたい事をひたすらやった結果、なんとむなしいことかという結論に達しています。むしろ、私たちが真に心も身体も満たされ、喜びにあふれて生きる道は、与えられている感情も、知性も、欲求も正しく健全に管理し、神様の望んでおられるように用いるときに平安と喜びのうちに歩むことができるのです。それこそが、自制の恵みであると言えましょう。御霊が私たちに与えてくれる自制という実は、何をするにも神の栄光を表わすためになしていこうとするとき、豊かに実らせていただけるものです。それは、自分の刹那的な感情や欲に従って生きるよりもずっと自由で、そして充実した歩みになっていきます。自分で制御できないからこそ、主イエス様に私を治めていただきましょう。


舌切り雀のクリスマス』 (10.8.22)

 三浦綾子さんの作品で、舌切り雀をもとにして、人間の罪とイエス様による救いのみわざを描いたものが絵本になっています。祖父が子どもたちに読んでくれていたので、何気なく聞いておりました。興味深かったことは、舌切り雀ではやさしい善良な人として描かれている「おじいさん」が、自分を正しい者だと自負する高慢の罪を示される場面があることです。誰もがあの人は立派な正しい人だとほめたとしても、それを神の前に主張したり、誇ることがあるならば、それは己を正しい者とする高慢の罪です。これほど神様が悲しまれ、嫌われる罪はないのだと語られます。私たちは、自分の口からは罪深い者ですと言うかも知れません。けれども、他の人から指摘されれば、それを受け入れることができないことを思うときに、この高慢の罪がいつも私たちの傍にあることに気づきます。神を恐れ、謙遜にしていただく必要があります。謙遜になることすら、己の力ではできないことを率直に認めながら、へりくだらせていただき、主の恵みによってのみ生かされる者とさせていただきましょう。


御霊が与える柔和』 (10.8.15)

 柔和という言葉の持つイメージは、何か弱々しくて、やさしく穏やかな、そんなイメージであると思います。しかし、イエス様を指して、柔和でロバに乗られる方とみことばは語っています。それは、イエス様が決して弱かったということではなく、本来は神としての偉大な力を持つお方であるにも関わらず、意図的に弱々しい者のようになり、誰もが近づきやすい姿となって下さった姿に表れています。しかし、それだけではなく、柔和という言葉は、「訓戒」、「教える」、「勧める」といった言葉と共に使われており、愛する兄弟姉妹に対してみことばの真理をまっすぐに伝えていくときに、やさしく包み込むような穏やかさをもって、なすべきことを教えています。柔和は人を建て上げるのに大きな意味を持つのです。これらは、生まれながらの私たちにはできないことでしょう。私たちは、むしろ自分を認めて欲しいために、自らを主張することが少なくありません。力を持っていながらなお、その力を制御し、主張しないでいること。それは、もはや、私たちの誇りとするものがキリスト以外にはないというところに立った御霊の人にのみ与えられる実であると言えるのです。


善なる神を信じる』 (10.8.1)

 私たちが神様を信じると言うとき、神の存在を信じることを指してはいません。信仰とは、単に存在を信じるということではなく、神様を信頼することです。信頼しているならば、私たちにとって理解できない出来事、納得できない出来事が起こっているときにも、善なる神様が悪いことをなさるはずがない。この出来事の中にも神様の良い計画があるのだと信じて、前を向くことができます。いや、本当に神様が善なるお方であると信じるならば、この出来事の中に神の良い計画を発見するのではなく、この出来事さえも神様の最善のご計画の一部なのだとわかるのです。この世界で起こる様々な悲劇の根本的な原因は、人の罪にあると言って良いでしょう。けれども、人の悪意も、この世を一時的に支配している悪魔さえも、神様の御手が及ばぬ範囲ではないのです。善なる神様は、悪事の一切も、ご自分の最善のご計画のための一部となし、良きものへと変えて下さるお方です。このお方を信頼して、今目の前に起こっているすべてのことについて、主にあって受け入れ、前を向く者とさせていただきましょう。


CSキャンプの恵み』 (10.7.25)

 今年で2回目となるCSキャンプでした。CSキャンプは、子どもたちの救いと信仰の成長を目的としています。そのために、大人は自分たちが恵まれることを目的とはせずに、一心に奉仕をします。しかし、ここに不思議なことが起こります。恵まれることを求めずに、仕えることに心を注いで参加したキャンプでありながら、大人もまた違った恵みをいただくことができているのです。私たちはそこで気づかされます。これらのキャンプの準備、運営は、確かに奉仕者全員の愛の犠牲的奉仕によってなされています。けれども、それらすべてにおいて、あるいはそれをはるかに超えて、全知全能の神がこれらの一切を益に変えて下さっているということです。仕えるつもりで参加したCSキャンプにおいて、実は子どもにも、大人にも一番仕えて下さったのは、主なる神様であるということに気づくのです。私たちは仕えるつもりで参加してさえ、なお、神様ご自身が私たちに仕えて下さり、多くの恵みにあずかれるようにと、すべてを備えておられたのです。振り返りの中に、主の豊かなご介入をしっかりと覚えたいものです。


寛容であることの動機と目的』 (10.7.18)

 御霊の実の4番目に、寛容という実があります。御霊の実ですから、それは生まれながらの気質とは区別されなければなりません。また、世の寛容とも異なっていなければなりません。その決定的な違いは、動機と目的にあります。この世的な動機と目的は、人との衝突を避けるためであり、傷つきたくないために寛容であるということがあります。また、人々から寛容な人だと評価され、尊敬を受けたいがために寛容に接するということもあります。しかし、それらは御霊が与える実ではありません。では、御霊が実らせる寛容という実は、どのようなものでしょうか。それは、神様ご自身の寛容と同じものであるはずです。神様の寛容は、人に悔い改める機会を与えることを目的としています。神様は、人間が罪を悔い改めて神に立ち返るために、寛容をお示しになります。長い時間、損害をこうむることをいとわずに寛大なお心で忍耐して待っていて下さるのです。つまり、人間への愛が動機となり、その人が幸せになることを目的とした寛容なのです。私たちの寛容さの動機と目的は、どこにあるでしょうか。肉の思いを放棄し、主の御霊にゆだね、隣人への愛をもって、寛容の限りを尽くしましょう。


『人を育てる』 (10.7.11)

教会の成長を考えるときに、最も重要なことは、そこにいる「人の成長」です。 そこにいる人たちが、しっかりと神とともに歩むように成長しているかどうか。 主の栄光を表わすひとりひとりとなっていく手助けが、どれぐらいできているか 。「人を育てる」ということが、私たちに与えられている重要な使命なのです。 大人の信徒教育に始まり、CSにおける子どもたちへの信仰教育。そこにどれだ け真剣に取り組み、仕える人がいるでしょうか。そのことが、教会の将来を左右 することになります。子ども伝道セミナーの記事が、クリスチャン新聞にありま した。そこで語られていたことは、次世代育成への鍵は「スタッフ自身の成長で ある」ということです。これは、まさに私自身も痛感し、心から同意するところ です。スタッフの主にある成長こそが、人格的な交わりの中で養われる子どもた ち自身の成長へとつながるのです。もし、私たち自身が成長を祈り求め、自ら学 ぶ者となるならば、主は私たちを育てて下さいます。まずは、自分が訓練され、 整えられていくことを切に祈り求めましょう。


代わるがわる駆け寄って・・・』 (10.7.4)

 サッカーWカップにて、日本は大健闘しました。しかし、パラグアイとの試合では、延長でも勝負がつかずPK合戦になりました。日本の駒野選手がシュートを外し、勝負が決しました。彼は、自分のミスで負けたと思い、呆然と立ち尽くし涙していました。チームメイトは順に彼のもとに駆け寄り、頭をなで、抱きしめます。驚いたことに、相手チームの選手のひとりが、歓喜の輪の中から抜け出し、駒野選手の額に自分の額を押し付け、何かをしきりに言いました。もしかしたら、同じような経験をしたことのある選手かもしれません。言葉は通じなかったかも知れませんが、気持ちは通じたことでしょう。また、彼の肩を抱えて歩いた松井選手は彼とともに泣いていました。私はこの瞬間が、この試合のハイライトではないかと感じました。これまで共に苦労し、同じ目標に向かって頑張ってきた者たち。いや、相手チームの選手も、離れた地でありながらも、同じサッカーを愛し、同じように苦労し、戦ってきた者。だから、痛みがわかる。私たちは、神の愛を知り続ける天国への旅を続けています。それはたったひとりの旅ではありません。ひとりの者が涙しているならば、代わるがわる駆け寄って肩に手を置き、ともに涙し励まし合いましょう。そのまん中に愛に満ちた主がおられるのですから。


神の愛を味わい受け入れること』 (10.6.27)

 聖書の中心テーマは、神様の人間への愛です。しかし、私たちの罪深い性質や、セルフイメージ(自己像)の低さゆえに、その愛を十分に理解し、味わい、受け止めることができない場合も多くありません。それは、幼少期の家庭環境や教育環境の中で、そのままで愛されることを体験して来れなかったゆえであるかも知れません。ですから、私たちはこの聖書を通して、神様がまず自分をどのように受け入れ、愛して下さっているのかをもっと味わい、知っていく必要があります。そして、自分がその神様の愛に対して、どのように受け入れ、感動し、安らぎ、神様との時間を楽しめているのか。そのことを問われることから始める必要があります。イエス様を知り、神の愛に触れ、変えられた私たちです。けれども、より厳密に言うならば、変えられただけでなく、これから変えられ続ける者とされたということです。特に、私たちの生涯は、神様の愛を知り続けていく生涯だということを忘れないようにしましょう。あなたは神様の愛をどれだけ知り、受け入れていますか。


父を敬う』 (10.6.20)

