東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 1月 2020

聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

2020/01/26

ルカ18章31-34節 「十字架の予告」 


ルカ18章31-34節 「十字架の予告」 


子育ての学びのテキストにこのようなことがありました。
小さな子どもであっても、あらかじめ予定を伝えてあげることが、その子の人格を尊ぶことになるという内容です。
急に出かける!というのではなく、何時になったらお出かけするから、その前に準備できるようにしましょうと。これから起こること、これからしようとしている事をあらかじめ相手に伝えておくというのは、相手への敬意であり信頼の証しであると思います。

イエス様も弟子たちに対して、彼らがなかなか理解できない(あるいは理解しようとしない)にも関わらず、大切なことを分かち合い予告をしておられました。

そして私たちに対しても神様は、聖書を通して神様のご計画を伝え、しっかり信じて備えるようにと語り続けておられます。そこにどんな神様のお心があるのでしょうか。十字架の予告をなさったイエス様と弟子の姿から教えられます。

 

1. 理解できない弟子  
 
 イエス様はずっと聖書に預言されてきたことが、いよいよ実現することを弟子たちに告げました。今日の場面では、イエス様が人々からどのような苦しみを受けて死んでいくのかをハッキリと語っています。
 
32節 人の子は異邦人に引き渡され、彼らに嘲られ、辱められ、唾をかけられます。33節 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」 
 キリストの十字架は突然訪れた出来事ではありませんでした。思いも寄らぬ急な出来事ではなかったのです。キリストは十字架の苦しみを知った上でそこに向かって歩んでおられました。自分の歩む先に恐ろしい苦しみが待っている。孤独、痛み、侮辱、死が待っている。それをわかった上で、そこに向かって一歩、また一歩と進んでいかなければならない。崖がそこにあるのに、そこに向かって進む使命のようです。
 
そこに、どれほどの心の戦いがあることでしょうか。
イエス・キリストはご自身が弟子に裏切られ、不当な裁判を受け、暴行され、罵倒され、侮辱されることを具体的に知っておられました。
罪人を救うため、辱めを受け十字架で無残に殺される事実です。
 
弟子たちからすると耳を疑うような内容です。
34節にあるように、残念ながら弟子たちはイエス様のおっしゃっている真意を何一つ理解できなかったのです。なぜなら、弟子たちが期待していたのは、イエス様が権力のある王・英雄として勝利することでした。ローマの支配を力で打ち砕き、ユダヤ人の王国を再建することでした。今の弟子たちには、イエス様がこのような苦しみに遭うとは、全く理解できないことだったのです。

 弟子たちのこの無理解な姿は、私たち自身の姿に重なります。しばしば私たちは自分の先入観や勝手なイメージを持って神のことばを聞くことがあるのではないでしょうか?

 以前、ある方が証しをしてくださいました。
自分は神様に対する勝手なイメージを強く持ちすぎていた。そのために勝手に神様に失望していたと言うのです。
しかし、ある時気づかされたのです。自分が失望した理由は、神様を知らな過ぎたからだと。自分が勝手に「神様はこういうお方だ」と決めつけることで、その「自分の神イメージ」と本当の神様の姿が大きく異なることによって、勝手に失望していたのだと。
 
弟子たちがイエス様の道を理解できなかったのと似ていますよね。皆さんも勝手に自分を物凄くいい人にイメージされると「しんどい」のではないでしょうか?何を言っても怒らない人だとか、聖書のこともなんでも知ってると思われたら困りますよね。


 また、私たちは自分の心配に大量の時間とエネルギーを注いでいますが、主イエス様の友(協力者)として歩むことにどれほど心を注いでいるでしょうか? 
 
