東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 2025年度メッセージ
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

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2025/09/24

エステル記9章1-19節「後に残したいもの」

*** 9/24(水)祈祷会 説教概略 ***

「今さえ良ければ」という刹那的な人生は、やはり孤独でむなしいものです。聖書が示すように、いつまでも残る尊いもののために生きる時、私たちの心は真に喜び、満たされるのではないでしょうか。そして「負の遺産」ではなく「良い遺産」を将来に、次世代に残していきたいのではないでしょうか。みことばから教えられます。


2025/09/18

エステル記8章1-17節「勝利者として生きる」

*** 9/17(水)祈祷会 説教概略 ***

 第一ヨハネ5:4にこうあります。「神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」キリスト者は、既に罪とこの世の様々な悪しき存在に勝利しています。キリストが十字架の上で勝利されたからです。ですから、敗北者としてではなく、滅びることのない勝利者として歩んでいきましょう。
 

2025/09/15

エレミヤ書6章1-30節「人生の分かれ道」(朗読:10-17節)

 *** 9/14(日)主日礼拝 説教概略 ***

 少し前に、中高生会で、ある教会学校の先生の話をしました。中学生になる時に、不良の道に行くか、それともイエス様について行くのかで悩んだそうです。「ええ!あの先生が?信じられない!?」と驚いている人もいました。不良の子分になるのか、イエス様の弟子になるのか。チェーンを持つのか、聖書を持つのか悩んだのです。

2025/09/11

エステル記7章1-10節「御霊によって語る」

*** 9/10(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちが新会堂に移転する際、あらゆることが主により備えられていました。私たちの知らないところで、多くの備えがあったのです。私たちはある時まで、それを知りませんでした。ただ一つ、大事にしたことは、主を信頼してみこころを行うことでした。

 この時のエステルも、主に信頼してみこころを行うだけでした。そして、彼女に出来ることは王様に誠意をもってお願いすることだけでした。


2025/09/08

ヘブル5章4-10節「神によって大祭司と呼ばれた方」

*** 9/7(日)主日礼拝 説教概略 *** 

小学校3年生の秋に、私は父の転勤で宮城から東村山に転校してきました。しかし、授業の進み具合はもちろんのこと、生活のあらゆることがあまりに違い過ぎて、一気に落ちこぼれました。「分数何それ?」「ハーモニカ?触ったこともない」といった具合です。長らく腹痛が続き、不登校の一歩手前です。


2025/09/03

マルコの福音書4:1-20 「恵まれやすい器となる」

*** 8/31(日)主日礼拝 説教概略 ***

 現在、祈祷会でエステル記から講解説教をしていますが、実に興味深い書だと感じています。なんと言っても、聖書なのに神様の名前が一切出て来ないのです。それにも関わらず、クリスチャンが味わうならば、あらゆるところに神の御手を確かに発見できるのです。まるで、隠されている宝を発見するかのような楽しさです。

 でも実は、私たちの毎日の生活も同様なのです
 

2025/08/27

エステル記5章9-6章4節「主の御手が確かにある」

*** 8/27(水)祈祷会 説教概略 ***

 今日の場面では、宴会の後のハマンと王の様子があります。ユダヤ人の行く末を決する日の決戦前夜、エステルとモルデカイがあずかり知らないところで、何が起こっていたのでしょうか。ある注解書にこうありました。「神の御名はこの書に現れないが、神の御手は至るところに明白に見受けられる」と。主の御手が確かに動き、着々と主の救いが起こっていることが分かります。ハマンとクセルクセス王、それぞれに主が臨んでいます。


2025/08/19

ローマ書6章6-14節「神に向かって生きる」

*** 8/17(日)主日礼拝 説教概略 ***

 私たちの教会では、今年度から数年に渡って「サンライズ・イキイキ・プロジェクト」という取り組みをしています。イエス様を信じるクリスチャンですから、イキイキと歩んで証しをしていきたい。ただ、それは心の持ちようでどうにかするものではありません。鏡の前で無理に笑顔を作るという方法でもありません。人間的な努力によらないのです。


2025/08/13

エステル記5章1-8節「祈りの備え」

*** 8/13(日)主日礼拝 説教概略 ***

 祈りは神様との友情そのものです。祈るほどに、主の語りかけが聞こえるようになり、その距離が近くなります。友情が深まるのです。そして主の偉大な力を知ることになります。

 

2025/08/11

エレミヤ書5章1-31節「主の道を知る者」

*** 8/10(日)主日礼拝 説教概略 ***

 教会に行くと(健全な教会であるならば)、私たちすべての人間には「罪」があると語られます。それは決して、心地の良いものではありません。いや、できればあまり触れないでおきたい話かもしれませんね。誰もが「いい人」ということにしておく方が明らかに平和です