 母親と同様、父親を敬うべきことを聖書は教えています。しかし、私たちは実に多くの場合、父親というものを理解していないように思います。それには理由があります。ほとんどの場合父親は仕事に費やす時間が多く、ゆっくりと子どもと語らう機会が少ない。また、一般的に母親と比べて感情を言葉であまり表現しません。家族に心配をかけさせないようにするために、沈黙している場合も多いでしょう。そして、そのゆえに私たちは父を知りせん。私たちが見ている父の姿は、ほんの一部でしかなく、様々な苦悩やその涙を知らないことが多いのです。父を敬うということは、私たちの知らない父の姿があることを、まず知ることから始まります。私たちの想像を超える様々な苦しみ、悲しみを通り、それを家族には見せずに忍耐しているのです。そのような姿は、もしかしたら家族への深い愛のゆえであるかもしれません。すべてを知っているのは神様だけです。その神様が私たちに、立派な父親に見えないとしても敬うようにと招いているのです。それが神様のみこころです。


神様はあなたを招いている』 (10.6.13)

 外部に招かれてご奉仕をさせていただく機会がいくつかありました。自分を必要として下さる方があって、来て欲しいと招いて下さることはとても感謝なことだと感じます。逆に言うと、私たちは誰かから招いていただかないと、そこに参加することすらできないことがあるのです。私も神様に招いていただくことがなければ、神の国の住人となることはできませんでした。、聖書の神様は、すべてをお造りになられた偉大な神様です。全知全能で、汚れも染みもない聖なる神様です。私たち人間の助けなどなくても、すべてをご自分でなさることができます。しかし、そのような神様が、私に「あなたを愛している。あなたを求めている」と語りかけ、招いて下さった。しかも、そのために必要な代価は、すべて神様が払って下さいました。その代価こそは、御子キリストの十字架の死です。そのことのゆえに、今の私がいます。イエス様は、あなたにもいつも声をかけ、招いておられます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11:28)。あなたは招かれています。


青少年伝道を考える会』 (10.6.6)

 月曜日に、青少年伝道を考える会に参加しました。関東の福音自由教会の牧師で青少年への伝道に重荷を持つ有志で集まり始め、三回目を迎えました。今回はKGK、CCC、Hi-b.aといった超教派の学生伝道のスタッフの方々にも参加していただきました。お互いの率直な意見を分かち合い、どのようにして若い世代に福音を伝え、また育てていくべきなのか。ともに考え、語り合う時となりました。個人的には、教会と超教派のパートナシップについて考えさせられました。その協力関係には少なからず犠牲が必要です。その犠牲を喜んで払い合うためには、主にある信頼関係と同じ主の働きに召されているという確信が必要だと思わされました。それはもしかしたら、今年度私たちがテーマとしている、神の家族として歩むということと密接な関係があることなのかも知れません。教会の中だけではなく、教会と教会が、また教会と宣教団体とが、手を取り合ていくこと。そしてその互いの間にキリストの愛があるならば、私たちがキリストの弟子であると、それを見る人々は知るのではないでしょうか。組織があって責任があって、そこに集まったのではありません。主にあって同じ志を与えられた者たちの集まりです。組織があるからできるのではなく、キリストの愛がそのただ中にあるから動かされる。そんなことを教えられます。


家族を憎む?』 (10.5.30)

 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」(ルカ14:26) 最も厳しく感じられるみことばの一つです。キリストの弟子になるということは、何か出家をして家族と絶縁するようなことなのでしょうか。もちろん、そのような短絡的なことではありません。私たちは幼少の時に限らず、大人になってなお、父母あるいは兄妹との絆の中にいます。良い絆もありますが、そうでないものも多くあります。未だに赦せないでいる部分、彼らに認められたい、愛されたいという思い。それらが一番の動機になって生きるとき、私たちは神様を喜ばせようとしているのではないことになります。結婚の折に、父母を離れなければ、血のつながりのない妻と一体となるということはできません。その過去の絆から一度離れ、自立することなしに、新しい統合がありません。夫婦関係においても、どちらかが支配的な力を持っており、相手を喜ばせる、あるいは怒らせないようにすることが第一となるとき、主の御旨を第一とできないことが起こり得るでしょう。それらは人間の罪から来るゆがんだ絆です。私たちが主のもとに行くとき、彼らを赦し、また正しく愛する力を得ます。彼らの罪ゆえの不完全さを受け入れ、それゆえに支配しようとする力にはノーを言うことができる者となる。そこにこそ、このみことばの真意があるのではないでしょうか。


御霊の働き』 (10.5.23)

 父、御子、御霊の三位一体の神を信じる私たちは、聖霊なる神、御霊が、人格をもった神であるということを信じています。御霊はキリストを信じる全ての者のうちに住まい、深いうめきをもってとりなし、私たちを日々造りかえて下さるのです。石のように硬かった私たちの心に、柔らかいいのちの宿る心を与えて下さる。その心は、キリストの心です。そして、この御霊の働きは、クリスチャンのすべての働きの原動力となります。御霊は、私たちに罪を示し、悔い改めへの促しを与えます。神のみことばは、神の霊感によって書かれているので、この御霊の働きによって初めて正しく理解することができます。御霊はみことばの真理を私たちにわからせ、そのみことばに生きるように導いて下さいます。御霊は、語るべきことばを与え、なすべきことを教え、賜物をもって私たちが神と人とに仕えるよう導いて下さるのです。肉の私たち、すなわち生まれながらの私たちではできないことを、御霊がなさしめて下さる。私たちはもはや、神の御霊の住む聖なる神殿。キリストの心をいただいた神の子です。キリストの栄光を表わす御霊に一切をおゆだねして、歩んで参りましょう!


純粋な神のみことば』 (10.5.16)


「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩12:6
 私たちは、ことばによって物を考え、愛を伝え、またことばによって宣教をしています。しかし、人間の語ることばは、必ず何らかの混じりけを帯びています。まっすぐに語るにしてもなお、その人の持つ原罪の影響は避けられないでしょう。また、無知な私たちが語ることばですから、適切なアドバイスとなりえないこともしばしばです。ヤコブ書でも、ことばで失敗しない人は、生活全体が完全な人だと語り、実際には舌を制御しきれる人はいないと教えているのです。しかしながら、なんと幸いなことでしょうか。私たちは、神のまったく混じりけのない純粋なみことばをいつでも聞くことができるのです。それは、7回も炉で精錬された銀のようであると語られます。7とは聖書において完全数ですので、純度100%ということになります。神様のみことばには、一片の混じりけもなく、ただただ純粋な愛と真実に満ちているのですから、私たちはこれこそを信仰生活の究極の権威すべての教会決定の基準となすべきです。私たちのうちにきよさを保ち、愛と真実な歩みへと導いてくれるのはこの神のみことば以外にはありません。私たちは、いつでもこのみことばを大切にして生きる者とさせていただきましょう。


真の礼拝者たち』 (10.5.9)

 年に一度、私たちは野外礼拝の機会を持っています。それが、この母の日礼拝です。屋外で礼拝をするというのは、普段とは異なる労力を必要とします。いつもより遠くへ行くのが面倒だと思う方もあるかも知れません。けれども、私たちの主への礼拝は、どの場所で行うかが重要なのではなく、その心が、その霊が主への生きたきよいささげものとなっているかが重要なのです。イエス様は、サマリヤの女との会話の中でこう言いました。「あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。〜中略〜 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝するときが来ます。今がその時です。」 聖なる山とか、聖なる都で持つから、礼拝なのではありません。霊とまことをもって、すなわち主の御霊と、まことに満ちたイエス様の導きの中で、父の神を礼拝する、真の礼拝者たちの集まり。そこが聖なる礼拝の場となるのです。私たちが外に出て行き、そこで霊とまことをもって神を礼拝するならば、そこが聖なる礼拝の場であり、それがまた人々への証しにもなるでしょう。また普段ではきないゆったりとした交わりを持ち、美しい自然を造られた神様をともにあがめましょう。


心をあなたに向けさせて下さい』 (10.5.2)


 賛美集会の説教テーマは、「心をあなたに向けさせて下さい」でした。私たちは賛美をささげるにしても、献金をささげるにしても、それは自分の内側から絞り出すものではないということを知っています。人がどんなに高い技術を身につけ、どれほど多くの富を所有したとしても、それらすべては神様が与えて下さっているものです。私たちが賛美をし、献金をささげるとき、そこに真の喜びが与えられるには、それを自分の手のわざとしてではなく、神様の御手のわざとしてとらえることが必要なのです。賛美のとき、私たちはその心地よいメロディのゆえに喜ぶのではなく、また何とも言えない一体感や開放感のゆえに喜ぶのでもなく、歌声の美しさやハーモニーそのものを喜ぶのではありません。それらが神様からのものであり、それらの賛美を受けるにふさわしい神様のゆえに喜ぶのです。そのような意味では、賛美の歌詞の内容をしっかりと吟味し、それを自らの告白の言葉、神をたたえる言葉として味わい歌うことが必要です。そこで歌われているところの神様の聖さ、偉大さ、恵みやいつくしみ、そこにある神の愛。それらを覚えて、神をたたえるのです。そのために必要かつ重要なことは、私たちの心を神様にしっかりと向け続けることなのです。


人を導く者が問われること』 (10.4.25)


 アフリカのウガンダでは、赤ちゃんにオムツを使わないそうです。しかし、使わずとも母親は、赤ん坊が発するサインを読み取り、トイレで排泄をさせてあげるというのです。ある本でそれを読み、非常に驚きましたが、彼らにとってはそれが当たり前のことのようです。それだけ、母親が赤ちゃんの態度や表情、声など、心の動きに関心を持っているということなのです。親であれ、牧師であれ、学校の先生であれ、あるいは政治家であれ、人を導く者には、人の気持ちに関心を持つ責任があります。人の気持ちを理解することなしには、人を健全に導き、成長を促すことはできません。それは神様が、まずなさったことではないでしょうか。全知全能のゆえに知っているということで終わらずに、ご自分から私たちに関心を持ち、心を留めて下さっているということが、詩篇をはじめ、聖書のあらゆる部分からわかります。イエス様もまた群集を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てている姿を深く悲しまれました。神である方が人となられたということも、私たちの弱さに同情できる者となられたお姿です。人の心を理解すること、少なくともそうできるよう祈り、神に助けを求めること。人を導く者が問われる大切なこととして、忘れずにいたいものです。


ともに食事をする交わり』 (10.4.18)

