東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 12月 2019

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2019/12/29

感謝!意味のない苦しみはない



哀歌331-33節「感謝!意味のない苦しみはない」

「本物の感謝は成功の連続の中では生まれて来ない」
 
 年を経るに連れて、その思いが強くなっています。
 
自分自身も多くの失敗や挫折を味わい、また多くの人と出会い話を伺えば伺うほど、そう感じるのです。
 
痛みや苦しみを通った方の「感謝」のことばには、やはり重みや深みを感じるのです。皆さんはどうでしょうか?
 
何もかもがうまくいっている時も感謝でしょう。けれども、目の前に起きている良いことを喜ぶのは当然なのですから、その感謝は聖書信仰なしでも可能な感謝でしょう。
 
しかし、キリスト者の特権は、「人の目には感謝することが難しい状況」を、神様によって感謝させていただけることです。一年を振り返る時に、良いことばかりのはずがありません。それでもなお、私たちが神様に感謝する理由は、あらゆる出来事の中に主なる神様の御手があるからです。

 神を知らない人は、「嫌なことは忘れよう」と考えます。しかし、神を知る者は、嫌なこともまた神の御手の中で起こっていることを受け止めるのです。神を信じる者にとって、様々な試練や困難は、偶然起こっていることでもなく、神様が悪意をもって意地悪しているわけでもないと知っています。むしろ、その困難を通して、私たちが神を知って幸いな者になれるようにと神様が備えたもの。

 イスラエルにヒゼキヤという王様がいました。彼は死の病にかかり、もう死ぬと言われました。けれども、彼の祈りを聞かれた神様が奇跡によって15年」いのちを延長してくださったのです。そしてこのヒゼキヤ王が病から回復したときに、彼は神をほめたたえて言いました。その一部。 イザヤ書38:17 ああ、私の味わった苦い苦しみは平安のためでした味わった苦い死の恐怖の苦しみは、自分が神を求めて平安に至るためのものだったと言うのです。生きていることが当たり前だと感じる日々に、「生かされていることへの感謝」は生まれません。むしろ生きていることが辛いとさえ思えるかも知れません。しかし、ヒゼキヤ王のように、死が目前に迫る経験を通る時に、今生かされている恵みに気づくのではないでしょうか。
 
本日は、皆さんに「感謝の達人」になることを提案したいと思います。
達人への道は・・・
 
初級:これは当然に感謝すべきことを感謝すること。何かをいただいたり、助けてもらった時、親切にしていただいたら感謝をする。この当然のことさえもしないようなら礼儀知らずですね。皆さんはそんなことはないでしょう。
 
中級:これは自分の手柄にしそうな時に、神様や人に感謝できるようになること。健康が支えられている時に、自分の日々の鍛練のゆえだけでなく、神様の守りや家族の支えなどがあること。テストで良い点を取ったとしても、それは健康が守られ集中できるよう支えられ、苦手な問題ばかりとならず神様が守ってくださったと感謝する。
 
上級:これは健康を害しても、テストの結果が芳しくなくても、そこに神様の恵みを見出し、試練や困難などにおいても主に感謝すること。人の目に感謝が困難な時にも、神様のゆえに信仰によって感謝すること。
 
上級までいけば、達人ですね!
 
試練や困難などの苦しみさえも、神様にあって感謝する恵みを教えられ、感謝をもって一年を締めくくりましょう。


 

 3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。 しばしば、神様が自分を見放してしまったのでは?沈黙されているのでは?と苦しみのあまり思い込むことがあるのではないでしょうか。確かに神様は、時に私たちにあえて試練をお与えになります。そして、私たちが試練によって大切な事を学べないのは非常に残念ですので、あえてしばらくの期間私たちに手を差し伸べないのです。ただ、それは厳密には見放しているのではありません。神様はその間も決して私たちを見捨ててはおられません。

