聖書

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイの福音書11章28節)

2019/06/11

わが子に対する読解力



ウガンダの赤ちゃんは基本的にオムツをしないそうです。
それなのに排泄物であちこちを汚すということがあまりないと言う。
 
なぜでしょうか? お母さんが赤ちゃんのサインを読み取って、トイレでさせてあげるからだそうです。ウガンダだけでなくオムツをさせない国、民族は結構あるとのこと
 
西洋の学者さんが「なぜわかるのか?」と尋ねると、「逆になぜ、あなたがたは分からないのか」と質問を返されたと言います(『子どものサインが読めますか』汐見稔幸著より)。
 
先進国では、忙しさと便利さによって、母親が子の求めを読み取る力を失っているのかも知れません
 
赤ちゃんの頃はまだ分かりやすいので、日本人のお母さんでも同じ環境ならば、できるようになるとも思います。
ただ・・・少し考えさせられるのではないでしょうか。

親の子に対する「心の読解力」の不足 という課題についてです。

大人(親)たちは、子どもたちが発しているサインを読み取っているでしょうか?
 
もしかしたら、子どもたちの方が親の心を読むのが得意かも知れません。
 
子どもは難しい言葉の意味を理解する力が足りない分、親の目、口元、表情、声色、言葉の語尾、語気、そうしたもので親の心を読み取ることでコミュニケーションを補っているからです。
 
特に、親の「機嫌を読み取る力」には長けていますよね。
 
実際、コミュニケーションのうち、言語のみで伝えられているのは10%未満と言われます。残りの90%は言語外のコミュニケーションです。
 
実際子どもたちは、親の目、口元、表情、動作、声色、語気などによって親の心境を読み取っていることが実に多くあります。犬でさえ、怒られているかどうかは言葉の意味にではなく、声のトーンや表情などの雰囲気によって理解しているのです。
 

子は成長と共に社会性を身に着け、親の顔色をうかがいながら言わないことも増えてきます。本音を親にぶつけようものなら、逆上されたり否定されたりすることを学ぶと次第に話さなくなるのです。
 
ですから、子どもたちとの良いコミュニケーションのために、彼らの「サイン」をよく見るようにしましょう子どもたちの心の動きにしっかりと目を注いでみましょう
 
聖書にもこういうことばがあります。

 
 人はうわべを見るが、主は心を見る。(Ⅰサム16:7)

 神様は人間の心、魂の深みまで見通され、言葉にならない叫びまでも読み取ってくださいます。私たちはしばしば表面的なものしか見ておらず、お互いの必要に寄り添うことがなかなかできないのです。
 
 


1. 子に対する健全な関心を持つこと

<<不健全な関心の持ち方>>

①過保護子どもが自分の予測を超える生き方をすることが不安。自分が不安にならないように、必要以上に自分の保護下に置いてしまう。 結果として、「子どもがどうしたいのか」「どう感じているのか」に対しては、関心が薄れてしまう。

②放任主義:親自身が自分のこと(仕事や介護、自分の目の前の問題)で忙しいので、子どもに何でも任せすぎている。関心を払わないので様々なサインを見逃してしまう。自分の時間を取られる、自分の心が乱されることがイヤ。

「健全な関心」とは、その子が大切にしていることは何か、最近好んでいるものは何か、何をされるとイヤなのか、どんな不安を抱えているのか、そうしたその子の本音の叫びに対する関心です。そこからズレると、親が知りたいこと、親が望むことばかりを聞き出すことに必死になってしまい、結果お互いの心が離れていきます

 

2. 「サイン」を知ること

・表情、目の輝き ⇒ 目が輝く瞬間を見逃さない! 

