東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/03/04

伝道者の書7章7-12節「神の知恵によって歩もう」

*** 3/3(日)主日礼拝 説教概略 ***

 シェクスピアの作品「お気に召すまま」という作中に、こんなことばがあります。「愚か者は、自分は賢いと考えるが、賢者は自分が愚かであることを知っている。」。自分は賢いと考える人は、むしろ愚か者であると言うものです。ですから、自分は愚かで教えていただく必要があると考え、人からも神様からも絶えず教えられる「賢い者」でありたいと願います。特に、聖書の言う賢い人は、世界を造られた神様から絶えず教えられている人です。


2024/03/01

ローマ書4章13-17節「信じること(信仰)の勧め」

*** 2/28(水)祈祷会 説教概略 ***

 若い頃、私は聖書の内容を分かりやすく伝えさえすれば、使命を果たしていると思っていた節があります。しかし、聖書の物語や戒め、教えをどれだけ伝えても、神様を信じましょう!イエス様を心にお迎えしましょう!と勧めなければ、十分に福音を伝えたとは言えないと、改めて示された時がありました。信じることを積極的に勧めることは、勇気がいることで躊躇しがちです。しかし、背中を押してくれる存在が、実はとても大切なのです。「信じることを勧める」ということ。みことばから教えられましょう。


2024/02/28

毎日の聖書【3月分】


1日 創世記33章
 兄エサウの恨みを買っていたヤコブは長い時を経て、ようやくエサウと再会を果たす。この二人の再会の場面を見る時に、神の恵みを強く感じるむしろ、神の恵みなしにはこの再会と和解は、あり得なかっただろう。3節を読むとヤコブの変化が見て取れる。恐れを抱いて、自分だけ後に残って祈っていた彼が、今は「自分が先に立って」歩み始めた(3)。そこに主が先んじておられるという信仰が育ったからだろう。 さらに、3節によれば、彼は7回も地にひれ伏して、エサウに挨拶をしている。この姿勢は、彼に対する心からの謝罪を示す姿勢だろう。しかし、これまでの経緯を考えると、兄エサウが優しく受け入れてくれるとは考えにくい。けれども、4節にこうある。
エサウは迎えに走って来て、彼を抱きしめ、首に抱きついて口づけをし、二人は泣いた。
 神がすべてを整えておられた。その背景に、1節にあるようにエサウには、400人もの家族や親族などがいた。彼は長男の祝福こそ逃したが、神のおかげで大成功を治めていたのだ。これがあるからこそ、ヤコブの家族を見ても嫉妬せず、怒りを燃やさずに済んだのではないだろうか。すべては神のみわざだ。主が万事を備えておられたのだ。

2日 創世記33章
 ヤコブは、エサウの好意を得るためにと贈り物を用意した。しかし、エサウは最初、それらを受け取らなかった。「私には十分ある」とエサウは応じている(9)。これもまた、神がエサウに豊かに与えておられたからである。しかし、ヤコブは、謝罪の意図も込めているし、貸しを作ったままでいることを良いと考えなかったのだろう。
 10節では、ヤコブは恐ろしいはずのエサウを「神の御顔を見ているようです」と伝え、11節では「この祝いの品をお受け取りください」と伝えている。それは、人に仕えるようにではなく、神に対してするようにせよとの、コロサイ書のみことばにも通じる姿勢だ。
 彼は11節の中で、「神が私を恵んでくださったので」と語っていることからも、自分の手柄とは考えず、ひたすらに神の恵みであるとの姿勢が生まれているのだ。その恵みに生きる者とされたからこそ、彼の姿勢は変わっている。私たちもまた、神を恐れる者とされていくとき、神の恵みの大きさを知る時、高慢に威張る者から、ずる賢い者から、まっすぐに神を見るように、隣人を見る者へと変えられていく。あなたの隣人の前に、主が立っておられることを信仰の目で見つめ、愛のわざに励んでいこう。

3日 創世記34章
 この章では、非常に悲惨な事件が相次いで起こる。その根本的な原因は、神のみこころに従わず、異教の地に長らく過ごしたことにある。33章の18-19節で、カナンの地の一部、すなわちヒビ人(カナン人)の土地を買い、そこでしばらく住むことを選んでいる。彼らは異教の偶像を信じる罪深い民。そこに身を寄せたことで、ヤコブとレアの間に生まれた娘ディナが、ヒビ人シェケムに辱めを受けてしまった(2)。さらに、それを知ったディナの兄弟たちは、激しく怒り(7)、特にシメオンとレビが中心となって、ヒビ人に対して虐殺と略奪をしてしまう(28-29)。
 ディナへの暴行はひどい罪である。だが、それに怒りを燃やしたシメオンやレビの行為は、さらに超える悪行をした。29節によれば、虐殺に加えて、幼子、女性たち、すべての者を捕虜にしたり、略奪したりしたというのだ。このことは、創世記49章5-7節のところで触れられている。シメオンとレビの仲間に加わってはならないと。「彼らは怒りに任せて人を殺し」とある。みことばは彼らの怒り自体を否定していない。しかし、怒りに支配されて、人を殺すなどあってはならない。怒っても罪を犯してはならない。ヤコブとその家族に必要だったことは、ディナが傷つけられた時に神に聴くことだったのだ。