 イザヤ書にこうあります。49:15 女が自分の乳飲み子を忘れるだろうか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとえ女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

 母親が乳飲み子を忘れるだろうか?自分のお腹の子を大切にしないだろうか?そんなわけはない。いや、彼女たちが忘れることがあってさえも神様は決してあなたを忘れないと言われるのです。神様は私たちを決して忘れることがありません。一瞬たりともありません。私たちが寝るのも、起きるのも、その間もずっと見守っておられる。だから、私たちは睡眠中無意識でも心臓が止まらず守られて朝目覚めることができるのです。夜中、心臓が止まるのでは?肺が機能しなくなるのでは?と心配せずとも休めるのは、神様が見張っていてくださるからです。そんな神様ですから、意味もなく私たちを苦しみに合わせることは決してありません! 32 主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。33 主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。

 なんという嬉しい真実でしょうか。悲しみには必ず神の恵み、あわれみが共にあるのです。意味なく苦しみだけを与えることは決してない。これが愛の神様のなさることです。

 ところが、私たちの肉の心が望むものは、なんの苦労もなく平和で穏やかな日々です。失敗もせず、挫折もせず、病にもならず、他人が自分の思い通りに動いてくれる。自分が欲しいことば、自分が言われて気持ちいいことばを言わせたい。世界を自分の望むままに!
 
 しかし、それは「自分を神に仕立て上げる」事。自分を神にする=これこそ偶像礼拝の究極形です。高慢の罪の極致。
 
 この罪は私たちを滅ぼします。ですから、時に神様は私たちを砕かれるのです。苦しみを通して私が何者であるかをゼロから教えてくださるのです。

 私自身も様々な困難を通らされた時、本当に苦しく過酷でした。けれども、それがなければ今の私はありません。この会堂も私たちの目標通りにはなりませんでした。2009年にそこから5年以内を目標にとしましたが、随分時間がかかってしまいました。けれど、目標通りになっていたらと想像すると恐ろしいです。建物は立派になっても、中身は成長しないままだったことでしょう。

 辛い過去、苦しい過去もまた、今の私になるために必要かつ大切な過去なのです。なければ楽だったかも知れません。でも、それがあるからこそ、神様の懲らしめ、慰め、あわれみ、助け、みわざを経験できたのです

 病にならなければ多くの人に祈られる経験もできません。落ち込まなければ、兄姉や神様の励ましがどれほど嬉しくありがたいものかを知ることもできません。
 
今のあなたは良い経験だけで成り立っているのではない。苦しいことも、悲しいことも含めても、それを経たからこそ今の自分がいるのです。 
 
私たちにとっては喜ばしくない過去も大いにある。後悔しかないという事や、深い傷を負わされた出来事。思い出すたびに怒りがわいてしまうことや、思い出すことも辛い過去もある。
 
ただ、知るべきことは、それらの過去もまた意味があるということです。
そうした過去の出来事を変えることはできません。けれど、過去をどう受け止めるかは変えられるのです。否定的な感情で見て来た過去を、神様の恵みの視点から買い戻すことができるのです

33 主が人の子らを、意味なく、苦しめ悩ませることはない。

 これが真実です。苦しみ悩んだことには、必ず神様からのメッセージがあります。

 私は3年近くLINEというスマホアプリで聖書メッセージを毎日配信してきました。今は760名ほどです。しかし、LINEのサービス改変によって、同じことをしようとすると3倍の値段がかかるようになると通知が来ておりました。
 
せっかく続けてきたのに・・・祈って祈って、それでも答えが見つからず・・・
 
もう続けられないと思いました。
 
そこで最終的に決断し、事情説明と共にこの働きを終えることを皆さんに通知したのです。
 
とても悩み、とても残念気持ちでおりました。
 
苦しい決断でした。
 
しかし、その後、何名もの方から連絡がありました。
 
読ませてもらっていてぜひ続けてほしいと。
 
中にはお会いしたことがないような方からも!そして、継続できる献金をいただき、またさらに協力してくださる方が起こされつつあります。
 


 神様が意味もなく私を苦しみ悩まされることはない。まさにそうだと教えられました。

 私は神様に噛み付いていました。「なぜ、こんな妨げを許されるのですか?神様から示され、多くの人の救いや励ましのためにしているのに!みこころにかなう働きじゃないのですか?」と。
 
