サンライズ ショートメッセージ 「主のみことば」           

『見ているようで、聞いているようで・・・』

 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。(ルカ13:34) 「見ているようで見ていない。聞いているようで聞いていない。」ということが私たちにはあります。教会に来ていれば、主を見上げ主の声に聞いているように思います。しかし、そこにいるというだけで「心ここにあらず」ならば、「主の前で飲み食いしていました!」(26)と豪語するユダヤ人たちと同じです。神は人の堕落以来、民をご自分の御翼のもとに救い出そうと何度も預言者を遣わしました。預言者たちは人々の反対の中で、罪の悔い改めをもって神に立ち返るよう語り続けました。現代においても、主はいつでも私たちに聖書から語りかけ、日々の出来事の中でも多くのみわざをもって教えてくださっています。私たちが関心をもって求めているなら、それが見えます。祈り求め聞く姿勢があるなら、それが聞こえます。求める者は受け、探す者は見つけると語られている通りです。心が通い合う神との交わりを大切にしませんか。(2018年11月18日 週報掲載)


『健全な恐れと不健全、不要な恐れ』

 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」(出エジ20:20) 「恐れてはいけない」と語られる一方で「神への恐れが生じ」、罪から離れるようにと語られます。「畏敬」を含む神への健全な恐れは、私たちに神への信頼と従順を増し加えますが、過剰な恐れ、罪に根ざした恐れは不健全であり、かえって神との交わりから私たちを遠ざけてしまいます。ペテロと主イエスのやり取りを思い出します。主イエスの指示で深みに網を降ろした際、今まで見たこともないほどの大漁となりました。それでペテロは恐れて主イエスに「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言いました。過剰に恐れ惑い、離れようとするペテロに、主イエスは親しく「こわがらなくてもよい。」と語られました。神への尊敬と深い信頼に根ざした恐れ(畏敬)は、私たちを罪から離れさせ、従順へと導きます。しかし、恐怖心で萎縮してしまうことを神は望まれません。信頼から来る健全な神への恐れによって、不健全かつ不要な恐れから解放されましょう。(2018年11月11日 週報掲載)


『十の御教え 隣人愛』

 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。(出エジ20:12 「父と母を敬え」と始まる十の御教えの後半部分は、隣人への愛について教えています。それらは法律の基礎となった教えでもあり、人間が幸せに安心して生きるために欠かせない教えであると言えます。今から3400年ほども昔、「人権」ということばすらなかった時代にこのような倫理観を与えられたイスラエルの民は、なんと幸いだったことでしょうか。他のどの民族よりも弱者に寄り添い、聖さを学び、神の教えを守るゆえに長寿であったことが知られています。父母を心から尊敬することから始まり、殺人や盗みが重罪であることなどを明確に示されたことは、敬虔に尊厳を持って生きていく上で大切でした。しかしながら、人はこれらの教えを守りきれません。それは現代社会を見ても明らかです。道徳を勉強しても、厳しい刑罰を設けても罪はなくなっていません。こうした神の御教えを知ると同時に、私たちは自分のうちに罪があることに気づかされます。誰もがキリストの十字架が必要な罪人です。キリストのもとで真の愛を学んでいきましょう。(2018年11月4日 週報掲載)


『なぜ狭い門なのか?』

 狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。(ルカ13:29 なぜ神の国に入る門は「狭い門」だと主は言われるのでしょうか。それは反対に「広い門」だと言われた場合を想像するとわかるかも知れません。人は楽な道を選ぶのが好きです。広い門なら何もしなくても簡単に入れそうです。気にも留めず、気がついたら入れているぐらいが良いと人は勝手に考えます。実際、マタイ713節では「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多い」と語られています。神の国は確かにすべての人に開かれており、救われる方法は誰でもできる「信じること」です。しかし、キリストを信じ受け入れる祈りは、誰にも強制できません。どんなに人が説得しようとも、その人が自分の意志と心で踏み出す必要があるのです。気がついたらこの門に入っていたということはありません。また、この門は閉じられる日が迫っています。キリストの再臨の時です。そういう意味でやはり「狭い門」なのです。何より、「狭い門から入れ」と言われる中に、キリストの深いご愛があるのではないでしょうか。人々に通り過ぎて欲しくないのです。ここに救いの門がある!ここにおいで!と主は語りかけておられます。(2018年10月28日 週報掲載)


『神の国の成長』

 神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。(ルカ13:18-19 植物を育てる時、私たちができることは、種を植えたり、水をやったりすることです。やるべきことをしたら、人が寝ている間に芽を出し、生長していきます。つまり、生長(成長)は神のみわざなのです。しかも、ごく小さなところから起こり、主が大きく豊かになさるのです。「神の国」の性質をイエス様はたとえて話されました。それは「からし種」に似ているというのです。からし種は1ミリほどの小さな種です。しかし、生長すると2〜3メートルほどの木になります。キリスト教はとても小さな弟子の共同体から始まりました。しかし、今では全世界に広まりました。少ない人数だからとか、小さな働きだからと悲観する必要はないのです。小さなところにも神は目を留め、神ご自身が大きく育ててくださるのです。それが神の国の特性です。ですから小さな出来事を大いに喜び、小さいからこそ大きくされていくプロセスの中に神の力が豊かに現れることを楽しみにして歩みましょう。(2018年10月21日 週報掲載)


『偶像礼拝の誘惑とは』

 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(出エジプト記20:4-5前半) 教会に集う者たちが注意すべき偶像は、石や木の像ではないでしょう。それらを自分で造ったり、自分から望んで拝んだりする誘惑はそれほどありません。しかし、神よりも大切だと思える何かを持っており、神からしか得られない喜びや平安をそこに求めているとすれば、それは主が悲しまれる偶像礼拝と言えます。大切にすべき良いものが極端に重要視され、それ自体が究極の目的になるとき、いつの間にか良いはずのものさえ「神から離れさせる偶像」となることに注意する必要があります。子ども、孫、恋人、仕事、学歴、成功、新会堂・・・どれも良いものですが、それが究極の目的となり、「それを失うこと=人生の終わり」と考えるほどなら、それは偶像です。私たちは良いものを良いままに保ち、さらに深い価値を知るためにも、造り主なる主だけを礼拝し、この方に健全な識別力をいただきましょう。真の価値は神から教えていただくのです。(2018年10月14日 週報掲載)


『聖なる神に近づく道』

 主に近づく祭司たちも自分自身を聖別しなければならない。主が彼らに怒りを発することのないように。」(出エジプト記19:22 神のご性質の中に「聖」というものがあります。それは神ご自身の中に罪、汚れが一切ないというだけの性質ではありません。わずかでも罪や汚れを持つ者は、このお方の前に立つだけで滅び失せてしまうほどの圧倒的な「聖(きよ)さ」です。ですから、神ご自身の招きと助けがなければ、罪ある人間は神の前に出て行くことすらかないません。そのため、神の臨在に触れようとするとき、人々は神のご命令を厳粛に守って手続きを行い、聖別されて神の前に立つ必要がありました。本来、聖なる神と汚れた私たちの間にはこのような隔たりがあるのです。しかし、この聖なる神が、罪深い私たちを愛するゆえに、キリストをくださったのです。キリストは、罪に汚れた私たちが神に大胆に近づけるように、十字架の上でご自身を神への和解のささげものとしてくださいました。キリストのいのちという代価によって、それを信じる者の罪が赦されて義とされました。滅ぶべき私たちが、永遠に生きる者、神と親しく歩む者とされたのです。この恵みを心から感謝しましょう。(2018年10月7日 週報掲載)