 弟子たちが理解できなかった背景にも、主イエス様への関心よりも自分自身への関心が強かったことが影響していたと言えるでしょう。
 
マタイ、マルコの福音書では今日の記事のすぐ後に、イエス様の王座の右と左に座らせて欲しいといった弟子のやりとりがあります。自分の立場に強い関心があったと言えます。
 
そうではなく、イエス様に目を向けたいのです。
主イエス様はご自身が苦しいはずなのに、ご自分のことではなく弟子たちを思われました。かえって弟子の信仰を心配し彼らが倒れてしまわないようにと気遣ってくださいました本来ならば、弟子たちこそは主イエス様の苦しみをよく理解し、良き助け・良き励まし、良き協力者になるべきですよね?
「キリストの苦しみを少しでも担いお手伝いしたい。」と思うべきです。
けれど、実際はどうだったでしょうか?弟子たちは自分の心配ばかりです。だから弟子たちはイエス様のことばを少しも理解できません。しかし、キリストはいつでもご自分のことを後回しにして、目の前の一人を愛しておられます。

 

2. 理解できない弟子なのに  
 
 では、このように理解できない弟子たちに、なぜ主イエス様は、ご自身の十字架の苦しみについて話されたのでしょう?
私たちがイエス様の立場ならばどうでしょう?理解できない弟子たちに話をしたところで、時間の無駄だと思うのではないでしょうか?なぜイエス様は彼らが理解できないにも関わらず、前もってこれを語られたのでしょうか? 
 
 それは、イエス様が弟子たちを愛しておられたからです。理解の遅い、未熟な弟子であることは重々承知の上です。それでも弟子たちを友として愛し、一緒に歩みたいと願う。だからこそ、分かち合ってくださるのです。
もちろん、そこには弱い彼らがつまずかないようにとの配慮もあったでしょう。備えのためであり覚悟をもって歩んでほしいからでもあったでしょう。
 
しかし何よりも、頼りない弟子であっても、主イエス様は彼らを大切な友、大切な仲間だと尊んでくださった証拠なのではないでしょうか。「どうせわからないから伝えない」というのではありません。やがて真理を理解する者となれると期待して、愛のゆえに忍耐深く伝えているのです。

 今ここにおられる皆さんに対しても同じようにイエス様はお考えのはずです。
いつでも主は、私たちを「神の協力者」として期待し信頼を置いてくださっているのです。

 神様からみれば、私たちはいつも「わからずや」です。神様のお心をなかなか理解できません。しばしば的外れであり、文句ばかり言います。
 
神様がおひとりでぜーんぶやった方が早くて完璧なのです!それでも神様は私たちに語る事をやめません。愛するわが子と思ってくださっているからです。
 
 ある家のお父さんと小さな息子が飼っている犬の小屋を一緒に作ることになりました。息子は金槌を持つのも初めて、ノコギリも初めて。経験のあるお父さんが全部やった方が早いし綺麗にできます。でもお父さんは息子のために一緒にやるのです。慣れない手つきの息子に注意を払いながら一緒に小屋を作ります。未熟な息子の作業は欠けだらけです。ギザギザになっている部分、歪んでいる部分をお父さんが息子のプライドを傷つけないように繕いながら・・・。かえって大変です。こんな事なら一人でやった方が・・とも思うことでしょう。それでもお父さんは息子と一緒にこれを作ることを大切にしました。息子はまるで自分がやったかのように、ママ、ぼく犬小屋を作ったんだよと誇ります。息子はお父さんの役に立てた!自分にもこんな良い働きができたと思うのです。お父さんはそんな息子の笑顔を見て、一緒にやって良かったと心から思うでしょう。 
 
 神様が未熟でわからずやな私たちをパートナーとしてくださるのは、まさにこのお父さんのようです。自分でやった方が早いし完璧です。でも、神様の願いは愛するわが子と一緒にやることです。だから、前もって伝え、何度も伝え、ともに歩んでくださるのです。
 
旧約時代はそれこそ、一体何人の預言者が遣わされたことでしょうか?数えきれないほど遣わされ、何度となく神様は御心を伝え続けました。悔い改めず、忠告を無視することを繰り返しているのに。何度も何度も。
アモス書3:7 まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者に示さずには、何事もなさらない。 

神様は勝手になさる権利がある。人に断りを入れる必要さえない。しかし、主は私たちに語りかけ伝えてくださるのです。あなたを神の協力者、パートナーとして選んだのだと。

 今日、神様はあなたに語っておられます。「わたしがあなたを選んだのだ。だからわたしはあなたに隠さず語る。真理を伝える。あなたに知ってもらい、あなたと共に神の国を築き上げたいのだ」と。今日の弟子たちの姿のように、神のみこころを全然理解できていない私たち。自分が一番かわいい自己中心な私たち。臆病で心配症で怖がりです。