・不眠・食欲低下 ⇒ 強い不安や緊張。うつ的な状態の可能性。

・体に力が入っている ⇒ ストレスや恐怖に支配されている可能性。
             体が強張っていて硬い。

・自己主張、自慢話が多い ⇒ 認めて欲しい
 
・否定的なことばが増えてきた ⇒ 自信喪失、自尊心の低下の可能性。
 
 
 
神様に祈りながら、子どもたちの本当の必要に気づかせていただきましょう

 

2019/06/10

キリストの福音を語る聖霊


すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。(使徒2:4) 
 約束の聖霊がすべてのキリスト者に臨まれるようになった日がペンテコステです。聖霊は旧約聖書の時代から約束され、キリストご自身も弟子たちに約束された助け主です。この聖霊に満たされた時、弟子たちは他国のことばで話し出したのです。そして、肝心なその内容はキリストの福音でした。バベルの塔の出来事以来、ことばは混乱し人々は世界のあちらこちらに散ってしまいました。けれども、世界中に散らばったすべての民族に届くことばがキリストの福音であることをペンテコステは示してくれたのです。この日、御霊によって十字架の福音を語ったペテロたちを通して三千人が救われました。この日から本格的な世界宣教が開始され、キリスト教会が始まっていきました。いかに、聖霊によって力を受けて語ることがキリスト者の歩み、神の国の働きにとって重要であるかに気づかされます。誰も聖霊によらなければ、「イエスを主」と告白することもできず、世界への証し人となることもできません。キリスト者に神の力を豊かに与えてくれる聖霊の働きに、すべてのキリスト者が導かれて歩むことを心より願います。
(2019年6月9日 週報掲載)

2019/06/02

祭りの意義


年に三度、わたしのために祭りを行なわなければならない。(出エジ23:14 

 「祭り」は、おそらくどの国でも存在し、また長い歴史を持つものが少なくないでしょう。しかし一般的に「祭り」の本質は、近年では失われています。人間本位のものとなり、人が楽しみ騒ぐことにフォーカスされているからでしょう。聖書では「祭り」というものが大切な意義をもって、神のご命令のもとで行われていたことに気づきます。しかも、このみことばにあるように目的は「神のため」です。人のためではなく神中心であるので、勝手なやり方ではなく、勝手な時でもなく、神の定めた方法、神の定めた時においてなされたのです。けれどもそれは、結果として神が人の幸いを願って備えられたことを私たちは知る必要があります。人が神の恵みに「感謝する機会」であり、救いのみわざを「覚える機会」であり、定期的に行うことを通して「次世代に伝える機会」となっていたと言えます。現在のプロテスタント諸教会は、祭儀的なものを極端に排除しすぎたかも知れません。祭儀の所作を通して、そこにある神のすばらしさを味わい、また伝えていく意義もあったことでしょう。洗礼、聖餐、クリスマス・・・様々な礼典や祭典の意義を改めて考えさせられます。
(2019年6月2日 週報掲載)

 

2019/05/26

不正の富で友を???


 わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。(ルカ16:9 

 聖書中でも難解なみことばの一つです。キリストがこんなことをおっしゃるのかと驚く人も多いことでしょう。ですから、その真意をしっかりと理解することが必要です。まず引っかかるのが「不正の富」ということばです。これは「この世の富」と言い換えればわかりやすいでしょう。この世の富を運用している人はすべて聖書が言うところの罪人ですから、神の目には汚れているものであり、やがて朽ちていく富なのです。それは天に積まれる宝が永遠であることとはっきり対比されます。しかし、こうした汚れた世の富もまた、神の栄光のため、良い働きのために用いるならば神に喜ばれるものなのです。では、世の富で友を作れとはどういうことでしょう?この友もまた「永遠の友」と言えば良いでしょう。永遠の住まいであなたを迎えてくれる友を作るのです。つまり、朽ちていく富だからこそ、今、多くの天の友を作るために生かしなさいということです。天に持っていけないこの世の富に固執せず、賢く有効に用いて天国をあなたの友でいっぱいにしましょう。
(2019年5月26日 週報掲載)

2019/05/21

ここにおられたのに


創世記2810-17

エゴに満ちた罪深い日々 
 
 ヤコブの人生の前半・・・それは罪深い日々だった。
兄のかかとつかんで生まれてきたヤコブは、いつも兄に追いつき、追い越そうとする競争の日々。「自分さえ良ければ・・・」という自己中心的な性格。やがて彼は実の父を騙し、お兄さんを出し抜いて「長男の権利」を手に入れたのです!