『何が私たちを束縛しているのか』

 イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。(ルカの福音書13:17 何が私たちを束縛し、喜びや感動を奪っているのでしょうか。このみことばの直前には、18年間病に苦しんできた女性がいやされ、サタンの束縛から解放されたことが語られています。ところが、会堂管理者はそれが安息日の出来事だったために、喜ぶどころか安息日に「癒し」という労働をすることは間違っていると指摘しました。周囲の群衆もこれに同調してしまいます。ここに、サタンによる束縛の本質が見えてきます。病が人を縛るのではありません。神の真意を知ろうとしないかたくなな心こそが、自分と周囲の人々を縛り苦しめるのです。それがサタンの狙いです。「真理はあなたがたを自由にします」と語られたイエスは、まさに神の真理を人々に伝えたのです。人をさばくために勝手に細かく解釈した安息日の規則は「偽善」そのものであり、「真理」ではなかったのです。イエスはそれを気づかせました。それで反対していた者が恥じ入り、イエスの輝かしいみわざをようやく、素直に喜ぶことができたのです。(2018年9月30日 週報掲載)


『悔い改めの実』

 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』(ルカの福音書13:7 ぶどう園に植えられたいちじくの木。その木は成熟期を迎えて3年も経つのに、何も実らせませんでした。さらにその木は実りがないばかりか、根を張り他の木々に被害を与え、土地を多く陣取っているのです。そのような木は切り倒してしまうようにと言われても仕方ありません。しかし、それでもなお番人は「もう一年!」と粘り、実を結べるように肥料をまきます。これは人のために弁明し続けるキリストと、それを聞いて忍耐なさる神の姿そのものと言えます。終わりの時は遅れているのではなく、神が寛大にも忍耐なさって、より多くの者が悔い改めるのを待っておられるという事なのです。真の実りとは、人としての成功ではありません。地位の高さや功績の数ではありません。ただ、自らの罪深さを謙遜に受け止め、あやまちに気づいて神に立ち返ることです。神に立ち返る意志こそ「悔い改め」であり、神が望む実とは悔い改めの実に他なりません。神はその実りを喜ばれます。(2018年9月23日 週報掲載)


『自分自身で考え、恵みと真理を見極める』

 あなたがたは、何が正しいか、どうして自分(自身)で判断しないのですか。(ルカの福音書12:57 ここにある「正しい」とのことばは、人の正しさではなく神の正しさ、いわゆる神の義を現すことばです。神の前に正しいことは何か、普遍的に正しいことは何かということです。そして、それらは人が神から与えられた知性、良心、判断力等をもって自分でよく考え心に聞いて判断していくべきだと教えられます。日本では、「赤信号みんなで渡れば怖くない」といったことばがあるように、社会の風潮や多勢が正義だと言えば、それが普遍的な正義であるかのように思い込んでしまう傾向があります。考えさせない文化、周りと同じにしていれば安心という価値観に課題を感じます。しっかりとひとりひとりが目を覚まし、よく学び、よく考えながら真理を求めていくことも大切なのです。特に、神が与えてくださる恵みと真理に対して、盲目にならないようにしたいものです。「神のかたち」として造られた私たちなのですから、与えられているものを豊かに用いて、恵みと真理に目を覚ましていられる者となりたいと願います。どうか目の前に与えられている恵みの機会を大切にできますように。(2018年9月16日 週報掲載)


『牧会を一緒に・・・』

 あなたも、あなたとともにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことは、あなたにとって荷が重すぎるからです。あなたはそれを一人ではできません。(出エジ18:18 しゅうとイテロを通して語られたアドバイスです。モーセはこの助言を聞き入れ、10人、50人等ごとにリーダーを立てて彼らにそれぞれの民のケアをゆだね、本当に重要な課題のみモーセに相談するようにしました。この組織作りには軍事的な要素もあったと考えられますが、単なる牧会と維持管理の分業ではなく、むしろ、牧会を建て上げる協力と言った方が良いでしょう。モーセが神の教えを説くことやとりなしの祈りに集中でき、こうして彼らはあなたとともに重荷を負うのです」(22)とあるように、霊的ケアの重荷も一緒に負っていると理解されるからです。信徒による相互牧会ということばもあります。牧会的視点で一緒に担う兄姉が増し加われば、どれほど教会は豊かにされることでしょう。人々の課題に寄り添い、みことばから指針を示して共に祈る人です。失われた魂に対しては、愛のうちに福音を提示することができる人です。こうした牧会を一緒に担える人々が立つことができますように。(2018年9月9日 週報掲載)


『結局は主!そして支え合う愛!』

 モーセが手を高く上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。(出エジ17:11 アマレク人がイスラエル人から物資を奪おうと襲ってきたとき、モーセは神に命じられ神の杖を手に、両手を上げて祈りました。モーセの手が高く上がっているときは優勢、疲れて手を下ろすと劣勢になりました。神の杖を高くかかげ、祈り続けることが勝利になるとは、本質的には霊的な戦いであることを示しています。それは人が戦っているようでありながら、結局は主が戦っておられることの証明なのです。私たちの戦いとは、いかに自分の肉の思いから解放され、主に自由に働いていただくかというところにかかっています。そして、モーセの手が下ろされたときに、アロンとフルの二人が右から左からモーセを支えました。これは、私たちが一人で歩むのではないことを教えてくれます。支え合う愛があって、祈り続けられるのです。主に祈れない時にも、信仰の友が代わりに熱心に祈ってくれている。自分だけでは疲れて手が下りてしまうときにも、横で支えてくれる存在がある。主により頼むこと、愛し合うこと、これがあれば教会は輝きます。そこに霊的な勝利があるのです。(2018年9月2日 週報掲載)


『対立、分裂がもたらされるその先に』

 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。」(ルカ12:51 キリストのことばです。一見すると、非常にネガティブなことばに思われます。「平和ではなく、分裂をもたらすために来たですって。それは受け入れがたい。」と思う人もいるでしょう。しかし、キリストの語ったこと、なさったことが中途半端ではなく、真理に根ざした本物の愛の行動だったからこそ、反対や批判も多く生まれたとは言えないでしょうか。キリストのことばや行動がまがい物で、たいした影響力もないものなら対立する人も多くはないでしょう。しかし、聖書が世界で最も攻撃された書物であるのは、まさにその圧倒的影響力、人を生まれ変わらせる真理、無限の愛の深さゆえです。そして本物であるならば、たとえ最初は分裂・対立をしても、必ず火の試練をくぐり抜けて残り、やがて多くの人に理解されるようになるものです。聖書はまさにその典型です。キリストが来られた時、多くの人がその罪の闇ゆえに、その光を拒みました。しかし、愛の光が輝き続ける中で、人々がこの光は本物だと知るようになったのです。(2018年8月26日 週報掲載)


『悔い改めのベテランになる』

「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15 悔い改める回数が少ない人ほど良いクリスチャンだと思っていることはないでしょうか。しかし、次のような理由から、むしろキリスト者として成長するほどに悔い改めの頻度が上がることを確認したいと思います。第一に、悔い改めとは神への方向転換ですから、神の価値観に生きることを常に求めている人ほど、小さな部分でも悔い改めの機会が増えるのです。ことばひとつとっても、もっと神に喜ばれる愛と真実に根ざしたことばを語りたいと願うようになります。それが喜びなのです。第二に、クリスチャンとして成長するにつれ、自分の罪に敏感になり、悔い改めにいたるまでのスパンが短くなるからです。しかし、それゆえに人格も整えられ、謙遜にもなっていきます。神の国は、イエス・キリストによるご支配そのものですから、キリスト中心であり、キリストの愛に生きることが喜びになります。自己中心からキリスト中心に変えられていくために、繰り返し悔い改めが必要なのです。悔い改めが少ない立派な人だという価値観を捨て、日々主に立ち返ることを大切にしていきましょう。(2018年8月19日 週報掲載)


