東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヘブル3章16節~4章2節「聞いて、信じて、結びつける」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/05/06

ヘブル3章16節~4章2節「聞いて、信じて、結びつける」

*** 5/4(日)主日礼拝 説教概略 ***

 ある人が病の治療のために病院に行きました。とても苦しんでいたので、お医者さんに自分の症状がいかに重く、どれほど大変かを必死に訴えました。医者も丁寧に診察して、最善の治療方法を考え患者さんに伝えました。ところが、この患者さんは自分の症状のひどさを訴えるのには必死でしたが、この医師の指導を信頼せず、全くその通りに実行しませんでした。さて、この人は良くなるのでしょうか。



 残念ながらとても改善するとは思えませんね。どんなに良い教えも、どんなに素晴らしい指導も、それを聞くだけでは意味がありません。それを良いものだと信頼して、自分自身に適用して従うこと。これがなければ、改善されませんよね。

 私たちの信仰生活も同様です。みことばを聞いて「ああ良かった」と終わらないようにしましょう。聞いて、信じて、自分の人生に結びつけるのです。今日のみことばは、旧約時代、神様が与えると言われた安息の地に入れなかった人々を例に挙げ、神の安息を自分のものとする方法を教えています。

 

1.聞いていながら反抗した民  

16 では、聞いていながら反抗したのは、だれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た、すべての者たちではありませんか。 

 「聞いていながら反抗した」と語られています。特に「反抗した」という事実が強調されています。どうしても難しい事情があって不可能だったということではない。つまり、聞いていたけれど従わなかった。自分たちの考えや欲を優先し、神様に意図的に逆らったということです。分かっていて従わなかったのです。

 ママsカフェでよくお伝えしていることがあります。子どもが未熟さのゆえに失敗したことは責めないように。でも、意識的な反抗については、その罪深さを正す必要があるということです。食べ物をうっかりこぼしてしまった場合は叱らない。でも、反抗して食べ物を粗末にしたならば、叱らなければなりません。この旧約の民も、わからなかったのではありません。何度も聞き教えられた上で、「意図的に反抗した」のです。それゆえに、神様はお怒りになりました。17-18節にこうあります。 

17 神が四十年の間、憤っておられたのは、だれに対してですか。罪を犯して、荒野に屍をさらした者たちに対してではありませんか。 
18 また、神がご自分の安息に入らせないと誓われたのは、だれに対してですか。ほかでもない、従わなかった者たちに対してではありませんか。 

 ここにあるように、神様の怒りは相当なものです。「ご自分の安息に入らせない」と誓ってまで怒りを示しているのです。彼らの問題について16-18節にかけて、3つのことばで表現されています。16節で「反抗」、17節で「罪」、18節で「不従順」と。
そして、これらをまとめたのが19節です。

19 このように、彼らが安息に入れなかったのは、不信仰のためであったことが分かります。 

 「不信仰」という問題が、恵み豊かな安息の地に入ることを妨げたのです。彼らは神様の多くの奇跡を体験しました。あのエジプトの支配から救っていただいたのです。追っ手であるエジプトの大軍から海を裂いて守り、水も食べ物も十分与えられました。昼は雲の柱、夜は火の柱を与え、様々な危険から守り正しく導いてくださった主です。それなのに、彼らは尚、神様を信頼せず、自分の思い込みを優先しました。安息を与えるとの神の約束に従わず、カナンの地に入ることを拒んだのです。「無理だ!出来ない!」と決めつけ拒んだのです。自分には無理だと頑なに信じ切っているのです。

 「信仰が弱いのです」と言いながら、実に負の方向においては頑丈な揺るがないほどの信仰で、「私には断じて無理だ」と確信している場合があります。これこそは、負の信仰と書いて「負信仰」です。

 次男の高校の先生が最近、生徒たちに言われたそうです。「自分には無理だと決めつけるのはやめなさい」と。その決めつけが、自分の可能性を自らつぶしてしまうのだと。私たちも神の声ではなく、無理だという自分の声を愛し、これに聞き従っているわけです。自分の思いと考えを愛する、ある種の偶像礼拝かも知れません。

諦めるのが早すぎます。祈ったのでしょうか。従ったのでしょうか。精一杯ささげたのでしょうか。何もしないうちに諦めていませんか。神様に頼るのが遅すぎないでしょうか。

最近続けて、こんな主のみわざを体験しました。ある方がスマホを無くししまい、困り果てておられました。今の時代スマホを無くしたら大事ですよね?私も妻も祈り、日曜日には教会で幾人かの方が祈ってくださった。すると、その日曜の午後には「見つかりました!」と感謝の報告がありました。

