聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

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2020/02/17

レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」


レビ記4章1-12節「罪のきよめのささげ物」


罪のきよめに必要だった「ささげ物の教え」から学びます。
前回もお話ししましたが、ここに語られている儀式自体は、すでにキリストの十字架に取って代わられたものであって、現代の私たちがするものではありません。

また、これだけ読むと表面的には難しいと感じるものかも知れませんが、その奥にある神様のご計画をよく味わい、ここにある宝物を一緒に発見していきましょう。

今日はおもに12節までの部分から教えられます。それは祭司が罪を犯した場合のささげ物の規定です。その後の13節からは「会衆全体が迷い出て罪を犯した場合」、22節では「族長が罪を犯した場合」、27節では「個人で」というように分類されています。ほぼ内容は共通ですが、ささげる動物が少し異なります。それは置かれている立場や経済的事情への配慮であり、神様のきめ細かい気遣いを感じることができます。


1. 祭司も罪のささげ物をまずささげる

 祭司は人のためにとりなし、贖いの儀式をすべき人です。ところが聖書は、真っ先に祭司の罪のささげ物について取り扱っているのです。

3節 油注がれた祭司が罪に陥って、民が責めを覚える場合には、その祭司は自分が陥った罪のために、傷のない若い雄牛を罪のきよめのささげ物として主に献げる。 

祭司の規定が真っ先に語られていることには意味があります。祭司といえどもごく普通の人間から選ばれます。やはり罪を犯すのです。聖書が語るように人は生まれながらにして罪人であり、神の前に完璧な義人は一人もいません。ですから、まず祭司から罪のきよめがなされる必要がありました。

しかし、こうして祭司自らが真っ先に自分の罪を覚えてささげ物をすることは、祭司自身も他の人々と同様の弱さをまとっているとの自覚に至り、弱いひとりひとりを思いやる事ができると言えます。

ヘブル5:2-3 大祭司は自分自身も弱さを身にまとっているので、無知で迷っている人々に優しく接することができます。また、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のゆえにささげ物を献げなければなりません。 

現代の牧師も同様です。自分を正しいとし、他の人にのみ悔い改めを迫るようではあわれみの心など持てないでしょう。
誰かが罪に陥っているのならば、まず先に自分はどうだろうか?と顧みなければなりません。自分にも罪があることを自覚した上で、ともに祈っていくものです。

私もしばしば、気が付かないうちに上から目線で人をさばいてしまう事があります。私が教えてあげなければ、私が指導してあげなければ・・・この傲慢さは人を助けるどころか、人を倒れさせてしまいますよね

祭司こそ、真っ先に自身の罪に涙し、そのために犠牲がささげられていることを真摯に受け止めなければならないのです。

しかも、祭司の場合には民全体の罪の時と同じ「雄牛」の犠牲がささげられるのでした。つまりそれは、民全体が罪を犯したのと同等の犠牲ですから、祭司の罪の影響の大きさを意識させられます。祭司は他の人以上に、自分の罪深さを受け止め、誰よりも謙遜にならなければならないと言えます。

私は教会において牧師だけでなく、信徒の中からも主事や長老といった霊的指導者が増えていくことを期待しています。でも、その働きに就く人に求められることは、まさにこの事です。能力ではありません。

誰よりも自らの罪に涙し悔い改められる人、謙虚に人々の弱さに寄り添える人であることです。そうでなければ、人の心は開かれないですよね。

2. 罪の赦しのために血が流された

 さて、「罪のきよめのささげ物」の最大の特徴についてお話します。それは、動物の血の取り扱いにありました。「罪の赦しのためには、血による贖いがなされる必要がある」のです。
5-7節 5 その油注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入る。
6 その祭司は指を血に浸し、主の前で、聖所の垂れ幕に向けてその血を七度振りまく。7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある、主の前にある香り高い香の祭壇の四隅の角に塗り、その雄牛の血をすべて、会見の天幕の入り口にある全焼のささげ物の祭壇の土台に流す。