 でも、何の問題もなく続けられていたら・・・この方々の思いを知ることができませんでした。この励ましを受けることも、神様のみわざを味わう機会もなかったでしょう。
 
 この一年、様々な困難、苦しみも通られたことでしょう。今もなおその最中かも知れません。しかし、神様の手が届いていないものはありません。意味なき苦しいなど一つもありません。それを知る時に、なんとありがたいことでしょうか。私たちを愛してやまない神様が、その苦しみを私たちを幸せに導くために備えておられるのです。感謝!

2019/12/25

今日があなたの救いの日

ルカ19:1-10

クリスマスはサンタの日ではなく、私たちの救い主、イエス・キリストがお生まれになった日です。サンタがくれるプレゼントも嬉しいことは確かですが、それはやがて消えて無くなる物です。
 
しかし、決して無くならないプレゼントを今日、皆さんに差し上げたい。それはイエス・キリストがくださる「永遠の愛」というプレゼントです!キリストは、迷子の羊をどこまでも捜し求め、暗闇、恐れ、不安、絶望、孤独から救うために来られました
 
ザアカイという迷子の羊に「キリストの愛」というクリスマス・プレゼントが届けられた出来事から教えられます。ぜひ、神様から愛のプレゼントを受けましょう!

 エリコという町に、ザアカイというユダヤ人がいました。彼は2節によると「取税人のかしら」で、「金持ち」でありました。税金集め役人のリーダーという肩書と多くのお金を持っていたということです。ただ、そのお金は決してきれいな物ではありませんでした。
 
過剰に税金を集めて自分の懐に入れたり、脅し取ったりすることも少なくなかったようです。そういうわけで彼には肩書とお金はありましたが「本当の友達」はいなかったのではないでしょうか。彼には自分をありのままで受け入れ、愛してくれる存在がなかったのです。

ですから、もし万が一お金がなくなれば、誰も自分に寄りつかない。離れて行ってしまうのではないかと見捨てられ不安があったことでしょう。本当は孤独で仕方がなかったはずですお金や物に固執してしまうのも、心が満たされていないがゆえではでないでしょうか。不安と恐れ、孤独が強いからこそ、心の空洞を何かで埋めようとしてしまうのです。皆さんにはそんな経験はありませんか?

知人牧師がこんな経験をある紙面に書いていました。彼が家族とディズニーランドに行った時のこと。ある男の子を見つけました。彼はブランド物の高そうな服を着ている。頭にはミッキーの帽子。キャラクターのポップコーン容器をぶらさげ、右手には玩具、左手にはお菓子。その外見だけ見れば、彼はとても裕福で幸せそうです。
 
それなのに、その子は大泣きしていたのです。なぜでしょうか? 
 
親と離れ離れになってしまったからです。
 
この子は迷子になって初めて「ある真実」を経験したと言えるでしょう。
 
それは、ブランド服もおもちゃもお菓子もディズニーランドという空間も、「愛の代わりにはならない」ということです。
 
どんなにお金を集め、良い肩書を得て、高価な物を所有しても、本当の意味で愛されていないのならば、私たちの心は決して満たされることがないのです。

ザアカイはまさにそのような孤独な人でした。このままであれば、彼はむなしく滅びる人生を歩むことになったでしょう。しかし、彼にすばらしいクリスマスが訪れます。

イエス・キリストとの「出会い」です。人生は出会いで決まると言われるほど出会いは大切です。私たちの出会いには決して偶然はなく、神の導きであり、この出会いから何かが始まると私は信じています。

さて、ザアカイの住んでいた町エリコに、クリスマスの主役イエス・キリストが来られました。ところがキリストはその時、今をときめく大スター!
 
