東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2020/02/21

聖書由来のことわざ「目からウロコが落ちる」


  目からウロコが落ちる  


意味:〔新約聖書使徒行伝九章から。略して「目からうろこ」とも〕
あることがきっかけとなって、迷いからさめたり、物事実態がわかるようになる。
(三省堂 大辞林 第三版より)


聖書に由来する格言、ことわざは意外に多いということ、ご存知でしょうか?
世界中で読まれてきたベストセラーですから、ある意味当然と言えるかも知れません。

普段日本人が何気なく使っていることわざも実は聖書から来ているものがあります。
少しでも聖書に親しんでいただくために、少しばかり紹介させていただこうと思います。

【 由来となった聖書個所 

するとただちに、サウロの目から鱗(うろこ)のような物が落ちて、目が見えるようになった。(使徒9:18) 


クリスチャンを見つけては暴力をふるい、捕え、迫害してきたサウロという人がいました。彼には彼なりの正義があって、それらを正しいことと思いこんでやってきたのです。
彼の心の目が開かられておらず、間違った正義感に支配されていたのです。

しかし、ダマスコという町に向かう途中、彼は天からの光を受け地面に倒れました。
天から声が聞こえました。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」

サウロが誰なのかたずねると・・・


「あなたが迫害しているイエスである」との声が聞こえました。


同時に彼は目が見えなくなり、手を引かれてダマスコの町まで来ました。
サウロは三日間、目が見えず飲食もできませんでした。ただ、苦しみと恐れの中で祈っていました。そこで神から遣わされたアナニヤという人物と出会います。

アナニヤは最初、サウロがどれほど自分の仲間を迫害してきたかを知っていたので、なぜ、神がそのような者を助け、宣教に用いようとるのか理解できませんでしたが、神の言うとおりにし、彼の目をいやすために、手を置いて神からのことばを伝えたのです。

すると、ただちに、サウロの目からウロコのような物が落ちました。

彼はその途端、目が見えるようになったのです。
彼の肉眼が見えるようになったと同時に、彼は心の目で神のみこころを見る者とされたのです。 

彼はその後、バプテスマを受け、イエスこそ神の子であると宣べ伝えるようになりました。彼はやがて「パウロ」という名で宣教の使命を全うしていく者となりました。


まだ聖書を知らない頃、「目からウロコが落ちる」ということわざは、どうして「ウロコ」なの??と疑問に思ったことがありました。

しかし、聖書から来たものであると後に知りました。
TVの「トリビアの泉」という番組で紹介されたので、この事は割とよく知られているかもしれません。


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2020/02/17

レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」

レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」


罪のきよめに必要だった「ささげ物の教え」から学びます。
前回もお話ししましたが、ここに語られている儀式自体は、すでにキリストの十字架に取って代わられたものであって、現代の私たちがするものではありません。

2020/02/09

Who are you? あなたは何者か?

自分が何者であるのか?どういう存在なのか?知っているようで知らない私たちです。
なぜでしょうか?
人は自分の姿を見ることができないからではないでしょうか。
他の人の姿はよく見えます。でも、自分の表情や自分の立ち振る舞い、全体像。
それらは見えないのです。鏡や映像を通してしか自分が見えません。
最近は、そうしたことを考えると神様はあえて私たちをそのように造られたのではないかと思うのです。自分の力で自分を知りつくすことができない者です。そうなるとどうやって自分をより深く知るのでしょうか?

