東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/01/27

神の国への関心

イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」(ルカ14:15) 

 神の国で食事ができる人は幸せだと誰もが想像するかも知れません。しかし、想像するだけ、あるいは願っているだけで、実際に神の国を熱心に求める人は多くありませんでした。神の子イエスが父から遣わされ、救いの道を説き明かし、神の国へと招いているのに、多くの人は自分の国、すなわち自分の利益に関係することしか興味がありませんでした。少しも緊急性のない自己都合を優先し、神の国とその義を切に求めることができなかったのです。私たちは何を問われているのでしょうか。現代人は忙しすぎると言えます。しかし、何に忙しすぎるのでしょうか。それらはどうしても必要なことでしょうか。今すぐしなければならない緊急性のあるものでしょうか。主イエスのたとえ話に出てくる3人の言い訳は、どれも緊急性がなく、自己愛に根ざしたものでありました。今すぐにでも求め、大切にすべきものは人の魂の救いのこと、神の国のことです。キリストを知らずして生涯を終えるなら、救いの道を提示することがもはやできないからです。永遠に残る神の国のためにあなたをささげませんか。

(2019年1月27日 週報掲載)

2019/01/20

キリスト者の誇り、キリスト者の喜び

その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。 (ルカ14:14) 

私たちは何をするにも見返りを期待し、損得勘定の中にいることが多いと思います。むしろ、純粋な愛の動機から見返りを期待せぬわざをなすことは稀ではないでしょうか。しかし、見返りを期待せぬ愛のわざこそキリストのみわざであり、その弟子であるキリスト者が喜んで励んでいくべきものでしょう。誰も見ていないところでの忠実な歩み、お返しを受けない愛のわざ。人のほめ言葉がなくてもこれを続けることこそ「キリスト者の誇り」、「キリスト者の喜び」です。ですから主は言われました。お返しができない人こそ食事に招きなさいと。そうする時、あなたがたは幸いなのだと教えられたのです。なぜ、幸いなのでしょうか。それはキリストを信じて義とされた者が、永遠の御国のために復活する時、神の豊かな報いがそれぞれの行いに応じて与えられるからです。人からの見返りと神からの報い。どちらが永続するものでしょうか。私たちが目に見える地上の利益を追い求める時、永遠の恵みからは遠ざかります。しかし、愛の道に生きることを選んでいく時、永遠の恵みが神によって備えられるのです。

(2019年1月20日 週報掲載)

2019/01/13

社会的弱者の保護

あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。(出エジ21:2) 

 当時の社会では奴隷(しもべ、召使い)を持つことは、一般的なことでした。その中でも神の民イスラエルにおいては、他のどんな民族よりも奴隷に対する保護が手厚く、丁重に扱うことが教えられていたのです。私たちは悪しき奴隷制度については全面否定しますが、当時の奴隷制度が弱者の生活保護の役目をも担っていたことを覚える時、そこには一定の意義があったことと認めるべきでしょう。ここにあるように、男性の奴隷は7年目には自由を得ることが定められていましたし、女性の奴隷の場合には、主人に安易に捨てられて、ひどい扱いをされることがないよう細やかな配慮のもとで保護する道を教えていました。男性の身勝手なふるまいを抑制し、社会的弱者である女性を守る意味があったのです。このような弱い者への配慮は、旧約時代から細かく教えられ、キリストにおいてこれらはより整理されて説き明かされています。私たち現代に生きるキリスト者もまた、弱者に対する愛の配慮を決して忘れてはなりません。神のみ教えはどこまでも細やかで、親切な愛に満ちているのです。

(2019年1月13日 週報掲載)

2019/01/06

新しい力は上から・・・

新しい力は上から・・・

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31) 

しばしば年配の方が若者に向かって、「若いから大丈夫でしょう」と言われるのを耳にします。

確かに、若いゆえにできる無理もあります。

しかし、前節の30節には「若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。」と語られています。どんなに若くて力に満ちているように見えても、「疲れて力尽きる」ものであり、「つまずき倒れる」ことがあるのです。これが人の力の限界です。

しかし、たとえ年老いていたとしても、主を待ち望む者は新しく力を得ることができるのです。

それは、鷲が大きな翼を広げて、高速で飛翔し空高く舞うことができる姿に似ています。バタバタと羽ばたかせて頑張るのではなく、主が吹かせてくださる上昇気流に身をゆだね、悠々と飛ぶことができるのです。

その人こそ、走っても力衰えることなく、歩き続けても疲れ果てることがないのです。
新しい翼をくださり、空高く優雅に飛翔する鷹のように、私たちも新しい年に主の上からの力をいただいて、疲れ知らずに舞い上がりましょう。

(2019年1月6日 週報掲載)

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