『忠実で賢い管理人』

 主は言われた。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。(ルカ12:42 自分を主人と思い込み、本当の人生の主人なる神を信じずに生きるとき、与えられた能力、権力を罪のために用いてしまうことが多くあります。自分を神とする歩みは、権力を振りかざし、自分の欲を喜ばせます。しかし、本当の主人はこの世界を公平にさばかれる審判者なる神です。私たち「しもべ」の生き様のすべてをご存知です。すべての者が、終わりの時にはこの方の前に立たされ、愛と公正に満ちたジャッジを受けます。そのようなまことの主人の帰りを待つ「しもべ」として、私たちは忠実な良い管理者となりたいのです。私たちのために、ひとり子までも与えてくださった真実な愛の方です。この方が、ふさわしく用いてくださるために、私たちに任せ期待してくださるのです。だからこそ、忠実な賢い管理人として、託されたものを豊かに管理していきたいのです。恵みの管理者として、福音の管理者として、何よりも主人の思いを知る者として、神のみこころに御霊に助けられて歩んでいきましょう。(2018年8月12日 週報掲載)


『安息日の意義』

 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。(創世記2:3 神はどのような目的のために安息日を備えられたのでしょうか。荒野を放浪したイスラエルの民は、6日間は主が与えられた食べ物マナを集めましたが、7日目には集めることが禁止されていました。そのため、6日目に2倍の量を集めるよう指示され、神はそれが保存できるようにしてくださったのです。7日目に集めに行っても全く得られず、骨折り損でありました。この点はモーセの十戒にて「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」、「どんな仕事もしてはならない」と教えられていることと一致します。しかし、その始まりは神の創造のわざにさかのぼります。神ご自身が6日間で創造の働きを完成され、7日目は休まれ、聖なる祝福の日となさったのです。「仕事をするな」と規制することが目的ではなく、人がすべての働きから解放され、身も心も神に集中することで、真の安息を神からいただくことが目的なのです。これを軽んじるならば、安息は私たちから確実に失われていきます。安息日に公同の礼拝をささげ、個人でも主の前に静まりましょう。(2018年8月5日 週報掲載)


『神が仕えてくださる』 

 帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そば来て給仕してくれます。(ルカ12:37 
人は常に神に仕える存在だと思いがちですが、神ご自身が人に仕えてくださるということも聖書は語っています。目を覚まして、主人の帰りを待つしもべは幸いであって、その人は逆に主人からねぎらいの給仕を受けることができると語られています。神が仕えてくださるとは、なんと幸いなことでしょうか。それほどに人を愛してくださっているのです。罪深い、愚かな者、不信仰な者であることを重々承知の上で仕えてくださるのです。それは、人となられた神の子イエスを見ればよくわかります。有名な「洗足」は、まさに未熟な弟子たちに神の子イエスがひざまずいて奉仕してくださった出来事です。いや、それ以上に神が仕えてくださったのは、人の罪に対する身代わりの死です。十字架刑にまで私たちの身代わりとして従ってくださった姿は、まさに、これ以上ないほどの「しもべ」の姿ではないでしょうか。神が仕えてくださる。この恵みに私たちも応えていきたいのです。(2018年7月29日 週報掲載)


『神に向かって富む』 

 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」
(ルカ12:21 第三版の訳では、「神の前に富まない者」と訳されていました。原語を調べてみると「〜に向かって、〜の中へ」という意味の前置詞が使われています。英語では「toward」や「into」の意味となります。それで2017年版では「神に対して」と訳されていますが、「対して」には、「対峙」の印象も含まれてしまいます。そういう意味では、「神に向かって富む」とした方が原語の意味をまっすぐに理解できると考えます。この世の富に向かって貪欲に生きる時、神とは逆方向に向かって生きて行くことになることからも明らかです。真の富、なくならない宝は、神のもとにこそあります。自分の欲のためにどんなに富を蓄えても、人はいつ人生の終焉を迎えるかわかりません。それが明日かもしれません。そうれなれば、その富は意味を持ちません。天の御国に富を持って行くことはできないからです。しかし、その富を神のみこころに沿って愛のわざに用いるとき、それは神に向かって富むことであり、天に宝を積み上げることになります。それは消えることのない宝です。むなしい富とせず、それを用いて豊かな人になりましょう。(2018年7月22日 週報掲載)


『キリストを主と告白する』


 あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。(ルカ12:8-9 いつの時代でも、人々の前でイエス・キリストを主と告白する者は、何かしらの戦いを通ります。信仰を貫くことは、それに反対する声とある意味では戦うことになります。当時、ローマ皇帝を崇拝させようという動きの中で、キリストを人々の前で主であると告白することは、皇帝崇拝を拒んで、まことの神に従うという信仰告白でもありました。それゆえの迫害もありました。ですから、この告白は自分の心の強さに頼っては不可能です。誰でも聖霊によらなければ、イエスを主と告白できません(Tコリ12:3)。しかし、この告白こそが、人々に真の自由と解放をもたらしました。終わりの日、キリストが再臨される時に、キリストはこの告白をした者たちを決して忘れず、天使たちの前でこの人はわたしに属する者だと認めてくださるのです。「この者を知らない」と言われることのないよう、心からキリストを信じ告白して歩んでいきましょう。(2018年7月15日 週報掲載)


『日々の糧、日曜日の礼拝の恵み』

 心せよ。主があなたがたに安息を与えたのだ。そのため、六日目には二日分のパンをあなたがたに与えている。七日目には、それぞれ自分のところにとどまれ。だれも自分のところから出てはならない。」それで民は七日目に休んだ。(出エジプト記16:29-30 エジプトから逃れたイスラエルの民ですが、荒れきった土地での生活はとても過酷なものでした。しかし、その日々の中で神はその民を育てられたのです。神が与えられた「マナ」という食べ物が、彼らの主食でした。これは不思議な食べ物で、7日目に当たる安息日には得ることができません。ですので、6日目に二日分を集めて7日目に備えておくのです。「それで民は七日目に休んだ」とあるように、神は安息の日には仕事を休ませ、神との交わりに集中する憩いと安らぎ、喜びの日を備えられたのです。人々は何もない荒野で、ただただ主が与えてくださることを信じて、毎日を過ごしました。私たちの心の糧もまた、長期保存するものではなく、日々のディボーションや祈りの中で、親しく神と交わり、共に歩んでいく中で得られるのです。そして日曜日は主の安息の日として、神を心から礼拝し、安らぎと感謝にあふれる日としましょう。(2018年7月8日 週報掲載)


『一人の罪人への愛』

 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。(ルカ15:7 私が牧師になったのは、良い教えをしたいからではなく、正しい人になりたいからでもありません。ただ、与えられた人生を、失われている人の救いのために献げたいと思ったからに他なりません。自分が牧師に向いているとも、ふさわしいとも全く思いません。むしろ、ふさわしくない者、足りない者ですが、人のいのちのためにできることをする。それだけのことです。このみことばが示すように、神の願いは一人の人の救いです。大勢が救われればいいという「数」の論理ではなく、ひとりひとりの心や人生に目を向けておられるのです。失われた迷子の一人が救われた時に、「たった一人?」という見方ではなく、その人の救いを心から喜べる者となりたいのです。迷い、悩み、苦しんできたその人が、主を信じて喜びの生涯へと導かれるなら、それだけで大いなる喜びが天に起こるというのです。私たちの目は何を見ているでしょうか。どこを見ているでしょうか。主と同じ価値観に生きていきましょう。(2018年7月1日 週報掲載)