交わりのささげ物等とは違い、会見の天幕の中に血を持って入りました。その血は神の臨在される至聖所の垂れ幕に七度振りまかれました。神様と人とを仕切る垂れ幕です。この血できよめられることなしに、神様との親しい交わりが回復することはありません。

人のうちにある罪が、神様との親しい交わりを傷つけたのです。その回復のためにこれがなされました。同様に天幕の中にある、「香り祭壇」の四隅にも塗られました。香りの祭壇は、神へのかぐわしい香り=祈りや賛美を象徴します。

キリストの十字架の血潮なしには、祈りも賛美も主に受け入れられるものとはならないということです。どんなに良い歌詞であっても、私たちがキリストにあってそれを歌うのでなければ、この世の歌で終わってしまうのです。

さらに、7節の終わりではこれらの血は祭壇の土台に流すとあります。ひたすらに動物の血を用いるわけです。罪深い自分の代わりに動物のいのちが注がれているのだという思いが強まりますよね。

これほどの犠牲がありましたが、これらはキリストの登場によって終わりを告げます。

ヘブ7:27 イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。 


先ほどお話したように、祭司は「まず自分の罪のために」ささげるのです。

そして、毎日毎日、何度も繰り返されていた動物のいけにえ。それがもう終わりを告げた理由がこれです。

神の子キリストの血の重みを感じますね。数えきれないほどの動物の犠牲、大量の血が流され続けた歴史が、たった一人のたった一度の犠牲で完全にされるのですから。

私が神学生の頃の話です。一緒に同じ地区で奉仕していた先輩の神学生がいました。中高生JYキャンプで一緒に劇をしました。キャンプファイヤーのプログラム中にキリストの十字架の劇でした。その先輩がアドリブでこんな内容のことを言いました。

「イエス様が十字架で死んでくださって感謝!ということは!これまで動物の犠牲を何度も何度もささげてきたが、もう動物の犠牲をささげなくていいのか!なんとありがたい!」といったセリフです。

「私の罪のためにありがとう!イエス様!」で済みそうな場面なのに、わざわざいけにえの説明を加えていました。

「中高生向けの劇でわざわざその長い説明をつけるのか?中高生わかるんだろうか?」と突っ込みたくなりましたが、彼なりに十字架の重みを伝えたかったのだと思います。

確かにこれらの教えを学ぶときに、私たちは罪の赦しというものを重みをもって知ることができるのではないでしょうか。他人事ではなく、私たちの罪がイエス様を十字架につけたと受け止めたいのです。

MEBIGという子ども伝道の働きから生まれた賛美があります。そこに参加していた子の詩を賛美にしたものらしいです。
「ぼくこそ十字架のくぎ あなたの手に傷をつけた 十字架のくぎ  ぼくこそ十字架のくぎ あなたの足に傷をつけた 十字架のくぎ あなたを傷つけ 傷つけ 傷つけ Ah Ah  ぼくこそ十字架のくぎ あなたのすべて 傷つけた その傷 救い」

3. キリストについて行く

今日教えられる3つめのことは、キリストについて行くということです

12節 すなわちその雄牛の残りすべてを、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、薪の火で焼く。これは灰捨て場で焼かれる。

この罪のきよめのささげ物は、その血を幕屋の中に持って入りましたが、その雄牛の体の部分は宿営の外のきよい場所で処分されました。これはキリストがイスラエルから見捨てられ、拒まれることにご自分から従われた姿を示します。イエス様はエルサレムの囲いの中ではなく、囲いの外で十字架に磔にされました

 なぜでしょう?イスラエルの民にとって宿営の中こそ聖なる場であり、外は汚れた場所という理解がありました。エルサレムの中が聖なる場所で、エルサレムの城壁の外は汚れた場所という考え方です。

イエス様は罪ある者・汚れた者として、外に捨てられたということです。

まことの王なのに、聖なる方なのに、エルサレムの中にイエス様の居場所はありませんでした。

しかし、不思議なことに、汚れた場所に捨てられたのにも関わらず、イエス様の十字架こそ罪のきよめを成し遂げた聖なる場所となったのです。ヘブル人への手紙は、このことを説き明かしています。