でも、主なる神様はそんな私たちに「あなたが必要だ」と親しく声をかけてくださるのです。

主なる神様のこの声に聞いてどう応答するでしょうか。十字架の苦しみを弟子たちに分かち合われたイエス様のお心、それを少しでも理解できる者にならせていただきましょう。それが本当の弟子への道ではないでしょうか。





2020/01/19

レビ記2章 「穀物のささげ物 ~礼拝者の姿勢~」


レビ記2章 「穀物のささげ物 ~礼拝者の姿勢~」

祈祷会にて「恵みに対してアンテナを張り巡らせて、あらゆる物事(本、テレビ、スポーツ、遊び)から豊かに恵みをキャッチしましょう」とお話をしました。
 
スマホ、携帯に馴染んでいる方には「恵みのアンテナを全部立てましょう」の方がしっくりくるでしょうか。
 
するとトラック大好きな某青年が、運転しているときにすれ違う派手なトラックに敏感に気づいてはいるけれど、神様の恵みに気づかないで見逃してしまうことがないように、アンテナを広げてもっと気づきたいと話してくれました。興味深い例えです。
 
まさに、今日のみことばはぼ~っと読むだけなら、「穀物のささげ物」についての細かな決まりの話で「退屈だ」と思うかも知れません。しかし、ここに深い神様の恵みがあることを一緒に味わい、神様を知る機会とさせていただきたいと思うのです。現代のキリスト者は、ここに語られていることをそのままを行うことはしません。しかし、そこに示されている神様のお心を良く理解して、それによって神様を知り、礼拝をささげる姿勢を学ぶことは意義深いことです。

 

「穀物のささげ物」から教えられる第一のことは、労働とその報酬の感謝を現すものだったということです。 ヘブル語で「ミンハー」ということばが用いられていますが「贈り物」を意味することばですが、そこには忠誠や畏敬、感謝の意味が込められています。

1~2節で語られているように小麦粉の形にしてささげました。
大麦、小麦は極めて貧しい人たちでもささげられる物であったそうで、神様は貧しい人々でもささげられるようにと、家畜の肉だけでなく穀物のささげ物を示してくださったのです。あらゆる人に対して配慮を欠かさない主であると教えられます。
 
ただし、それは刈り取ったままではありませんでした。きちんとふるい分けられ、製粉され、手で加工されてからささげられました。あくまでも自分たちで労苦して加工したものを「労働の実」としてささげるのです。

 なぜなら、「穀物のささげ物」は労働できる恵みの感謝とその労働によって得られた収穫の両方を感謝する意味があるからです。
 
私も思い返すと、初めてアルバイトで収入を得た時や、就職後の初任給の時、額が小さくてもとても嬉しかったものです。
 
確かに労働は、最初の人アダムとエバが罪を犯して以来、苦しみが伴うものになりました。労苦して糧を得ることは大変なことです。それでも働けることは健康である証拠であり、努力を認めてもらえる機会でもあり、労苦にふさわしい結果や報酬を手にできる機会でもあります。

 覚醒剤に手を出してやり直そうとしている人のインタビューを読みました。必死に人生をやり直そうと仕事を探し回るものの、断られ続けたそうです。やり直せ!と言うけれど、どんどん人が離れて行き、仕事も得られず非常に苦しんだと・・・。
 
それを読んで、苦しい事が多々あったとしても「働かせてもらえる」こと自体、本当に感謝なことだと改めて思わされました。
 
穀物のささげ物は、労働の実りの一部を神様に選び分けてささげ、働けることや養われていることへの感謝を覚えるものでした。私たちもこの感謝を忘れないでいたいのです。

 そのためにも、私たちがささげる礼拝もいい加減なもの、手抜きであってはなりません。神様にささげる礼拝行為は、何よりも全身全霊をもって私たち自身をささげる行為だからです。
 
残り物をどうぞではなく、良い物を与えてくださる神様に、私たちの良いものを真心からささげます。骨折って準備した精一杯を主にささげるのです。だからこそ、ささげる私たちも嬉しく感動があるのではないでしょうか?  
 
