祭司の任職式について語られている。祭司の任職は時間をかけて、丁寧に行われている。その厳粛な式は、彼らに自覚を促し、聖別され、神に仕えることの尊さを覚えさせるのに十分であったと思われる。22節で、雄羊の頭に手を置いて罪の告白をしたのであろう。いつでも、献身者は神の前に自身の罪を告白し、身代わりの犠牲を前にして悔い改める必要があった。さらに、23節では、その血が「右の耳たぶ」、「右手の親指」、「右足の親指」に塗られた。右は、聖書ではより重要であることを示す。神の前にそれらを聖められる必要があった。耳は、神の御声を聴くために聖別するということであろう。指は祭司のなす、すべての奉仕について聖別されることであろう。また、足の指は、その「歩み」が聖別されることであろう。私たちはキリストの血潮によって、御声を聴く耳を、奉仕するその手を、そのすべての歩みを、贖われ、聖別された者として歩んでいきたいのだ!
2日 レビ記8章
33節 また、あなたがたの任職の期間が終了する日までの七日間は、会見の天幕の入り口から出てはならない。あなたがたを祭司職に任命するには七日を要するからである。
祭司の任職式が七日間に渡ってなされ、しかもその間中、一度も天幕の外に出て行ってはいけなかった。それは、祭司がいかなる世俗的なものからも完全に離れ、ひたすら主の前に整えられるためであった。そして、毎日同じように、教えられたとおりのことを繰り返す必要があったのだ。それはなぜだろうか。35節では、「死ぬことがないように」するためであると語られている。そこに、祭司の務めの厳粛さを思わされる。神のすぐ目の前で奉仕する祭司が、「神を侮る」ということは、民全体をそのような道に誘う危険があったのである。祭司に求められることは、大胆さや自分の主張ではない。また、貫禄や経験値でもない。主のおことば通りに繰り返し行う忠実さであった。私には何もないと思うならば、忠実さを大事にしたらいい。それは、多才であることよりも、主に喜ばれることである。
3日 レビ記9章
八日目、祭司の任職式が終わると、モーセはアロンたち祭司に、罪のきよめのささげ物をするように命じた(1-2)。また、全焼のささげ物(2)や交わりのいけにえ(4)を献げるよう語った。それは自分勝手な方法ではなく、主の命じたとおりにすることが求められた。人間は勝手な方法で神をあがめようとする。供え物をしたり、自分たちが納得しやすい方法でなされる。だが、ふさわしい方法もまた、神がご存じで、定めておられることだ。
4節では「今日、主があなたがたに現れるからである」と語られている。5節によれば、全会衆は近づいて来て、「主の前に立った」とある。大切なことは、主が現れてくださること、また、人々が主の前に立つことができることである。それは、やがて新約におけるキリストの十字架の犠牲が、神の御座への道を開き、神の前に大胆に立つことへとつながる。主の前に立ち、主の臨在の中に生かされることほど幸いなことはない!
4日 レビ記9章
キリスト者にとっての一番の喜びは、神の臨在そのものである。神がいつも我らとともにあること。それが私たちの幸いである。アロンはささげ物を主のおことばどおりにした後、民に向かって両手を上げ、彼らを祝福した(22)。23節によると、主の栄光が民全体に現れた。そして、火が主の前から出て、祭壇のささげ物を焼き尽くした(24)。それは、主である神が彼らのささげ物を受け入れられた証拠であった!それゆえに、24節最後にあるように、民はこれを見て喜び叫び、また、ひれ伏した(24)。どんなに良い教会堂を持とうと、どれだけ多くの人が集まろうと、神がその群れの中におられないなら、なんとむなしいことだろうか・・・。神を喜ぶことこそ、私たちの力の源であある。そして、彼らが「ひれ伏した」とあるように、この神の前にへりくだり、ひれ伏し、心から礼拝する者でありたい。
5日 レビ記10章
ここでは祭司として任職したアロンの子、ナダブとアビフは、大きな過ちを犯して絶命してしまう。1節にあるように、「主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた」とあるが、これが大きな要因だ。2節にあるように、火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くしてしまったのだ。3節でモーセが主からのことばを告げている。「わたしは近くにある者によって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。」と。これまで、主が「命じたとおりに」なされることが重要であることが繰り返し語られてきた。主への忠実さが求められていた。これを聞いたアロンは「黙っていた」とある。自分の子を失った悲しみは想像を絶するものだろう。だが、反論をしないのは彼が祭司であるからだ。主のなさることを祭司自らが否定してはならなかった。受けとめがたい試練もある。病やその他で早くに召されることもある。だが、主の最善を信じて歩むことを、いつでも大切にしていきたい。そして、主はあわれみ深い方であることも後にわかってくる。
6日 レビ記10章