ヘブ13:11-13  11 動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました13 ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

 イエス様がおられるところ、神のみわざがなされる場こそが聖なる場所です。居心地の良い罪のたまり場から出て、イエス様にこそついて行きましょう。

イエス様とあなたがいる場所が、新しい恵みの場になります。

ある姉妹のお父様が最近教会に来られる機会が増えました。
以前は全く興味を持たれていなかったのですが、最近は行く気満々だそうです。

そして、最近になってなぜ娘さんが教会に熱心に集うのか、自分にも分かるようになってきたとおっしゃったそうです。

しばしば私たちもキリストを信じるゆえに、批判されること反対されることがあります。お誘いしても拒まれることも多いでしょう。

でも、イエス様のおられるところ、みことばが語られるところ、愛の交わりがあるところ。この恵みの場に私たちが身を置く時、主イエス様に従って囲いの外に出ていく時・・・やがて批判していた人たちでさえそこに導かれて参ります。

先に出ていく者があるからこそ。証しがあるからこそです。
恐れずキリストについて行きましょう。

2020/02/15

ご案内 【ほっとカフェ講演 「心のケアと人間関係」】 

 
2/18(火) ほっとカフェ♪☆ AM10:30~12:30
    主題講演「心のケアと人間関係
    美味しいお茶をいただき、心に励ましのメッセージを!

私たちの悩みの多くは人間関係です。
人を赦すことができ、理解し合えず、誤解され、否定され・・・ 傷ついています。

でも、神様はあなたのすべてをご存知です。
あなたを愛しておられる神様は、あなたの痛みを理解し、その重荷を一緒に担い、
あなたを抱きしめ、あなたとともに歩んでくださる方。

この世界のすべてと人を知っておられる神様から
心が安心して元気をもらって歩める道を教えていただきましょう。
ほっとカフェ、心のケアと人間関係シリーズ



<過去のほっとカフェ> 
 1月は「お茶を楽しむ会」でした。




   <<お茶会の様子>>

お茶の作法を少し教えていただきつつ・・・







2020/02/09

Who are you? あなたは何者か?



自分が何者であるのか?どういう存在なのか?知っているようで知らない私たちです。
なぜでしょうか?
人は自分の姿を見ることができないからではないでしょうか。
他の人の姿はよく見えます。でも、自分の表情や自分の立ち振る舞い、全体像。
それらは見えないのです。鏡や映像を通してしか自分が見えません。
最近は、そうしたことを考えると神様はあえて私たちをそのように造られたのではないかと思うのです。自分の力で自分を知りつくすことができない者です。そうなるとどうやって自分をより深く知るのでしょうか?

客観的に見てくれている他の人の存在によって、自分には見えない一面を知るのです。
他人から言われて、私ってそうなのか?と気づくことも少なからずありますよね。
でも、不十分です。彼らは自分では見えない面を見てくれていますが、内面までは見抜けません。心を理解しきれないから誤解も生じます。中には何も知らないのに、不当に批判されたり、外見や一面的な部分で否定されたりすることもありますよね。偏見や恣意に満ちた指摘も少なくありません。だから不十分なのです。
それならば、どうやって私たちは自分のことを正確に知ることができるのでしょうか?
最終的にあなたが何者かということを正しく深く知るためには、自分の造り主であり、内面も外側もよく知るお方から教えられる必要があるのです。
神のみことばを通して、あなたは何者かをともに知る者となりましょう。


創1:26 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
創 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。 
 まず教えられることは「神のかたち」として造られたあなたであるということです。神に似た者、神にかたどられた者、神のかたちとして私たちは造られたのです。だから高価で尊いのです。神様が非常に「良いもの」として造られたので、最高に価値があるのは当然のことです。神様は失敗しませんし、最高のデザイナーなのですから。しかも、ご自身の性質に似せて、対等に交わりが出来る存在として造られたのですから。