Ⅱサムエル24:24で、ダビデ王はアラウナという人から神へのささげ物を無料で提供してもらえる状況がありました。しかし、この時ダビデ王はそれを拒んでこう言いました。「私はちゃんと代金を払って、あなたから買いたいのだ。費用もかけずに楽して、私の神、主に全焼のささげ物を献げたくはないのだ。」と。
 
無料提供された物は楽でしょう。けれどダビデは、自分が何も犠牲を払わないで神様にささげるなんて「したくない」のだと断ったのです。非常に頑固な対応に思えるでしょうか。しかし、ダビデのこのようなまっすぐな神様への姿勢こそ、神様から喜ばれたのではないでしょうか。
 
 

 第二に教えられる事は、穀物のささげ物の時に添えるもの・混ぜるもの、逆に混ぜてはいけないものにどんな意味があったのかということです。
 
1節によると、小麦粉には油と乳香を添えることが記されています。油は当時の家庭で一般的だったオリーブ油でした。小麦粉にせよ油にせよ、割と誰でもささげやすい物で、神様の優しい配慮と言えるでしょう。
 
油は神の御霊を象徴します。御霊によって礼拝するということに通じます。また、乳香は焼いて煙にされることで、かぐわしい香りとして神様に立ち上っていきます。そこから「祈り」と「賛美」を意味します。あるいは「献身」という意味もあります。
神様を礼拝する者は、人間的な方法ではなくて、神の聖霊に導かれて祈りと賛美をもって自身をささげるのだと教えられます。

 さらに、11節をご覧ください。
11 あなたがたが主に献げる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しであっても、主への食物のささげ物として焼いて煙にしてはならない。 
 神様にささげる際には、パン種と蜜を入れてはいけないと教えられています。
 
パン種はほんのわずかでも入ると、パン全体を膨らませるほどの効力を持ちます。「これぐらいならいいだろう」という悪や罪への甘えが人生をやがて破滅に導くものであることを現します。また蜂蜜や果実の蜜はそれを生地に練りこむと全体が変質しやすくなります。これらを入れないでささげることによって、神様への純粋な信仰をずっと保つ大切さを覚えさせてくれます。私たちの神様に対する礼拝や信仰の姿勢が罪によって変わってしまわないように。純粋さを失わないようにです。
 
そして、それと反対の効果をもたらすものとして「塩」があります。
13 穀物のささげ物はみな、塩で味をつけなさい。穀物のささげ物に、あなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのどのささげ物も、塩をかけて献げなければならない。
塩はパン種や蜜とまったく反対なのは、腐敗や変質を防止する役目を担っているということです。そうした意味から昔の人が契約をする際に、ともに塩を食べてお互いの約束がいつまでも変わらない!ことを覚えるために用いられたこともあったようです。
 
塩は中に浸透する力を持ち、腐敗防止の力を持ちます。私たちが救われた時の最初の感動を失わず、いつまでも変わらず神様との親しい交わりをきよく保てるようにとの配慮です。黙示録に「初めの愛に帰れ」とのみことばがあります。純粋だった信仰も慣れてくることで、分かったつもりになり、いい加減になり感動を失います。
 
私たちはいつでも塩気を失わず、神様への子どものような純粋な信仰を変えることなく歩みたいと思わされます。初めの愛に立ち続けましょう。

 

 第三に教えられるのは、これらの「ささげ物から祭司に割り当てられるものと、そうでないものとその意味」についてです。
3節 その穀物のささげ物の残りはアロンとその子らのものとなる。それは主への食物のささげ物のうちの、最も聖なるものである。
 アロンとその子たちは祭司の一族として選ばれました。彼らは土地を所有して酪農や農作業など、他の仕事をすることは禁じられていました。神様に専ら仕えることを命じられていたのです。しかし、それだと祭司たちは、神に仕える厳粛な仕事をしているのに、糧を自ら得ることができませんよね?
 