イエス様のまわりには群衆があふれていました。朝から夜遅くまで、イエス様のもとにはひっきりなしに人が訪れるほどでした。そんなイエス様が町にやってきたので、ザアカイもひと目見たいと思ったのです。しかし、友達もいない嫌われ者のザアカイです。群集をかきわけて入ろうとしますが、誰も入れてはくれません。おまけに彼は背も低く、後ろの方から背伸びをしても見えませんでした。それでどうしたのでしょう?4節。

4節 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。

彼はお世辞にも長いとは言えない手足で、必死に木に登りました。早くしないともう行ってしまうかも知れないと・・・。
 
でも、どこかでこうも思っていたのではないかと想像するのです。
俺は何をしているんだ?偉大な神の子が俺のことなど相手にしてくれるはずもない。こんな孤独で嫌われ者の俺。木の上から見たからと言って何が変わる?

 もしかしたら、教会に来たところで何が変わる?と思う人もいるかもしれません。しかし、キリストは他の個所で「求めなさい。そうすれば与えられます」と語っておられます。

 少なくともザアカイはイエス様を求めたのです。
 
 すると、どうでしょうか。5節のところにこうあります。 
5節 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

 なんということでしょうか。神の子イエス様が、足を止めて上を見上げられただけでなく声をかけてくださったのです。それどころか、イエス様は「ザアカイ」と名前を呼んでくれました。誰にも心に留めてもらえない自分なのに、名前で呼んでくれるんなんて?  
 
聖書では神様が私たちの髪の毛の数までご存知であると語られています。イエス様は彼を知り、彼の心の中も知っておられたのです。そして、これまで彼がやってきた罪深い行いまでも、多くの人から決して好かれていないことも、みな知っておられたのです。
 
その上でイエス様は彼にこう言ったのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」 
 
 思いつきではありません。そのつもりでこの町に来たのです。はじめからザアカイを捜して、彼を救うために来たということです。自分勝手に生きて来た孤独で強欲なザアカイ。友人もいないような人。背も低いので見栄えもしなかったかも知れません。でも、イエス・キリストは彼を愛し、彼の名を呼び、彼とともに過ごすために来られたのです。ここに神の無償の愛があります。私たちが魅力的だからイエス様が愛してくれるのではないのです。何もない私たちなのに愛してくださる無条件の愛です。
  昔、不良で暴走族をしていて現在牧師をされている方の話をある記事で読みました。彼はシンナー、覚醒剤、窃盗や鉄パイプやナイフを持ち出しての抗争などの問題で、4度も少年鑑別所に入ったそうです。

 
実は小学生の頃、彼の深い傷となる出来事があったそうです。母子家庭の中でお母さんから言われた言葉でした。「もしお兄ちゃん(長男)が亡くなったら、私は頭がおかしくなってしまうかもしれないが、アナタが死んでも泣くくらいだ」と。
 
女手一つで自分たち兄弟を育ててくれたことには感謝をしていたけれども、この言葉だけは悲しくてその後の人生に暗い影を落としたと言います。
 
けれども、彼が19歳の時、裁判所で4度目の「少年院送致」の判決が出た途端、傍聴に来ていたお母さんが泣き崩れながら言ったそうです。
「私が悪かったんです!私の育て方が悪かったから、この子がこんな悪いことをするようになってしまいました!私をこの子の代わりに刑務所に入れてください!と嗚咽(おえつ)しながら泣き叫んでいる声が聞こえたのです。
 