 イースター礼拝では、食事の交わりがあり、その交わりがとても良かったとおっしゃっている方がありました。聖書の中で、食事をともにするということは親密な交わりを意味しました。ユダヤ人の多くは、異邦人とは同じ席で食事をしないとか、罪人とは同じ食卓につかないということが通常でした。食事をしないことで、交わりの線引きをしていたのです。そういう意味では、イエス様がザアカイに、あなたの家に泊まるとまでおっしゃったことは、深い愛を示す言葉であったことがわかります。また、黙示録3:20で「わたしは彼とともに食事をする」という表現がありますが、それもまた、イエス様が信じる者の心の中に入って下さって、親しい交わりを持ってくださるということです。日本でも、「同じ釜の飯を食べる」ということばが、身内のような親しい関係を表すように、食事をともにすることはやはりお互いへの愛の表れであると理解することができます。礼拝後、祈祷会後、あるいはその他の集会後や、あるいは何もないときにも、お互いに食事に誘ったり、家に招いたりしながら、主にある交わりを深めていくのは建徳的なことではないでしょうか。意識的に、食事を一緒にしながら、主の恵みを語り合い、悩みや痛みを共有してはどうでしょうか。


真実な神ゆえに』 (10.4.11)

 「父の神の真実はとこしえまで変わらず・・・」賛美の一節です。私たちが信ずる神は、真実の神です。日本語聖書では、「真実」「誠実」「まこと」「真理」などの言葉に訳されていますが、ヘブル語で「エメット」、ギリシャ語で「アレーセイア」という言葉です。「愛」や「恵み」と並んで用いられることが多く、神様の重要なご性質を表す言葉です。その意味するところは、もちろん神に嘘、偽りがなく、信頼に値するということです。神が真実であるからこそ、私たちは神のみことばに信頼でき、また、「私はすべての罪を赦されました」と告白できるのです。何より、神の真実は、ことばと行い(わざ)との間に完全な一致があることを意味します。神の語られたことは、寸分たがわず実現するということです。さらに、その真実は永遠まで変わることがありません。変わらぬ真実を持ち続けることができる私たちは、なんと幸いでしょうか。また、私たちに馴染みのある「アーメン」は、この「エメット」から来ています。それは、神のみこころにただ同意するだけでなく、その通りになるようにと心から祈り、そうなるよう参与しますという告白なのです。真実な神に対して、私たち自身も持てる誠実をもって「アーメン」と告白してまいりましょう。


変えられた弟子たち』 (10.4.4)

 キリストの復活に関する証拠は色々ありますが、どんな証拠にもまして、キリストの弟子たちに起こった変化こそが、キリストの復活の事実を示していると思うのです。なぜなら、この弟子たちは、私たちと同じようにごく普通の人でした。いつも自分のことばかり考え、誰が一番偉いかと競い合うような子どものような弟子たちでした。イエス様逮捕の折には、みな自己保身のために逃げていきました。一番弟子のペテロでさえも、イエス様と自分との関係を3度も否定したほどです。みな、無学で普通の、そして臆病な人たちでした。しかし、キリストの復活後の彼らは明らかに別人のようです。死をも迫害をも恐れず、驚くほど大胆にキリストの復活を宣べ伝えたのです。もし、キリストの復活が偽りで、弟子たちの作り話だとすると、この臆病で自己保身的な弟子たちが、命がけで復活を宣べ伝えた理由がわかりません。偽りのために、それほどの力を発揮することができるでしょうか。そうではないのです。驚くべき事実が、疑いようもなく目の前に起こったからこそ、彼らはそれを証言せずにはいられなかったのです。キリストの復活が真実だった。だからこそ、彼らは一変して、臆病者から勇者へと変わっていったのです。人は、驚くべき真実の前には、口をつぐむことができません。復活は、弟子が言わなければ岩が叫ぶほどの真実だったのです。


生かされているなら使命がある』 (10.3.28)

 田淵師の前夜式に参列致しました。冷たい雨の降る夜でした。しかし、葬儀の中での説教や故人思い出を通して、主は熱く語って下さいました。生前、田淵師がよく語っていたこととして、「使命があるなら、生かされる」という言葉があったそうです。使命があるうちは、天に召されることはない。それまでは、主が地上でのいのちを保って下さるということです。もっともだと思いました。また、それは違う角度から言えば、生かされているなら使命があるのだということを覚えて、私たちは今日この日を過ごすべきなのだということです。使命感のない日々は、惰性の日々です。主からの幻も示されず、ただその日を楽しく、つつがなく過ごすだけで終わってしまうことでしょう。けれども、私たちは主キリストの尊い犠牲によって、神の国の働きに召されたのです。召された者が今も生かされているということは、そこに何らかの果たすべき使命があるのです。この地上で生かされている今はその使命を祈りながら主に聞き、主が天に召して下さる時まで使命を全うさせていただきましょう。たった一度の地上の歩み。主に「よくやった、忠実なしもべよ」と語っていただけるものとさせていただきましょう。主の御霊がその道を、その使命を明らかにして下さいます。


追突事故から、自己を知る』 (10.3.21)

 火曜日、車にて左折待ち停車中に後部から追突されました。幸いにも、子どもたちに怪我はなく、妻と私がムチウチの症状が出ている程度です。しかし、この事故にあった当初、怒りが治まりませんでした。運転手の過労などが原因ではなく、完全なよそ見運転が原因だったからです。人生で初めて、やっとの思いで購入した新車でした。それが、3ヶ月もしないうちに、事故車となってしまったのです。私は自分が一体何に怒りを覚えているのか、心を探っていました。すると、ふとヨナ書のみことばが迫ってきました。「あなたは自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたし(神)は、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と数多くの家畜とがいるではないか。」(ヨナ書4:10-11) 犠牲を払って買ったとはいえ、私はたった一台の車を惜しんでいます。しかも、乗れなくなったわけではなく、少し傷んだだけです。それに比べ、主はこの東村山の14万以上の人々のいのちを惜しまれるのです。私たちは、自分の大事な財のためではなく、人の救いのために真剣に怒り、また涙する者でしょうか。愛のない自らの姿を、改めて思い知らされたことは幸いでした。


怒ったままでいないこと』 (10.3.14)

 怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26-27) 聖書の中では、怒りそのものが罪であるとは教えていません。時には、悪や罪に対する正義の怒りというものがあります。ですから「怒り」がどこから来るのか、その動機が問われるのです。そして、もう一つ。怒りを持つこと自体が罪ではないとしても、怒っている状態は罪を犯しやすい状態なのだということです。人は、怒りに燃えるとき、感情的になり、自制できなくなる傾向があります。私たちは、自分自身がそれほど強くない者であると自覚し、自らを悪魔の誘惑から遠ざけるよう意識することが必要です。ですから、このみことばは、「憤ってはいけない」ではなく、「憤ったままでいてはいけない」と語ります。それは、悪魔に弱点をさらずことだからです。私たちも様々な場面で怒りを覚えることがあります。そのときには、すぐに神様に祈り、御霊の冷静さをいただきましょう。怒りは、神様の義を実現する道ではありません。神に祈り、また友や家族に分かち合い、怒りを治めていく助けをいただきましょう。


小さな意見を大切に』 (10.3.8)

「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」(ローマ14:1) 教会では、色々な信仰の段階の人がいます。求道中の方、救われて間もない方、洗礼を受け何年かの信仰生活を歩んでいる方、そして何十年という信仰歴を持つ方。また、必ずしも時間の長さに限らず、その人その人の信仰のステップがあります。そのようなキリストのからだである教会において、私たちはお互いの信仰の弱さをどのように受け入れているでしょうか。自分の弱さを受け入れてもらうばかりではなく、他の人の弱さを受け入れることはとても重要です。信仰歴が短いとか、まだよく分かっていないということで、その人の意見をさばいてはいけないと神様はおっしゃっています。たとえ未熟であったとしても、神様を愛し、隣人を愛する思いから出てきている意見を、たとえまたそれが少数であったとしても、愛をもって尊重し、学び合っていくことを神様は望んでおられるのです。信仰の強い人、また社会的立場の強い人の意見だけが通るような教会にならないよう、ひとりひとりの小さな意見を大事にしていける教会を目指してまいりましょう。


やわらかい心で』 (10.2.28)

 聖書の中に「うなじがこわい」という表現があります。それは、うなじが硬く、強情でなかなか首を縦にはふらないという意味です。つまり、心がかたくななので、神の語りかけになかなか「はい」とうなづかないということです。神様は、私たちのために素晴らしい計画を持っておられます。そして、すべてのことを働かせて、私たちをその恵みにあずからせたいと願っているのです。けれども、私たちの心がかたくなで、神の語りかけに応答しないために、その恵みをどれほど受け取らずに過ごしてしまっていることでしょうか。ですから、私たちはその硬い心を持っていることをまず自覚し、神様の御手でやわらかくほぐしていただきましょう。素直なやわらかい心で生きるときに、神様の御手の中で自由に形造られ、新しくされ、キリストの姿へと近づけていただけるのです。そのために必要なことは、自分自身が神様によって造られた土の器であることを知ることです。そして、神様だけがこの土の器を輝かせるお方であることを信じることです。そして、心から神様に祈りましょう。「どうか、この私のかたくなな心を砕き、やわらかい心を与えて下さい」と。


近くなった神との距離』 (10.2.21)

 旧約時代、一般の信徒は父なる神様と直接語り合うことはできませんでした。祭司や預言者などの一部の選ばれた者だけが、神様から直接みことばをいただくような時代があったのです。神様はあまりにも偉大で、また聖なるお方であるゆえに、神を直接目視すれば滅んでしまうという恐れさえ抱いたほどです。しかしながら、そこに素晴らしい仲介者、真の大祭司キリストが来られました。キリストは、私たちと聖なる神様との距離を一気に縮めて下さったのです。キリストの十字架の購いによって、私たちは天の聖なる神様を、「アバ、父」と呼べる者とされました。すなわち、神の子とされたのです。「アバ」とは、幼子が心から信頼を寄せる父親のことを、「お父ちゃん」と呼ぶような親しい呼び方です。私たちは神様の偉大さを覚えて、ひざまずき、神を恐れる必要があるとともに、御子キリストを通して、父なる神の恵みの座に親しく歩み寄ることのできる者とされました。なんという恵みでしょうか。万物の創造主、主の主、王の王である神様にこれほどまでに親しく語りかけ、交わり、祈ることができるとは。それは人の努力、宗教行為では決してなしえなかったものです。主キリストの十字架の購いを信じる信仰によってのみ与えられた恵みなのです。


キリストとの一体性』 (10.2.14)

 キリストを信じる者が、どのようにされているのか。そこで最も重要で、それでいて正しく受け止められていないことがあります。それは、キリストとひとつにされているということです。罪が赦されたとか、神の子とされた、あるいは永遠のいのちをいただいたなど、色々な側面から救いを語ることができるでしょう。しかし、キリストと私との一体性をはっきり宣言できるキリスト者はそう多くはないのではないでしょうか。パウロがガラテヤ2:20で語っているように、もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。キリストが父なる神から様々な栄誉を受けているように、一体とされている私たちもそれを受ける者とされているのです。キリストこそが御国の相続者であるゆえに、私たちもまたキリストにあって御国の相続者なのです。キリストが勝利者であるように、私たちもまたこの地上ですら勝利者なのです。それゆえに、自らの心や肉体を罪のためにささげることは、キリストご自身を汚すことになることもまた事実です。もはや、私たちは切っても切れないほどの一体性をもって、キリストとともに歩んでいることを決して忘れてはいけません。キリストの心を私の心として歩める恵みに感謝し、歩んでいきましょう!