2020/02/07

子育て「わが子に信頼を伝える」




 愛するわが子に信頼を伝えること。それは良いコミュニケーションとも言えます。
人は疑われて育つのではなく、信頼され任されゆだねられ、失敗もしながら成長するのではないでしょうか。
 
確かに神様というお方は100%信頼に値する方ですが、子どもたちは罪ある存在です。
善悪の判断も十分にできないこともあります。
 
しかし、それでも「どうせ無理だろう」という前提で伝えるのではなく、「わたしの愛するあなたなら、きっとできる。約束も守ってくれるはず!」と信頼を伝えつつ励ますことは子どもの心を励まし育てます。

十戒の秘密・・・
否定未完了形「してはならない!」という訳をせざるを得ない面もありますが、実は持っている意味は「わたしの子であるあなたがたは・・・しないはずである」というニュアンスです。戒律ではなく人への信頼と期待が含まれているのです。
 
私の愛するあながたは、こんなことをするはずがないですよね?という期待と信頼の現れです。ですから神様は人に対して、何度失敗しようとも語りかけられるのです。
 
「殺してはならない」 → 神が愛しているあなたがたは「殺すなんてしないよね。そんなはずがないよね」という意味です。
してはいけないという倫理を教える面はもちろんありますが、それだけでなくそれを守ることができることを期待し、神からの信頼の呼びかけであることを覚えます。

 
人は、全く信頼されていないと、悪いことをかえって選択してしまうものです。
「ウソをつくなと100回教えられる」よりも、「あなたの言うことを信じるよ。だから正直に話してね。」と伝える方がずっと効果的なのです。


例)☆お手洗いの張り紙 

①「きれいにお使い下さい」「汚さないようお願いします」と書かれている場合と

 
②「いつも綺麗に使っていただきありがとうございます」と書かれている場合

 単なる言葉の問題のようですが・・・与える印象がだいぶ違います。
 人は 期待され、信頼されると、そのような者になろうと思うので②の方が効果的ですし、お互いに気分を害する感じになりにくいと言えます。

 箴言12:18 軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人を癒やす。

 子どもたちは、もちろん人間ですから信頼を裏切ることがあります。けれど実はそれは私たちも同じではないでしょうか。大人こそ子どもたちの期待をより多く裏切っています。

イエス様の一番弟子ペテロの話があります。彼はイエス様にどこまでもついて行くと豪語していましたが、3度もイエス様との関係を否定します。保身のために信頼を裏切ってしまいます。その後彼は自分の罪に号泣するのです。

けれど、イエス様はどうなさったのでしょうか?
このペテロを信頼して大きな責任をお任せになったのです。彼は今まで以上に良い働きをする者になりました。

信頼を裏切った時、反省してないようならきちんと言い聞かせるべきです。責めるというよりも、親の気持ちを伝えることが大事。約束を守ってくれなかったことがとても悲しかった。神様も悲しんでいる

しかし、十分反省し、悔いているなら → 励まし、信頼し、またチャンスを与える

 
年齢と共に次第により大きなことを任せていくようにしたら良いでしょう。

そうやって信頼して任されることで子どもたちは徐々に成長し、その信頼にふさわしい者へと成長していきます。

 思春期以降は、「信頼して任せる」ということをより増やしていく必要があります。親が気になって言い過ぎると、結局は「信頼してくれてないのだな」「頼りないと思っているのだな」、「ダメだと思われているんだな」と子どもたちは感じ、自信を失います。ひいては親への信頼をも失いかねません。

 未熟なことがわかっていても、失敗することも含めて「やってみなさい」と任されることで、子どもたちは成長します。親に助けてもらいながらでも、自分でも頑張ってやれた!というのが将来への自信と成長につながります。

今までは親が7割、子どもが3割で責任を分割していたとしたら、徐々に親の責任割合を減らしていきます。思春期の子たちは、親3割、子ども7割ぐらいでもいいでしょう。

どうか、信頼していない前提、疑う前提で話さず、「何度でもあなたを信じて期待するよ」と子どもたちに伝えて欲しいのです。


2020/02/02

レビ記3章 「神との交わりを楽しむ」 

レビ記3章1-17節

旧約聖書のレビ記を味わいますが、この書が記されたのは、今から3000年以上も前のことになります。旧約とは名前の通り古い契約です。ですから、新しい契約つまり新約聖書によって「更新」されていますので、現代の私たちはこの通りに実行するわけではありません

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