サンライズ ショートメッセージ 「主のみことば」           

『最後まで愛された主イエス』

 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。(ヨハネ13:4-5 神の御子であるイエスの十字架の死は近づいていました。主イエスはご自身の最後の時に至るまで、ひたすらに弟子たちを愛し続けました。弟子たちの足を師であるイエスが洗うという印象的な出来事です。それは奴隷の仕事であり、奴隷がいない場合は互いに洗い合うのが通例でした。しかし、その夜、弟子たちは互いの足を洗いあう事をしなかったのでしょう。なぜでしょう?他の福音書によれば、弟子たちはこの時、互いに誰が一番偉いのかと議論していたのです。主イエスは弟子たちに、「仕える者」になるよう教えるため、また互いに愛し合うことを大事にさせるため、自ら弟子たちの足を洗われました。主イエスの関心は自分にはなく、愛する弟子たちにありました。裏切る者にさえ最後まで愛を惜しまず、ご自身の救いの恵みに招いておられたのです。足を洗うことを通して、主は十字架による罪のきよめを弟子たちに示し、その愛に生きるようにと仕えることでお示しになったのです。(2018年3月18日 週報掲載)


『聖霊という贈り物』

卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:12-13 
たとえ悪い人であっても自分の子には良い物を与えることは想像できます。そうであるならば、愛と真実に満ちた神が愛する子に良き物を与えないはずがありません。むしろ、いつでも最高のものをくださるのです。それは私たちが欲し物と同じではないでしょう。けれど、私たちが望む以上の良いものをくださるのです。それは、このみことばにあるように、まず聖霊が与えられていることから明らかです。聖霊は私たちの信仰生活に必要不可欠な神の心、神の力です。みことばの真理に導き、救いの喜びで満たし、知恵と力を授け、大胆に宣教のために働いてくださいます。聖霊なしには、救いもなく、救いの恵みを豊かに味わうこともできないでしょう。神ご自身の心、その力をくださるほどですから、他のものも喜んで主は与えてくださるとわかります。あきらめずに神に求め続けましょう。(2018年3月11日 週報掲載)


『過越に見るキリストの十字架』

 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためのしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。(出エジプト12:13 
イエスはこの過越の子羊として、ご自身を十字架にささげられました。罪に対する神のさばきが、キリストの血潮を受けた者たちの上を過ぎ越していくという意味がその背景にあると言えます。私たちは聖餐式の際に、種なしパンを食べて、それがキリストのからだであると覚えてこれを食します。過越の祭りにおいてもそうでした。杯はキリストの流された契約の血であり、私たちはぶどう液の杯を飲むことでこの子羊イエスの血潮を覚えるのです。視覚的に確認できるこの過越の祭りを学ぶことで、私たちはより具体的にキリストの十字架のみわざをイメージすることができるのではないでしょうか。本来はエジプトの長子、初子のように滅ぼされる罪深い者たちでありましたが、子羊イエスの十字架のいのちのささげものによって、罪赦され、恵みの子とされているのです。この恵みを見失うことなく、しっかりと覚え続けてまいりましょう。(2018年3月4日 週報掲載)


『罪の赦しを求める祈り』

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。(ルカ11:4
私たちは共に祈る祈りの群です。個人の祈りも大切ですが、互いのために祈り合い、心を込めて同じ課題のために共に祈ることはさらに豊
かな恵みではないでしょうか。自分のために必死に祈らなくても、兄姉たちが祈ってくれていると信じて、自分の祈りの時間をもっぱら他の人々のためにささげるという考え方もあります。罪の赦しについては、もちろん自分の罪の告白をし、そこに主の十字架の赦しを確認する必要があります。しかし同時に、「私たちの」と祈っているように、共同体としての「とりなしの祈り」がそこに含まれていることも見落としてはいけません。他の兄姉たちの罪についても、互いに自分の事のように主に赦しを求めて祈るとき、「愛は多くの罪をおおう」というみことばの実現をそこに見るような気がします。しかも、私たち自身も他の人を赦しますという告白が、切り離せないものとして存在しているのです。自分の罪、そして他人の罪も共に赦されることを心から願う者となりましょう。さばく群ではなく、どこまでも赦し合う群として、主に喜ばれる歩みをしてまいりましょう。(2018年2月25日 週報掲載)