なんという栄誉でしょうか。
それゆえに、この世界の管理をゆだねられている存在です。
われわれという表現は、父、御子、御霊の三位一体の神が互いに親しい愛の交わりで結ばれ一心同体となられている姿を現すと私は理解しています。
そして、光栄なことに「神のかたち」に造られた人間は、この三位一体の交わりに招かれていると言えるでしょう。愛の交わりを神となすことができる存在です。


さらに、神の創造のみわざは圧倒的です。
同じものが二つとありません。同じに見えるのに、厳密には同じでないということがすごいのです。
雪は一見全部同じに見えます。
けれど、その粒一つ一つを顕微鏡で見れば「雪の結晶」として、どれひとつ同じものがないと気づきます。人間とうさぎを区別できないということはないですよね?猿と人間も明確に違いますよね。でも、人間はみんな同じかと言うと、全員違いますよね。
「人間である」と区別できるのに、人間同士お互いに個性が豊かに存在します。
これこそ偶然ではなく、明確な神のデザインの現れです。
しかしながら、人は造り主を離れてしまいました。その教えを捨て、その愛を見失い、神のかたちの本来の恵みや輝きを失ってしまっているのです。
その原因が「罪」なのです。 
ロマ 3:23 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 
罪によって神の栄光を受けることを妨げられてしまっています。もったいない!

自分が何者かを考える時、神によって造られた「神のかたち」を出発点にしながらも、罪によって本来の輝きを失っている面があることを率直に認める必要があります。
事実、ウソをついたことがない人はいないでしょう。人を傷つけたことがいない人もいないでしょう。正しいとわかっていながら、正しいことができない私たちです。聖書はそれがあなたの罪だと教えます。
何より、造り主なる方を無視して、闇の中で罪を犯しごまかします。 
イザヤ29:15 わざわいだ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らは闇の中で事を行い、そして言う。「だれが私たちを見ているだろう。だれが私たちを知っているだろう」と。 
私は小学生の頃に親のお金を盗みました。棚に置いてあった小銭です。まさにこのみことばが私の姿です。「だれが私たちを見ているだろう」・・見ていないから大丈夫だ。その時はバレずに済みました。ただ、ずっと大人になっても心がチクチク痛みました。「良心」があるからです。これこそ「神のかたち」に造られた証拠です。だから、良心に反する罪を犯すと、痛み傷つくのです。
人々に見つからなければ大丈夫。ウソを通せば問題ない。
神を恐れることを失うと、人の前にごまかし通せれば何をしてもいいという闇の世界の住人になります。
それで不幸になるのは神様ではなく、私たち自身です。ですから、せっかく良いもので満ちていたのに、神の栄光あるかたちだったのに・・・この世界に悪が増大し、罪と不正と汚職にあふれ、格差は広がり、弱い者は踏みつけられています。
そして、この世界が悪いことを造り主のせいにします。造られた側の人間が造ってくれた神に向かって批判します。
イザヤ書 2916節 ああ、あなたがたは物を逆さに考えている。陶器師を粘土と同じに見なしてよいだろうか。造られた者がそれを造った者に「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に「彼にはわきまえがない」と言えるだろうか。 
私たちには最高のデザイナー・造り主なる神様がいることを知る必要があります。そして、私たち自身は造られた者であり、この造り主を離れて、見られていないから大丈夫と思い込みます。こうして闇に落ちていくことが、いかに不幸であるかを知る必要があります。
では、どうやって本来の輝きを取り戻すのでしょう?

 自身の闇を知り、神の愛に立ち返ることです。神様は、闇の中にいる私たちをすべて知っておられ、知った上でなお愛の中に招き続けておられます。 
マタイ5:45 父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。 
なぜ、神様はこうなさるのでしょうか?
それは罪があろうともその人を愛し、彼らにもう一度ご自分との交わりを回復して欲しいからです。
そして、その愛の最高潮は御子イエス・キリストを遣わし、人の身代わりとされたことです。 それほどに愛されている存在があなたです。
ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様は人にその不幸な状態のままいて欲しくありません。だから、救いの手を差し伸べ、ひとり子を与えられたのです。もはや滅びることがないために。

御子を信じる者は、神のかたちを回復するので、永遠の神の愛に安らぎ希望を告白して歩むことができます。
信じて救われた者はどのような者とされているのでしょうか?

