東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/07/21

つながること


わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。(ヨハネ15:5) 

人とのつながりが希薄な現代です。しかし、教会ではつながりを大切にします。先週は新会堂で初めてのお泊り会が持たれ、12名の子どもたちが参加しました。教師の他にも多くの兄姉が時間をささげて喜んで手伝ってくださり、まさに天の御国の前味のようなお泊り会となりました。

このお泊り会は「つながれ!」というテーマでした。枝はそれ単独では、どうやっても実を結ぶことはできないでしょう。一見生きているように見えても、木の幹から離れたままではどうにもならないのです。

同様に、私たちもキリストを離れては神のくださる豊かな実を結べません。

ですから、いつでもキリストの愛に留まり、みことばに生きる必要があるのです。

もし、キリストに留まるならば、「友」というすばらしい実をも結ぶことができます。私たちはキリストなしには出会えなかったひとりひとりではないでしょうか。しかし、キリストとつながる時、人生が変えられ、キリストによる友との出会いも実りとして与えられるのです。
(2019年7月21日 週報掲載)


2019/07/17

心のケアと人間関係  ~神の領域を受け入れる~


伝道者の書 713-14

神のみわざに目を留めよ。
神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。
順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。
これもあれも神のなさること。
それは後の事を人にわからせないためである。

 

ラインホールド・ニーバーという人の祈りは参考になります。


「主よ、変えられないものは、それを受け入れる心の静けさを、

 変えられるものを変える勇気を、その両者を見分ける知恵を私に与えてください。」

  この祈りをいつも心に持っておきたいものです。



「2:6:2の法則」

アリ社会の分析。
 
2割しか働きアリはいないそうです。
6割が邪魔もせずフラフラ。
残りの2割はむしろ反対方向に行ったり、邪魔をしている。
 
でも、このバランスが一番うまくいくし、自然にそうなる傾向がある。 
 
会社において、優秀な精鋭だけを集めていたらどうもうまくいかなかった。
そこであるコンサルタントはこうアドバイスしました。
 
「あまり仕事ができない人を少し入れてみなさい。」
 
すると、なぜか一体感が出てみるみる会社がうまくいくようになったと言います。
 
どんな組織でも、積極的に賛成してやっていこうとする人が2割いたら、6割ぐらいはどっちでもいいよという人。
残り2割はそれに反対する人。
 
つまり、基本的には全員が同じ意見で同じ温度で積極的になるということはあり得ない
 
ということです。

 
もし、10人の集まりがあって、あなたと意見が合う人が1~2名いたとします。
 
その場合、必ずあなたとは合わない人が最低2人はいると思った方がいいのです
 
あなたを褒めてくれる人が2人いれば、
あなたを少しも褒めずむしろけなす人が2人います。
 
勝手に、自分ならもっと褒める人を増やせると思っていると失敗してしまうのです。案外ほめてくれた人が、裏で悪口を言っているということもあるものです。その時にショックを受けるのは、ほめてくれる人が自分にはいっぱいいると勘違いしているだけではないでしょうか。
 
最初から2割は悪口言うんだから、「この人はその中の一人だっただけ」と思えばいいんのです。

 
 逆にこれが社会というものです。それを知っていると、無理に自分の側に引き込む必要もなければ、全員をやる気のある人にする必要もないとわかります。

 むしろそれをやるとうまくいかないという結果さえ出ています。


 環境を変えようとし過ぎるので挫折をします。

 他人を変えようとするから疲れ果てます。

 堅い鉄の棒を力で曲げようとするから・・・できずに失望するのです。

 
 すべての人から好かれる人はいません!
 
 必ず好いてもらえない人が存在するのです
 
 少なくとも2割は絶対いる!
 
 それを減らそうと思わない方がいい。そういう人がいることが必要
 
神様がそういう人の存在を置いているのだと受け入れることにしましょう。
 
その人たちにとっても、あなたが必要なのです。
 
反対意見を持つ人、自分とはソリが合わない人がいることで、そこから様々なメッセージを受け、人は成長するのですから。
 
これでバランスが取れるということをむしろ受け止めたいものです。

もし、みんなをまとめる必要があると感じたら、不満や不安を持つ人に対しても、「そういう意見もあるのですね!」と受け入れていくことから始めましょう。
 
排除すればうまくいくという考えはとても危険で、かえってうまくいきません。

 

じゃあ、変えることのできるものは何でしょう?