『私たちの日ごとの糧を・・・』

私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。(ルカ11:3) 
主イエスが教えてくださった祈りの模範「主の祈り」。この祈りはたった一人で祈るだけでなく、共同体の中で心を合わせて祈るものでもあります。その中でも「私の」ではなく「私たちの」日ごとの糧をとの祈りは、自分さえ良ければと言う自己中心から離れて、隣人の必要のためにともに祈るものです。それは使徒時代のように互いの持ち物を分かち合って助け合う共同体の交わり(コイノニア)にも現れています。教会が困っている人々に対して、「きっと大丈夫」と声をかけることしか出来ないとしたら、なんと無力なことでしょうか。私たちはこの祈りを祈るとともに、神の具体的な助けをいただきながら、実際にできることを実行していく必要を覚えるのです。ですから、この祈りは綺麗ごとではなくリアルな必要を求める率直な祈りです。教会のあるべき姿を考える時、困難を覚えている人々が最後の砦と思って逃げ込んで来られる場となり、さらにはそこで学び働き、再生していく機会となることを願うのです。そして、霊的な糧「主のみことば」もまた、しっかりと与えられるようともに祈り続けていきたいと思わされるのです。(2018年2月18日 週報掲載)



『天のお父さまへの祈り』

そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。(ルカ11:2) 
当時、宗教指導者たちはそれぞれの「祈り」を弟子たちに教える傾向がありました。そうした様子を見た主の弟子たちは、イエスに自分たちにも「祈り」を教えて欲しいと求めたのでした。そこで主が教えられた祈りが「主の祈り」です。この祈りは歴史の中で語り継がれ、今日まで世界中のキリスト者が祈っている祈りだと言えます。その初めのことばは「父よ」でありました。本来、「父よ」と親しく呼べる間柄は、神の御子イエスだけの特権であったと言えます。しかしながら、主イエスを信じて受け入れる者には、この特権が同じように与えられたのです。当時の人々はなんて恐れ多いことだと感動しただろうかと想像します。創造主、全知全能の偉大な神に向かって、名前をみだりに唱えてはならないと教えられて来た聖なる神に向かって、「お父さん」と親しく呼べるということは理解を超えた大きな恵みでした。主の祈りは、神と人とを親しく結び合わせる祈りであり、神の子としての特別な恵みのわざなのです。ますます親しく祈る者となりましょう。(2018年2月11日 週報掲載)



『人から信頼され、好意を得る道』

主は、エジプトがこの民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの地でファラオの家臣と民にたいへん尊敬された。(出エジ11:3) 
主人と奴隷。それがエジプトにおけるエジプト人とイスラエル人の上下関係でした。イスラエルの民は奴隷民として過酷な労働と重税に苦しんで来ました。しかし、そのような環境の中でも神は働いておられ、従う者たちを輝かせました。神の御手の強さを示し、エジプトの人々からモーセを初めとするイスラエルの者が好意や尊敬を得るようになさったのです。戦国時代、忠実なキリシタン大名だった高山右近は、その信仰ゆえに迫害も受けましたが、同時に多くの人の心を動かし大いに尊敬されました。茶人・千利休は彼を弟子として可愛がり、前田利家は禁教令にて追放された右近を加賀に招き、右近とその家族を守りました。右近の影響を受けて多くの大名がキリシタンになったと言われています。異教の地日本であっても、右近の芯のある誠実な信仰者としての姿は、多くの人から信頼と尊敬を受けたのです。自力で好意を得ようと頑張る必要はありません。みことばに忠実に歩めば、人から信頼され好意を得る道を神がまっすぐに整えてくださるのです。
(2018年2月4日 週報掲載)


『ある主の現代病』

主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。 (ルカ10:41-42) 
現代ほど様々なことに同時に注意力を求められる時代はないかも知れません。パソコンで作業をしながら携帯電話をチェックし、スマホを操作しながら人と話し、車を運転しながら営業先の情報を調べるのです。情報が多すぎてどれが正しく、どれを信頼すべきかの判断を失います。いつでも人が自分を見ており、あちこちに防犯カメラがあり、ネット上のやりとりが記録・監視され、発言や行動に慎重さが求められる時代です。人の心がいつでもあまりにも多くの事に割かれ、思い煩いが増し加わり混乱している時代ではないでしょうか。キリストは2000年ほど前に、既にこの問題に対して答えてくださっています。「あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」と主は言われるのです。そして、必要なことは一つだけであり、それは私たちの魂の牧者主キリストの声に聞くことです。迷える羊が迷わない道は、道を知る羊飼いについて行くことだけで十分ではないでしょうか。主のことばにいつも聞いて歩んでいるのなら、それで十分なのです。(2018年1月28日 週報掲載)



