東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2019/11/20

野の花を見なさい

ルカの福音書12章27-28節より

27節  草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。 
28節  今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。 

普段から花を見ながら過ごせるのはとても良いことです
 
実にイエス様も、野に咲く草花を見て考えなさいと言われています。
 

2019/11/17

高くする者は低くされ、低くする者は高くされる


一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカ18:13-14) 

最も深刻な罪は、自己正当化の罪だと言えます。

自分はいつも正しいと信じきっているので、罪を認めることができず、悔い改めができないのです。

自分を正しいとする者には、キリストの十字架は不要となってしまいます。神の赦しを必要としないのです。


そのように自分を高く正当化する者はそのままでは救いに導かれることができないので、神はその人を砕き罪に気づかせようとなさいます。それもまた「神の愛」から出ているのです。

私たちがしばしば砕かれるのは、自分の高慢や正当化する罪に気づき、この取税人のようにへりくだって、神にあわれみを乞う者となれるようにするためです。

神の国は、そのように自分を低くする者に開かれます。

自分で必死になって上を目指さなくても、神がその人を高くしてくださるのです。

自力で高く大きくして誇る者は、その門をくぐれません。神の力を拒絶してしまうのです。

神の前に謙虚になりゆだねましょう。必要な時に神が高くしてくださいます。

2019/11/10

次世代へ語り継ぐもの


これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい。(申命記6:7) 

申命記は、約束の地へ入る手前で、モーセが死を目前にして語った告別のメッセージです。

自身はカナンの地に入ることができず、その前で天に召される。

そんな状況の中で、次世代の民へと伝えたいものがあったのです。

それは、あなたの神、主を愛することです。

カナンの地には偶像礼拝、異教の文化の誘惑が多分にありました。しかし、そこで流されることなく、みことばに立って、主だけを生涯愛して仕えるようにと伝えたかったのです。

 
私たちも、次世代に何をどのように伝えたいのでしょうか。

教会学校で子どもたちが教えられ、育てられることはすばらしいことです。ぜひ、子どもたちを教会学校に参加させていただきたいと心から思います。

一方で、教会学校で見てあげられる時間はわずかです。週1回の限られた時間で伝えられるものは多くありません。ですから神は民に対して、それぞれの家庭、日常生活の中で子どもたちによく教えるように言われました。

家でゆっくり座っているとき、道をともに歩いているとき、寝るとき起きるときも・・・。
日常のあらゆる場面で子どもたちに神を心から愛して歩むことを教えよと命じられました。

子どもたちは、大人が普段の生活の中でどのように神とともに歩んでいるかを見て、神の偉大さやすばらしさを知ります。

改まった機会にではなく、つくろった外側ではなく、毎日の歩みの中で親や大人たちから学びます。

子どもたちの祝福を心から願うならば、私たちはこの責任を祈りのうちに全うすべきでしょう。

神はこれを大切なこととして「聞け!イスラエルよ」と注意を呼びさましながら示されたのです。

2019/11/05

子育て「お母さんも安らがないと!」


 お母さん自身のケアも大切です。

自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。(Ⅰテモテ4:16

聖書にこうあるように自分自身にもよく心を配り、ケアされていないと良い子育ては難しいですよね。特に子育ては24時間営業の一大事業です!
親は親としてだけの働きじゃありません。お仕事や家事、ご主人の助けなど色々あるわけです。その中での過酷な働き!重労働。大変です。

2019/11/03

神に近づく道


その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥(なだ)めとなり、彼は受け入れられる。(レビ記1:4) 

実はレビ記の本来のタイトルは「レビ記」ではなく、「そして彼は呼んだ」というヘブル語一語とされています。

出エジプト記の最後で幕屋が完成しましたが、神の栄光が満ちておりモーセは中に入れませんでした。

それで、レビ記の最初ではその幕屋から主なる神がモーセに呼びかけ語ってくださったのです。

いつでも神の招きが先にあり、招かれて初めて私たちは神のもとへと近づくことができるということを教えられます。


ここで語られたことは、幕屋でどのようにして神礼拝をなすのかということでした。

神に受け入れられる道筋が教えられているのです。

礼拝の初めに「招きのことば(招詞)」というものが読まれます。

それは、神がまず私たちを御前に召してくださるということであり、それなしには礼拝をささげることすらできない私たちなのです。

圧倒的な聖、輝かしい栄光の前に、人は本来そのままの姿で神に近づけば自ら滅ぶことになります。しかし、神が備えられた道、すなわち罪のきよめのささげ物を通して神のあわれみのうちに受け入れられていくのです。

罪ある人間が滅びずに聖なる神に受け入れられるために、動物のささげ物の頭の上に手を置いて祈ることを主は教えておられます。傷のない動物が選ばれ、私たち罪ある人間の身代わりとしてささげられるのです。 


これはまさに神の子羊イエス・キリストの雛型(ひながた)です。

神が聖なる方であるように、私たちもキリストの十字架の贖いによって罪赦され、聖なる者とされて神に大胆に近づけるようにされたのです。

このために神が払われた尊い犠牲に感謝します。

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