彼はその時、母親から愛と心からの謝罪を感じたのです。彼はこの後鑑別所において聖書と出会い、神を本気で求め始め、やがて牧師にまでなられたのです。
 
同じように苦しむ若者たちの助けになろうと歩まれています。
 
結局のところ、彼が「問題行動」を起こし続けていたのは、自分の存在をそのまま受け入れてくれる愛を求める「叫び」、「承認欲求」だったのではないかと思うのです。自分がここに居ることを必死にアピールし認めてほしいゆえの行動です。愛されたいゆえに行動です。愛が欲しかったのではないでしょうか。

 お母さんの愛と本気の謝罪。それが彼が変わるきっかけであり、聖書の神の愛に触れて人生をやり直すことができたのです。
 
 ここでもザアカイが人生をやり直し始めています。
 6節にあるように、ザアカイは喜んでイエス様をお迎えしたのです。ザアカイも自分では気づかなかったのですが、彼が本当に求めていたものは、お金や物や地位ではなかったのです。罪深い自分を赦し、受け入れてくれる「変わらない愛」を求めていたのです。

 ザアカイはキリストと出会い変わりました。彼は今まで自分のことばかり考え、時には汚いことをして財を得たことを心から悔い改めたのです。彼はもはや、肩書とお金に心を囚われて孤独に自己中心に歩むことをやめ、「キリストの愛に生きる決心」をしたのです。

その時、イエス・キリストは宣言なさいました。
9-10節 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」 
今日があなたの救いの日だと言われたのです。

クリスマスは、キリストが迷子の私たちを救い出し、神との親しい愛の交わりに回復させるために来られた記念です。この愛こそが、あなたへのクリスマス・プレゼントです。神様は永遠の愛のお方ですから、心変わりすることも見捨てることもありません。いつまでも残る愛のプレゼントをぜひ受け取ってください。

この世のどんな物を手に入れようと、世界のすべてを得ようと、この愛の代わりには決してなりません。神様はあなたを愛しておられます。
 
 

クリスマスは、こうしてキリストが迷子の私たちを救い出し、神の愛の交わりに回復させるために来られたお祝いです。この愛こそが、あなたへのクリスマス・プレゼント。この愛は心変わりしない永遠の愛。ぜひ信じて受け取ってください。神はあなたを愛しておられます。


※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。

2019/12/22

捜して救う神


イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:9-10) 

今、もしあなたが、肩書も財産も体力も見栄えのする容姿も失ったとしたら・・・それでもあなたを見捨てないで、あなたとともに歩みたいと言ってくれる人がいらっしゃるでしょうか。

私たちは見捨てられ不安をいつも抱えながら、人々から自分の価値を認められたいという承認欲求を抱きながら「いいね」の数を気にして歩んでいる者たちではないでしょうか。

さらに、私たちの心には人には見せられない暗闇が誰にでもあります。

私たちの闇までも知った上で、なお私たちを愛し受け入れてくれる存在があるでしょうか。

イエス・キリストこそ、まさにあなたのすべてを知り、あなたの付属品なしに「いいね」をくださるお方です。

神の愛から離れ孤独な自己愛に生きている者たちを、神は「失われた者」としてあわれみ、捜し出し救ってくださる愛のお方です。

そのために御子キリストが十字架にいのちをささげられました。

この神の永遠に変わらない無条件の愛こそが、真のクリスマス・プレゼントなのです。

むなしく消える物でなく、永遠の贈り物をぜひ受け取ってください。

2019/12/15

心を分かち合える友を得る



 それから、マリアは立って、山地にあるユダの町に急いで行った。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。(ルカ1:39-40) 