『主イエスの友となったからこそ』

イエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」 (ルカ10:37) 
「良きサマリヤ人」のたとえ話は有名です。強盗に半殺しの目にあって倒れていた旅人の隣人になったのは誰かというお話。同胞であり、しかも神に仕える祭司や律法に詳しいレビ人が、面倒に巻き込まれないよう倒れている者の反対側を通り過ぎていきます。しかし犬猿の仲であり、ユダヤ人が軽蔑しているサマリヤ人が、この人をかわいそうに思って手当し宿まで運び、費用のすべてを面倒見るというお話です。最後のサマリヤ人こそが「隣人」のあるべき姿でした。私たちは同情はしますが、実際にこのように助けを差し伸べることを控えることが多いように思います。かつては私たち自身が倒れていた旅人でした。それをキリストが探し出して手を差し伸べ、私たちをおぶってくださったのです。こうしてキリストは私たちの友(隣人)となってくださいましたが、私たちはどうでしょうか。「誰が私の隣人なのか?」という議論ばかりする律法主義的考えから卒業し、「どうやったらあの人の隣人になれるだろうか?」と主に祈り求める者になりたいものです。「主イエスの友」とさせていただいた私たちなのですから・・・。(2018年1月21日 週報掲載)



誇りとすべき大切なこと

しかし、悪霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20) 
弟子たちはイエスから悪霊を追い出す権威を与えられ、それを誇りとして喜びました。しかし、主イエスはそれを喜びとするのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさいと言われました。天に名が記されているとは、神に属する者となっているということです。神が人に与えようとしておられる恵みの中で、最も尊いものは「神とのとこしえの交わり」ではないでしょうか。神ご自身を「父」と呼び、その愛の腕に抱かれ安らぎ、神の国のために共に労する喜びがそこにあります。それは、悪霊を服従させる力や、この世における権力や、富や誉とは比べようもないほど豊かで朽ちることのない恵みです。この世での力を誇れば、そこに私たちの心は縛られます。しかし、主は言われるのです。誇る者は、「主を知っていること」を誇れ!と。それは、主なる神と親しい知り合いであること。交わりが豊かにあることに他なりません。知りたいと願っても知りえなかった恵みを、今私たちが豊かに与えられていることを心から感謝しましょう。(2018年1月14日 週報掲載)



主のみおしえを口ずさむ者にならせてください

このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。 (ヨシュア1:8) 
新改訳2017訳では、「律法」と訳されていた部分が「みおしえの書」と訳し直されています。とても良い訳だと思います。それは単なる戒律ではなく、人が生きて行く上で大切な「神の教え」を昼も夜も口ずさめと教えられているからです。「口ずさむ」とは、どういうことでしょうか?あなたが好む歌、気に入った歌詞は、ついつい口ずさむことがあるのではないでしょうか。口ずさむためには、それが心に残り、記憶され、自然と口をついて出て来るものとなっていることが必要です。聖書のみおしえが、あなたにとって大切なものとなるなら、それを守り行うことは自然なことであり、確かに神と共に歩む日々となります。そのような人の人生は豊かに繁栄するのは自明の理です。単なる成句暗唱をするのではなく、主のみおしえを味わい、それを愛し、自然と口ずさむ者となれるよう祈り求めていきませんか。苦しい時も嬉しい時も、主のみおしえがあなたの口にありますように!(2018年1月7日 週報掲載)



一年の感謝を主に〜感謝の質の変化〜

もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。(Uコリント1:6) 
苦しみが苦しみで終わることがない。それは真実な神がおられるゆえに言えることです。このみことばが示すように、私たちの受ける苦しみは、やがて他の人々の慰めとなるためであると明言されています。私たちが苦しむとき祈りが生まれます。自分はもちろんのこと、多くの兄弟姉妹が祈ってくれています。そして、祈りを聞いておられる主がおられるのです。苦しみによって、私たちは自らのおごりを知ります。ひとりでは何もできない自分であることを改めて気づかされ、人の励ましや助けなしにはすぐに倒れてしまう弱い器であると知るのです。しかし、その経験こそが他の人を「慰める力」へと変わります。それどころか、その苦しみの経験が証しとなって、人の救いのためにさえなることをみことばは教えているのです。もし、自分の苦しみのゆえに、ひとりの人が滅びる道から、いのちの道へと救われるならば、どれほど大きな使命をなしたことになるでしょうか。順風満帆による強さと高慢が人をつまずかせることからすれば、なんと豊かな恵みの働きに参与させていただけることでしょう。(2017年12月31日 週報掲載)



キリストの貧しさによって、人が富むとは?