Ⅰコリ 15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。 
これはかつて、クリスチャンを迫害していたパウロの告白です。
以前は迫害する者であり、罪のさばきの中にいた彼でした。滅んでも仕方がない者でした。クリスチャンを見つけては捕まえ、暴力を振るい、牢屋に入れていました。あのステパノという真面目なクリスチャンを一方的に迫害し、殺害した一味でありました。
けれど、彼はそんなにも罪深い行為をしたにも関わらず、神の恵みによって罪赦されました。赦されただけではなく、神の恵みを大いに受け、神の国の働きの最前線で労する立場を与えられたのです。
つまりキリストの十字架の恵みによって「今の私」=「恵みと祝福をあふれるほどに受けられる私」とされたのです。 
聖書には、キリストを信じた者が、神の恵みのゆえにどのような者とされているのかというテーマが多く語られ、様々なことばで伝えられています。
ロマ8:30-32 30 神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。 31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 
ここだけでも、義と認められ、栄光を与えられ、神が味方となっておられ、御子とあらゆるものを与えていただける者とされ、それほどに愛されている者であることがわかります。
他の個所でも、信じたあなたは、神の子とされている。罪赦されている。聖なる者とされている。天に国籍を持つ者・天の相続者とされている。永遠のいのちを持つ者とされている。キリストの使節(大使)とされている。神との平和をいただいている。神の神殿・御霊の宮とされている。キリストの心を持つ者とされている。自由にされている。など、神の恵みによって与えられている立場がどれほど豊かなものかわかります。神の愛から引き離され、捨てられることなど決してないのです。


 あなたは自分のことを何によって知っているでしょうか?

 自分の思い込みでしょうか?人々のあなたに対する意見でしょうか。しかし、罪によって歪んだ自分や人々の意見の奴隷になってはいけません。他の人の意見、喜んで頂戴するといいでしょう。でも、それを決定的なものだと思ってはなりません。なぜなら、決定的な意見を言えるのは神様ただおひとりだからです。

 イザヤ41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

























2020/02/07

わが子に信頼を伝える




 愛するわが子に信頼を伝えること。それは良いコミュニケーションとも言えます。
人は疑われて育つのではなく、信頼され任されゆだねられ、失敗もしながら成長するのではないでしょうか。
 
確かに神様というお方は100%信頼に値する方ですが、子どもたちは罪ある存在です。
善悪の判断も十分にできないこともあります。
 
しかし、それでも「どうせ無理だろう」という前提で伝えるのではなく、「わたしの愛するあなたなら、きっとできる。約束も守ってくれるはず!」と信頼を伝えつつ励ますことは子どもの心を励まし育てます。

十戒の秘密・・・
否定未完了形「してはならない!」という訳をせざるを得ない面もありますが、実は持っている意味は「わたしの子であるあなたがたは・・・しないはずである」というニュアンスです。戒律ではなく人への信頼と期待が含まれているのです。
 
私の愛するあながたは、こんなことをするはずがないですよね?という期待と信頼の現れです。ですから神様は人に対して、何度失敗しようとも語りかけられるのです。
 
「殺してはならない」 → 神が愛しているあなたがたは「殺すなんてしないよね。そんなはずがないよね」という意味です。
してはいけないという倫理を教える面はもちろんありますが、それだけでなくそれを守ることができることを期待し、神からの信頼の呼びかけであることを覚えます。

 
人は、全く信頼されていないと、悪いことをかえって選択してしまうものです。
「ウソをつくなと100回教えられる」よりも、「あなたの言うことを信じるよ。だから正直に話してね。」と伝える方がずっと効果的なのです。


例)☆お手洗いの張り紙 

①「きれいにお使い下さい」「汚さないようお願いします」と書かれている場合と

 
②「いつも綺麗に使っていただきありがとうございます」と書かれている場合

 単なる言葉の問題のようですが・・・与える印象がだいぶ違います。
 人は 期待され、信頼されると、そのような者になろうと思うので②の方が効果的ですし、お互いに気分を害する感じになりにくいと言えます。