『すべてを知っておられる神』

 それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。(ルカ12:7 見えない、知られていないところでなら、何をしても大丈夫という感覚が私たちの中にあります。神を信じていると言いながら、なお神がいないかのように生きてしまう事が少なからず私たちにはあります。しかし、「おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。」(12:2)とあるように、完全に隠されたままであるということはないのです。すべては神に知られ、また明らかにされるものです。すべて知られているということが、人間にとっては「怖さ」であるかも知れません。けれども、この「怖さ」が弱い私たちを守ります。それは人に神を恐れる思いをも与え、また「髪の毛の数まで知っていただいている」という、知られている安心、喜びにもつながるのです。神が私たちのすべてをご存知であるのは、私たちへの愛ゆえであり、私たちをいつも見守り続けるゆえです。誰も自分を知らないなどと嘆く必要はありません。心の隅々まで知っておられる主がおられるのです。(2018年6月24日 週報掲載)


『わかっているつもり』 

 わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。(ルカ11:52 知識を増し加え、わかっているつもりになる時、そこに落とし穴があります。自分が一番わかっていると思い込み、他の人の意見に耳を傾けなくなる時、とても危うい状況に陥るのです。しかも、多くの場合、そのことに自分で気づけないという問題があるのではないでしょうか。律法の専門家たちは、優秀であり、律法の研究に熱心であり、自分たちが大衆に教えていくべきだと自負していたことでしょう。だからこそ、彼らが間違ってしまっている時に手に負えなくなります。知識による武装は非常に強く、他の人のまっすぐな意見を強い力でねじ伏せます。自分の立場を守るために、真理に対して屁理屈でフタをしてしまうのです。結果、自分が真理に入れないばかりか、他の人が入ることまでも妨げてしまいます。これほど大きな罪はないのではないでしょうか。このことからも、私たちは常に聞く耳を持つこといつでも未熟で学ぶ必要があること神を恐れることこそ知識の初めであることを覚える必要があると、改めて気づかされるのです。(2018年6月17日 週報掲載)


『自分の手で、ほねおって正しい仕事をする』 

 盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(エペソ4:28 直接盗む行為はもちろんのこと、詐欺、横領、インサイダー取引、脱税など、罪深い方法で富を得る人々がいますが、神は労せずして他の人のものを奪う「盗み」を憎み、してはならないと教えています。確かにこのような不正は楽な方法かも知れません。しかし、神を侮ってはいけません。それらは決してあなたを豊かにしてくれないのです。ことわざに「悪銭身につかず」とあります。英語ではより意味が深く「Easy come, easy go」ということわざです。ずるい方法、楽をして手に入れたものは、自分の手元に残らないというのです。確かに楽をして得たものは、大事にできず、有意義に用いることも難しいと言えます。神はみことばを通して、ほねおって働くように、自分の手で正しい仕事をするようにと言われます。他人に働かせて稼ぐのではなく、自分自身が労すること、そして正しい事をすることを教えているのです。その富の用い方も、「困っている人に施しを」とあり、富の用い方も祈りながら愛のわざに用いたいものです。(2018年6月10日 週報掲載)


『一喜一憂ではなく・・・』 

 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。(出エジプト記15:24 この出来事の少し前、イスラエルの民は真二つに割れた海の中の陸地を歩いて来ました。追っ手のエジプト軍は神の力強い奇跡の前に、追跡を断念せざるを得ませんでした。圧倒的なほどの神のみわざに感激し、イスラエルの民はみな神を賛美したのです。しかし、その舌の根も乾かぬうちに、彼らはこのように不平不満にとらわれました。まさに、一喜一憂とはこのことです。いつでも目の前の状況次第で喜んだり、悲しんだりと大忙しです。彼らは「神のしもべ」ではなく、「環境の奴隷」となっていたと言えます。私たちも少なからず、似た傾向を持っていることを否定できません。一喜一憂の人生で、すでに疲れ果てている人もいるかも知れません。しかし、神に信頼する者は一喜一憂の人生から解放されることを忘れてはいけません。環境は変わっても、神は変わらないからです。私たちが揺れ動こうと、心変わりしようと、キリストの十字架もそこにある神の愛も、消えることなく注がれ続けているのです。良いことにも、悪く見えることの上にも、神のご計画があり、それは最善のものなのです。(2018年6月3日 週報掲載)


『見えない部分も、神は造られた』

 愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。(ルカ11:40私たちは肉眼によってこの世界を見て、見えるところによって歩んでいます。しかし、実際には目に映らない部分の方が圧倒的に多いのではないでしょうか。人の外見は見ることができます。しかし、その人の体の中で何が起こっているのかは見えません。自分でさえわからないので、気がついたら大きな病が進行しているということが起こります。またその人の思いや考え、言葉の背景にあるものなども見えないのです。そして見えないからこそ、しばしば見栄えばかりを良くしようします。けれど、実際は見えないところにこそ、その人の本質があるのではないでしょうか。人を傷つけるのは私たちの外見ではありません。私たちの心から出て来る冷たい態度、愛のない言葉です。それらは私たちの頭で考え、心にあるものが出て来ます。教育の現場でも、外側の態度だけを直しても、それは形ばかりのものとなります。しかし、心にやる気が、希望が、愛があふれてくるならば、自然と良いものが生まれて来ます。神は外側だけをデザインなさったのではなく、その内側をも最高のデザインとして造られたのです。(2018年5月27日 週報掲載)


『ペンテコステの恵み』

 しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、あなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26) 本日はキリスト教の暦において「ペンテコステ」と呼ばれる日です。ペンテコステとは、キリストが地上を去って後、キリストの心がいつも人々と共にあるように助ける聖霊が注がれたことを記念するものです。このみことばにあるように、キリストは十字架にかかる以前より、弟子たちに聖霊の約束を与えていました。キリストを信じるすべての者は、例外なくこの聖霊を受けるので、聖書の真理がはっきりとわかるようになります。キリストのことばを深い感動とともに味わい、愛と誠実をもって生きる力を受けます。弱い者に寄り添い、失望している者に希望を届け、真理を求める者に福音を伝える。そんな恵みの力を聖霊が与えてくださるのです。自分の心の闇に気づかされ、謙遜さをいただき、感謝と喜びに満ちて神を賛美できるのもまた、聖霊が働いてくださるからに他なりません。私もこの恵みを知らなかったら、今頃、途方に暮れていたことでしょう。世界中の人にこの恵みが広がりますように!(2018年5月18日 週報掲載)


『光はあるのに・・・』 

 ですから、自分のうちの光が、闇にならないように気をつけなさい。(ルカ11:35) キリストは光についてのたとえ話をなさいました。上記のみことばがその結論です。せっかく私たちを照らしてくれている「主の愛という光」、また「みことばの光」をいただいています。しかし、光があっても目を閉じてしまえばそれを感じられず、暗闇のままです。心を閉ざせば私たちはせっかくの光を得られず、闇の中を歩むということにもなりかねません。神の語りかけに、心を開いて受け入れましょう。私たちの暗い罪の心、孤独という闇をすべて照らしていただきたいのです。同時に、私たちのうちにこの光が注がれたのならば、この光を他の人にも隠さないようにしたいのです。光の役目、その存在意義は「明るく照らすこと」だからです。暗い闇を歩み続けている人がたくさんいます。希望を持てず、孤独の闇を抱えて生きている人がいます。あなたのうちに与えられている「光」を求めている人がいるのです。ですから、せっかくの光にフタをしてしまうのは、なんと残念なことでしょうか。光は分かち合えば、減ることなくただ広がるばかりです。光の恵みは隠しさえしなければ、広がっていくのです。(2018年5月13日 週報掲載)


『堅固な土台に立ち、黙して救いを見る』

 モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。(出エジ14:13) 会堂建設地において地盤の調査を行いました。大部分は問題のない強度でしたが、一部だけ地盤として弱いところがあることがわかりました。その分費用がかかってしまいますが、堅い岩の上に建てることは聖書の原則です。主の宮があまりにも脆いようでは証しにもなりません。そしてまた、安全に過ごせることは最も大切な部分ですので、しっかりと検討して、良い土台を据えていきたいと考えています。私たちの毎日の信仰の歩みにおいても、堅固な土台の上に立っているでしょうか。フラフラせず、しっかりと大地を踏みしめ、日々あなたのためになされる主のみわざを見ているでしょうか。つぶやいてばかりいるイスラエルの民に対して、14節では主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。と語られています。私たちではなく、主ご自身が戦ってくださる。だから私たちは不平、不満をつぶやくのではなく、黙して主に信頼し、目を開いて主の救いをしかと見ましょう。目の前に、既に主の救いのみわざが起こっているのですから。(2018年5月6日 週報掲載)


『わたしを呼び求めよ』

 ・・・しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。・・・しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。(ルカ11:31-32) 旧約聖書、ソロモン王の時代にイスラエル南方のシェバの女王が彼を訪ねました。彼女はソロモンの知恵と豊かな財とに感嘆し、その知恵や財を与えた主なる神をほめたたえました。ヨナの時代、ニネベの町の人々は預言者ヨナの説教を聞いて悔い改め、まことの神を信じるようになって滅びを免れました。二人はそれだけ、大きなインパクトを与え、まことの神の名を知らしめる働きをしたのです。しかし、イエス・キリストは当然ながら、この二人よりもまさるお方です。ソロモン、ヨナを通してでさえ人々が国ごと神に立ち返るようなことが起こったのです。それならば、彼らにはるかにまさるキリストと出会って、それでも神に立ち返らない人には、もはやどんな救いも用意することができません。それほどにキリストのみわざは偉大なのです。私たちの時代は、イエス・キリストの時代です。A.D.2018年、それは「主キリストの2018年」という意味に他なりません。キリストの恵みの時代に生きる者として、このお方を受け入れ、お伝えしましょう。(2018年4月29日 週報掲載)


『わたしを呼び求めよ』

 あなたがたがわたしに呼びかけ、来て、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに耳を傾ける。あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。(エレミヤ29:12-13) 先週は「あきらめの心」が私たちの弱さの一つであることに触れました。無理だという思いが、チャレンジすることや祈ることさえも失わせてしまいます。語られているみことばに対しても心が閉ざされてしまい前に進めません。神に立ち返りましょう。イスラエルの民は、神の声に聞かず自分たちの声を偶像化して歩み、自国を失いました。しかし、神のご計画はとても深かったのです。民に対して一度エルサレムを失わせ捕囚の民とし、心から悔い改めて神に立ち返る道を備えておられました。捕囚は単なる黒歴史ではなく、平安に至らせるための試練の道であることが語られているのです。神はいつでも、上記のみことばのように「わたしを呼べ」と招いておられます。あきらめずに、主を呼び求め祈るならば、「あなたがたに耳を傾ける」と言われます。心から呼び求めるなら、「わたしを見つける」と明言されています。家庭、職場、学校、あらゆる場で主を呼び求めましょう。(2018年4月22日 週報掲載)


『神の国にしっかりと属する』

 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。(ルカ11:23) 穀物の収穫の時、一緒に収穫を集めないならば、結局風で吹き飛ばされ散らされてしまいます。羊たちを集め、きちんと囲いに入れてあげなければ、迷子になり狼の餌食となって散らされてしまいます。同じように、神の国のためにイエスに味方し、人々を神の国へ導くお手伝いをしないのでなければ、結局はみな散らされてしまいます。中立という立場はなく、神の国に入らない、協力しないという立場は、悪魔の喜ぶ立ち位置だということを覚えたいのです。この後に続く話は、悪霊を追い出して心を空き家(中立状態)にしておいたままならば、また悪霊たちが戻って来て住むようになり、以前よりも悪くなることが多いというのです。空き家は悪い者に狙われやすいのです。それも二度、三度となると、私たちの心は「あきらめ」が強くなります。ですから、しっかりと神に心の部屋を明け渡して、二度と悪霊が近づかないように豊かに治めていただく必要があります。イエスが部屋の中心に座り、聖霊が部屋の隅々まで美しく飾ってくださり、神の国があなたの心に確立されるのです。(2018年4月15日 週報掲載)


『神の確かな導きにこそより頼む』

 主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らすため火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。(出エジプト13:21 エジプトを脱出できたイスラエルの民でしたが、彼らの心は弱く、困難が起こるたびに心変わりして「エジプトに帰ろう」と言い出す傾向がありました。これは現代を生きる私たちにも共通していることではないでしょうか。環境によって心が揺れ動いてしまい弱気になってしまうことが多々あります。少し前に決断したことでも、しばらくしてその決意を弱めてしまうことがあるのではないでしょうか。このような私たちだからこそ、自らの意志を頼みとして生きるのではなく、私たちの心の弱さまでもご存知の神に導かれて歩むことが、最も確かな道なのです。イスラエルの民は、昼は雲の柱によって日差しから守られ、夜は雲の柱によって道を照らされ、寒さや動物からも守られました。エジプト軍の追撃に対しても、雲がイスラエルの民とエジプト軍の間に入って距離を保つことができ、変化し続ける状況にふさわしく神の助けや導きがもたらされたのです。すべてにおいて神の導きを求めて歩みましょう。(2018年4月8日 週報掲載)


『永遠のいのちがキリストにある』

 そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」(ルカ4:38-39十字架の死後3日目によみがえられたイエス・キリストは、多くの弟子たちの前に確かに現れました。人が克服することのできない「死」への勝利であり、永遠のいのちの保証でありました。それが思い込みや噂で終わることがないように、疑う者には手足のクギのあとを示し、語り合い、焼き魚を目の前で食べて見せました。キリストは確かに肉体をもって復活なさったのです。ただ、そのからだは以前のものとは違い、傷あとはあるものの、もはや朽ちて滅んでいく肉体ではありませんでした。キリストを信じるすべての者は、その永遠のいのちにあずかります。それは苦しみや悲しみ、死からも解放されたいのちの日々。地上での歩みに苦しみはつきものです。しかし、それには必ず終わりが来るのです。復活にあずかり、最後まで信じ続ける者には天国への旅立ちがあります。この永遠のいのちをあなたも受け取りませんか?(2018年4月1日 週報掲載)

『ただ十字架のキリストのみ』

 十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Tコリント1:18十字架へ向かうキリストを理解できた人がどれほどいたでしょうか。神の御子が、ユダヤ人の王が、あの軽蔑の対象である十字架刑に自ら進んで行くなど、到底理解できないことでした。みすぼらしく、無力な敗北者のようにして十字架にかかるキリストを信じる。それは愚の骨頂に見えたはずです。しかし、それを愚かな敗北だと決めつけた人々は、救いから自分を遠ざけ滅びへ向かう者となりました。自分の罪のために神の御子が十字架かかってくださったのに、その罪を認め悔いることもなかったからです。しかし、人々から捨てられたこのキリストによって、人類の救いは成し遂げられ、永遠のいのちがもたらされたのです。滅びに至る者には愚かに見え、救いを得る者にとっては、素晴らしい神の救いのみわざなのです。キリストの死は自ら敗北を選んだように見えて、実は死への勝利であり、滅びからの救いのみわざでした。人の知恵によらず、人の功績によらず、ただ十字架のキリストを信じるのみです。私たちが誇るべきは、自分のきよさや行いではなく、ただ十字架のキリストのみです。(2018年3月25日 週報掲載)