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。 (コリントU8:9) 
本気で人を救おうと思うならば、必ず献身が必要になります。時間をささげ、労力をささげ、心を削るようにしてささげます。神は人を愛し、それゆえにご自分を削るようにして低く貧しくなってくださいました。威光と尊厳と栄誉にあふれる神が、その栄光の姿を放棄して人間の中でもとても貧しい家にお生まれになり、身分の高い者が受けることの決してない十字架刑にまで従われました。富んでおられたのに、あなたを救うために貧しくなられた。そこに神の愛があるのです。正しく罪も汚れもない神の御子イエスが、造り主を離れ自分勝手に歩む私たち人間を愛するゆえに、私たちの罪もけがれもその身にすべて負って、十字架にて身代わりにさばきを受けられました。クリスマスは、この本物の愛をもってキリストが私たちの友となるために降誕なさった愛の季節。喜びの季節です。あなたは愛されているのです。この愛によって豊かな者となりませんか?(2017年12月24日 週報掲載)


「神のかたち」としてのキリスト

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。 (コロサイ1:15) 
イエス・キリストは、父なる神と共にこの世界のすべてを創造なさいました。その御子キリストが、目に見えない神のお姿を現す者として人の姿となられ、私たち人間の罪の現実に来られたのです。「創造主」と「創造された者」という越えることのできない境界を、神は自ら乗り越えて私たちのもとに来られたのです。見えない神を見える姿で示し、その愛を明らかになさったのです。さらにここには、もう一つの大きな恵みがあります。それはキリストが「神のかたち」であるという点です。創世記によれば、私たちすべての人は「神のかたち」として、神に似た者として造られたとあります。しかし、神に背き自分勝手に歩み始めたことで、「神のかたち」のあるべき姿をあらゆる面で損なってしまったのです。そこに、主キリストがあるべき「神のかたち」として来られました。それこそ私たちが回復すべき「神のかたち」です。その姿はいつでも父なる神と親しく歩む姿。人が神と一緒に生きる!これこそ「神のかたち」に創造された者のあるべき姿であり、ここにシャローム(平安)があるのです。(2017年12月17日 週報掲載)


神の「ことば」としてのキリスト

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)



 福音書の中でも特徴的な書き出しで始まるヨハネの福音書11節です。キリストが「ことば(ロゴス)」と語られていることに戸惑い、首をかしげる人もいるかと思います。なぜ「ことば」と表現されているのでしょうか。その謎は聖書全体を味わうほどに、明らかになるような気がします。神は「ことば」によって世界を創造され、「ことば」によってご自分のみこころを人に伝えておられます。ことばとわざとの間に完全な一致のある神にとって、ことばは心や意志そのものであり、ことばとして語られた事は必ず実現します。そして、キリストこそは神のことばの完全な体現者です。キリストを見れば、神を見たことと等しく(ヨハ14:9)、ひとり子キリストが父なる神を説き明かしたのであり(ヨハ1:18)、新約時代には神はキリストによって語られた(ヘブ1:1-2)と聖書が示している通りです。見ることも、はかり知ることもできない神ご自身の事を、私たちはイエス・キリストという神のことばを通して、鮮明に具体的に知ることができるのです。クリスマスは神がご自分から人に近づき、現された喜びの知らせなのです。
(2017年12月10日 週報掲載)


ご自分から歩み寄って来られる神


 私たちが自分の罪にがく然とする時、このような者が教会に行っていいのだろうかと考えます。イエスが何かも見抜いておられるのではないかとペテロが感じた時、「自分から離れてください、自分は罪深い者ですから」と言った場面は、まさにそのような人間の姿を現しています。私たちはどんなに良い行いを繰り返しても、それと同時に罪を重ねています。良い行いでさえ自分の利益のためにしていることが多いのではないでしょうか。ですから、自分の力で救いを獲得しようと思うこと自体、私たち人間のおごりであり、罪深さの象徴です。このように、自分では決して自分を救えない人間のために、神はご自分から近づいてくださいました。歩み寄ってくださいました。最も大切な、ご自身のひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです。これこそが真のクリスマスプレゼントです。他のどんな宗教にも、ここまで神の側から近寄って一方的に愛を示してくれているものはありません。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハ4:10) (2017年12月3日 週報掲載)


霊的成熟目指して・・・「完全におとなになる」とは? 