 箴言12:18 軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人を癒やす。

 子どもたちは、もちろん人間ですから信頼を裏切ることがあります。けれど実はそれは私たちも同じではないでしょうか。大人こそ子どもたちの期待をより多く裏切っています。

イエス様の一番弟子ペテロの話があります。彼はイエス様にどこまでもついて行くと豪語していましたが、3度もイエス様との関係を否定します。保身のために信頼を裏切ってしまいます。その後彼は自分の罪に号泣するのです。

けれど、イエス様はどうなさったのでしょうか?
このペテロを信頼して大きな責任をお任せになったのです。彼は今まで以上に良い働きをする者になりました。

信頼を裏切った時、反省してないようならきちんと言い聞かせるべきです。責めるというよりも、親の気持ちを伝えることが大事。約束を守ってくれなかったことがとても悲しかった。神様も悲しんでいる

しかし、十分反省し、悔いているなら → 励まし、信頼し、またチャンスを与える

 
年齢と共に次第により大きなことを任せていくようにしたら良いでしょう。

そうやって信頼して任されることで子どもたちは徐々に成長し、その信頼にふさわしい者へと成長していきます。

 思春期以降は、「信頼して任せる」ということをより増やしていく必要があります。親が気になって言い過ぎると、結局は「信頼してくれてないのだな」「頼りないと思っているのだな」、「ダメだと思われているんだな」と子どもたちは感じ、自信を失います。ひいては親への信頼をも失いかねません。

 未熟なことがわかっていても、失敗することも含めて「やってみなさい」と任されることで、子どもたちは成長します。親に助けてもらいながらでも、自分でも頑張ってやれた!というのが将来への自信と成長につながります。

今までは親が7割、子どもが3割で責任を分割していたとしたら、徐々に親の責任割合を減らしていきます。思春期の子たちは、親3割、子ども7割ぐらいでもいいでしょう。

どうか、信頼していない前提、疑う前提で話さず、「何度でもあなたを信じて期待するよ」と子どもたちに伝えて欲しいのです。


2020/02/02

レビ記3章 「神との交わりを楽しむ」 

レビ記3章1-17節


旧約聖書のレビ記を味わいますが、この書が記されたのは、今から3000年以上も前のことになります。旧約とは名前の通り古い契約です。ですから、新しい契約つまり新約聖書によって「更新」されていますので、現代の私たちはこの通りに実行するわけではありません

しかし、その儀式の中に示された意味を学ぶことで、神様ご自身のことや救いの恵みについて学ぶことができるのは意義深いことです。

レビ記3章から、「神との交わりは楽しむもの」であることを学びます。

 以前、ある方がこう言われました。「牧師の説教を聞くことは信徒の義務だと思います」と。

確かにそれぐらい大切なことだという心得は立派だと思いました。
一方で「義務」ということばには違和感もありました。納税の義務というものがありますが、しばしば「税金を取られている」という表現を耳にします。それと同じように「説教を聞かされている」という感覚では残念だなと思うのです。

それは人の意思を尊重してくださる神様も同様ではないでしょうか。
聖書を読まされている。礼拝に来させられている。神様に仕方なく仕えている。
そういう感覚を主は喜ばれるのでしょうか?

礼拝は神様との喜びに満ちた「上質な時間」です。教会生活は神様を中心とした交わりを楽しむものです。ご一緒に教えられましょう。


1. 交わりと和解のいけにえ

 3章の1-5節では牛をささげる場合、7-11節では羊をささげる場合、12-16節ではやぎをささげる場合という形で記されていますが内容はほぼ同じです。

 1節では「そのささげ物が交わりのいけにえの場合には」と始まります。古い訳では「和解のいけにえ」と訳されていました。これらは自発的に、いつでもささげられるものでありました。別の個所では「進んで献げるもの」と言い換えられている個所がいくつかあります。まさに義務ではなく、自分の意志で進んでささげられるものでした。