未婚で男性を知らない処女が、神の聖霊によって救い主を妊娠した。
マリアの身に起こったこの出来事はあまりにも驚くべきことで、他の人々には理解されがたいものでした。

しかし、神はにわかには信じがたい奇跡を経験し、それを信じるに至っている親類のエリサベツを良き理解者として備えていました。

ですから、マリアはそれを知りエリサベツに急いで会いに行ったのです。

マリアは決して孤独ではありませんでした。

エリサベツは一切疑うことなく、マリアの身に起こったことを理解し受け入れ、むしろ幸いなことだとマリアを励ましてくれたのです。

誰にも理解してもらえない。そんな孤独が私たちを絶望させることがあります。

しかし、信仰生活は孤独な戦いではないのです。
ともに喜びともに悲しむ交わりによって歩むもの。分かち合い祈り合って歩むものなのです。

キリスト者の強さは個人の信仰の強さではありません。

私たちの弱さを知った上で導かれる主と、重荷を一緒に担う信仰の友たちの存在によって強くしていただけるのです。

神はそのような友をあなたに備えておられます。

あなた自身もまた、他の人にとって心を分かち合える友となっているか?問われるのではないでしょうか。どうか、私たちひとりひとりが、神が望まれる良き友となれるよう神の愛を学び、みことばをもって人と関わる者とならせていただきましょう。

2019/12/10

あなたのためのクリスマス


1. キリストはベツレヘムの家畜小屋に生まれました
 
クリスマスは神の御子、救い主の誕生を祝うものです。
が・・・、キリストは一体どんな場所に生まれたのでしょうか?
 
小さな無名の町ベツレヘム。
しかも、民家、宿屋でもなく、もちろん王宮などでもありません。
人が住む場所ではなく、家畜小屋でありました。
 
「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」(ルカ2:7)と聖書は語ります。
 
人間のために神が派遣した救い主なのに、宿屋に居場所を見つけられなかった。
妊婦のマリア、そのお腹の子イエスは宿屋にさえ宿泊できなかったのです。
 
しかし、ここに神の深い愛が示されていることに気づきます。
 
神である方が、人間となられただけでも自分を低くしてくださったと思うのですが、それどころか私たちでさえ病院や家で生まれているのに、イエス様は家畜小屋の飼い葉おけ(家畜のエサ入れ)に寝かされていたのですから。
 
そこは不衛生な場所。匂いがする場所。寒い場所。貧しい場所です。
しかし、だからこそ最も身分の低い羊飼いたちが救い主にお会いする事が出来たのです。貧しい者も、弱い者も、誰でもキリストのもとに招かれているのです。
 
何よりも、私たちの心の貧しさのただ中に来てくださった救い主なのだと思わされます。私たちの心の部屋こそ、家畜小屋のように汚れていて、みすぼらしく貧しいものでしょう。闇を抱え、罪にまみれているのです。風がびゅ~びゅ~入って来るような寒い孤独な心です。
本物の愛を知らない私たちの自己中心な貧しい心の現実に、主は来られました。
 
ですから、マルコ2:17でキリストはこう言われています。
 
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」
 
私たちが立派だからキリストが来てくれるのではありません。信仰熱心な者をほめるために来られたのでもありません。罪の闇の中でもがき苦しむ者をご自分のもとに招き、救い出すために来られたのです。
 


2. どうやって心の貧しい者を救うのか?
 では、キリストはどのようにして救ってくださるのでしょうか。そこには大きな愛の犠牲がありました。父なる神は、御子キリストを遣わし、十字架にいのちをささげさせました。
 
それは、罪のないキリストだけが、罪深い人間たちの罪のさばきを身代わりに受けることができるからでした。父なる神は、そのキリストの十字架での悲惨な姿を、決して助け出すことなくただただ、見守っていました。人の罪がその身に傷を負わせている事実こそ、人の罪をキリストがその身に背負っている真理を示しています。
 
キリストは十字架に磔にされ、ののしられ、唾を吐かれながらも、彼らのために祈りました。自らを殺そうとする罪深い者たち、見て見ぬふりをする自己保身の者たち、自分のことで忙しい無関心な者たち。彼らのあらゆる罪が赦されるようにと祈りました。
 
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分で何をしているのわからないのです。」
 
神は罪のないキリストを、私たちの代わりに罰して、私たちの罪に赦しを与えてくださいました。御子を信じる者がひとりも滅びないように、信じる者に永遠のいのちを約束されました。
 