それで神様は定めました。他の部族が土地で得た収穫を神様にささげ、そのささげられた物の一部を祭司の生活のために割り当てるという原則です。しかもそれら祭司たちに残される食べ物は「聖なるもの」もしくは「最も聖なるもの」と表現され単なる残り物ではありませんでした。
 
ただし、この穀物のささげ物の規定では、神の聖さにあずかるという儀式的意味合いの方が強かったと思われます。もう少しあとの7章の方で、ささげ物の一部が祭司の必要に用いられるよう主が定めている記事が詳しく出て参ります。

 より注目すべきことは、乳香は祭司が受け取る分に入っていないということです。2節でも16節でも、乳香はすべて焼いて煙にされています。なぜ、乳香を祭司が受けなかったのでしょうか?
 
理由は明白です。乳香は先ほど説明したように「祈り」や「賛美」、「献身」の象徴です。祈りも賛美も献身も祭司が受けてはいけません。祭司はただの人間ですから、祈りや賛美の対象となってはいけないのです。
 
神様のみが祈りの相手であり、賛美されるにふさわしい方だということです。神様に向かって献身するのでなければなりません。
神様は本当に一つ一つ意味をもって人に示してくれていることがここからもわかります。


 ご一緒にみことばから教えられてまいりました。穀物のささげ物の規定。それはただ読む限り何の意味があるのか。面倒な細かな話だなと思うかも知れません。しかし、主はこれらのひとつひとつでさえも、意味をもって教えておられます。

  主は私たちに語っておられます。これらのことばをもって、わたしがどのような神であるかを知りなさいと。神様は労働を与えてくださいます。労働の達成感とその具体的な報酬を与えてくださいます。その恵みを感謝し、霊と真を尽くして礼拝しましょう。
 
そこに純粋さはあるでしょうか?精一杯の準備をもって真心から神様に礼拝しているでしょうか? 乳香が祭司にささげられることがなかったように、人にではなく、ただ神様だけに祈りと賛美を自身を心からささげましょう。
 
 

2020/01/17

子どものストレスケア



 私たちが生きていく上ではストレスは人それぞれであり、それをなくすことは不可能と言えます。しかし、ストレスに対して上手に対応することはできます。
 
そしてこうしたストレスを上手にクリアすることで、人は豊かに成長することもできるのです。上手にストレスに対処する方法について、特にお子さんのストレスケアについてご一緒に学んでいきましょう。

 

1.怒りというストレスをケアする(アンガー・マネジメント)

(1)不要な怒りを起こさせない

エペソ6:4 父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。 
 
「怒らせてはいけない」とは、高圧的な親の対応や矛盾や不条理に満ちたしつけに対する怒りのことです。親としてそうした怒りを子どもに持たせないように配慮しましょう。
 
たとえば・・・以下のような例があります。

・権威を強く出しすぎて必要以上に頭ごなしに怒ること。
必要以上に強く激しく怒られることは、 妥当性を欠き子どもも納得できません。

 ・矛盾している指導、一貫性のない指導。
 矛盾が生じていると子どもたちはモヤモヤしてしまいますね。 
・不当な指導(ルールを突然変える)
 あらかじめ定めていなかった罰を急に追加するなども納得いかず不要な怒りを与えます。


・未熟さ、不得意、ミスを責めない  
 幼い子が頑張ってやっていてもミルクをこぼすことがあります。これは叱ってはいけません。
 大人でもこぼすからです。ただし、親に対する反抗やしつけに反してふざけていた場合はむしろ
 叱るべきです。なぜこのしたのかを明確にします
 大きくなって来てからも同様。人によってどこが苦手、どこが未熟かは違う。
 この子はコレが苦手だという事をよ~く理解して、まじめにやっていても出来ない部分を責めないようにしましょう!