  そしてその中には「和解」つまり、仲直りの意味も含まれています。それは人が神様に対して犯した罪、背いて無視して歩んできたことについて「神様ごめんなさい」という姿勢の現れでもありました。 実はそのために、2節にあるように「動物の頭に手を置き」罪を告白するのです。
罪深い自分の姿がその動物に投影され、自分の身代わりとして屠られるということです。

 そしてほふった動物の血を祭壇に振りかけられます。
 実はこれは新約時代のイエス・キリストの十字架を現しているのです。キリストは十字架の上で罪ある私たちの身代わりとして血を流されました。キリストの血による新しい契約によって、信じる者の一切の罪が赦され、神との親密な交わりを回復できるのです。これらはそのひな型なのです。

 現代社会でも罪を犯したならば、悔い改め謝罪するとともに償いします。真の和解には犠牲が必要ですよね。聖書が示す罪の解決にも犠牲が必要で、旧約時代はこうして動物をささげていました。旧約時代にはこれらが繰り返されましたが、キリストが来られてもはや動物のささげ物は不要となりました。それはキリストこそが、神の子羊でありこの十字架の犠牲をもって信じる者の罪への赦し、神との交わりの回復がなされたからです。

 

2. 最良のものをささげる時、主はわたしたちを守ってくださる

さて、この「交わりのささげもの」は、その際に動物の脂肪を焼いて煙にするという特徴がありました。例えば3-4節。
3 次に交わりのいけにえから、主への食物のささげ物として、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、4 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を献げる。 

ここにはどんな意味があったのでしょうか?脂身の部分は人が食べずに焼いて煙にせよとおっしゃいました。これらの内臓付近の死亡は最上のもの、高価な良いものと考えられていました。神様に最上の部分をささげるという意味です。

いつでも良い物で神様を礼拝するという姿勢の現れと言えます。人間が美味しいところを全部いただいて「神様、骨でもどうぞ」というのでは、神様をあがめていませんよね。
賛美も声を合せて美しい心のこもった良きものをささげます。誰に向かって歌われるでしょうか。神様に向かってです。
また礼拝を意味する英語「Worship」は、何度かお話ししていますが「Worth」と「Ship」からなることばで、神様に最高の価値を置く姿勢を意味します。それが礼拝です。
 
 ただ、これは同時に人の健康を配慮してくださる神様の優しさでもありました。食に関する知識も技術もまだ不十分な時代にあって、神様は制限を設けることで彼らの健康を守ってくださったのです。これらの内臓脂肪を全部食べていたら、ユダヤ人は短命になったことでしょう。コレステロールがあっという間にたまり、生活習慣病まっしぐらです。現代のような治療薬もありませんから、死亡率がぐんと上がってしまいます。

17節で血も食べてはならないと教えていますが、血も同様で衛生面から良くないことです。疫病が流行ってしまうでしょう。人の好奇心や欲は際限ありませんが、神様は教えを守らせることを通して、人に聖さや自制心を教え、さらには健康までも与えておられたのです。親が子どもにお菓子ばかり食べてはいけないとか、野菜も食べなさいと教えるのは、子どもの健康を願い幸せを願ってのことですよね。

 
3. 神様の声に聞くことで、真の楽しみ喜びに至る

 それでも、こうした話を聞くと、どうしても聖書は禁欲主義を教えているのかと誤解されがちですが、決してそうではないのです。むしろ、神様は私たちが本当の意味で楽しめるように、心から喜べるように教えてくださっているのです。私はクリスチャンになってから人生が確実に楽しくなりました。何をしても楽しめるようになりました。

 あくまで「例え」に過ぎませんが、ルールを守りフェアプレーをするからこそスポーツは楽しいということと似ています。例えば、私の大好きな「サッカー」を例にとって考えてみましょう。サッカーを楽しむためにはルールや上手にやるコツを教えてもらう必要があります。ルールも知らずコツも知らず、反則だらけ、ただえいっと蹴るだけでは実に少しも面白くありません。感動もないのです。では、どうしたらサッカーをサッカーとして楽しみ、感動できるのでしょうか?それはルールをしっかり守り、フェアプレーで、しかも様々な技を駆使し、華麗なプレーなども飛び出すからこそ、面白いのであり感動するのです!! 神様が私たちに教えておられるのはこれと同じです。