私たちが悪いのに、神がすべての犠牲を払い苦しんでくださったのです・・・
 
ローマ8:3 肉によって弱くなったため、律法にはできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のためのきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。
 

 
3. ともにおられる神
 キリストを信じて受け入れた者は、もはや見捨てられることがありません。
キリストの呼称のひとつに、「インマヌエル」という名があります。

マタイ1:23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。 
 
ここにあるように「神が私たちとともにおられる」というのがイエス様の呼び名です。キリストは決して私たちを見捨てることがありません。一度心に信じた者、キリストにすがり続けようとする者を手放すことはありません。時に背を向けてしまうことや、疑ってしまう私たちの弱さも知っておられて、その時もわたしがあなたをおぶっていると教えてくださるようなお方です。

「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)

 どうかキリストを心にお迎えし、その闇を照らしていただきましょう。どんな時にもあなたを見捨てない方。遠くにおられるような方ではなく、いつでもあなたのすぐ隣にいて抱きしめていてくださる救い主。この方とともに歩んでいきませんか?



 

2019/12/08

なぜ、マリアは受け入れることができたのか?


マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:38

まだ10代の若者、そして処女であったマリアにとって、それはあまりにも唐突な話でした。目の前に天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産む。名をイエスとつけよ」と言われます。

男性を知らないマリアにとって、ありえない話に思えたはずです。

しかも、その子はいと高き者、この地の支配者、その支配が終わることはないとまで言われるのですから、信じがたい話です。

けれども、彼女は自分の心の「ありえない」という声にではなく、天使が告げた神のことばに耳を傾けました。

「親類のエリサベツを見なさい」とのことばに、神の優しさを感じます。

エリサベツは不妊症かつ高齢でした。
二重の意味で妊娠が不可能と思えました。

しかし、事実妊娠6か月目を迎えていたのです。

神がすでに奇跡を身近でなさり「神には不可能なことはない」という宣言が確かな根拠の中で語られていると気づくのです。

信仰生活とは、一人ぼっちで自分の信仰で何でも乗り越えていくものではありません。

マリアがエリサベツ夫妻に起こった奇跡によって励まされたように、私たちも自分が信じきれない時、弱さを覚える時に、周りで信仰をもって歩んでいる兄姉の姿にどれほど励まされることでしょうか。

人の常識の檻から出て、神のみわざの確かさに立つ時、「おことばどおり、この身になりますように」と信じて歩む者とされ、大いなる恵みを受けるのです。




2019/12/01

ベツレヘムという町


「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で、あまりに小さい。だが、あなたからわたしのために、イスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(ミカ5:2) 

キリストが生まれた地はベツレヘム(名前の意味は「パンの家」)という小さな町でした。

エフラテと付けてあるのは、当時「ベツレヘム」という地名が他にもあったので区別するためでした。

どこにでもありそうな小さな町ベツレヘムで、救い主がお生まれになるという不思議。

それは神が昔から定めておられたご計画でありました。

人の予想、人間的な期待を見事に裏切るような神の深いご計画がそこにあったのです。

多くの人は聖なる都エルサレムこそメシヤが生まれるのにふさわしいと考えたでしょう。他にももっと大きな都市が選ばれてしかるべきだと考えたことでしょう。

しかし、この救い主は小さな取りに足りない者にさえ目を留め、救ってくださるお方です。

お金持ちや地位の高い者だけでなく、小さな弱い者にさえ栄誉をくださるすべての人の主です。そして、このあまりにも小さな町だったベツレヘムですが、救い主が出た町として大きな栄誉を受けました。

それはキリストを心に持つに至った者の人生を象徴しているのです。

小さい者、弱い者、取るに足りない者と思うならば、ぜひこのキリストを知ったゆえに、神の前にもはや小さな者ではないことを覚えましょう。



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