みことばを素直に受け入れる』 (10.2.7)

 私たちの心は、神のみことばに対して素直でしょうか。もしかしたら、様々な「疑い」でに支配されているようにも思います。その疑いは、不安、心配、深い心の傷から来るのかも知れません。しかし、あるディボーションの本にこうありました。「信仰とは、神のことばを、神のことばであるがゆえに、ありのままで受け取り、それに基づいて行動することを意味する」と。偽りの多い世界であるからこそ、完全に偽りなき神のことばを、心から信頼して歩めることがどれほど幸いなことかと思います。ヤコブ1:21にこうあります。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」私たちの心の中に、この世的な汚れた言葉を住まわせるのではなく、神のことばを豊かに住まわせ、そのみことばを素直に受け入れ、そこに従うこと。愚直と言われようとも、時代がどんなに変わろうとも、私たちはこの真実な信仰の歩みを忍耐深く続けてまいりましょう。


私たちには何もないのか?』 (10.1.31)

 牧師として歩んでいる中で、様々な人生の問題についてご相談を受けることがあります。そんなとき、何か少しでも助けになればと願うものの、実際には何の助けも提供できず、無力さを痛感することも少なくありません。しかし、無力な自分を誠実に受け止めたときに、はじめて私たちのうちにある輝きに気づきます。主イエス・キリストです。「美しの門」と呼ばれる場所に、体の不自由な物乞いが座っていたという記述が使徒3章にあります。彼は宮に出入りする人々の施しで、毎日生きながらえていました。そこには何の希望もありませんでした。実際、人々は彼をあわれみの目で見ることはできても、具体的に助けることなどできませんでした。しかし、主の弟子ペテロやヨハネらは、この物乞いに何を言ったのでしょうか。「金銀は私にはない!」と言いました。それは、無力な自分を率直に述べた言葉でしょう。けれども、彼らはそれで終わりません。「金銀はないが、私にあるものをあげよう!」 そう言って、キリストの御名を掲げたのです。私たちには何もないと思えることがあります。無力さを痛感します。しかし、本当はそうではないのです。キリストを信じた私たちは、ただそこにいるだけでもキリストの香りを放ち、その輝きを持っているのです。


主に喜ばれる礼拝者として』 (10.1.24)

 旧約聖書を味わう中で、聖なる神への礼拝とは、何だろうかと改めて考えさせられます。私たちは、神を礼拝するために教会に集います。しかし、多くの場合、神を礼拝するという真の目的からそれ、「神の恵みを受ける」ことが、第一の目的となっていることがあります。けれども聖書は、自分を喜ばせる生き方から、隣人を愛し、そして神を愛する生き方へと私たちを導いているのです。そして、真に神を礼拝する者は、そこで神の臨在に触れることができ、その魂は喜び踊り、その霊は不思議に燃やされるのです。特に旧約の礼拝では、「ささげる」ということが中心でした。神の定めた幕屋や祭壇を築き、神の命令どおりに「いけにえ」をささげる。一切を神が望まれるとおりの方法で行う。つまりそれは、自分勝手な礼拝の方法ではないということです。ですから、礼拝を「行っても行かなくても良いもの」だと考えるべきではありません。家で自由に礼拝していればそれで良いという発想をすべきではありません。私たちの全生活と礼拝の主権者が神であることを認める、つまり神を恐れるという姿勢こそが、まず主に喜ばれる礼拝者となるために必要なことなのですから。


私たちの悲しみ』 (10.1.17)

 どんな人であろうとも、「悲しみ」という体験をします。それは避けることができません。しかし、何について悲しむか、どのように悲しむかについては、私たちキリストにある者は、他者と異なるように思います。キリストを信じたからと言って、悲しいことがなくなるはずもありません。しかし、その悲しみをどのように受け止め、乗り越えるのか。それについて神様からの知恵と力、助けが豊かに与えられているのです。そして、何について真に悲しむべきなのかを神から示されます。それは、自分の罪深さと、世界中の人々の不幸のゆえに悲しむことです。他の人のために悲しむ者となるとき、私たちは自己憐憫や自己愛にとりつかれることから、解放されていきます。世の中には、もっと悲しんでいかなけえばならない重要なことがたくさんあります。罪の影響により、滅びに向かう人々のために悲しみ、祈る。愛に飢え渇いている人々を悲しみ、そのために祈る。そのような悲しみの重要性を、私たちは知るべきです。そして、その悲しみが、悲しみで終わらないとことを知っているのもキリスト者です。キリストの十字架によって、罪から解放される道が備えられました。私たちの悲しみは、救いの望み、天国の希望で満ちた悲しみなのです。


愛をもって真理を語るとは』 (10.1.10)

 私たちは時々、主のみこころに沿った真理を語らないといけないことがあります。自分の心の中に、神様からいただいた確信があり、それを語るべきではないかと強く示されることがあります。特に、ある人が罪を犯しており、本人がそれを認められないままで過ごしているとき、誰かがその人をさとすということが必要です。それは決して容易なことではなく、語る方も傷つくことを覚悟しなければなりません。多くの場合、自分の言葉で誰かが傷つくならば、その人自身も深く傷つくからです。しかし、愛をもって真理を語るというときに、第一のことは、自分を犠牲として献げることが必要です。自分を守るための発言に愛はありません。第二のことは、その人の最善を願う思いがあることが重要です。祈りながら、その人が神様のいのちに至る道に進めるよう、必要な真理を語るということです。罪について、神のさばきについて語るとき、私たちはまさに愛をもって語らなければならないでしょう。反発され、嫌な顔をされれば私たちも悲しい思いになります。しかし、罪と神のさばきを知る中で、その人が神の愛を知り、真に悔い改めの実を結べるのならば、天まで続く永遠の友を得たということになるのです。


神の子として』 (10.1.3)

 父なる神様は、ご自分の子キリストのバプテスマの時に「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」とおっしゃいました。このように宣言するほどまでに、ひとり子を深く愛しておられた父なる神様でした。しかし、その大事なひとり子をさえ惜しむことなく与えるほどに、私たち人間を愛しておられるのです。誰でも、この神の子イエス・キリストを信じるならば、その人もまた「神の子」とされる特権を神はお与えになりました。キリストに留まる者は、「神の子」なのです。他の人がどう評価しようと、キリストを信じる者は、「神の子」なのです。私たちは何者なのか?という問いに、私は「神の子」ですと胸を張って言えるのです。それは、神の子になる努力を要することではなく、ただただ神様が私たちを愛するゆえに、「神の子」とされているのです。ですから、愛する子に父なる神は、本当に必要なものを下さいます。時には、厳しい試練を通して、子を訓戒し育てるでしょう。でも、そこに深い愛があることを知っているならば、そこに助けも用意されていることを知るならば、試練との向き合い方も変わるのです。新しい年の初めに、私たちは、「神の子」とされていることを覚え、父なる神との親しい交わりの中で新しい年を歩んでいきましょう。


一年を振り返る恵み』 (09.12.27)

 この世では忘年会で忙しい季節です。しかし、神を信じる私たちは、年を忘れるよりも、その年の恵みを振り返り、恵みを数える歩みをしたいと思うのです。この一年を振り返り、どのような一年を過ごしてきたでしょうか。わりと平穏な一年だったという人もあるかも知れませんし、激動の一年であったと振り返る人もいることでしょう。しかし、どのキリスト者にも共通していること。それは、「インマヌエル」の主がともにおられたということです。「インマヌエル」とは、イエス様の呼称の一つで、「神は私たちとともにおられる」という意味です。どんな試練のただ中を通っているときでも、キリストを信じる者は、たったひとりで闘っているのではありません。その中でともに痛み、ともに苦しみ、ともに涙して下る主が一緒に闘って下さるのです。私たちは、その恵みを思い返し、今日まで守られてきたことを感謝しましょう。そしてまた、今はまだとても感謝などできないような事もあるはずです。けれども、やがてその憂いが、感謝へと必ず主が変えて下さることを信じて、期待しつつ、新しい年に向かっていきたいものです。主は、召された者のためには、すべてのことを働かせて、益として下さるからです。


寄り添って下さる救い主』 (09.12.20)

「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。」(ヘブ2:17クリスマスに起こったこと。それは、聖なる全知全能の神様が、私たちと同じ有限でちっぽけな人間となられたということです。「主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした」とあるように、私たちをご自分の兄弟とし、私たちと同じ人間の姿をとられたのです。そして、罪に対する神のさばきへのなだめをするために、十字架へと向かわれたのです。これほどに私たちの近くに寄り添って下さる神様は、他のいかなる宗教の中にも見ることができません。誰もが自分の立場からしか物を見ない時代にあって、神である方が自分の立場を捨てて、私たちと同じところに立って下さり、痛みも悲しみも苦しみも、弱さまでも共有して下さり、そこで救いを成し遂げて下さったことは、なんという神様の深いご計画でしょうか。私たちのすぐ隣になって、肩を支え共に歩む救い主。それがキリスト・イエスなのです。


別の道から帰る』 (09.12.13)

