東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/09/29

聖書を知っていれば大丈夫 ~終わりの日への備え~



人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。(ルカ17:23-24) 

 キリストの再臨についてはイエス自身が語っているみことばによって正確に知っておくことが大切です。世の終わりに近づくにつれて、キリストを名乗る人が多く現れ、人々を惑わそうとすると書かれています。

あそこだ、ここだと騒ぎ立てること自体、偽者の証拠であると言えます。

ここにあるように、人の子の日、すなわちキリスト再臨の日には、稲妻がひらめき天の端から端まで光るのと同じようにして来られるのです。

それは、どの地域に住んでいようと、誰でもわかるほど明確なしるしなのです。

このように、終わりの日に備える最良の方法は、イエス・キリストご自身のことばをよく心に刻んでおくことです。

世の終わりに関する聖書のみことばを知っていれば、焦ったり動揺したりする必要がありません。

語られている通りのことが、その通りに起こるだけのことです。

神を心から信じて、心を騒がせることなく、聖書のことばがひとつひとつ実現していくことを数えながら備えていきましょう。
(2019年9月29日 週報掲載)

2019/09/24

15分で学ぶ 預言者ヨナの人生 


B.C.8世紀頃の話。イスラエルにヨナという預言者がいました。神様は彼に北東にあるニネベの都に行き、神の救いを知らせよと命じました。ニネベの都に積み重ねられた悪行がひどく、神様が滅ぼされようとしているというわけです。
 
ところが、預言者ヨナはこれに逆らいました。
1:3 しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。

2019/09/22

神の国を受け入れる


『見よ。ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。(ルカ17:21) 

神の国はいつ来るのか」とパリサイ派の人々はイエスに尋ねました。

彼らはその時、まさに目の前に神の国を目撃していました

それなのにこの問いをキリストに投げかけたのは、彼らの心の目が閉ざされていたからに他なりません。神の国の王はイエス・キリストご自身であり、キリストがこの地上に来られた目的は神の国に人々を招き入れるためでした。

キリストが悪霊を追い出し、病をいやし、人々を絶望から希望へと導かれている現実こそ、神の国が始まっているという事実そのものです(マタイ12:28)

「あなたがたのただ中にある」と言われたのは、神の御子が人の姿をとって、人の間に住むようになられた事実です。

パリサイ人たちが今見ている、取り囲んでいるキリストがそこにいることこそ神の国の到来であると知って欲しいからです。

子どものように神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入れないと語られているように(マルコ10:15)、そこに見ている、聞いているだけで終わらず、心を開いて受け入れる者となりましょう。

神の国は一度入った者を決して見捨てない永遠の御国です。
(2019年9月22日 週報掲載)

2019/09/15

主が喜ばれる姿勢 ~心から進んで~


イスラエルの子らは男も女もみな、主がモーセを通して行うように命じられたすべての仕事のために、心から進んで献げたのであり、それを進んで献げるものとして主に持って来た。(出エジプト35:29) 

ゆがんだ宗教観のゆえに、キリスト信仰もしばしば誤解されることがあります。

戒律を機械的に守ることが信仰生活であるかのような誤解です。

しかし、聖書はとても丁寧に、人の心の動きを描写しています。

この場面もそうですが、「心から進んで」ということばが強調されているのです。

少し前の21節でも「心を動かされた者、霊の促しを受けた者」と語られ、旧約時代の人々もまた、義務感や恐怖心で神に従ったのではなかったことがわかります。

むしろ、神のあわれみ深さに感動し、そのみおしえの素晴らしさに感銘を受け、そこにある真実と恵みに応答するようにして、心から喜んで神に仕え、献身したのです。

むしろ、私たちの心にある固定観念や決め付けが、こうした自発的な歩みを妨げています。

焦る必要はありません。まず神に祈り、神のみことばなる聖書をよく味わいましょう。

キリスト者と語り合いましょう。

その時、不思議とこんな自分でも何かを献げたい。何かをさせていただきたいとの思いが生まれてくるはずです。

(2019年9月15日 週報掲載)

2019/09/08

神をあがめる人生を歩もう


そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。(ルカの福音書17:15-16

 ツァラアトという難病をイエスに癒してもらった人々は10人。しかし、そのことで神をあがめ、ほめたたえながら戻って来てイエスに感謝した人は1人だけでした。

しばしば信仰というものを、願いを叶えてもらうための手段にしてしまってはいないでしょうか。

助けてもらいたい時には、今までにないほど必死に祈ります。

しかし、祈りが応えられるとごく短く感謝を済ませ、あっという間に忘れてしまうのです。

何のために癒してくださったのでしょうか。何のために助けてくださったのでしょうか。

私たちがその出来事を通して神のすばらしさを体験し、そのみわざの豊かさを人々に語り告げ、神の栄光を現すためではないでしょうか。

今まで以上に神に信頼し、神をあがめる人生を送るためではないでしょうか。皮肉にもこの時、神をあがめながら感謝しに帰って来たのは、選民ユダヤ人ではなく、彼らが嫌うサマリア人です。

神の前に喜ばれることは、生まれを誇ることではありません。

いただいた神の恵みに心から感謝し、神をあがめて生きていくことです。
(2019年9月8日 週報掲載)
 
 

2019/09/01

輝く日々 神とともに


それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。(出エジプト記34:29

 現代の世界情勢を見る時、闇が日に日に深まっていると感じます。しかし、神の光の中を歩むよう招かれているキリスト者ですら、希望を見失い暗い表情でギリギリ生きているという人が少なくないように思えます。悪魔はそれを見てほくそ笑んでいることでしょう。

私たちは闇の中で色を失い、闇と同一化してはなりません。世の光として召されたキリスト者こそ、神の御顔の輝きを世に現すひとりひとりでなければなりません。

けれどもそれは、人の血肉の努力によるものではなく、キリストの御霊によることです。

モーセが神の前に時間をささげ、4040夜ともに過ごしたゆえに、その顔が神の栄光の輝きを帯びていたのです。

私たちもまた神の御顔の輝きを求め、御霊によって主と親しく歩ませていただきましょう!

神との時間をどれだけ大切に過ごしているか。

それが私たちの輝きそのものであると知りましょう。闇に長く身をおけば闇に染まりますが、神の御顔の光の中を歩めば、あなたにその輝きが与えられていくのです。

「主から豊かに受け、人に豊かに与えていく」

これこそ、キリスト者の信仰生活の神髄ではないでしょうか?
(2019年9月1日 週報掲載)

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