サンライズ ショートメッセージ 「主のみことば」           


神の「ことば」としてのキリスト

 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(ヨハネ1:1)



 福音書の中でも特徴的な書き出しで始まるヨハネの福音書11節です。キリストが「ことば(ロゴス)」と語られていることに戸惑い、首をかしげる人もいるかと思います。なぜ「ことば」と表現されているのでしょうか。その謎は聖書全体を味わうほどに、明らかになるような気がします。神は「ことば」によって世界を創造され、「ことば」によってご自分のみこころを人に伝えておられます。ことばとわざとの間に完全な一致のある神にとって、ことばは心や意志そのものであり、ことばとして語られた事は必ず実現します。そして、キリストこそは神のことばの完全な体現者です。キリストを見れば、神を見たことと等しく(ヨハ14:9)、ひとり子キリストが父なる神を説き明かしたのであり(ヨハ1:18)、新約時代には神はキリストによって語られた(ヘブ1:1-2)と聖書が示している通りです。見ることも、はかり知ることもできない神ご自身の事を、私たちはイエス・キリストという神のことばを通して、鮮明に具体的に知ることができるのです。クリスマスは神がご自分から人に近づき、現された喜びの知らせなのです。
(2017年12月10日 週報掲載)


ご自分から歩み寄って来られる神


 私たちが自分の罪にがく然とする時、このような者が教会に行っていいのだろうかと考えます。イエスが何かも見抜いておられるのではないかとペテロが感じた時、「自分から離れてください、自分は罪深い者ですから」と言った場面は、まさにそのような人間の姿を現しています。私たちはどんなに良い行いを繰り返しても、それと同時に罪を重ねています。良い行いでさえ自分の利益のためにしていることが多いのではないでしょうか。ですから、自分の力で救いを獲得しようと思うこと自体、私たち人間のおごりであり、罪深さの象徴です。このように、自分では決して自分を救えない人間のために、神はご自分から近づいてくださいました。歩み寄ってくださいました。最も大切な、ご自身のひとり子イエス・キリストを与えてくださったのです。これこそが真のクリスマスプレゼントです。他のどんな宗教にも、ここまで神の側から近寄って一方的に愛を示してくれているものはありません。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(Tヨハ4:10) (2017年12月3日 週報掲載)


霊的成熟目指して・・・「完全におとなになる」とは? 

 関東南地区修養会は、多くの参加者が与えられました。丸屋先生を通して「霊的成熟目指して」というテーマで学びました。私たちが目指すべきは、聖書が語るように「完全におとなになること」です。この完全さとは、絶対的完全さではなく相対的完全さだということでした。ですから、私たち誰もが目指すことができます。その完全という意味は「もうこれで良い」と立ち止まらず、成長が必要な者であると受け止めて、変えられ続けていく姿を現しています。幼い信仰者ほど、行いの達成に満足し高慢になって成長をやめてしまいます。もう一つの完全という意味は、部分ではなく全体という意味です。知識だけが突出するということでなく、奉仕を多くやっていれば成熟しているということでもなく、生活や人格の全般において深く取り扱われて調和している姿です。間違った「クリスチャンらしさ」を意識していくとき、私たちは律法主義の罠にはまり、聖書からいつの間にか離れてしまいます。成熟のために必要なこととしては、@自身の姿と真実に向き合うこと、A主がくださる祝福自体を目的とせず、主に従うことを喜びとすること、B自分自身を赦すこととまとめてくださいました。(2017年11月26日 週報掲載)


試練はこれでもかとやって来るけれど・・・

 
どうにもできない出来事が、予想不能なところから起こるのが私たちの人生です。これから良くなるかと思いきや、急な突風にあおられ大怪我をするということが起こるのだと痛感します。祖母、おじと急逝し、両親が相次いで入院を繰り返す日々となり頭を悩ませます。牧会・会堂建設、自身の課題、健康の試み、そして子どもたちのことだけでも容量が足らない私には、少々荷がかち過ぎているとさえ感じてしまいます。目の前の試練の山々に恐れをいだき、心が折れそうになるのです。しかし、その山をよく見ると、試練と思われた山は愛の神がお造りになられたものであると気づかされます。試練を与える同じ主から、豊かな助けと確かな守りが与えられるのです。試練の山ばかりを見る私たちですが、険しい山々の背後に愛に満ちた主のお姿があるのです。何を見るべきか問われます。試練の意味はすぐにはわかりませんわかった気にならなくて良いのです。ただ、その時に少なくとも本気で主にすがることができるのなら、求めることができるのなら幸いです。まことのいのちを損じたら、どんなに成功しても意味がありません。もっと深く、もっと大胆に主の恵みの御座に近づいていきましょう。
(2017年11月19日 週報掲載)


「よくなりたいか」とたずねられた時に
イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」  (ヨハネ5:6)
よくなりたいか」とこれ以上ないほど率直に主イエスはたずねました。この問いは、唯一私たちを救いへ導く力を持つ方の言葉です。次のものは、高橋秀典師の著作『心を生かす祈り』に引用されているルターの言葉です。「たとい千回、一日に千回、姦淫と殺人の罪を犯そうとも、罪は彼からわれわれを引き離しはしない。考えてもみ給え、われわれの罪のためにこんなに大きな小羊によってなされた賠償額がそんなに小さいものであろうか。雄々しく祈り給え。君は最も断固たる罪人なのだから」とても励まされる内容で、私たちが何をすべきかが示されています。私たちは自分の罪深さに絶望します。しかし、その絶望をはるかに上回る救いの希望が小羊イエスにはあるということです。大切なことは、断固たる罪人である自分のリアルな現実を受け止め、キリストを大胆に信じて雄々しく祈ることです。祈りすがることさえ消極的な私たちですが、「よくなりたいか」と聞いてくださるイエスに、「もちろんです。ぜひ!」と大胆に信じて、雄々しく祈る者となりましょう。
(2017年11月12日 週報掲載)

「弱さを引き受け、弱さ中で神と共に生きる」
もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。(Uコリ11:30)



 臨床心理士の藤掛明氏は、「弱さを克服して強い人になるのではなく、 弱さを受け入れて弱さに生きる」ことを勧めています。誰もが何事にも動じない強さを求めて生きようとします。強い信念を持ち、ゆるぎない意志で道を切り開き、試練を乗り越え強くなろうとするのです。しかし、イエスの姿を見ても、強さを脇に置いて弱さを身にまとわれたことに気づかされます。だからこそ、子どもたち、罪人たち、身分の低い者などがイエスのもとに集まることができたのです。一見魅力的に見える「強さ」というものは、強固な意志や肉体的強さなどを土台としますから、神様のあわれみや人の助けを退けることも多いのです。エジプトの王パロは、まさに権力も部下も持ち合わせ、自分の主張を曲げない強情さを持っていました。9つの災いを受けても、意地を張り、奴隷であるイスラエルを解放しませんでした。しかし、その強情さのゆえに痛み苦しんだのは、他でもないエジプトの民でした。強者のかたくなな姿勢は、自分だけではなく他者をも巻き込み傷つけます。砕かれ謙遜に神に近づいてまいりましょう。
(2017年11月5日 週報掲載)