 キリストが生まれたとき、東方から博士たちがやって来ました。彼らは最初、幼子であるキリストを探すために、当時のその地域を治めていたヘロデ王を頼りました。しかし、その後、彼らは星の導きと聖書のみことばによる導きによって、生まれたばかりのキリストのもとに行くことができました。そして、この出会いが彼らを変えたのです。博士たちは、ヘロデ王のもとに戻って、キリストの居場所を知らせることになっていました。しかし、夢の中で戻ってはいけないとの導きを受け、彼らはそれに従い、キリストの側で歩むことにしたのです。元来た道とは、「別の道」から国へ帰って行って行きました。今日、礼拝に集われた皆さんも、このクリスマスに神のもとに招かれ、イエス・キリストを少しでも知ったならば、来たときとは、「異なる心」で帰って行かれることと思います。それはなにか、「人生における新しい別の道」を歩み始める出来事のようであるかも知れません。暗闇を照らすまことの光であるキリスト。彼を信じるならば、もはや暗い闇路を歩むことなく、「光の道」を歩むことができる。これが聖書の救いの約束なのです。


あなたの人格を尊ぶ神』 (09.12.06)

 私が信じる神様について、本当に素晴らしいと思っている部分。その一つに、各人の人格を尊んで下さるということがあります。私たちには、それぞれ個性的な人格があります。心地よいと感じるもの、不快に感じるものも、好き嫌い、考え方、感じ方、得意不得意、必要な睡眠時間の違いまで色々な人格的な違いがあるのです。神様はそれぞれに個性を与え、その生き方の中に、自由自在に関わって下さるお方。私たちを枠にはめることを好まず、むしろ、各人の人格を尊重する中で、ご自分のみこころに生きて、幸せな歩みができるようにと願っています。時々、「神様はなぜ、その人の選択を無視して、すべての人を救わないのか?」という声を聞きます。その声は、かつての私の声でもありました。でも、よくよく考えてみると、その選択を無視するということは、「救いの押し売り」になるのではないでしょうか。何より「愛」とは、強制的な人格を無視したものではありません。すべての人が招待されている。でも、その招待に応じるかどうかは、その人に任せている。ただ、神様はずっとずっと、あなたがその招待に応えて素晴らしいパーティに集うことを、誰よりも心待ちにしている。それだけは、はっきりしています。


川越福音自由教会での交わり』 (09.11.29)

 金曜日に、川越福音自由教会を訪問し、会堂見学と野瀬先生ご夫妻とのお交わりの時間をいただきました。感銘を受けたことは、お年寄りや子どもたち、体の不自由な方に優しい造りであるということです。手すりの高さや配置、バリアフリー、エレベーター、音響など、どれも年配の方や体の不自由な方への配慮の中で造られていることを知りました。また、教会は火曜から土曜まで、地域の子どもたちに解放されています。学校から帰ると、小学生、中学生が教会に遊びに来ます。卓球台、ボードゲーム、たくさんの本、漫画、お菓子・・・子ども達はそこで一緒に遊び、あるいは宿題をし、自分たちの居場所を持てているようです。多いときには、平日の午後に小学生20名、中学生20名ほどが来ると聞きました。地域に根ざし、人々の憩いの場所として教会が認識されていることを感じます。私たちが目指している教会も、子どもからお年寄りまでが、いつでも気軽に来られるような教会です。心がほっとする「憩いの水のほとり」になることを心から願っています。教会のためにそのような祈りをささげていきましょう。


神を恐れる姿勢から、信仰の継承が始まる』 (09.11.22)

 「神を恐れることは知識のはじめ」と箴言にあります。どんなに学校の勉強に励んだとしても、その造り主である神様を知ることがなければ、その知識はむなしいものとなるでしょう。すべての知識は、この世界を造り、維持しておられる神様から来るのです。しかし、神を恐れるとは、どういうことでしょうか。それは神様こそが、最高のお方であると尊び、最高の価値を実際において生きるということです。教会においても、家庭においても、学校や職場においても、そこに神様が確かにおられ、権威をもってそこで働いておられることを信じ、この方を第一として生きていくことです。ペットは、その家で最も偉い人物を見極め、その人を主人として従うと言われます。家庭や学校、職場において、私たちが誰に従っているのか。その姿勢を、周りの人々は見ているのです。自分自身に従っているなら、子どもたちも自分の思いのままに生きる価値観を学ぶでしょう。しかし、家でも、どこに行っても、最も偉大で最も素晴らしいお方は神様なのだという価値観の中で親が生きているならば、子はその姿から、どれほど神様が素晴らしく、尊ばれるべきお方なのかを知ることでしょう。神を恐れることから、信仰の継承が始まりまるのです。


開拓のスピリット』 (09.11.15)

 111日に行われた世界宣教大会では、吉田師を通して、弱い者を主はお用い下さること、開拓のスピリットを持ち続けることを学ばせていただきました。教会が整えられ、しっかりとした形を持つようになって行くときに、開拓のスピリットはどこかに消えうせてしまうことがあります。しかし、新しい教会を生み出し、より多くの人にキリストの愛を知ってもらう。それが教会の中心的な使命です。そのときに、自立していける立派な教会を建てることも重要ですが、自立が難しいような地域にも教会が必要です。そこに犠牲を払って、福音の種をまくことも尊い神の働きです。効率や合理性、成功するか否か・・・そういうことにばかり目を奪われれば、私たちは神様の霊的な働きと、ひとりひとりの「霊的ないのち」という、最も大切なものを見失うのではないでしょうか。私たちもまた、会堂を建設するにも、様々な集会やプログラムを行うにしても、キリストをまだ知らない人々がその素晴らしさを知っていける機会として、人のいのちを助ける働きとして、喜んで犠牲を払いたいものです。小さな教会ですが、まだ福音を聞いてない人々に、キリストの愛を届けていくことを大事にし続ける、開拓スピリットを失わない群でありたいものです。


どんなプログラムよりも』 (09.11.08)

 先日の世界宣教大会は、幸いな時でした。午後には、バーメイ先生と吉田先生がそれぞれに、ご自分の伝道と教会形成についてお証し下さいました。主の素晴らしいみわざをほめたたえたくなるひと時でした。バーメイ先生は、日本の様々な地域で30年以上もの長きに渡って、色々な方法を用いて伝道し、教会形成に携わって来られました。そしてもし、もう一回30年の働きをすることを主が許されるならば、 どのような働きをするか以上に、「祈り」を大事にしたいと強く語っておられました。本当に様々なアイディアで伝道をしてきた中での結論がそれでした。どのような素晴らしいプログラムをするかよりも、よくよく祈ることこそが、主の働きの秘訣であるということです。祈りの中で準備され、祈りの中で働きがなされる。私たちの働きも、「祈り」より会議に多くの労力が割かれているように思います。むしろ祈りの中で主のみこころを求め、主から押し出されるようにして、その働きに携わることを改めて教えられました。まずは、祈ることから始めていきましょう。


ただ一つの神の働きに召されている』 (09.10.25)

 世界中には、様々な教会や宣教団体、キリスト教団体があります。その働きはみな違っていて、そこに集まる人々も違っています。それぞれに得意な分野もあれば、不得意な分野もあります。強調点も違い、神からの賜物も違っています。しかし、これらの様々な働き、奉仕、賜物はみな、ただ一つの目的のためだけに、用いられるべきです。それは、歴史を越え、地域を越える神の愛の働きを前進させ、神の栄光を表わすためです。しかし、私たちひとりひとりは、大きな組織の中で何をしているのかもわからず働く歯車でも、使い捨てのコマでもありません。神様がまず、私たちひとりひとりを愛し、そのために御子のいのちの犠牲を払い、その働きに招いて下さったのです。互いに比べあい、優劣をつけるような生き方から解放されましょう。全世界でたった一つの愛のジグソーパズルの完成のために、あなたが持っている1ピースがなくてはならないのです。決して欠けてはいけません。キリストのからだに属する、大事な器官として、あなたは今日も神様からお声をかけていただいていることをどうか忘れないで下さい。


納得しやすい教えが正しい?』 (09.10.18)

 私たちは、「わかりやすいこと」、「納得しやすい内容」、「心地よく響くもの」などを、そのまま無条件に、これこそが正しい真理だと考える場合があります。誰でも、自分の持っている感性や価値観と一致したり、そこに大変納得のいく内容であったりすると、それは心地よいものであり、それこそが真理だと思い込む傾向があります。ですから、心地良くても悪くても、納得がいってもいかなくても、真理は真理として存在するということを覚える必要があります。聖書はなんと言っているのでしょう。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Uテモ4:3,4) それゆえに、一つ前の42節で、みことばをのべ伝えよと語っているのです。それは、人が納得しやすいように曲げたり、オブラートに包まれたものではなく、まっすぐなみことばの説き明かしであり、混ぜもののない純粋な福音です。真理は心地よいだけではなく、時に私たちの心を鋭くえぐるものです。みことばをまっすぐに語り、また受け入れられるよう祈り求めましょう。


先を見据えて歩む大切さ』 (09.10.11)

 私たちは、聖書からその日その日を大切に生きることを教えられています。しかし、それは決して目の前のことだけを考えて生きよというメッセージではありません。むしろ、将来をしっかりと見据えた上で、今日どのように歩むのかを説いていると思うのです。ヘブル11章では、信仰の先達たちが将来のことを神様に信頼し、そこを見据えながら信仰の生涯を終えて行ったことが語られています。また、フィンランドでは、教育に多くの犠牲と資金をある時から投資しています。その時には、そのような経済的支出はできないとの判断もありました。けれども当時の教育担当者は、今は大きな犠牲であっても、後に十分な教育を受けた者たちが国を担うようになり、投資した以上のものが返ってくることを説き、その政策を進めました。結果、フィンランドは世界で最も優秀な国として成長しています。私たちも、目先のことだけで判断すべきでありません。5年後、10年後、その先の姿をイメージしながら、今の時にすべきことをしましょう。神の永遠の視点に生き、新しい世代、さらに次の世代を育てつつ、歩んでいきましょう。


生まれもってのもの』 (09.10.04)