 しかし、ずるいことをして利益を得る人は、その分必ず何かを失うものです。彼は兄の「殺意に満ちた憎しみ」を買い、幸せな家庭を失っていきました

 

罪深い歩みから生まれた実

自分の利益だけを追求したヤコブの歩みから生まれ落ちた実。
 
それは、兄との関係破綻でした。 
 
やがて彼は実の兄から命を狙われる日々となります。
 
そして家族から離れて過ごすことになっていくのです。それは人生で初めて通る圧倒的な孤独。不安。恐れに満ちた日々です。

 後先考えずに自分の思いのままに行動した結果。
 
 ちょっと想像すれば、お父さんやお兄さんの反感や怒りを買うことは予想できたはずです。しかし、かく言う私たちも後先考えずに自分の思いだけで行動し、周りを巻き込み、結果、自分に跳ね返ってくるということがあるのではないでしょうか。

 
神様は見捨てない

孤独になったヤコブ。
 
しかし、神様は彼を決して見捨てませんでした。
 
むしろ、この悲惨な出来事さえも神様は良いことのための計画となさいました


10-11節 ヤコブはベエル・シェバを出て、ハランへと向かった。彼はある場所にたどり着き、そこで一夜を明かすことにした。ちょうど日が沈んだからである。彼はその場所で石を取って枕にし、その場所で横になった。
 
 彼は孤独な旅の途中、ある場所で野宿をすることになりました。
 
 そこで寝ている時に夢を見たのです。
 
12節。それは不思議な夢でした。天使が上り下りするはしごが見えました。
 
そして13-15節には、神様の語りかけがありました。
 
 その内容は、あなたとその子孫を祝福し、この地をあなたの子孫に与えるという祝福です。この約束を果たすまで、神様が決して見捨てることはないという愛のことばでした。
 

父と兄を騙し、母を悲しませ、家にいられなくなったヤコブです。
 
孤独な中で、ひとりぼっちで・・・
 
友も家族もいない。味方がいないのです!
 
 しかし、誰もいない本当の孤独だと思ったときに・・・実に神様がずっとすぐ近くにおられた事に気づいたのです。

一人ぼっちになったとき、ヤコブは初めて親の信仰ではなく、「私と神様」という自分の信仰について問われたのです。
 
「家がこの神様だから自動的に自分も・・・」ではなく、「私は誰を信じて誰に従っていくのか?」という私と神様という関係について問われて行ったのです。

 

 ヤコブは初めて気づきます!


16節のことばは、ヤコブの素直なことばです。
 
 「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」
 
父の家にだけではなく、父の家から離れたこの地にもおられる。
 
主なる神様は、今もここにあって、私とともにおられる
 
 
実にこれまでもそうだったし、今もそうであるし、これからもずっとそうなのだ。
 
 「それなのに、私はそれを知らなかった」
 
ヤコブは気づきました。
 
いらっしゃるのに、知ろうとしなかった自分に課題があるということに


そして悔い改める思いがここに生まれたことでしょう。

 
 
 私たちは、主と知ろうとしているでしょうか?
 
 神様がいないのではなく、
 
 いらっしゃるのに、
 
 造り主であるのに、
 
 支えてくださっているのに、
 
 私たち自身が鈍感で、見えなくて、気づかないでいるのではないでしょうか。
 
 
   < 賛美「気づかなかった」 > 
 
気づかなかった イエス様の愛に ずっと 

こんなに愛されている イエス様に もう私は一人じゃない 主よ あなたがいる

気づかなかった イエス様の愛に ずっと

知らん顔して イエス様を悲しませてきたのに 主は ゆるしてくれた

さあ ゆこう イエスと・・・・

 

 

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *

わが子に対する読解力

ウガンダの赤ちゃんは基本的にオムツをしないそうです。 それなのに排泄物であちこちを汚すということがあまりないと言う。   なぜでしょうか? お母さんが赤ちゃんのサインを読み取って、トイレでさせてあげるからだそうです。ウガンダだけでなくオムツをさせない国、民族...