また、ダイヤル式の錠前の番号設定が変わってしまって、キャビネットが開けられないという事件も先週ありました。妻とある姉が元の番号に近い番号を色々トライしても開かない。 時間があまりなかったので焦っていました。そこで祈ろうということで、私も含め3人で祈りました。すると1分で開錠できたのです。主をあがめました。「無理だ」との自分の声の代わりに、「祈りなさい」との主の声に従っただけです。問題が解決しただけでなく、祈りの力、神のみわざの素晴らしさを体験でき、信仰が励まされました。祈ってくれる仲間の尊さを喜べたのです。

 

2.神に信頼し、みことばに生きていく

ですから、著者も不信仰にならず、信じて神の安息を得るよう勧めています。
41節。

4:1  こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。 

 まず、「恐れる心を持つ」ということが勧められています。それは神の偉大さ、神の圧倒的な力を恐れるということです。神様は愛の方であるだけでなく、力ある神様です。不可能など一つもない神様です。しばしば、クリスチャンが行き詰まる理由の一つに、愛の神様、あわれみの神様ということばかりを見つめ、力ある方、何でもできるお方であるということを信じない問題があります。イスラエルの民は、神が行けと言われた地には、野蛮で恐ろしい、強大な民族がいるから「自分たちは殺される、入っていけない」と決めつけて、拒みました。だから、この方が真実で力ある方だと信じるよう、愛の教えがなされているのです。2節。

4:2  というのも、私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。 

 良い知らせ(福音)が「伝えられていて」の部分は、完了形です。救いの知らせが、私たちには既に伝えられていることを強調し、この点は旧約時代に安息に入れなかったあの人たちと同じだと言います。せっかくの良い知らせを聞いていながら益にならなかったのです。聞いたのに益にならない。なぜでしょうか?聞いただけで終わってしまったからです。聞いた神のことばを信頼して、その通りにしなかったからです。

 尚、最後の一文は幾つかの英訳聖書では別の訳が採用されています。それは「信仰をもって聞いた人たちに加わらなかったから」という訳です。この場合、ヨシュアやカレブといった信仰によって聞き従った者たちの仲間に加わらなかったので、益にならなかったと理解します。一方、ESV等の英訳聖書や新改訳聖書は、みことばを自分自身に結びつけるとの訳を採用しています。こちらは、信仰生活にみことばを結びつける意図がより明確な訳だと言えます。

ここにある「結びつける」とのことばは、「一緒に」という語と「混ぜる」という語が合成されたことばです。つまり、異なる要素を混ぜ合わせて統一された状態にすることです。このことばは、新約聖書ではもう一箇所だけ使われています。第一コリント1224節で、様々な異なる器官によって、からだを「組み合わせた」との文脈です。全く異なる器官の集合体が人の体ですが、美しく調和して一つになっていますよね。これがこの「結びつける」という意味です。

本来、神様のみことばと私たちの肉の思い、肉の生活はだいぶ異なり、かけ離れているものですよね。それでみことばを聞いた時、しばしば私たちは拒絶反応を示してしまいます。肉の思いと、聖書の示す神の御思いが相反するからです。

お医者さんの指導もそうでしょう。「塩分控えましょう!運動しましょう!」と言われると「えー!」と拒絶反応を示します。従えないことも多い。そして良くならないのです(自戒を込めて)。

「結びつける」というのは、元はかけ離れた存在でも、それらが調和して美しく一つになっていくことです。ですから、みことばをノートに書いて終わりではありません。自身の心に受け入れ、そこから霊肉すべてに浸透していき、自身の人格の一部となっていくことです。生活の中にみことばが有機的に結合されることです。それが「みことばに生きる」ということ。このように、「聞いたみことばを、信仰によって、自分自身に結びつけること」が、神の安息を得る上で必要不可欠です。

このように信じる者は、天の御国、神の永遠の安息に確かに入ることができるのです。それゆえに確かな望みがあり、深い平安があるのです。そして、今この瞬間も、キリストにある安息を、豊かに味わい、安らぐことができるのがクリスチャン・ライフです。もし、この平安をあまり得られていないとするならば、今日のみことばがあなたに本当に必要です。

 「無理だ」と決めつける「負の信仰」も、主の声に従わない不信仰も、そろそろやめにしませんか。聞いて終わりではなく、「そうだ、その通りやってみよう」「従ってみよう」と、信じて従っていきませんか。神様は真実なお方です。その信仰による行動に応えてくださいます。だから、安心です。そこに、主の平安が確かに与えられます。キリストにある安息の中に毎日憩いつつ、御国の完全なる安息を目指していきましょう。


引用元聖書
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