『最後まで愛された主イエス』

 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。(ヨハネ13:4-5 神の御子であるイエスの十字架の死は近づいていました。主イエスはご自身の最後の時に至るまで、ひたすらに弟子たちを愛し続けました。弟子たちの足を師であるイエスが洗うという印象的な出来事です。それは奴隷の仕事であり、奴隷がいない場合は互いに洗い合うのが通例でした。しかし、その夜、弟子たちは互いの足を洗いあう事をしなかったのでしょう。なぜでしょう?他の福音書によれば、弟子たちはこの時、互いに誰が一番偉いのかと議論していたのです。主イエスは弟子たちに、「仕える者」になるよう教えるため、また互いに愛し合うことを大事にさせるため、自ら弟子たちの足を洗われました。主イエスの関心は自分にはなく、愛する弟子たちにありました。裏切る者にさえ最後まで愛を惜しまず、ご自身の救いの恵みに招いておられたのです。足を洗うことを通して、主は十字架による罪のきよめを弟子たちに示し、その愛に生きるようにと仕えることでお示しになったのです。(2018年3月18日 週報掲載)


『聖霊という贈り物』

卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:12-13 
たとえ悪い人であっても自分の子には良い物を与えることは想像できます。そうであるならば、愛と真実に満ちた神が愛する子に良き物を与えないはずがありません。むしろ、いつでも最高のものをくださるのです。それは私たちが欲し物と同じではないでしょう。けれど、私たちが望む以上の良いものをくださるのです。それは、このみことばにあるように、まず聖霊が与えられていることから明らかです。聖霊は私たちの信仰生活に必要不可欠な神の心、神の力です。みことばの真理に導き、救いの喜びで満たし、知恵と力を授け、大胆に宣教のために働いてくださいます。聖霊なしには、救いもなく、救いの恵みを豊かに味わうこともできないでしょう。神ご自身の心、その力をくださるほどですから、他のものも喜んで主は与えてくださるとわかります。あきらめずに神に求め続けましょう。(2018年3月11日 週報掲載)


『過越に見るキリストの十字架』

 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためのしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト12:13 
イエスはこの過越の子羊として、ご自身を十字架にささげられました。罪に対する神のさばきが、キリストの血潮を受けた者たちの上を過ぎ越していくという意味がその背景にあると言えます。私たちは聖餐式の際に、種なしパンを食べて、それがキリストのからだであると覚えてこれを食します。過越の祭りにおいてもそうでした。杯はキリストの流された契約の血であり、私たちはぶどう液の杯を飲むことでこの子羊イエスの血潮を覚えるのです。視覚的に確認できるこの過越の祭りを学ぶことで、私たちはより具体的にキリストの十字架のみわざをイメージすることができるのではないでしょうか。本来はエジプトの長子、初子のように滅ぼされる罪深い者たちでありましたが、子羊イエスの十字架のいのちのささげものによって、罪赦され、恵みの子とされているのです。この恵みを見失うことなく、しっかりと覚え続けてまいりましょう。(2018年3月4日 週報掲載)


『罪の赦しを求める祈り』

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。(ルカ11:4
私たちは共に祈る祈りの群です。個人の祈りも大切ですが、互いのために祈り合い、心を込めて同じ課題のために共に祈ることはさらに豊
かな恵みではないでしょうか。自分のために必死に祈らなくても、兄姉たちが祈ってくれていると信じて、自分の祈りの時間をもっぱら他の人々のためにささげるという考え方もあります。罪の赦しについては、もちろん自分の罪の告白をし、そこに主の十字架の赦しを確認する必要があります。しかし同時に、「私たちの」と祈っているように、共同体としての「とりなしの祈り」がそこに含まれていることも見落としてはいけません。他の兄姉たちの罪についても、互いに自分の事のように主に赦しを求めて祈るとき、「愛は多くの罪をおおう」というみことばの実現をそこに見るような気がします。しかも、私たち自身も他の人を赦しますという告白が、切り離せないものとして存在しているのです。自分の罪、そして他人の罪も共に赦されることを心から願う者となりましょう。さばく群ではなく、どこまでも赦し合う群として、主に喜ばれる歩みをしてまいりましょう。(2018年2月25日 週報掲載)



『私たちの日ごとの糧を・・・』

私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。(ルカ11:3) 
主イエスが教えてくださった祈りの模範「主の祈り」。この祈りはたった一人で祈るだけでなく、共同体の中で心を合わせて祈るものでもあります。その中でも「私の」ではなく「私たちの」日ごとの糧をとの祈りは、自分さえ良ければと言う自己中心から離れて、隣人の必要のためにともに祈るものです。それは使徒時代のように互いの持ち物を分かち合って助け合う共同体の交わり(コイノニア)にも現れています。教会が困っている人々に対して、「きっと大丈夫」と声をかけることしか出来ないとしたら、なんと無力なことでしょうか。私たちはこの祈りを祈るとともに、神の具体的な助けをいただきながら、実際にできることを実行していく必要を覚えるのです。ですから、この祈りは綺麗ごとではなくリアルな必要を求める率直な祈りです。教会のあるべき姿を考える時、困難を覚えている人々が最後の砦と思って逃げ込んで来られる場となり、さらにはそこで学び働き、再生していく機会となることを願うのです。そして、霊的な糧「主のみことば」もまた、しっかりと与えられるようともに祈り続けていきたいと思わされるのです。(2018年2月18日 週報掲載)



『天のお父さまへの祈り』

そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。(ルカ11:2) 
当時、宗教指導者たちはそれぞれの「祈り」を弟子たちに教える傾向がありました。そうした様子を見た主の弟子たちは、イエスに自分たちにも「祈り」を教えて欲しいと求めたのでした。そこで主が教えられた祈りが「主の祈り」です。この祈りは歴史の中で語り継がれ、今日まで世界中のキリスト者が祈っている祈りだと言えます。その初めのことばは「父よ」でありました。本来、「父よ」と親しく呼べる間柄は、神の御子イエスだけの特権であったと言えます。しかしながら、主イエスを信じて受け入れる者には、この特権が同じように与えられたのです。当時の人々はなんて恐れ多いことだと感動しただろうかと想像します。創造主、全知全能の偉大な神に向かって、名前をみだりに唱えてはならないと教えられて来た聖なる神に向かって、「お父さん」と親しく呼べるということは理解を超えた大きな恵みでした。主の祈りは、神と人とを親しく結び合わせる祈りであり、神の子としての特別な恵みのわざなのです。ますます親しく祈る者となりましょう。(2018年2月11日 週報掲載)



『人から信頼され、好意を得る道』

主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。(出エジ11:3) 
主人と奴隷。それがエジプトにおけるエジプト人とイスラエル人の上下関係でした。イスラエルの民は奴隷民として過酷な労働と重税に苦しんで来ました。しかし、そのような環境の中でも神は働いておられ、従う者たちを輝かせました。神の御手の強さを示し、エジプトの人々からモーセを初めとするイスラエルの者が好意や尊敬を得るようになさったのです。戦国時代、忠実なキリシタン大名だった高山右近は、その信仰ゆえに迫害も受けましたが、同時に多くの人の心を動かし大いに尊敬されました。茶人・千利休は彼を弟子として可愛がり、前田利家は禁教令にて追放された右近を加賀に招き、右近とその家族を守りました。右近の影響を受けて多くの大名がキリシタンになったと言われています。異教の地日本であっても、右近の芯のある誠実な信仰者としての姿は、多くの人から信頼と尊敬を受けたのです。自力で好意を得ようと頑張る必要はありません。みことばに忠実に歩めば、人から信頼され好意を得る道を神がまっすぐに整えてくださるのです。
(2018年2月4日 週報掲載)


