東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/08/25

主により頼む時、つまずきから守られる



同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10) 

 私たちがつまずいたり、つまずかせたりしてしまう原因は、神により頼まず自身の力を頼る高慢が挙げられます。私たちは自分が思っているよりも弱く、罪の罠におちいりやすいものなのです。

それらは「自身の祈りの巧みさ」や「自身の信仰の強さ」によって勝利できるものではなく、主の助けを求め、主より知恵と力をいただき、主の御霊の導きによって勝利すべきものなのです。

そうであれば、私たちが主のことばに従い、豊かな実りを見た時にも、自分の祈りや信仰を自慢するのではなく、上記のみことばのように『私は取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と告白すれば良いことです。

逆に、いつでもこの告白が自分のものとなっているならば、多くの誘惑から守られるのではないでしょうか。人のした悪に対して穏やかな赦しの心で接することができるのではないでしょうか。

このように「徹底して主のしもべとして歩むこと」こそ、つまずきから守られる道です。慢心せず、主の恵み豊かな力を存分にいただきながら歩むことができるからです。
(2019年8月25日 週報掲載)

2019/08/21

教会開放日



8/21(水) 本日は教会開放日でした(PM1:30~5:30)。

そこでプラバン作りをしました。

 
とてもキレイに出来上がりました!!
 
教会開放日については、イベントページを見てください。
 
※同じテーマ「日々の恵み」のメッセージはコチラから読めます。

2019/08/18

ねたむ神とは?


あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。(出エジ34:14) 

ご自分を「ねたみの神」だとおっしゃる神が他にいるでしょうか。ねたむほどに人を深く愛し、よそ見をしないように「わたしだけを見よ」と語りかける神が他にいるでしょうか。

「どの神を拝んでもいいよ」という発想は、一見すると気前良く見えます。何でも自由に許可される事が一見幸せに見えるように・・・。

かし、私たちは無関心、放任主義の相手からは本物の愛を感じられないのではないでしょうか。深く愛しているからこそ、その愛が踏みにじられた時に、深く傷つき悲しむのです。

主は、あなたを深く愛しておられ、興味、関心を持ち続けているので、心が離れていることが悲しくて仕方がないのです。それほどに情熱をもって、親しく関わりたいという神のご性質を現わすために、あえてこの表現が用いられています(擬人法)。

人に伝わる表現を用いて、神がこれをお伝えになることこそ、私たちに対する強い関心の現れではないでしょうか。人の成功をうらやむ「ねたみ」とはかけ離れた、深い愛の情熱を現わす「ねたみ」なのです

神のねたみとは、まさに真実な愛に人を留まらせるための「優しさ」でもあります。
(2019年8月18日 週報掲載)

2019/08/11

キリストに満たされよう



あなたがたは、キリストにあって満たされているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。(コロ2:10) 

キリストを信じた時から、私たちのうちにはキリストの御霊が住まわれています

そのキリストのうちには神のご性質が満ちており、キリスト者は神のうちにある豊かなご性質で満たされる資格を与えられていると言えるでしょう。

キリスト者は、愛、寛容、平安、誠実など、神のうちにある豊かな性質を日々新しく備えられていくのです。こうして、私たちは内側から変えられ、キリストご自身のように変えられていきます。

しかし、しばしば私たちのうちには古い自分の顔があり、昔からの罪深い価値観、人間的なこだわり、聖書とはかけ離れた考え方をしている事があるものです。

せっかくキリストの心をいただいたのに、私たち自身が古い性質にこだわり、神に明け渡すことをせずにいるのです。

ですから、このみことばにあるようにキリストの支配と権威に自身をゆだね、新しい神の価値観にイキイキと歩む者とされましょう。

肉の思いによって歩むのでなく、キリストによって歩むのです。この世の教えに流されず、人間的な知恵によらず、徹頭徹尾、主のみことばに根ざして信仰を堅く保とうではありませんか。

(2019年8月11日 週報掲載)

2019/08/04

神ご自身がアナタを休ませる


主は言われた。「わたしの臨在(直訳:顔)がともに行き、あなたを休ませる。」(出エジ33:14)  


モーセが十戒の板を授かっていた時に、すでに金の子牛を造って堕落していた民。

主はその姿を深く悲しみ、「あなたがたのただ中にあっては上らない」と言われました。

しかし、モーセは主なる神と親しく語り合い、祈り嘆願し続けました。

主の道を教え、主のみこころにかなうように歩みたいのですと訴え、主がこの民のただ中で導いてくれるよう頼みました。自分たちの安心のために目に見える神が欲しいと言った民の姿と対照的です。

その時の主の答えが「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」でした。

イザヤ書63:11でも、主がともに苦しみ、この民を救い出し、ずっと背負って担われたと語られています。主ご自身がともに苦しみ、どんな困難な時にも見捨てることなく、私たちを背負い担いでくださるのだと励まされます。

見捨てられても仕方がない愚かな者であるのに、主は愛とあわれみによって、あきらめないで何度も救い、その民を休ませてくださるのです。

私たちを造られた主だけが、私たちに本当の休みを与えてくださいます。

神ご自身の臨在が私たちのただ中にいつもあり、その御顔の光が私たちを照らし続けますように!
(2019年8月4日 週報掲載)

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