アロンの二人の子ナダブとアビフは異なった火をささげて絶命した。そのすぐ後、6節で、モーセはアロンの残りの子エルアザルとイタマルに言った。「あなたがたは髪の毛を乱してはならない。また衣を引き裂いてはならない。」と。これらは、当時の悲しみや嘆きを表現する方法だ。つまり、モーセは自分の兄弟を失った彼らに、「悲しみ嘆いてはならない」と命じたのだ。それは、とても厳しい命令にも見える。だが、6節続きで「あなたがたが死ぬことのないように、また御怒りが全会衆に下らないようにするため」であったことが語られている。さらに、その続きによれば、彼ら祭司以外の者たち、全家族たちは、絶命した彼らのために「泣き悲しまなければならない」とモーセは言った。祭司たちは神のわざに逆らって、嘆いてはならないが、その代わりに他の親族や仲間は泣き悲しんだ。祭司の働きの重さと尊さを教えられる。牧師や宣教師には共通する部分もあるはずだ。牧会者はどんな時でも主の側に立つ必要がある・・・。彼らのためにぜひ祈って欲しいと改めて思わされる。
7日 レビ記10章
10節 こうしてあなたがたは、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものとを分け・・・すべての掟を、彼らに教えるのである。 「聖」と「俗」とを分けることが、祭司たちの一つの務めとされていた。それはことばだけで教えることではなく、彼らの働き全体を通して、まさに人生を献げての奉仕を通してであった。その中には、会見の天幕に入る際に、ぶどう酒や強い酒を飲んではならないことも教えられていた(9)。酒に満たされることが「俗」なることに位置するということであろう。しばしば、酒びたりの聖職者などを指して「生臭坊主」と言われるが、民の目にそのように見えてしまうことも確かだろう。少なくとも、酔っ払っている聖職者を見て、尊敬の念が生まれることはないし、そこから神の聖さを想像することは極めて難しいだろう。様々な自由があるとしても、人のつまずきになったり、神への敬意が失われるような態度は、牧師でも信者でも、考える必要があるだろう。私たちの生活は、神の聖を現しているだろうか?
8日 レビ記10章
アロンの二人の息子が死に、深い悲しみの中にあったが、祭司は悲しみを表してはならなかった。むしろ、主が命じられたとおりに忠実に行うことが求められた。ところが、モーセがきよめのささげ物を捜したが見つからなかった(16)。それは、聖なる所でアロンたちが食べなければならなかったもの(17)。だから、モーセは怒った!!再び、主の教えに背いて、主に怒りを引き起こしては大変だと思ったからだ。だが、アロンは19節で、こう答えた「今日、私が罪のきよめのささげ物を食べていたら、そのことは主の目に良しとされただろうか。」と。二人の息子が神のさばきによって滅ぼされた今日、心が伴わない中で、かたちばかり命じられたとおりにすることが、果たして主の目に「良し」とされるのかとの問いだ。特に、食べ物が喉を通らないほどの悲しみがあった。偽りの姿で、形式的に従ったところで、主は心をご覧になる。アロンは主の前に正直でいたのだ。20節で、モーセはこれを聞いて、「それでよい」としている。杓子定規に形式的に従うことがすべてではない。神の前に誠実に、正直な心でいることは、もっと大切なことなのではないだろうか?
9日 レビ記11章
この章は、食べて良い生き物と食べてはならない生き物のリストだ。ただし、当時のイスラエル人のための教えであって、現代の私たちにそのまま適用するものではない。陸の動物では、ひづめが分かれ反芻するものは、例外を除いて食べて良かった(3-8)。水中生物も、ひれと鱗があるもの、つまりおおむね魚類は食べて良かった(9-12)。13-19節は鳥類、20-23節は昆虫類の区別であった。これらの教えは、ともすると「面倒な戒律」に見えるだろうか。だが、戒律ではなく、民の生命を守るため、イスラエルの存続のために重要な役割を果たしている!これを通して神の民はきよさと汚れを教えられ、また衛生的に健康が保たれた。冷蔵庫もなく、菌やウィルスの知識も十分ではない時代だ。この教えがあることで、様々な感染症、伝染病などから守られたのだ。コロナウイルスは「こうもり」や「らくだ」の中にいたとされる。どちらも、このリストによれば、食べてはならない動物なのだ!イスラエルの民はどの民より長寿であった。それは、神の教えのおかげである。表面的に見て「面倒だ」で終わらず、そこにある神の愛を発見していく者でありたい。
10日 レビ記11章
人間の好奇心は尽きることがない。神の教えよりも、好奇心がまさり、何でも触れてみたり、様々な実験を行うこともある。だが、特に死骸に触れることは、様々な危険をはらむ。腐敗していれば尚更である。ゆえに、24節にあるように、死骸に触れる者は夕方まで汚れると語られている。また、死骸を運ぶ場合は、25、28節にあるように衣服も洗うことが教えられいていた。衣服に付着したものに互いに触れることで、様々な危険が広がることを防ぐ意味が確かにあったことだろう。また、土の器の中に落ちた場合は、その器を砕かなければならないとも教えられていた(33)。現在のような洗剤もなく、コーティング技術もなければ、土の中に染み込んだ毒物を洗浄する技術もなかったのであろう。神は聖さを教えつつも、物質的な汚れが人に及ぼす危険を示し、神に従うゆえに守られるいのちであることを、示しておられたのだ。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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