 関東南地区修養会は、多くの参加者が与えられました。丸屋先生を通して「霊的成熟目指して」というテーマで学びました。私たちが目指すべきは、聖書が語るように「完全におとなになること」です。この完全さとは、絶対的完全さではなく相対的完全さだということでした。ですから、私たち誰もが目指すことができます。その完全という意味は「もうこれで良い」と立ち止まらず、成長が必要な者であると受け止めて、変えられ続けていく姿を現しています。幼い信仰者ほど、行いの達成に満足し高慢になって成長をやめてしまいます。もう一つの完全という意味は、部分ではなく全体という意味です。知識だけが突出するということでなく、奉仕を多くやっていれば成熟しているということでもなく、生活や人格の全般において深く取り扱われて調和している姿です。間違った「クリスチャンらしさ」を意識していくとき、私たちは律法主義の罠にはまり、聖書からいつの間にか離れてしまいます。成熟のために必要なこととしては、@自身の姿と真実に向き合うこと、A主がくださる祝福自体を目的とせず、主に従うことを喜びとすること、B自分自身を赦すこととまとめてくださいました。(2017年11月26日 週報掲載)


試練はこれでもかとやって来るけれど・・・

 
どうにもできない出来事が、予想不能なところから起こるのが私たちの人生です。これから良くなるかと思いきや、急な突風にあおられ大怪我をするということが起こるのだと痛感します。祖母、おじと急逝し、両親が相次いで入院を繰り返す日々となり頭を悩ませます。牧会・会堂建設、自身の課題、健康の試み、そして子どもたちのことだけでも容量が足らない私には、少々荷がかち過ぎているとさえ感じてしまいます。目の前の試練の山々に恐れをいだき、心が折れそうになるのです。しかし、その山をよく見ると、試練と思われた山は愛の神がお造りになられたものであると気づかされます。試練を与える同じ主から、豊かな助けと確かな守りが与えられるのです。試練の山ばかりを見る私たちですが、険しい山々の背後に愛に満ちた主のお姿があるのです。何を見るべきか問われます。試練の意味はすぐにはわかりませんわかった気にならなくて良いのです。ただ、その時に少なくとも本気で主にすがることができるのなら、求めることができるのなら幸いです。まことのいのちを損じたら、どんなに成功しても意味がありません。もっと深く、もっと大胆に主の恵みの御座に近づいていきましょう。
(2017年11月19日 週報掲載)


「よくなりたいか」とたずねられた時に
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」  (ヨハネ5:6)
よくなりたいか」とこれ以上ないほど率直に主イエスはたずねました。この問いは、唯一私たちを救いへ導く力を持つ方の言葉です。次のものは、高橋秀典師の著作『心を生かす祈り』に引用されているルターの言葉です。「たとい千回、一日に千回、姦淫と殺人の罪を犯そうとも、罪は彼からわれわれを引き離しはしない。考えてもみ給え、われわれの罪のためにこんなに大きな小羊によってなされた賠償額がそんなに小さいものであろうか。雄々しく祈り給え。君は最も断固たる罪人なのだから」とても励まされる内容で、私たちが何をすべきかが示されています。私たちは自分の罪深さに絶望します。しかし、その絶望をはるかに上回る救いの希望が小羊イエスにはあるということです。大切なことは、断固たる罪人である自分のリアルな現実を受け止め、キリストを大胆に信じて雄々しく祈ることです。祈りすがることさえ消極的な私たちですが、「よくなりたいか」と聞いてくださるイエスに、「もちろんです。ぜひ!」と大胆に信じて、雄々しく祈る者となりましょう。
(2017年11月12日 週報掲載)

「弱さを引き受け、弱さ中で神と共に生きる」
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(Uコリ11:30)



 臨床心理士の藤掛明氏は、「弱さを克服して強い人になるのではなく、 弱さを受け入れて弱さに生きる」ことを勧めています。誰もが何事にも動じない強さを求めて生きようとします。強い信念を持ち、ゆるぎない意志で道を切り開き、試練を乗り越え強くなろうとするのです。しかし、イエスの姿を見ても、強さを脇に置いて弱さを身にまとわれたことに気づかされます。だからこそ、子どもたち、罪人たち、身分の低い者などがイエスのもとに集まることができたのです。一見魅力的に見える「強さ」というものは、強固な意志や肉体的強さなどを土台としますから、神様のあわれみや人の助けを退けることも多いのです。エジプトの王パロは、まさに権力も部下も持ち合わせ、自分の主張を曲げない強情さを持っていました。9つの災いを受けても、意地を張り、奴隷であるイスラエルを解放しませんでした。しかし、その強情さのゆえに痛み苦しんだのは、他でもないエジプトの民でした。強者のかたくなな姿勢は、自分だけではなく他者をも巻き込み傷つけます。砕かれ謙遜に神に近づいてまいりましょう。
(2017年11月5日 週報掲載)