2019/11/10
次世代へ語り継ぐもの
これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。(申命記6:7)
申命記は、約束の地へ入る手前で、モーセが死を目前にして語った告別のメッセージです。
自身はカナンの地に入ることができず、その前で天に召される。
そんな状況の中で、次世代の民へと伝えたいものがあったのです。
それは、あなたの神、主を愛することです。
カナンの地には偶像礼拝、異教の文化の誘惑が多分にありました。しかし、そこで流されることなく、みことばに立って、主だけを生涯愛して仕えるようにと伝えたかったのです。
私たちも、次世代に何をどのように伝えたいのでしょうか。
教会学校で子どもたちが教えられ、育てられることはすばらしいことです。ぜひ、子どもたちを教会学校に参加させていただきたいと心から思います。
一方で、教会学校で見てあげられる時間はわずかです。週1回の限られた時間で伝えられるものは多くありません。ですから神は民に対して、それぞれの家庭、日常生活の中で子どもたちによく教えるように言われました。
家でゆっくり座っているとき、道をともに歩いているとき、寝るとき起きるときも・・・。
日常のあらゆる場面で子どもたちに神を心から愛して歩むことを教えよと命じられました。
子どもたちは、大人が普段の生活の中でどのように神とともに歩んでいるかを見て、神の偉大さやすばらしさを知ります。
改まった機会にではなく、つくろった外側ではなく、毎日の歩みの中で親や大人たちから学びます。
子どもたちの祝福を心から願うならば、私たちはこの責任を祈りのうちに全うすべきでしょう。
神はこれを大切なこととして「聞け!イスラエルよ」と注意を呼びさましながら示されたのです。
2019/11/05
子育て「お母さんも安らがないと!」
お母さん自身のケアも大切です。
自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。(Ⅰテモテ4:16)
聖書にこうあるように自分自身にもよく心を配り、ケアされていないと良い子育ては難しいですよね。特に子育ては24時間営業の一大事業です!
親は親としてだけの働きじゃありません。お仕事や家事、ご主人の助けなど色々あるわけです。その中での過酷な働き!重労働。大変です。
2019/11/03
神に近づく道
その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥(なだ)めとなり、彼は受け入れられる。(レビ記1:4)
実はレビ記の本来のタイトルは「レビ記」ではなく、「そして彼は呼んだ」というヘブル語一語とされています。
出エジプト記の最後で幕屋が完成しましたが、神の栄光が満ちておりモーセは中に入れませんでした。
それで、レビ記の最初ではその幕屋から主なる神がモーセに呼びかけ語ってくださったのです。
いつでも神の招きが先にあり、招かれて初めて私たちは神のもとへと近づくことができるということを教えられます。
ここで語られたことは、幕屋でどのようにして神礼拝をなすのかということでした。
神に受け入れられる道筋が教えられているのです。
礼拝の初めに「招きのことば(招詞)」というものが読まれます。
それは、神がまず私たちを御前に召してくださるということであり、それなしには礼拝をささげることすらできない私たちなのです。
圧倒的な聖、輝かしい栄光の前に、人は本来そのままの姿で神に近づけば自ら滅ぶことになります。しかし、神が備えられた道、すなわち罪のきよめのささげ物を通して神のあわれみのうちに受け入れられていくのです。
罪ある人間が滅びずに聖なる神に受け入れられるために、動物のささげ物の頭の上に手を置いて祈ることを主は教えておられます。傷のない動物が選ばれ、私たち罪ある人間の身代わりとしてささげられるのです。
これはまさに神の子羊イエス・キリストの雛型(ひながた)です。
神が聖なる方であるように、私たちもキリストの十字架の贖いによって罪赦され、聖なる者とされて神に大胆に近づけるようにされたのです。
このために神が払われた尊い犠牲に感謝します。
2019/10/27
信じるなら、主の栄光を見る!
そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。(出エジプト記40:34)
イスラエルの民は、神のご命令の通りに幕屋を建設しました。
自分たちの好むようにではなく、いい加減にでもなく、主がモーセに命じられた通りの材料で、語られた通りの構造に造りました。
そして、いよいよ完成したとき、このみことばにあるように「主の栄光」が幕屋に満ちたのです。
主の栄光がその場に満ち溢れたので、モーセさえその天幕に入ることができないほどでした。人間の栄光のためではなく、ただ主のおことば通りに聞き従い、主の栄光を求めてなした時に、このように主の栄光で幕屋が満ちたのです。
どんなに立派な幕屋を建てようとも、そこに神の臨在がなく、神の栄光が現れないものならば、何の意味もありません。
人の求める栄光はむなしくすぐに消え去ります。
「自分の栄光」ほどむなしく消え去るものはありません。
ソロモンは圧倒的な財力、比肩する者なき知恵があり、あらゆる快楽や事業に取り組みました。
しかし、贅沢の限りを尽くし自分の栄光を現わしたどり着いた結論は「神を離れては何をしてもむなしい」というものでした。
日本でも豊臣秀吉は、自分の栄光をひたすらに追い求め、農民から天下人にまで立身出世した人です。金銀財宝を得て、多くの家臣を得ました。しかし、彼の最後もまたむなしさに満ちていました。
自分の人生は朝露のように現れてはすぐに消えるむなしいものだった。まるで夢を見ていたようにはかない人生であったと、さみしさに満ちた歌を残して世を去りました。
しかし、神の栄光は人に幸福をもたらし約束の地へと導いてくれます。
そして、それは消え去ることのない永遠の輝きです。
イエス・キリストも言われました「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハ11:40)。
私たちは主イエスを信じて生きるならば、主の栄光を見させていただけます。みことばの通りに歩むときに、神の栄光が幕屋満ちたように、私たちもみことばに忠実に歩んで生きましょう。
私たちの歩みが主の栄光を現すものとなるよう切に願います。
あなたはどんな栄光を求め、どのような方法でその栄光へたどりつこうとしていますか。
2019/10/20
真理と自由
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)
イエスを信じたユダヤ人たちに、主イエスはこれを語られました。
信仰というものが、決して一時的なものや表面的なものでないことがこの事からわかります。
神の真実の啓示者であるキリストのことばにとどまり、従い続ける人こそ名実ともに、キリストの弟子であり、その人こそ真理を知る者とされていくのです。
「真理を知る」とは、キリストを知ることであり、同時にそれは父なる神を知ることです。
真実な神を知識だけでなく人格的に知る者となり、その人こそあらゆる束縛、支配から解放され自由とされるのです。
それが神がくださる「救い」であり、キリスト者はこの真理をお伝えし、人々を真の自由へと導くために召された主の弟子です。
しかし、私たちの生活がみことばとかけ離れているならば、人々が私たちを見て真理に気づくことは難しいでしょう。
「真理」は、みことばと行いの一致を意味することばだからです。ですから、みことばと行いが完全に一致しておられるキリストから目を離さずに歩んでまいりましょう。
そして、真理を知るということは、自分の本当の姿を知ることでもあります。
聖書という鏡を通して、私たちは自分の本当の姿と直面します。キリストを知るほどに、自分の汚れ、罪深さ、心の闇にも気づかされていきます。愛のない者、飢え渇いている者であると知ります。
しかし、これこそ、私たちが自由にされていくために必要なことです。
「裸の王様」が不幸なのは、自分が裸であるという真実を知らなかったからです。
多くの人が教えてくれませんでした。
でも、王様自身が、そうさせていたとも言えます。
私たちは謙虚になって、自分の罪を素直に認め、そこから解放してくださるキリストに留まり続ける者となりましょう。
そして、この真理を知らず、自分が闇の中にいることも気づかないでいる人々にこの真理を分かち合い、本当の意味であらゆる束縛から解放され、自由になっていただければと願うのです。
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