あなた自身は変われるし、変えられていくことは大切なのです。


「神のみわざに目を留めよ」とあるように、盲目な人間の目で、歪んだ偏った知識で、すべてがわかると思わないことです。

人間の知恵や努力ではどうにも及ばない神の領域があることを知り、受け入れていくこと。引き受けていくこと
 
これはできるのです。

 

 イエス様は素晴らしい人格のお方でした。愛にあふれ、知恵があり、やさしく、真理を知っているお方。だからファンもいっぱいいました。でも、反対にイエス様は多くの敵がいました。憎まれ、妬まれました。12人選んだ弟子の中でさえ、裏切り者が出ました。どんなに優しく、深い愛で包んでも、裏切る人は裏切るのです。うまくいかないことがあるのです。
 
イエス様でさえ、彼を引き止められなかった。ならば、私たちが人間関係で失敗したり、嫌われたり、裏切られることがあるのは当たり前なのです。

 イエス様はご自分の身に起こることを、否定したり拒んだりせず、それを自ら引き受けて歩まれました

 

 「置かれた場所で咲きなさい」という本があります。

ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんが書かれた本で、2012年のベストセラー第二位でした。

花は自分で歩いて咲きたい場所を選ぶことができませんね。
だから、それを引き受け、置かれた場所で精いっぱいきれいな花を咲かせることに集中しています。

渡辺さんはこの書の中でこう記しています。
「咲くということは、仕方がないと諦めることではありません。それは自分が笑顔で幸せに生き、周囲の人々も幸せにすることによって、神があなたをお植えになったのは間違いでなかったと、証明することなのです」 

私たちが置かれた所は時には非常に困難で「こんなはずではなかった」と思える場所かも知れません。でも、今置かれている所に神のご計画があることを信じて、そこで精一杯自分らしい花を咲かせるならば、自分らしく平安をもって過ごせるでしょう。神様は間違えて違う場所にお植えになる方ではないからです。


※同じテーマ「心のケアと人間関係」はコチラから。

 

2019/07/14

お金では入れない天の御国



アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれか死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(ルカ16:31


 主イエスは、金銭を愛するパリサイ人にたとえ話をなさいました。
 ここでは死んだ二人の人の異なる末路があります。金持ちは好き放題して暮らしていましたが、神を信じず苦しみの場「よみ(ハデス)」に導かれました。
 お金は天国への切符になりません。
 一方、貧乏人ラザロは生前苦しんでいましたが、神を信じて神のみもと「パラダイス」へ導かれました。金持ちはあまりに苦しいので、ラザロに助けを求め、生きている家族に「ここには決して来るな」と伝えに行ってくれと願います。
 ところが、それは無理なことです。
 さらに、神のことば聖書が与えられ、キリストのことを聞いても信じない人には、死者がよみがえって伝えに行っても信じないと語られます。その通りと思います。
 聖書以上の書はこの世界にありません。すべて書かれているのに、それを信じないならば、「私は死後の世界を知っています。伝えましょう!」という人が現れたとして、誰が信じるのでしょうか。

 お金では天の御国には行けません。神の救い主、イエス・キリストを受け入れましょう!
(2019年7月14日 週報掲載)

2019/07/09

子育て「時には嫌われても・・・」


 近年は「友達親子」という感覚が増えているように思われます。
 
 もちろん、そのような親しい距離感は悪いわけではなく、むしろ良い面が多いと言えるかと思います。仲良くコミュニケーションできるということ自体は良いことです。
 ただし、ここに大きな問題があることを社会も今気づき始めています。

20191月のNHK「けさのクローズアップ」にて・・・

2019/07/07

祭司の役目


 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせる(出エジプト29:44

 出エジプト記2829章では、レビ族出身のアロンとその子らを祭司として仕えさせるための必要な備えが記されています。彼らが着るエポデには12部族の名が刻まれ、装着される胸当てには12の宝石(12部族を示す宝石)が埋め込まれています。この12の石はイスラエルの全12部族を現し、祭司が彼らを代表して神の前に出ていくことが意図されています。
 祭司は神に仕える者として、罪人の代表として立てられました
 聖い特別な人ということではなく、むしろ民の代表として罪の赦しを神に求めて祭儀を執り行い、民のためにとりなし(仲介し)、神のあわれみと助けを祈り求める存在なのです。それはこの民が「わたしが彼らの神、主であり、彼らのただ中に住むために、彼らをエジプトの地から導き出したことを知るようになる(46)ためです。つまり、祭司は人々を神に近づけるための仲介役として立てられるのです。そして天に仕える真の大祭司キリストが来られた時、罪はことごとく赦され、信じる者すべてが大祭司キリストを通して神との交わりの座に回復することができたのです。なんという恵みでしょう!
(2019年7月7日 週報掲載)

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