聖書の原則:罪を犯しても平然としている者には指導し気づかせるが、罪を心から悔いている者には徹底的な赦しを与える。
 
「ミスをするな」と強く言われることが、かえって萎縮させ、ミスを生みます。

 

(2)感情的、イライラしやすい子への対処

箴言15:1 柔らかな答えは憤りを鎮め、激しいことばは怒りをあおる。

・親が同じ土俵に乗ると一緒にイライラしてしまいます。 
 怒りMAX状態で対戦しないようにしましょう。
 お互いに少し静まる時間を持つ。部屋を変える。トイレに入る。時間を置く。
 そして、冷静にイライラしている理由を伝える。

・笑いに変える。「暖簾に腕押し」という対応。上手に受け流す。

 

2.様々なストレスケア

 学校、進路、部活、親・・・子どもたちもかなりのストレスを抱えて生きています。
 学校から家に帰って来た時、一日の疲れを一身に背負って帰って来るのです。
 すぐに勉強、宿題をさせたい気持ちもわかりますが、飲み物とお菓子を与えて少しゆっくりと疲 
 れをねぎらい、少し話を聞いてあげると心が落ち着くはずです。
 
 子の様々なストレスを対処する
 
・ゆっくり過ごさせてあげる(お茶やお菓子)

・日記をつける、ノートに書く
 
・好きな音楽、好きな運動・スポーツを楽しむ 好きな香り、読書でもいい。聖書はもっといい。
・趣味を楽しむ

・健全な食事、十分な睡眠

 
★最も効果のある方法は、話を聞いてもらうこと  

・理解してもらうこと、共感してもらうこと 
 
 お父さんお母さんが、彼らの話をよく聞いて、理解してあげましょう。
 実はたいていのストレスは、話をじっくり聞いてもらうだけで随分解消されるものです。
 
 
 「そうだね」と「そうなんだね」を使い分ければ、子どもはよく聞いてもらえたと感じられます。
  
  賛同できる内容には「いいね!」「そうだね~!」と答えます。
  
  賛同できない内容だけれど、「聞いていますよ」と伝えるには
 「そうなんだね」「あなたはそう感じたんだね」と答えると◎
 
 
   

2020/01/12

天の宝を所有するために、今をどう生きるか


イエスはこれを聞いて、彼に言われた。「まだ一つ、あなたに欠けていることがあります。あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」(ルカ18:22) 

すべての教えを守って来たと誇る金持ちの指導者がいました。彼は自分こそ永遠のいのちを得るにふさわしいと思い込んでいたのでしょうか。律法の戒めは、少年時代からすべて守ってきたと豪語しました。

しかし、イエスはあなたに足りないものがあると言われます。

それはあなたの多くの財を売り払い、貧しい者たちに分け与えよという指導でした。それは彼が無一文になることを命じるというよりも、彼が富に支配され、手放せない弱さを持っていたからです。

彼の周囲には、今日食べる物にも困り、餓死していく兄姉がたくさんいたはずです。あり余るほどの富を持つ彼が、そうした人々のために神からあずけられている財を全く用いようとしないところに、彼の自己中心の姿がありました。お金ばかりを愛し、神と隣人を愛するという姿勢が決定的に欠けていたのです。


彼はこのことばを受け入れられず悲しみにくれました。
神の代わりに富を第一としていたからです。

「永遠のいのち」という神の国の富は、この世の富を正しく管理する者にこそ任される大きなものです。この世の消え去る小さな富を忠実に管理できない者に、神はより大きな永遠の富を任せることはなさいません。

富に支配され虜になるのではなく、富を神のみこころに沿って正しく管理し、豊かに用いて恵みを増やし、天に永遠の宝を持てる者とさせていただきましょう。

実に、そのようにして任されている財を神のみこころに沿って用いるのならば、神はその人にこの地上においても「何倍も」報いてくださいますし、天においても宝を豊かに備えておられるのです。

2020/01/04

先立ってくださる主



申命記31章1-8節
 
1. 未来への恐れと不安の中で

モーセ120才。もう何もできないほど弱っていました。
 
バトンタッチの時です。
 
民にとって長く導いてくれた「モーセの死」は不安と恐れをもたらすものでした。新しいリーダー・ヨシュアもずっとモーセについてきた弟子。しかし、モーセの存在はあまりにも大きかったことでしょう。
しかも、これからいよいよ、約束の地カナンへと入っていくのです。
未知の世界。多くの敵対する民族、試練が待っています。
 
私たちも2020年という新しい年は、当然ながら未知の世界。
新しい戦い、経験していない試練が待っているかも知れません
当時のイスラエルの民は、それ以上の恐れの中にいたでしょう。

 そんなときに、主はモーセを通して何を語られたのでしょうか?

