天使から示されたピリポは、エチオピアの女王カンダケの高官に道の途上で会った(26-27)。聖霊によって示されてピリポは、この人に近づいて行った(29)。すると、この人がイザヤ書を読んでいるのが聞こえたので、「読んでいることがわかりますか」と声をかけた(30)。ところが、カンダケの家臣と言えど、「勘だけ」では聖書がわからなかった(笑)。もちろん女王の高官だから、教養もありとても賢い人であっただろう。だが、それでも分からなかったのだ。だからこの人は言った、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と。そして、馬車に一緒に乗るようピリポに頼んだ。聖書は学問的な知識探求や勘で分かる書物ではない。神の霊感(聖霊)によって記された「霊的な書」である。だから、ただ知的に読んでも、その真の意味はわからない。霊的な書は、聖霊の助けのうちに読む必要があるのだ。だから、「主よ、お語りください」と祈ることのできる御霊の人によって、説き明かされ、教えられることが必要なのである。
2日(土)使徒8章32-35節
エチオピアの女王カンダケの高官はイザヤ書53章7-8節を読んでいた。そこには「受難のしもべ」の姿が語られている。だが、彼はそれがわからず、34節にあるように、ピリポに「だれのことについてこう言っているのですか」と尋ねた。いつの時代にも、妨げる者や反対する者はいる。だが、同時にこの高官のように「知りたい」と思い、求める者もいる。私たちは、求める者がいる時に、彼らに伝えられるよう備えているだろうか。ついつい、牧師やスマホを頼りにしてしまうのではないか?だが、やはり信じているひとり一人のことばは、人の心に届く。ピリポも信徒の一人として、積極的に聖書のみことばを伝えた人物だ。35節で、彼はこの問いに対して、「この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた」と語られている。ただ説き明かしただけでなく、しっかりとキリストの救いの知らせ(福音)まで伝えていることに気づく。聖書の意味を聞かれて、それを答えるだけでなく、それはグッドチャンスなのだから、そこからぜひ救いの知らせを伝える機会としたい!
3日(日)使徒8章36-40節
ピリポとともに道を進んで行ったエチオピアの宦官(高官)は、水場を見つけて言った。「私がバプテスマを受けるのに、何の妨げがあるでしょうか」と(36)。そして、ピリポは彼にバプテスマを授けた。二人が水から出て来たとき、「主の霊がピリポを連れ去られた」(39)。つまり、この高官は明確に救いにあずかり、ピリポのここでの役割は終わりであることを聖霊が示されたのだ。宦官は、この後ピリポを「見ることはなかったが、喜びながら帰って行った」と語られている(39)。ここには神の最善の時、最善の備えがあったと教えられる。神がピンポイントで、針の穴を通すような正確さでこの二人の出会いを導いた。ちょうどよく水場も備えられており、バプテスマまで受けられたわけたのだ。すべてが少しでもずれていたら、こうはならなかっただろう。ピリポはただ主の導きに従っただけなのだ。私たちも、行くにしても去るにしても、語るにしても主の声に従おう!自分の時ではなく、主の時に生きる者となろう。
引用元聖書
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