4日 創世記35章
 1節で神はヤコブに言われた。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウから逃れたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい」
 ベテルとは、ヤコブが神と出会ったところ。ヤコブにとって、いつでも立ち返るべき信仰の原点だ。ベテルとは「神の家」を意味することば。神の家に、「わたしと一緒に住みなさい」と、主は言われる。それは単に神のもとに帰るだけでなく、しっかりと信仰生活の拠点を築いて、神とともに生活せよということだ。2節では、偶像を取り除くよう教えられている。彼らは4節で、そのことばに従い、シェケムの樫の下にそれらを埋めている。
 いつでも帰るべき場所は、神との交わりの家。出発すべき原点でもある。同時に、神は「神のために祭壇を築け」と言われた。そこは神礼拝の場だ。礼拝を大事にせずしての信仰生活は成り立たない。最も基本的なことが語られている。私たちもここに堅く立とう!

5日 創世記36章
 1節、「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である」と始まる。本流のヤコブ(イスラエル)の歴史だけでなく、対立していく民族の歴史にもみことばは触れる。しかも、神は、その時に敵対する民族さえ、守られ、増やしてくださり、豊かにされていることがわかる。7節によれば、「一緒に住むには所有が多すぎて・・・寄留していた地は、彼らを支えることができなかった」とある。なんという物質的恩恵だろうか。こうして、増えていったので、彼らはセイル山地に住むようになったと続く(8)。そして、系図につながる。
 しばしばイスラエルに敵対し、脅かすエドム人の歴史である。彼らは架空の存在ではなく、こうして現実に増え広がり、多くを所有していたことがわかる。箴言16章4節では、「すべてのものを、主はご自分の目的のために造り」と語られる。そこには悪しき者さえ含まれている。すべては神の御手の中にある。なんと大いなる力ある神だろうか!

6日 創世記37章
 エサウの歴史に続いて、ヤコブの歴史が語られる(1-2)。しかし、その話の中心はヤコブの子ヨセフであった。17歳のヨセフは、父イスラエル(ヤコブ)から、甘やかされて育った。3節では、他のどの子よりも彼が愛されたとある。本当の愛とは言い難い、歪んだ愛情がヨセフを生意気にしてしまったのだろう。もちろん、私たちも気をつけなければならない。
 ヨセフは、兄たちの悪い噂を父に告げるなど(2)、明らかに兄たちから嫌われる歩みをしていたのだ。さらに5節では、ヨセフは自分が見た夢を、何の考えもなく兄たちに告げた。兄たちが自分を伏し拝むという夢だ・・・。兄たちはますますヨセフを憎んだ。これらは一見、イスラエルの偏愛とヨセフの未熟さを語っている記事に見える。しかし、これらの関係の悪化さえ、神は用いておられるのだ。これらの背景があって初めて、ヨセフが奴隷商に売られるということが起こる。しかもそれは、やがてイスラエル部族を救うための、主の準備であったのだ。神のご計画は深く、私たちの考えをはるかに超えている。

7日 創世記37章
 ヨセフの兄たちの中でルベンは、弟を殺してはならないと他の兄弟たちを諭した(21)。殺すのではなく、穴に入れる程度にさせて、後に救出する計画を彼は考えていたようだ(22)。彼らはヨセフを穴に投げ込んだ(24)。そうこうしているうちに、なんとも都合の良いタイミングで、イシュマエル人の隊商が近くを通ったのだ。彼らはヨセフを殺しても何の益にもならず、さすがにそこまでは・・・と考え、この隊商に奴隷として銀20枚(当時の奴隷1人分の値)で売り飛ばすことにしたのだ(28)。
 ルベンは帰ってきて愕然とした。ヨセフを救えなかったからだ(29-30)。ただ、これらすべてに神のご計画を見ることができる。ルベンがどんなに助けようとしても、神のご計画上、ヨセフがエジプトに行くことが必須ならば、止めることはできなかったのだ。こうした穴は井戸として使われることが多かったが、穴には水はなく、溺れる危険からも守られた(24)。イシュマエル人が通らなかったら、彼らは殺してしまったかも知れない。しかし、人の様々な思いを超えて、神のご計画はなる。私たちがどうやっても、思うようにいかない時、「もしやそこに、神様のご計画があるのでは?」と、思いを主に向けてみよう。 