2025/08/06

エステル記4章1-17節「神があなたをここに置かれている」

*** 8/6(水)祈祷会 説教概略 ***
 神様にはいつでも、人の考えを超えた不思議で豊かなご計画があります。ですから私たちは、自分が置かれているところで、与えられた役割が「何かある」と心に留めたいと思うのです。「もしかすると、このために?」と、主のみ旨に目を向けていきましょう。


2025/07/28

ヘブル5章1-3節「弱さを持つ大祭司」

*** 7/27(日)主日礼拝 説教概略 ***

 神学校の「牧会学」の授業で、あるエッセイレポートの課題が出ました。テーマは、「どんな牧師になりたいか」ではなく、「どんな牧師に牧会(ケア)されたいか」というテーマでした。「どんな牧師になりたいか」であれば、「カッコ良くてトークがうまい牧師」とか、「威厳があって尊敬される牧師」などをイメージするかも知れません。でも、「自分が牧会されたい牧師」と言う場合は、それとは違いました。

2025/07/09

エステル記3章7-15節「どの民族とも違っている神の民」

 *** 7/9(水)祈祷会 説教概略 ***

 イエス様は、あなたがたは「地の塩」ですと言われました。塩は決して塩気を失ってはなりません。塩味がしっかり効いて味に違いを現わし、腐敗防止の役目もあります。クリスチャンは、この世に属する他のどのような人々とも違っている必要があるのです。溶け込み過ぎて、何も変わらないならその存在意義は失われるでしょう。


2025/07/07

ヘブル4章14-16節「私たちの大祭司イエス」

*** 7/6(日)主日礼拝 説教概略 ***

 心の奥にあるものを見透かされている。そんな気がすると、「怖い」と感じることはないでしょうか。イエス様の一番弟子となったペテロも、「イエス様はすべてを見抜いておられるのでは?」と思った時に、「主よ、私のような者から離れてください」と恐れましたよね。


2025/07/02

エステル記3章1-6節「ただ神にのみひれ伏す」

*** 7/2(水)祈祷会 説教概略 ***

 私たちはクリスチャンです。実はクリスチャンとは自称ではなく、他の人々からそのように呼ばれて定着した名称です。使徒の時代に、キリストの弟子たちがいつでもイエス様を救い主(キリスト)と信じるだけでなく、「私の人生の主」として歩んだゆえです。ローマ皇帝を拝まず、ユダヤ人指導者たちにも屈せず、キリストだけを主として歩んだのです。もちろん、上の権威に敬意を払いながら、彼らのためにも祈りながらですが。


2025/06/23

エレミヤ書4章1-18節「主からの愛の呼びかけ」

*** 6/22(日)主日礼拝 説教概略 ***

 愛から来る忠告やアドバイスが時々人の心に届かないということがあります。私は若い頃、とても生意気だったので、親や親戚の注意、警告をことごとく聞き流していたことを今頃になって、反省しています。 「わかってるつもり」がいつも危ないのだと、しくじってから気づくのが人の悲しい性です。

2025/06/20

エステル記2章15-23節「変わらない謙虚さと誠実さ」

*** 6/18(水)祈祷会 説教概略 ***

 「あの人は偉くなったら、人が変わってしまった」という話はしばしばあります。年齢を重ね、経験を積んだことで、横柄になり謙虚さを失い、ワガママな面が出てくることがあります。人が謙虚さと誠実さを変わらず保つことは、実に難しいことではないでしょうか。


2025/06/16

ヘブル4章12-13節「神のことばは生きている!」

 *** 6/15(日)主日礼拝 説教概略 ***

 「吾輩の辞書に不可能はない」という言葉で有名なナポレオンは、晩年になって聖書やキリスト教について、より深い見方をするようになったと伝えられています。彼は流刑地のセント・ヘレナ島でこう言ったそうです。

「聖書は単なる書物ではない。それは生き物であり、抗う者すべてを治める力を持つ」と。

 それだけではなく、彼はこうも言ったようです。


2025/06/12

エステル記2章1-14節「血筋ではなく、信仰の実によって」

***  6/11(水)祈祷会 説教概略 ***

 ユダヤ主義者たちが、アブラハムの子孫であることを誇りながら、イエス様を攻撃していました。それでイエス様は彼らに教えられました。「アブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行うはずです」と(ヨハネ8:39)。私たちは神の子とされました。ならば、神のみこころを行うことこそ、神の子の本質ではないでしょうか。エステルは、養父と血はつながっていませんでしたが、彼の教えに忠実に歩んで神のみこころをなしました。


2025/06/10

エレミヤ書3章1-25節「背信を癒される神」

*** 6/8(日)主日礼拝 説教概略 ***

 「神様がくださる恵みや守りは欲しい。でも、神様に従い献身的に歩むのはお断りだ

 そう思うのが「私たちの肉の思いの本音」かも知れません。
 「ご利益信仰」というものがあるように、人の肉の思いは、献身を求める神ではなく、自分に益をもたらす便利な神を欲しているのです。
 

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