 私たちの人格には、生まれもってのものと、後から環境の中で培われた部分とがあります。子どもたちを見ていると、それがよく分かります。子どもカウセリングの世界では、「生まれもっての育てにくさ」という表現があります。私たちは子のしつけがなってないのは、すべて親の責任だと考えがちです。しかし、「すべて」ではないのです。生まれもって、気性が激しい子、神経質な子、じっとしていられない子、病弱な子などがいます。これは、親や環境のせいだけにできないものです。大事なことは、それらの生来与えられているものを、神様からいただいているものとして、受け入れることです。それは、大人においても同じです。生まれもってのもの、それは成長する中である部分は変えられていくでしょう。けれども、以前として残っているものがあります。それは、決して悪いものではなく、それらをひっくるめて自分自身なのであり、それを神様が用いて下さることがあるのだと信じることが必要です。なぜ、自分はこうなのか・・・と責めるのではなく、与えられているものをどのように神様におささげできるのか、そこに私たちの関心を持っていたいものです。その時にこそ、私たちは美しい輝きを放つのではないでしょうか。


良い話の聞き手になる』 (09.09.27)

 人間関係をより良いものにするために、聞き上手になっていけたら素晴らしいと思います。ところが、私たちにはつい無意識のうちに行ってしまう悪いクセがいくつかあります。第一に、アドバイスを求められていないのに、勝手にアドバイスをすることです。私たちは、人が悩みや辛いことを話して来るとき、何か気のきいたことを言わないといけない、役に立つことを言わなければいけないと思いがちです。しかし、これは間違いです。大事なことは、「そうなのですね・・・」と聞いてあげることです。その痛みに寄り添うことが「あわれみ」なのです。アドバイスは、相手が「どうしたらいいと思う?」と求めて来たときに、答えれば良いのです。第二に、質問しすぎないこと。できる限り、本人が自発的に話せるように助けてあげるのが聞き上手です。そうでないと、自分がまだ話せる段階でないことまで、質問されて、嫌な思いをするということがあります。詮索されたような気持ちになると、かえって傷つけてしまいます。私たちは、自分を愛するのと同じように隣人を愛すべきですから、自分が実際にされたら嫌だと思うことを避け、相手の立場を十分に考慮しながら、愛のある聞き上手になっていきたいものです。


他の人に助けを求める愛』 (09.09.20)

 日本人はとかく、他の人に迷惑をかけないように生きようとします。それが、その人のやさしさでもあり、真面目さのあらわれでもあります。私自身も、他人に任せきりにしたり、助けを求めたりすることは得意ではありません。しかし、聖書を味わう中で、神様は人間の助けなど必要ないにも関わらず、わざわざ人間を通してご計画を進めようとされました。それもまた、「神様の愛」なのだと改めて知るこの頃です。人に助けを求めることや、ゆだねるということは、実はその人を信頼していることの証しでもあります。また、その人が活躍する場を提供することにもなります。一緒にやっていくことで生まれる良いものもあるでしょう。人は、誰かの役に立っていると思うとき、嬉しくなるものです。私たちはもっと、他の人に任せ、ゆだね、あるいは助けを求めることを、肯定的なものとして受け止めても良いのではないでしょうか。迷惑かもしれないとの発想が悪いとは思いません。けれども、他の人が活躍することで得られる喜びの機会を奪わないでいることも、愛の行為なのです。「あなたのおかげでとても助かりました、ありがとうございます。」 そのように心から声をかけ、助けを積極的に受けることも聖書が教える愛なのです。


個人礼拝(ミニ礼拝)のススメU』 (09.09.13)


 先週に引き続き、個人礼拝(ミニ礼拝)のお奨めをいたします。これは、私たちの日々の霊性を保ち、豊かにするための一つの方法です。賛美の選曲に関しては、自分が愛唱しているものの中で、神様に目を注ぐことができる内容のものがいいでしょう。ディボーションのときにも、それを歌ってから始めることができます。私は「あなたこそ私の主」という詩篇16篇をもとにした賛美をこのミニ礼拝の賛美にしています。「あなたこそ私の主。あなたのほかに幸いなし。御前には喜びが満ち、あなたの右には楽しみがある。語ってくださいあなたのみむねを、教えてくださいみことばにより。」私たちにとって、いつでも神様を「私の主」と告白することが大事です。そして、このお方を離れては、どんな喜びも楽しみもなく、この方こそ私の幸いなのだと告白するのです。最後に主よあなたのみむねを教えて下さいと祈り求めています。賛美の後、主のみことばを「読む」のではなく、味わいます。ミニ礼拝では、できるだけ言葉を全部覚える必要があります。そうでなければ、「どこでもいつでも!」は難しいからです。自らの心をいつでも神様のみこころにセットできるようなみことばを自分のもとして、毎日味わえるようにしてみましょう。


個人礼拝(ミニ礼拝)のススメT』 (09.09.06)

 私たちはまず、日曜日に神様を教会で礼拝します。そこで神様の愛と真実なみことばを聞き、心に恵みを持ち、生きる指針をいただいて、新しい週にのぞみます。礼拝で心も体も強められて、新しい週を始めていけるのは、なんという幸いでしょうか。一週間の過ごし方がまったく異なって来るのです。しかし、そこで受けた恵みも忙しい日々の雑務やプレッシャーに追われるときに、薄れていき、自らの心が弱ってくることを感じます。どのようにして、神様との深い交わりの中に自分を保ち、穏やかに過ごせるのでしょうか。ある研修で「ミニ礼拝」というものについてお聞きしました。ほんの数分で持つことができる礼拝式を自分で作り、いつでもどこでも時間があるときにそれをしていると言うのです。満員電車でも、家事の合間でもいいでしょう。はじめの言葉、心を神様に向けられる賛美の1節、みことばや信仰者のことばなど。それらで式文を構成し、同じ式で続けていくのです。見ないでもできるようにすることで、どのような機会にもそれを持てるようになります。戦いの多い、忙しい日本社会です。いつでも主の御翼の陰に隠れられるような備えをしましょう。そのひとつとして、個人礼拝(ミニ礼拝)をお勧めします。


カナダより帰国して』 (09.08.30)

 3週間、日本を離れ、カナダの地にて歩んで参りました。月並みですが、カナダにて感じたことは、自然や空気がきれいなこと、時間的に誰もがゆとりをもって生活していること、人との交流を楽しんでいることなどです。今挙げた3点は、実はどれも互いに関係しているように思います。空気がきれいなので、空や山々の美しさを楽しめる。時間的にゆとりがあるので、自然をエンジョイし、人との交流の時間を十分に確保できる。そして、人との交流を楽しむとき、自然をともに楽しみ、生活全体にゆとりができてくる。日本では、この3つがすべてカナダに劣っているように思います。カナダという国ではおそらく、意識的にこれらのことを大事にしているのです。さて、世界を造られた神様は、どうお考えでしょうか。人を楽しませ、神の偉大さを教えるために素晴らしい自然を造られました。人が心も体も休めるようにと安息日を設け、その日は仕事をしないようとされました(カナダでは日曜日はお店が休みか、営業時間が短い)。神様は、人がひとりでいるのは良くないとおっしゃって、人がともに集まり、交わることを、必要不可欠で有意義なものとしてお定めになりました。日本の国のために、もっと祈らなければなりませんね。


三位一体の交わりを目指して』 (09.08.02)

私たちの信じる神様は、父、御子、御霊の三位一体の神様です。三つの別人格をお持ちでありながら、その親しい交わりにおいて、完全にひとりの神となっているのです。教会における信徒の交わりは、そのような三位一体の神の姿にならい、またその交わりを目指していくのです。私たちは神のかたちに創造されているので、そのような神の姿にならい一致していけるときに、大きな喜びを体験するのです。聖書では、教会は「キリストのからだ」であると強調されています。各人はからだの各器官であり、みなでひとつのからだを形成している統合体なのです。からだの中に分裂がなく、それぞれに与えられている個性を、同じ主の福音のためにささげていくときに、そこに有機的なつながりと一体性が生まれるのです。同じ主のみことばから教えられ、一緒に集まって祈り、恵みを分かち合っていく。そのようなときに、そこに美しいキリストのからだが完成し、また三位一体の神の姿が私たちの交わりの中に映し出されていくのです。互いに尊敬し合い、互いに赦しあい、互いに愛し合っていきましょう。同じ主を信じる仲間、家族であることを大事にしていきましょう。


キャンプならでは!』 (09.07.26)

 この教会創設以来、初めてのCSキャンプを持ちました。15人の子どもたちが参加しました。準備は大変でしたが、祈りつつ、神様に期待してのぞんだキャンプでした。キャンプでは、普段は見ることのできない子どもたちの表情を見ることができました。自然の中に来て、楽しくゲームをし、一緒に遊びながら、徐々に心が開かれていったのではないかと思います。そして、子どもたちが食い入るようにメッセージを聞いている姿が印象的でした。自分たちのために、このキャンプが用意されている!そのことを彼らは体で感じ取ったに違いありません。子どもたちにとっては、大人が一緒に遊んでくれるということが、とても嬉しいこと。一緒に遊び、接しているなかで、子供たちはその人の人格を通しても、愛とまことの神様の存在を体全体で感じるのだと思います。大人が一生懸命自分たちのために奉仕してくれている。向かい合ってくれている。もしかすると言葉以上に、その姿勢が子どもたちの心に伝わったのではないでしょうか。現実の生活に帰って来た私たちです。これからの日々、子どもたちの心にしっかりと福音の種をまいて、大事に育てていきたいものです。


人間とは』 (09.07.19)

 聖書が語る人間の姿。それは、この世界で理解されている人間の姿とは、必ずしも同じではありません。むしろ、大きな違いがあるのではないでしょうか。第一に、聖書は人間を、神のかたちに似せて造られた存在として語ります。人が勝手に存在しているのではなく、神様から造られた存在であり、しかも神と交わることのできる存在、この世界を正しく治める存在、道徳的な存在として造られたのです。しかし、人は罪を犯し、堕落してしまいました。第二のことは、人とは罪によって堕落してしまった存在であるということです。そのことによって、人は神の栄誉を受けられず、すべてではないにしても本来の神のかたちを失ってしまっているのです。つまり、聖書はすべての人を、生まれながらにして罪人であると語るのです。けれども、人は神様に愛されている存在です。ゆえに、第三の真理として、聖書は人が救いの望みを持った存在であると語るのです。救われるに値しないと思われるような、罪深く小さな存在である私たちです。しかし、主はこのような者に目を留め、心を留めて下さいました。そして、その救いのために御子をも惜しまずに与えて下さったのです。人は、キリストにあってはじめて、本来の神のかたちを回復し、人間のあるべき姿で歩むことができるのです。