『ある主の現代病』

主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。 (ルカ10:41-42) 
現代ほど様々なことに同時に注意力を求められる時代はないかも知れません。パソコンで作業をしながら携帯電話をチェックし、スマホを操作しながら人と話し、車を運転しながら営業先の情報を調べるのです。情報が多すぎてどれが正しく、どれを信頼すべきかの判断を失います。いつでも人が自分を見ており、あちこちに防犯カメラがあり、ネット上のやりとりが記録・監視され、発言や行動に慎重さが求められる時代です。人の心がいつでもあまりにも多くの事に割かれ、思い煩いが増し加わり混乱している時代ではないでしょうか。キリストは2000年ほど前に、既にこの問題に対して答えてくださっています。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」と主は言われるのです。そして、必要なことは一つだけであり、それは私たちの魂の牧者主キリストの声に聞くことです。迷える羊が迷わない道は、道を知る羊飼いについて行くことだけで十分ではないでしょうか。主のことばにいつも聞いて歩んでいるのなら、それで十分なのです。(2018年1月28日 週報掲載)



『主イエスの友となったからこそ』

イエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」 (ルカ10:37) 
「良きサマリヤ人」のたとえ話は有名です。強盗に半殺しの目にあって倒れていた旅人の隣人になったのは誰かというお話。同胞であり、しかも神に仕える祭司や律法に詳しいレビ人が、面倒に巻き込まれないよう倒れている者の反対側を通り過ぎていきます。しかし犬猿の仲であり、ユダヤ人が軽蔑しているサマリヤ人が、この人をかわいそうに思って手当し宿まで運び、費用のすべてを面倒見るというお話です。最後のサマリヤ人こそが「隣人」のあるべき姿でした。私たちは同情はしますが、実際にこのように助けを差し伸べることを控えることが多いように思います。かつては私たち自身が倒れていた旅人でした。それをキリストが探し出して手を差し伸べ、私たちをおぶってくださったのです。こうしてキリストは私たちの友(隣人)となってくださいましたが、私たちはどうでしょうか。「誰が私の隣人なのか?」という議論ばかりする律法主義的考えから卒業し、「どうやったらあの人の隣人になれるだろうか?」と主に祈り求める者になりたいものです。「主イエスの友」とさせていただいた私たちなのですから・・・。(2018年1月21日 週報掲載)



誇りとすべき大切なこと

しかし、悪霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20) 
弟子たちはイエスから悪霊を追い出す権威を与えられ、それを誇りとして喜びました。しかし、主イエスはそれを喜びとするのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと言われました。天に名が記されているとは、神に属する者となっているということです。神が人に与えようとしておられる恵みの中で、最も尊いものは「神とのとこしえの交わり」ではないでしょうか。神ご自身を「父」と呼び、その愛の腕に抱かれ安らぎ、神の国のために共に労する喜びがそこにあります。それは、悪霊を服従させる力や、この世における権力や、富や誉とは比べようもないほど豊かで朽ちることのない恵みです。この世での力を誇れば、そこに私たちの心は縛られます。しかし、主は言われるのです。誇る者は、「主を知っていること」を誇れ!と。それは、主なる神と親しい知り合いであること。交わりが豊かにあることに他なりません。知りたいと願っても知りえなかった恵みを、今私たちが豊かに与えられていることを心から感謝しましょう。(2018年1月14日 週報掲載)



主のみおしえを口ずさむ者にならせてください

このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。 (ヨシュア1:8) 
新改訳2017訳では、「律法」と訳されていた部分が「みおしえの書」と訳し直されています。とても良い訳だと思います。それは単なる戒律ではなく、人が生きて行く上で大切な「神の教え」を昼も夜も口ずさめと教えられているからです。「口ずさむ」とは、どういうことでしょうか?あなたが好む歌、気に入った歌詞は、ついつい口ずさむことがあるのではないでしょうか。口ずさむためには、それが心に残り、記憶され、自然と口をついて出て来るものとなっていることが必要です。聖書のみおしえが、あなたにとって大切なものとなるなら、それを守り行うことは自然なことであり、確かに神と共に歩む日々となります。そのような人の人生は豊かに繁栄するのは自明の理です。単なる成句暗唱をするのではなく、主のみおしえを味わい、それを愛し、自然と口ずさむ者となれるよう祈り求めていきませんか。苦しい時も嬉しい時も、主のみおしえがあなたの口にありますように!(2018年1月7日 週報掲載)



一年の感謝を主に〜感謝の質の変化〜

もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。(Uコリント1:6) 
苦しみが苦しみで終わることがない。それは真実な神がおられるゆえに言えることです。このみことばが示すように、私たちの受ける苦しみは、やがて他の人々の慰めとなるためであると明言されています。私たちが苦しむとき祈りが生まれます。自分はもちろんのこと、多くの兄弟姉妹が祈ってくれています。そして、祈りを聞いておられる主がおられるのです。苦しみによって、私たちは自らのおごりを知ります。ひとりでは何もできない自分であることを改めて気づかされ、人の励ましや助けなしにはすぐに倒れてしまう弱い器であると知るのです。しかし、その経験こそが他の人を「慰める力」へと変わります。それどころか、その苦しみの経験が証しとなって、人の救いのためにさえなることをみことばは教えているのです。もし、自分の苦しみのゆえに、ひとりの人が滅びる道から、いのちの道へと救われるならば、どれほど大きな使命をなしたことになるでしょうか。順風満帆による強さと高慢が人をつまずかせることからすれば、なんと豊かな恵みの働きに参与させていただけることでしょう。(2017年12月31日 週報掲載)



キリストの貧しさによって、人が富むとは?

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 (コリントU8:9) 
本気で人を救おうと思うならば、必ず献身が必要になります。時間をささげ、労力をささげ、心を削るようにしてささげます。神は人を愛し、それゆえにご自分を削るようにして低く貧しくなってくださいました。威光と尊厳と栄誉にあふれる神が、その栄光の姿を放棄して人間の中でもとても貧しい家にお生まれになり、身分の高い者が受けることの決してない十字架刑にまで従われました。富んでおられたのに、あなたを救うために貧しくなられた。そこに神の愛があるのです。正しく罪も汚れもない神の御子イエスが、造り主を離れ自分勝手に歩む私たち人間を愛するゆえに、私たちの罪もけがれもその身にすべて負って、十字架にて身代わりにさばきを受けられました。クリスマスは、この本物の愛をもってキリストが私たちの友となるために降誕なさった愛の季節。喜びの季節です。あなたは愛されているのです。この愛によって豊かな者となりませんか?(2017年12月24日 週報掲載)


「神のかたち」としてのキリスト

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 (コロサイ1:15) 
イエス・キリストは、父なる神と共にこの世界のすべてを創造なさいました。その御子キリストが、目に見えない神のお姿を現す者として人の姿となられ、私たち人間の罪の現実に来られたのです。「創造主」と「創造された者」という越えることのできない境界を、神は自ら乗り越えて私たちのもとに来られたのです。見えない神を見える姿で示し、その愛を明らかになさったのです。さらにここには、もう一つの大きな恵みがあります。それはキリストが「神のかたち」であるという点です。創世記によれば、私たちすべての人は「神のかたち」として、神に似た者として造られたとあります。しかし、神に背き自分勝手に歩み始めたことで、「神のかたち」のあるべき姿をあらゆる面で損なってしまったのです。そこに、主キリストがあるべき「神のかたち」として来られました。それこそ私たちが回復すべき「神のかたち」です。その姿はいつでも父なる神と親しく歩む姿。人が神と一緒に生きる!これこそ「神のかたち」に創造された者のあるべき姿であり、ここにシャローム(平安)があるのです。(2017年12月17日 週報掲載)


神の「ことば」としてのキリスト

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)



 福音書の中でも特徴的な書き出しで始まるヨハネの福音書11節です。キリストが「ことば(ロゴス)」と語られていることに戸惑い、首をかしげる人もいるかと思います。なぜ「ことば」と表現されているのでしょうか。その謎は聖書全体を味わうほどに、明らかになるような気がします。神は「ことば」によって世界を創造され、「ことば」によってご自分のみこころを人に伝えておられます。ことばとわざとの間に完全な一致のある神にとって、ことばは心や意志そのものであり、ことばとして語られた事は必ず実現します。そして、キリストこそは神のことばの完全な体現者です。キリストを見れば、神を見たことと等しく(ヨハ14:9)、ひとり子キリストが父なる神を説き明かしたのであり(ヨハ1:18)、新約時代には神はキリストによって語られた(ヘブ1:1-2)と聖書が示している通りです。見ることも、はかり知ることもできない神ご自身の事を、私たちはイエス・キリストという神のことばを通して、鮮明に具体的に知ることができるのです。クリスマスは神がご自分から人に近づき、現された喜びの知らせなのです。
(2017年12月10日 週報掲載)


ご自分から歩み寄って来られる神


 私たちが自分の罪にがく然とする時、このような者が教会に行っていいのだろうかと考えます。イエスが何かも見抜いておられるのではないかとペテロが感じた時、「自分から離れてください、自分は罪深い者ですから」と言った場面は、まさにそのような人間の姿を現しています。私たちはどんなに良い行いを繰り返しても、それと同時に罪を重ねています。良い行いでさえ自分の利益のためにしていることが多いのではないでしょうか。ですから、自分の力で救いを獲得しようと思うこと自体、私たち人間のおごりであり、罪深さの象徴です。このように、自分では決して自分を救えない人間のために、神はご自分から近づいてくださいました。歩み寄ってくださいました。最も大切な、ご自身のひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです。これこそが真のクリスマスプレゼントです。他のどんな宗教にも、ここまで神の側から近寄って一方的に愛を示してくれているものはありません。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハ4:10) (2017年12月3日 週報掲載)


霊的成熟目指して・・・「完全におとなになる」とは? 

 関東南地区修養会は、多くの参加者が与えられました。丸屋先生を通して「霊的成熟目指して」というテーマで学びました。私たちが目指すべきは、聖書が語るように「完全におとなになること」です。この完全さとは、絶対的完全さではなく相対的完全さだということでした。ですから、私たち誰もが目指すことができます。その完全という意味は「もうこれで良い」と立ち止まらず、成長が必要な者であると受け止めて、変えられ続けていく姿を現しています。幼い信仰者ほど、行いの達成に満足し高慢になって成長をやめてしまいます。もう一つの完全という意味は、部分ではなく全体という意味です。知識だけが突出するということでなく、奉仕を多くやっていれば成熟しているということでもなく、生活や人格の全般において深く取り扱われて調和している姿です。間違った「クリスチャンらしさ」を意識していくとき、私たちは律法主義の罠にはまり、聖書からいつの間にか離れてしまいます。成熟のために必要なこととしては、@自身の姿と真実に向き合うこと、A主がくださる祝福自体を目的とせず、主に従うことを喜びとすること、B自分自身を赦すこととまとめてくださいました。(2017年11月26日 週報掲載)


試練はこれでもかとやって来るけれど・・・

 
どうにもできない出来事が、予想不能なところから起こるのが私たちの人生です。これから良くなるかと思いきや、急な突風にあおられ大怪我をするということが起こるのだと痛感します。祖母、おじと急逝し、両親が相次いで入院を繰り返す日々となり頭を悩ませます。牧会・会堂建設、自身の課題、健康の試み、そして子どもたちのことだけでも容量が足らない私には、少々荷がかち過ぎているとさえ感じてしまいます。目の前の試練の山々に恐れをいだき、心が折れそうになるのです。しかし、その山をよく見ると、試練と思われた山は愛の神がお造りになられたものであると気づかされます。試練を与える同じ主から、豊かな助けと確かな守りが与えられるのです。試練の山ばかりを見る私たちですが、険しい山々の背後に愛に満ちた主のお姿があるのです。何を見るべきか問われます。試練の意味はすぐにはわかりませんわかった気にならなくて良いのです。ただ、その時に少なくとも本気で主にすがることができるのなら、求めることができるのなら幸いです。まことのいのちを損じたら、どんなに成功しても意味がありません。もっと深く、もっと大胆に主の恵みの御座に近づいていきましょう。
(2017年11月19日 週報掲載)


「よくなりたいか」とたずねられた時に
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」  (ヨハネ5:6)
よくなりたいか」とこれ以上ないほど率直に主イエスはたずねました。この問いは、唯一私たちを救いへ導く力を持つ方の言葉です。次のものは、高橋秀典師の著作『心を生かす祈り』に引用されているルターの言葉です。「たとい千回、一日に千回、姦淫と殺人の罪を犯そうとも、罪は彼からわれわれを引き離しはしない。考えてもみ給え、われわれの罪のためにこんなに大きな小羊によってなされた賠償額がそんなに小さいものであろうか。雄々しく祈り給え。君は最も断固たる罪人なのだから」とても励まされる内容で、私たちが何をすべきかが示されています。私たちは自分の罪深さに絶望します。しかし、その絶望をはるかに上回る救いの希望が小羊イエスにはあるということです。大切なことは、断固たる罪人である自分のリアルな現実を受け止め、キリストを大胆に信じて雄々しく祈ることです。祈りすがることさえ消極的な私たちですが、「よくなりたいか」と聞いてくださるイエスに、「もちろんです。ぜひ!」と大胆に信じて、雄々しく祈る者となりましょう。
(2017年11月12日 週報掲載)

「弱さを引き受け、弱さ中で神と共に生きる」
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(Uコリ11:30)



 臨床心理士の藤掛明氏は、「弱さを克服して強い人になるのではなく、 弱さを受け入れて弱さに生きる」ことを勧めています。誰もが何事にも動じない強さを求めて生きようとします。強い信念を持ち、ゆるぎない意志で道を切り開き、試練を乗り越え強くなろうとするのです。しかし、イエスの姿を見ても、強さを脇に置いて弱さを身にまとわれたことに気づかされます。だからこそ、子どもたち、罪人たち、身分の低い者などがイエスのもとに集まることができたのです。一見魅力的に見える「強さ」というものは、強固な意志や肉体的強さなどを土台としますから、神様のあわれみや人の助けを退けることも多いのです。エジプトの王パロは、まさに権力も部下も持ち合わせ、自分の主張を曲げない強情さを持っていました。9つの災いを受けても、意地を張り、奴隷であるイスラエルを解放しませんでした。しかし、その強情さのゆえに痛み苦しんだのは、他でもないエジプトの民でした。強者のかたくなな姿勢は、自分だけではなく他者をも巻き込み傷つけます。砕かれ謙遜に神に近づいてまいりましょう。
(2017年11月5日 週報掲載)