人間は自分が思うがまま、自分がルールだと思い込んで生きていますが、それで人は互いに奪い合い、足を引っ張り合い、独り占めし、傷つけ合っているのです。でも神様は言います。あなたの隣人を愛しなさい。神を愛し、神の国を第一に求めなさい。喜ぶ者とともに喜び、悲しむ者と一緒に泣きなさい。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなさい。キリストにあってそうしなさい。こうした教えは、私たちが本当にこの世界で喜んで楽しんで生きていくための教えなのです。この世界の造り主だからこそ、神様は本当の意味でこの世界の楽しみ方をご存知だからです。 

 神様は「食べる」という事が、人にとって大切で、大きな喜びであることを知っておられます。交わりのいけにえの最大の特徴は、祭壇の前で、神様の前で食べるということにありました。家族やしもべたちと一緒に、神様の前で食べるのです。自宅でではなく、祭壇の前、つまり神様の御前で食べます。言ってみれば、神様が招いてくださった愛餐会なのです。申命記12章7節を開きましょう。ここでは全焼のささげ物とともに「この交わりのささげ物(進んで献げるもの)」をささげる時について語られています。

申命記12:7 そこであなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で食事をし、あなたの神、主が祝福してくださった、あなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。神様との交わりを喜び楽しむものであると教えられています。続く12節でも「あなたがたは息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。とあります。神様の前で一緒に食事の交わりをする。それは神の民の大いなる喜び、楽しみであり、実に神様ご自身が喜ばれることです。

先ほど礼拝を意味する英語「worship」についてお話ししましたが、礼拝を意味する英語には「Service」もあります。仕えるという意味です。私たちが神様にサーブする、お仕えする。

しかし、同時に神様ご自身も私たちに仕えてくださるのが礼拝です。神様が御前に招き、私たちを安がらせ、みことばをもって励まし・・・。イエス様も最後の晩餐時、弟子を招きパンをさき、ぶどう酒を分けサーブされました。

先週水曜日の夜、YPNという若者の集まりがありました。


 中高生、大学生、青年の皆さんが集まり、全部で21名ぐらいだったでしょうか?おいしいご飯を一緒に食べ、お菓子も食べ、メッセージを聞いて励まされ、真剣な話もし、他愛もないおしゃべりもし、変顔をし・・・一緒に笑って過ごしました。日本人だけでなく、韓国人、台湾人の方もいましたね。これがただのご飯の会ではなく、神様を中心とした交わりで、神様が楽しませてくださるから心が安らかなのです。神様の愛を覚えながら過ごすから楽しく豊かであり世代を超えてできるのです。


 そして、神様との交わりを楽しむことが「私たちの力」になります。

ネヘミヤ8:10ではこうあります。「今日は私たちの主にとって聖なる日である。悲しんではならない。主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」 時に私たちは、自分の罪深さや愚かさ、弱さ未熟さに打ちのめされ、涙することもあります。しかし、神様はその目の涙をぬぐい去り、喜びに変えてくださるお方です。主を見上げる時、イエス様を見上げる時、喜びが湧きあがります。「主を喜ぶことは、私たちの力なのです。」

 だから、賛美をささげると心に力が湧いてきます。みことばから神様のすばらしさを知り感動すると元気がもらえます。兄姉の正直な証しを聞き、神様によって守られ強められていると聞くと、私たちも勇気をもらいます。  

今日、神様はあなたに語っておられます。「わたしとの交わりを楽しみ喜びなさい。わたしがこの世界を造った神なのだから、わたしからこの世界の本当の豊かさを学び味わいなさいと。」 私たちは神様のすぐ近くにいるはずです。しかし案外、神様との交わりを楽しみ喜ぶことを忘れてはいないでしょうか?神の恵みの座には、楽しさがあり、喜びがあり、感動があふれています。 

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