神様が求めていること』 (09.07.12)

 時々、キリスト信仰は、未信者の方から、堅苦しいとか、戒律を色々守らないといけないから大変だと見られていることがあります。そして、自分のようにいい加減な人間や、汚れた者が教会などに行って良いのだろうかとも考える方もあります。しかし、神様が私たちに求めておられる最良なことは、何か立派な生き方をすることではありません。神様と一緒に歩むこと、ただそのことに尽きるのです。神様が望んでいること、欲していることは、多額の献金とか、熱心な奉仕とか、慎ましい生活それ自体ではないのです。それらの主体である私たち自身を、神様は求めているのです。実は、それらのことをしていなくとも、むしろ罪深く汚れただらしない歩みをしている最中であろうとも、神様は、ご自分のもとに私たちがいることを一番喜んで下さるのです。そのままの私たちの姿で、神様のもとにいること、一緒に歩むこと、これがキリスト信仰の真髄です。ひたすら主なる神様と親しく心を通わせ、ともに歩むことこそ神様が私たちに望んでおられることなのです。それを知った人は、地上で最も幸せな人にちがいありません。


聖霊と悪霊』 (09.07.05)

 聖書には、聖霊や天使という霊的な存在とともに、サタンや悪霊という存在をも記しています。そして、この聖霊のみわざと、悪霊のわざとを正しく見分け、理解すること方法も知っておきたいものです。イエス様がある人にとりついている悪霊を追い出したとき、パリサイ人らは言いました。「あいつは、悪霊の親分を使って、悪霊たちを追い出している」と。イエス様は、このことを、聖霊を汚す罪であると指摘しました。イエス様が聖霊の力によってなしたわざを悪霊のわざだと主張するなら、イエス様の十字架による罪の赦しも受け取れません。一方で、悪霊が聖霊を装って、人を惑わすケースがあることも知っておきましょう。エジプトの呪術師たちは、モーセが信仰によってなした、杖を蛇に変えるという奇跡を、悪霊の力を借りて同じようにやってみせたのです。現代でも、悪霊による魔術的なものを、聖霊の働きであると主張し、人々の関心を集める人々もいます。しかし、私たちは聖書から、この両者をはっきりと見分けることができるのです。聖霊はキリストの栄光を表わし、神の主権を尊重します。また、そこには「愛」があります。しかし、悪霊は自分の栄光をあらわし、人間をほめたたえるように導き、人々を神の主権から遠ざけようとするのです。ですから、いやしや奇跡などの現象だけで見分けるのではなく、そこで誰があがめられ、尊ばれているのかに注意を向けましょう。


問う者から、問われる者へ』 (09.6.28)


 私たちは信じる以前、あるいは信じて間もない頃、神様に問いかけることの多かった者だと思います。「あなたは本当の神なのですか?」、「なぜ、こんなことをなさるのか?」、「いつまでですか?」、そのような問いを神様に向かってなします。これらの問いも、私たちが神様を知る過程で必要なものかも知れません。けれども、何か私たちを神様より上に置いて、「私のこの問いに答えよ!」と問うようなことは間違っていると思うのです。ちゃんと答えてくれないなら、私はあなたに従わない・・・といった考えさえ、私たちの内に起こりえるのではないでしょうか。しかし、主なる神様を知っていく中で、私たちは徐々に、気づかされていくのです。私たちは神に問う側ではなく、神から問われる側なのだと。「なぜ?」「いつ?」、それらのことは、すべて主権者なる神様のみがご存知であれば良いこと。聖書に書いてないことは、私たちが知らなくて良いと神様がお定めになったこと。むしろ、私たちはへりくだって、神様からの問いかけに耳を傾けるべきなのです。「あなたはどこにいるのか?」(創世記3:9)、「あなたがたはわたしを誰だと言いますか?」(マタイ16:15) 、「あなたは私を愛するか?」(ヨハネ21:15)・・・ 主は、今日も私たちに静かに問いかけておられるのです。


大祭司、弁護者なるキリスト』 (09.6.21)

約二千年前、キリストは人となって来られ、十字架に死なれました。その死は、私たち罪人のための身代わりの死であり、死から三日目の復活は、私たちへの永遠のいのちの保証でありました。その時点で、罪の赦しと永遠のいのちの付与のみわざがなされたのです。けれども、キリストはその後、何もせずに休んでおられるのでしょうか。天に昇られたキリストは、今もなお、私たちのために生きて、自らをおささげ下さっているのです。第一にキリストは、いと高き大祭司として、ご自分を信じる民のためにとりなしておられるのです。このお方のとりなしのおかげで、私たちは偉大な父、聖なる神の御座に大胆に近づけるのです。キリストを信じた者がなお、罪を犯してしまう場合にも、私たちを責めるのではなく、御父の前で弁護して下さるのです(第一ヨハネ2:1)。イエス・キリストほどのお方が、私たちの弁護人として、審判者なる御父の前に立って下さっていることは、なんと心強いことでしょうか。そして、このようにして心を痛めつつ、自らをささげて下さる姿を知るならば、私たちは軽々しく罪を犯せなくなるものです。そして、人間の祭司であるならば、一時的なものであり、死ねばその働きは終わります。しかし、キリストという大祭司は、永遠に私たちを守り続けて下さるのです。


三位一体の神』 (09.6.14)

三位一体という教理ほど、異端の攻撃の的になった真理はないかもしれません。多くの異端的キリスト教は、人間の理性ですっきりと納得できないという理由で、三位一体を否定します。モルモン教は三位一体を「得体の知れない、奇妙な化け物」と表現し、ものみ塔は、三位一体は「理解不能で人々に混乱を与えるもの」と批判しています。三位一体を否定することは、キリストを人間と理解したり、あるいは聖霊を単なる霊的な力に過ぎないという考えに至ります。しかし、聖書は確かに三位一体の神を語っているのです。確かに、三位一体の神を、人間の理性で正しく理解しきることは不可能でしょう。けれども、そもそも人間の小さな脳みそで、無限の神を完全に理解できることの方が不可解であり、人の高慢なのです。同時に、理性で納得できる原理でないのは、神の御霊によってのみ信じ得る神秘だからです。聖書が語っていることをそのまま信じるならば、当然の結果として、三位一体の神の姿に行き着きます。イエス様も御霊も、神から出ており、神からの言葉を語り、また神と同じ属性、同じ本質であることを聖書はいくつもの箇所で語ります。バプテスマ、祝祷においても、父、子、聖霊の御名でなされ、創造のわざも、人の救いも皆その三者の共同のみわざであることを証しています。そして、神が三位一体のうちに絶えず愛の交わりを持っていることこそが、私たちの信ずる神が、愛の神であることの証拠であり、私たちが目指すべき交わりの模範なのです。


神の霊感によって書かれた聖書』 
(09.6.7)


私たちが聖書を信仰のより所とするのは、聖書が完全に信頼できるからです。信頼できるかどうかの根拠は、聖書が人間によってもたらされた普通の書ではなく、神によってもたらされた「神のみことば」であるということにあります。なぜ、神のことばであると言えるのでしょうか。聖書は、この書は神の聖霊の働きによって、書かれたと証言しています。それは、人間の独善的な思いによって著されたのではなく、神様の霊的な働きかけによって、人が用いられ、みこころが正しく書き記されたということです。しかし、中には、歴史や科学に関する部分や、サタンや人間が語っている言葉の部分は、神の霊感は及んでいないのだと考える人々もいます。しかし、聖書は「すべて」神の霊感によるとUテモテ316節は語っています。また、その歴史全体、物語的な文脈の中に歴史を通じて働く神のみわざが示されているのです。そのような霊的な書であるゆえに、それを読む側も学問的研究以上に、神の聖霊の助けによって読む必要があるのです。ですから、たとえ学問に秀でていなくとも、様々な経験を積んでいないとしても、キリストを心から信じて、みことばを聖霊の助けによって理解し、従っていこうとする人に、聖書の真理の扉は開かれるのです。あなたは求めていますか?


約束の助け主』 (09.5.31)

古くは旧約時代、申命記や預言書において、父なる神様は終わりの時代に、私たちに新しい霊を与え、やわらかい血の通った肉の心を与えることを約束しておられました。その心を持つならば、私たちは神様の心を正しく悟り、神様を誠心誠意愛することができるのです。その新しい霊、肉の心こそ、聖霊なる神様が私たちの心に住んで下さることです。イエス様の時代、イエス様は弟子達に、ご自分がこの地上を去ることについて、こうおっしゃっていました。「わたしが去っていくことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。」 これは、イエス様が天に昇られた後に来る、聖霊なる神様を指していました。その聖霊がキリストを信じるすべての人に与えられ、神様のおことばに忠実に歩めるようになるのは、イエス様の昇天後でありました。今の時代、私たちはキリストを信じていくならば、その信仰にふさわしく歩む力を下さる聖霊が働いて下さいます。聖書を正しく理解し、神様と人とを愛する心は、自分の努力ではなく、私たちの信じる信仰に働いて下さる聖霊の助けによって、実現するものです。この約束の助け主は、私たちを内側からきよめ、強めて下さいます!


誘惑のために祈り合う』 (09.5.24)

教会では、自分がどんな罪の誘惑を受けているか、また、時にはその誘惑に敗 北してしまうこともあるという現実について、信頼できる兄弟姉妹、牧師に話し 、祈ってもらうことができます。しかし、私たちの多くは、何よりもまず「恥」 を恐れます。そして、そのような思いを持つ自分、汚れた自分を知ったら、人は 受け入れてくれないのではないか。そのような恐れを抱きます。しかし、それを 越えた先に、真に心の通う、親しい交わりがあるのではないでしょうか。もちろ ん、内容によっては、すべての人に話す必要はありません。信頼できる信仰の友 、先輩、あるいは牧師に分かち合えば十分です。私たちはもっともっと、率直に 自分の弱さ、特に罪の誘惑にあっている自分のために祈って欲しいと伝えるべき です。私自身もまた、牧師であったとしても、様々な罪の誘惑にあい、また、罪 を犯してしまう罪人の頭です。そのような、私のためにも是非祈っていただきた いと願います。特に、金銭的誘惑、性的な誘惑、権力への誘惑、そうした誘惑は 誰にでも強くあるはずです。互いにその誘惑から守られ、きよさのうちに歩める ように助け合っていきましょう。

(09.5.17)

私たち人間は、互いに何かを分かち合う存在です。苦しみは分け合えば半分になり、喜びを分け合えば倍になります。一人では大変な作業も、何人かで協力すれば、早く、そして楽しくできます。食べ物も分け合えば、より美味しく食べられます。人は、そのように、自分に与えられたものを分かち合う存在として、神様に造られているのです。ところが、社会が個人主義的な方向に流れ、また核家族化、少子化などが進む中で、分かち合うという大切な行為がとても少なくなってしまったように思います。私たちは、「自分のもの」としすぎてしまうことで、せっかく広がる恵みを、小さいままにしてしまっているのではないでしょうか。また、自分だけで背負い込むことによって、一緒に背負い合う喜びや、苦しみの軽減という恵みを、失ってしまっているのではないでしょうか。神様は、与えられた恵みを、互いに分かち合って歩むように勧めておられます。私たちが賜った素晴らしい「救い」というもの。それも、自分だけ救われてそれでお終いでは、恵みの良い管理者ではないのです。子どもたちも「これは僕(私)のだよ!」と言っているときよりも、他の人に分かち合っているときの方が、ずっと幸せな笑顔でいると思いませんか。分かち合う者となって、笑顔で歩んでまいりましょう。

父母を敬いなさい』 (09.5.10)

母の日は、1914年に米国にて制定された記念日と言われています。もともとは、この少し前に、アンナ・ジャービスという女性が自分の母の死を追悼したいという思いから、始まったものでした。彼女は自分の母親だけではなく、すべての人が母親への感謝を、生前中に表すべきことを考え、教会でカーネーションを配布するようになったようです。なお、すでに亡くなっている方には、白いカーネーション。生きている方には、赤いカーネーションを送ったようです。教会で始まったこの記念日ですが、それは聖書の「あなたの父母を敬いなさい」というみことば抜きに理解すべきではないでしょう。これは、モーセの十戒の一部でありますが、人間同士の関係における戒めの中では、第一番目の戒めに当たります。すべての人間関係の始まりが、自分の両親との関係です。私たちは、この関係において、信頼も、安心も、尊敬も、権威に従うことも学んでいくのです。私たち誰もが親になるわけではありません。しかし、誰もが子ではあるのです。すでに、両親を失っている方もあるかもしれませんが、自らの存在を両親抜きに考えることはできないでしょう。この日、少しばかり静まって、自らの存在を生み、育ててくれた母(父)を思い、また感謝を表わすときを持ちたいものです。


神様から与えられた機会を大切に!』 (09.5.03)

 『行動できない人の心理学』(加藤諦三著、PHP研究所)という本の中で、このようなことが記されていました。「われわれはそこが好きだから、そのことをやるのではなく、そのことをやるから、そこが好きになるのである。」 なるほど、それは一理あると思いました。最近の若い人は色々なことに無関心で、やる気がないと言われるが、そうではない。おそらく、関心を持てるほどまでチャレンジすることが少なくなっているのです。「やりたくないことはしなくて良い」そんな風潮が強い時代。本人がしたくないと思えば、新しい何かにチャレンジしなくても済むことが増えているのです。でも、私たちが何かに愛情を抱くようになるためには、その何かに関わることをしなくてはなりません。神様のことを愛する者となるためには、まず教会に来る必要があります。神様の教えに触れ、神様のことばに従って実際に歩んでみる必要があります。妻は最近フルートを始めました。今ではそれを楽しい時間、幸せな時間と思っているようですが、習う前からフルートを演奏することが好きだったわけではありません。続くかどうかが最大の課題でした。彼女はこれを神様から与えられた機会として大切にし、壁にぶつかる時にもそれを続けながら、そこに喜びを感じるようになってきたのです。


静まりの時の大切さ』 (09.4.26)

 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。」(ルカ2:19) 明日のことを心配せずに、目を閉じて静まり、リラックスしてその日の歩みを振り返ることがあるでしょうか。あるいは一週間を振り返り、1ヶ月を振り返り、どのような出来事があったのかを思い出して、そこから学び、力を受け、前に進もうとすることがあるでしょうか。私たちが、自分の周辺に起こったこと、自分の身に起こったことを思い出し、どのような不安や恐れを覚えたのか、どのような喜びを体験し、どのようなことに感動したのかを探るならば、明日への新しい歩みへの備えとなります。そのようにして、自らの心の動きをじっくりと黙想することが、実は私たち人間にとって、とても大切なことであると最近気づかされています。忙しい現代人に欠けているのは、様々な出来事を心に留めて、思い巡らすということではないでしょうか。思い巡らすことを通して、今、自分に欠けているものは何か、必要としているケアは何か・・・それに気づかされるのです。そして、そこで感じる必要こそ、慰め主なる神様のもとに憩うことで満たされていくことを知るのです。私たちはまず、心の渇き、魂の飢えに気づき、神様に求めることから始めようではありませんか。求める者には豊かに与えて下さいます。



肉体をもっての復活』 (09.4.19)

天国に行ったときの自分を想像してみて下さい。白い衣を着て、ふわふわと飛んで動けるような霊のような自分でしょうか。きっと、そうではありません。私たちはキリストの復活についての聖書の記事を読むならば、しっかりと肉体をもって天の御国に凱旋するのだということを知るのです。この世の中には、霊肉二元論という考え方もあり、それは肉体こそ悪であると考えます。ゆえに、人は死んで、肉体を失い、霊だけになってはじめて悪から解放されると言うのです。けれども、聖書はそうは言っていません。なぜなら、イエス・キリストの復活のお姿は、すでに新しい栄光のからだによるよみがえりだったからです。キリストは、弟子達にご自分の体を触らせました。なお、信じない者には手のくぎの跡に触れさせ、あるいは目の前で焼き魚を食べて見せました。実際に肉体をもって復活され、それが私たちの将来の姿であることを示されたのです。キリストを信じる者が新しいエルサレムに招かれるとき、ふわふわと霊になって神様を礼拝するのではありません。肉体をもって喜び楽しみ、神を礼拝し、そこにもはや悪も汚れもなく、死もなく、神の永遠の平和のうちに歩むのです。そのように理解するとき、私たちの御国での生活は、現在の私たちの肉体をもっての霊的な生活とかけ離れたものではなく、その延長上に、より近く見えてくるのではないでしょうか。


『死をのみ込む力』 (09.4.12)

私たちにとって、避けては通れない道があります。これは、どんな国に生まれても、どんな環境にいようとも、どんなに有能な人であっても、必ず通らなければなりません。それは「死」です。「死」だけは、誰も避けて通ることができません。愛する人の死に出会います。また、自らもいつなんどき死を迎えるか、わからないものです。そして、多くの場合、その「死」というものを恐れ、おびえ、できるだけ考えないようにしようとするものです。けれども、どんなに考えないようにしても、「死」は必ず訪れます。そして、確実に死の瞬間に向かって時間は経過しているのです。そのような「死」というものについて、あなたは明確なお答えを持っていますか。死とは何か。死んだら人はどうなるのか。聖書は、「死」についての明確な答えを私たちに与えてくれています。十字架上で死んで、よみがえったキリストを信じるならば、よみがえりのいのちを私たちは持つことができると約束しています。キリストの復活こそは、死を呑み込む「いのちの力」なのです。キリストにある者は、死は終わりではありません。むしろ、輝く天の御国での永遠の歩みへの入り口なのです。そこでは、キリストにある者の再会の希望があります。別れも、涙も、死も存在しない世界がそこにあるのです。


『愛の支援』 (09.4.5)
 
先週の日曜日の午後には、イースター礼拝のチラシ配布を行いました。このチラシ配布は、今までにないような喜びと恵みがありました。姉妹教会である東京武蔵野福音自由教会の6名の兄弟姉妹と、2名のお子さんが援軍にかけつけてくれたのです。彼らの助けと、神様の守りの中で、予想以上の枚数を配布することができました。しかし、私達に与えられた恵みは、もっともっと素晴らしい、豊かなものでした。多くの枚数を配ることができた以上に、彼らによってもたらされた「励まし」が、いかに大きかったことでしょうか。ドアを開けて兄弟姉妹が入って来た瞬間に、本当に大きな喜びがあふれました。自分達の教会の礼拝や奉仕を終え、あるいは夕拝の前に、時間をささげ、労力をささげ、心をささげて、助けに来てくれたのです。神様はこの愛の交わりの真中に確かにおられました。配布後も、お茶をいただきながら、楽しくお交わりし、親交を深めることができたのです。私たちはこのような恵みを受けた者として、その恵みの管理者として忠実であることが求められます。近い将来、私たちもまた、他教会の兄弟姉妹を励ましに行く者とならせていただきたいものです。そのような助け合う姿こそ、キリスト教会の目指すべき姿なのではないでしょうか。



『人による評価の限界』 (09.3.29)
  

 「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。」(Tコリ4:3)

万物の創造者である神を信じて生きる者にとって、人間による評価は決定的な力を持ちません。これを著したパウロは、「自分で自分をさばくことさえしない」と告白しています。なぜでしょうか。それは、すべてのことについて、公平に、絶対的な基準をもってさばくことのできる方は、神様ただおひとりだからです。ゆえに私たちは先走ったさばきを自分にも、他の人にも、様々な出来事についてもなすべきではありません。さばきは神がなさることです。私たちはあまりにも、互いに比べ合い、小さな価値観の中で互いを評価しようとしてしまいます。一部分だけ、表面だけを見て判定しているのです。また、あまりにも早急に結論付けようとしてしまいます。しかし、最終的な結論は、恵みとあわれみに満ちた真実な神様によって下されるものであることを、いつも心に留めておきたいものです。私たちは、隠れたすべてのことを明るみに出されるこの方の前に、誠実に、またキリストによる罪の赦しを感謝し、謙遜に歩ませていただきましょう。