 
2. 主が先立ってくださる

 「主ご自身が先立ってくださる」ということです!
 
3節「主ご自身があなたに先立って渡って行き」とあります。
 
8節でも「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる」とあって、励ましが語られます。
 
 私も社会人から献身する時、神学校生活に対して経済的な不安を考えたことがありました。3年間も働きをせずに家族を養っていかなければ・・・怖いですよね。
 
 その時、私より先に献身なさっている先輩方から証しを聞けたのが励ましになりました。決してゆとりはないけれど、足りないことはなかったと。足りないと思える時も祈ると、主が与えてくれた。まるで烏に養われたエリヤのように、主が烏を用意してくれていたと。
 Ⅰ列王記では、預言者エリヤのために、神様が烏に命じて朝夕2回パンと肉を運んでくださった場面があります。パンだけでなくお肉もです!同じように主が、主に喜んで仕えようとする民を養ってくださるとの励ましです。
 
 先立ってくださる方があるというのはとても励まされるものです。まして、主ご自身が先に新しい地に入って備えていてくださるというのです。

 神様は未来を知っています。何もかも御存知です。私たちの将来に対して、そこにそそり立つ障壁もその弱点までも知っておられ、主が打ち破れるようにしてくださる。先立たたれる神様がいることを信じて歩みましょう。そして、先立たれて置いてきぼりではなく、主がいつも「ともに進まれる」こともぜひ心に刻みましょう。

31:6 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」 

この「強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない」とのことばは、ただ単に気持ちを強く持てという根拠のない励ましではありません

昔友人に「大丈夫だよ」と励ましたことがありましたが、根拠がないその場しのぎの言葉であることを自分がよく知っていました。何か言わなければと・・・大丈夫だよと言うしかなかった。でも、今は違います。神様のみことばをもって励ます時、神様が必ず守ってくださると確信を持って言えるのです。圧倒的な根拠と確信を持って励ませるのです。

主が先立って既に敵を私たちの手に渡してくださるのだから、そして主がともに進んでくださるのだから、恐れず強く雄々しく進めと励ますことができるのです。主はあなたを見放さず、見捨てないとの約束のもとで、だから恐れてはならない!と励ましておられます。

 

3. 私たちの課題は何か?

 問題は主が先立ってくれているのに、見放さずともにおられると言われるのに、私たちがそれを知らないでいることです。私たちが神様の方を向かず、問題ばかりに心を奪われているためです。イザヤ書59:1-2を開きましょう。

 私たちが主を求めないという罪、咎。これらが神様との間に仕切りを生み、神様の御顔を隠しています。自分から主が祈りを聞いてくださらないようにしているのです。

あるいは先立ち、共におられる力ある主を「すぐに忘れてしまう」ことでしょう。今日開いている申命記では「主を忘れるな」ということばが繰り返し出てきます。

 
では、具体的にどうしたら良いのでしょう??

 いつでも主と語り合って生きることです。

 まず主が語られるので、それを聞き、聞いた私たちは祈りのうちに主に応答します。

 これは「霊的な呼吸」です。呼吸をしなければ私たちは窒息して死にます。それは肉体の命ために必要です。しかし、霊的いのち、魂のためには、霊的な呼吸が必要です。

みことばに聞き導かれ、主に祈りながら生きるのです。

申命記30:14「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」

本当は近くにある主のみ声です。いつも語られています。いつでもみことばに帰れる環境があります。もっとみことばに親しみ味わいたいのです。

ぜひ、何度も通読しましょう。私も最近、毎日数十章読んでいます。そこで示されたこと、教えられたことは印をつけメモを取ります。思い出しては手帳を見、聖書を見返し、励ましを受け、道を示されています。

新しい一年。主がもう知っておられます。先立って道を備えておられます。そのうえでいつでもともに歩み、みことばから道を示し、倒れても支え、傷ついもいやし慰め、主の道を歩ませてくださいます。

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