8日 創世記38章
 ユダは長男エルに、タマルという妻を迎えた(6)が、エルは神の前に悪しき者で、彼は早々に死を迎えた(7)。当時、また子孫を残す必要から兄が死んだとき、弟がその兄嫁をめとるというルールが一般的にあった。しかし、弟オナンは、兄のために子孫を残すことを嫌い、務めを果たさなかった(9)。オナンもまた主の目にかなわず、早々に死を迎えた。ユダはタマルを「呪われた嫁」とでも考えたのだろう。次の息子とタマルを結婚させることをしなかった(11)。タマルはこの事実を知り(14)、遊女に変装して、義父ユダとの間に子をもうけようと考えたのだ。その当時ユダは妻に先立たれていたが、それにしても・・・という状況。後に、ユダはタマルの噂を耳にした。彼女が売春をし、それによって子をみごもったというのだ。ユダは自分のした事を棚に上げて怒り、彼女を殺すように言う(24)。けれども、タマルこそ、ユダがお金で買った遊女その人であったと判明するのだ。しかし、驚くべきことは、このユダとタマルから生まれた双子のうちペレツの子孫として、イエス・キリストが誕生するのだ(マタイ1:3参照)。人間の罪深さを知る記事だが、同時に、人の罪の現実の中に、神の救いが与えられたことを知る記事でもある。

9日 創世記39章
 38章で後に来られる救い主の家系の話が進展したが、その一方でこの時代における神の救いの計画も進展している。ヨセフはエジプトに売られ、ファラオの廷臣の侍従長ポティファルのもとで奴隷として働いていた(1)。奴隷でありながら、神がともにおられたゆえに、彼は祝福され成功する者となっていた(2-3)。そうなると、主人も彼に好意を抱き、どんどん任せるようになった(4)。そして、神の祝福を受けたヨセフに、一切を任せるようになると、このポティファルの家や野にある全財産の上にまで、その祝福が及んだことがわかる(5-6)。その祝福はヨセフ自身の上にとどまらず、彼を信頼して任せた者、彼に良くしてくれた者の上にも及んだ!! 私たちがどこにいようとも、私たちが主キリストを信じて、神のみことばにとどまるなら、むしろ祝福が私たちをどこまでも追いかけてくる!ヨセフは孤独だった。見知らぬエジプトの地だ。異教の地で奴隷の立場だ。それでも、神がともにおられる者ゆえに、彼がすることすべてにおいて成功し、祝福があったのだ

10日 創世記39章
 ヨセフは美形で、体格も良かったので、ポティファルの妻が彼に惹かれてしまい、密かに彼を誘惑し始めた(6-7)。しかし、ヨセフはその誘惑を拒んだ。もちろん、ご主人に対する恩義、感謝があった。外国人奴隷である自分に、財産の管理の一切を任せてくれたのだ。そのことは8-9節のことばに表れている。けれども、ヨセフが奥さんの誘いを断った一番の理由は、自身を祝福してくださった神を意識してのことだった。「どうして、そのような大きな悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」と彼は言っている(9)。
 主人に申し訳ないという事以上に、自分をこの地で守り導き祝して下さった神に対し、罪を犯してはならないと考えたのだ。この事は大切である。人に罪を犯さないようにという考えならば、本人に迷惑がかからなければいいとか、バレなければいいという話にもなる。この時も、ポティファルの妻からは「内緒にしていれば大丈夫」と誘惑されただろう。けれど、ヨセフの罪の基準は、人に対してではなく、神に対してであった。多くの賄賂、裏金、不正、隠蔽・・・これらの問題は、神の存在を無視して、人にさえバレなければという行動原理から来るだろう。だからこそ、神を恐れて生きることがまっすぐ生きる上で大切だと、改めて肝に銘じる必要を覚える。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

2024/02/26

第一ヨハネ4章17~21節「恐れに勝利する愛」

*** 2/25(日)主日礼拝 説教概略 ***

 福音派の神学者J.I.パッカーは、その著書(『聖書教理がわかる94章)において、こう言っています。「愛はキリスト者の行動の基本である」と。また、「キリスト者の生活の品質証明書は、キリスト者としての愛である」とも表現しています。


2024/02/24

ローマ書4章9-12節「信仰の父、割礼の父」

*** 2/21(水)祈祷会 説教概略 ***

 クリスチャンになりたての頃、信仰生活というものがよくわかっていなくて、先輩クリスチャンたちを「見よう見まね」でマネしていた自分がいます。やさしい雰囲気を出してみようとか、「アーメン」の言い方をまねてみたり(笑)。でも、それはとても外面的で、本質にならっていないことに気づくわけです。


教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *