ユダヤ人の指導者たちは、ペテロとヨハネによる癒しと宣教を見て脅威を感じ、対応策を話し合った(15-16)。そして、今後、イエスの名によって誰にも語ってはならないと脅迫したのだ(17-18)。私たちならば、この手の脅迫に安易に屈してしまうだろう。人は弱い・・・。だが、それに対して、ペテロとヨハネはどのように応じたのだろうか?
19-20節「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」神の御前に何が正しいかは明白だ。ペテロとヨハネは、「話したい」ではなく、「話させて欲しい」でもなく、「話さないわけにはいかない」と言ったのだ。ある宣教師は言った。「主イエスのこと、聖書のことを一切話さなくなる時、それは私の死ぬ時である」と。少なくとも彼らはそのように生きたのだろう。だが、そこには神の守りもある。21節にあるように、彼らは再度脅すことはできたが、罰することはできなかった。多くの人がみわざのゆえに、神をあがめていたからである(21)。
2日(水)使徒4章23-24節
脅迫されつつも、釈放されたペテロとヨハネは、仲間のところに行って、事の次第のすべてを残らず報告している(23)。この交わりはすばらしい。私たちはしばしば語らない。共有しない。報告をほとんどしない。それは、祈りを生まないことである。わからないことは祈りにくい、祈りようもない。しかし、この出来事の共有、困難な状況の共有は祈りを生んだのだ。24節で、これを聞いた人々が「心を一つにして、神に向かって声をあげた」とある。すべてを造り、すべてを治める神に、彼らは心を一つにして祈り始めた。みことばを思いめぐらしながら、神のみこころを求めて。日本人の美徳は配慮と遠慮であろうけれど、しばしば行き過ぎる。それゆえ、内緒にし過ぎて祈りの輪が広がらない。ともすると、神の助けを得る機会を減らしてしまわないだろうか?一人で祈ることも確かにできる。だが、二人でも三人でもイエスの名によって・・・とあるように、「ともに祈る」恵みが教えられていることを忘れないようにしよう。
3日(木)使徒4章25-29節
迫害がなされた時に兄姉たちは、すべてが神のご計画であることを悟った。すべては聖霊によって、かつてダビデによって神が語られた通りであったと(25)。27節では、それが事実起こったのだと確認している。そして、28節で「あなたの御手とご計画によって、起こるように前をもって定められていたすべてのこと」が行われたのだと語る。つまり、すべて、主が前もって語られ、ご計画なさっていたことがその通りに進んでいるということだ。私たちは目の前の様々な出来事に、一喜一憂する。驚き戸惑う。だが、神のみことばを知れば、既に神が言われていたこと、教えておられたことであると気づかされる!みことばを知るならば、心の備えができると知らされるのだ。そうなると、冷静さを与えられ、自分の使命に心を向けられる!これらの人々の迫害、脅かしさえ、神が予知しておられ、すでに語り、備えるよう示しておられたことだ。ゆえに、彼らは脅かしに恐れず、戸惑わず、みことばを大胆に語らせてくださいと神に祈っている(29)。私たちも神のみことばによって、先に知らされておこう。備えをしよう。そして、必要な時に大胆にみこころを行えるように!!
4日(金)使徒4章30-31節
ペテロとヨハネが逮捕され、イエスの名によって語ってはならない、つまり「宣教するな!」と脅された時、使徒たちは心を一つにして祈った。最初は恐怖心もあっただろう。誰でも恐れはあるはずだ。だが、彼らは祈る中で、神のみことばに目を向けた。恐れる時に、人間の方法で対峙すべきではない。そうではなく、神のみことばに目を留めるなら、神の守りと助けがあること、そこにも神の計画があることに気づかされる。そして、神に信頼して積極的に祈った!みことばを大胆に語らせてくださいと。そして、30節にあるように「御手を伸ばし」て、イエスの名によって癒しとしるしと不思議を行わせてくださいと。この祈りは応えられていく。31節で、祈り終えると、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出したのだ。みこころにかなう祈りは応えられる。恐れる時、私たちはまず祈り、そしてみことばに目を向け、聖霊の助けをいただこう。その時、怯えた歩みではなく、「大胆に」神の栄光を語り告げる歩みへと主が導いてくださる!
5日(土)使徒4章32-37節
この時のキリスト者の共有する交わりについて、再び語られている。脅迫され、迫害があったが、かえって使徒たちの心と思いは一つになっている(32)。彼らは迫害や困難がある時に、ますます神に拠り頼み、また、ともに祈り、強められていたようだ。それで33節にあるように、主イエスの復活を大きな力をもって証し、その分恵みも大きかったことがわかる。そして、驚くべきことがある!彼らの中には「一人も乏しい者がいなかった」のだ(34)。それは皆が所有している物を売っては使徒たちの足元に持って来て、それを分配していたからだ(35)。現代でも、世界には、すべての人が生きていく上で必要な物は十分足りていると言われる。だが、一部の者が占有するために、足りなくて死んでいく者たちが大勢いるのだ。この信じた者たちの交わりのように、互いを思い合い、分かち合うならば必要は満たされるのだ。使徒の時代のように、御霊によって分かち合う交わりが広がることを願う。
6日(日)使徒5章1-6節
衝撃的な出来事が起こった。アナニヤとサッピラという夫婦は、土地を売ったお金を使徒たちのもとに持って来た。ただし、彼らはウソをついていた。土地を売った代金の一部は自分たちのために取っておき、一部だけを持って来て、あたかも全額であるかのように偽装したのだ。この2節の「取っておく」ということばには「着服する」という意味もある。弱さのゆえのウソではない。言い間違えたのでもない。夫婦で偽装し着服したのだ。もちろん、財産をみな献げなければいけなかったわけではない。4節にあるように、売らないままでも良かったし、売った場合でも自由にして良かったのだ。本当のことを言えば良かった。だが、彼らは神と教会を意図的に騙そうとしたのだ。だからペテロは3節で「サタンに心を奪われて聖霊を欺き」と指摘し、4節でも「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言うのだ。このことばを聞いた後、アナニヤは倒れ息が絶え、これを知った人々の間に大きな恐れが生じた(5)。私たちも背筋を伸ばされる記事だ。神や人を欺いて、名声や財を得ても、まことのいのちを失えば何になるだろう。私たちが宝を積むべきは天の御国である。
7日(月)使徒5章7-11節
アナニヤが倒れて絶命した後、妻のサッピラが、これらの出来事を知らずに使徒たちのいるところに入って来た(7)。ペテロは彼女に、この土地をこの値段で売ったのかと質問すると、彼女はその値段だと答え、夫と同様にウソをついた(8)。それゆえ、「なぜあなたがたは、心を合わせて主の御霊を試みたのか」とペテロに指摘された(9)。彼女は神を侮ったのだ・・・。そして、夫と同じように足元に倒れ、絶命してしまったのだ。「ペンテコステ」という聖霊降臨の大いなる出来事は、聖霊の働きが劇的に明らかにされる非常に特殊で、極めて重要な時であった。聖霊の劇的なみわざを体験している最中だからこそ、その聖霊を知っていながら神と教会を欺く行為は、厳粛にさばかれたのであろう。ただ、これによって、皆が「神を恐れる」ということを学んだのだ。確かに厳しいさばきに見える。だが、その厳しさがなければ、人はなお神を侮り続ける。それほどに人は頑固で、愚かで、大きな痛みを通らないと本気で神を求めないのではないか?あなたはどうだろう。今なお、どこかで神を侮り、今日も神は見ていないと思い込んで歩んではいないだろうか。主はご覧になっている。
8日(火)使徒5章12-14節
引き続き使徒たちによって多くのしるし、不思議がなされた。「ほかの人たちはだれもあえて彼らの仲間に加わろうとはしなかった」とある(13)。「この人々」は、まだイエスを信じられなかった者や、信じてはいるがそこまで献身的ではなかった人々の可能性がある。指導者たちの圧力を恐れて、あるいはアナニヤとサッピラの事件を聞いて恐れ、慎重になった者がいるのだろう。だが、それでも「民は彼らを尊敬していた」とある。とても胸に響くことばだ!そう簡単に信じることができない人々も確かにいる。だが、それでも、「民は彼らを尊敬していた」という点が重要だ。すぐにキリスト信仰に導かれなかったとしても、尊敬されていることは確かな証しである。それによって、時間とともに、14節にあるように、やがて主を信じる者は起こされていくのだ。いい加減な気持ちではなく、恐れの中でも、尊敬できるキリスト者を近くに見ている時、やがて人々の心は深いところから揺さぶられていく。いつの時代もキリスト者が尊敬される者であることを大事にしたい。
9日(水)使徒5章15-18節
ペテロたちの癒しの奇跡は広まり、多くの人が病を癒してもらおうと、病人を寝床のままで大通りに連れて行くようになった。そして、ペテロが通りかかる時には、彼の影の中に病人が入るようにし、癒しを願ったほどだ(15)。これは、イエスの着物の端にでも触れればと考えた人々の発想と似ている。もちろん、ペテロはイエスに成り代わりたいなんて思っていない。彼はただ、イエスの御名こそが人々に広まることを願っていたのだ。だが、実際エルサレム付近の町々からも大勢の人々が集まり、彼らは癒された(16)。もちろん、イエスの名によってだ!すると、お決まりのパターンのように、17節で宗教指導者たちの「ねたみ」が再燃し始め、彼らを逮捕し留置所へ入れてしまうのだった(18)。いつでも「ねたみ」は恐ろしく汚れたもので、神のみこころからかけ離れているものだと教えられる。ペテロたちは何も悪いことをしていないのだ。人々を癒すという良いことをしているに過ぎない。だが、中身が良いか悪いかでは判断されない。罪の世はなんとねじ曲がっていることか・・・。教会では、そしてクリスチャンは、この罠から自由な者でありたい!ただイエスの名が広められ、あがめられることを素直に喜ぶ者となろう。
10日(木)使徒5章19-26節
牢に入れられた使徒たちだったが、夜に主の使いが彼らを救出した(19)。さらっと書いてあるが、スゴイことである。ただ、牢から出されたのは、その使命のためである。宮の中でいのちのことばをすべて語るという使命であった(20)。この20節の「いのち」とは単数で、「ことば」は複数形である。唯一のいのちに関するあらゆることばを語れというのだ。つまり、「キリストにある唯一のいのちに関する、あらゆることばを余すところなく語れ」という使命だ。だから、使徒たちは、夜明け頃に宮に入ってみことばを教え始めた。一方で、宗教指導者たちは、使徒たちを牢から引き出して来ようとしたが、既に牢の中は空であった(22-23)。権力者たちは、使徒たちを拘束し、自分たちの思いのままにしようとした。だが、少しも彼らの思い通りになっていないのだ。すべては、神の思い通りになっていたからである。「いのちのことばをすべて語る」使命に立つ者を、神はあらゆる妨げから守り、語らせてくださるのだ。あなたにもこの使命が与えられている!この唯一の希望、唯一の救いについて、聖書全体から学び、聖書のあらゆることばを駆使して語り伝えよう!!
11日(金)使徒5章27-32節
使徒たちは最高法院に立たされ、大祭司たちの尋問を受けた(27-28)。普通であれば、緊張と恐れで何も言えなくなりそうである。実際、一度は厳しくイエスの名で語るなと戒められ、その上でこうして連行されたのだから、より危険度と緊張感は増しているはずだ。だが、使徒たちは明確に答えた。「人に従うより、神に従うべきです」と(29)。このことばは、私たちもいつも肝に銘じたい。つい、目の前の人の考えに従いがちだ。だが、いつでも神に従うのが神の民、クリスチャンのアイデンティティである。それを失っては、証しができない。30節でペテロは「あなたがたが木にかけて殺したイエス」という表現をし、大祭司を前にしても全く恐れを知らない姿に驚かされる。使徒たちは聖霊に満たされ、まさにキリストの証人として、この法廷に立ったのだ。そして、彼らはこれらのことばと行動が、自分の力でないことを知っていた。神が従う者にお与えになった聖霊が証人であると彼らは明確に語ったのだ(32)。人ではなく、神に従おう!そして、神に従う者には聖霊が働いてくださる!!
12日(土)使徒5章33-39節
使徒を尋問していた大祭司らは、人にではなく神に従うべきとの彼らの言い分を聞き、また、神がイエスを死者の中からよみがえらせたとのことばを聞いて、怒り狂い、使徒たちを殺そうとした(33)。しかし、ガマリエルというパリサイ派の教師が、冷静な判断を人々に促した(35)。彼は、36-37節で二つの具体的な事例を挙げ、そこにいた者たちを諭した。彼が伝えたことは、こうだ。「もしその計画や行動が人間から出たものなら、自滅するでしょう」(38)。しかし、神から出たものなら、誰にも滅ぼせないのだと(39)。だから、「放っておけばよい」とのことだ。これこそ、「神に従うべき」という判断だ。神のなさることはいつでも正しい。ことごとく正しい。何も分からない私たちが早まって判断すべきではない。神の声に聞こう。神の導きに目を開こう!神に従うべきなのだから!神から出たものは滅ぼせないのだから!!
13日(日)使徒5章40-42節
使徒たちは最高法院でむちで打たれ、再びイエスの名によって語ってはならないと命じられたが、釈放された(40)。しかし、この時、使徒たちは気落ちしたり、心折れたりするどころか、このように語られている。【使徒たちは、御名のために辱められるに値する者とされたことを喜びながら、最高法院から出て行った。】(41) 彼らは心折れるどころか、むしろ自分たちが、主イエスのために、辱めを受けるほどに証しができていることを知り、誇りに思い「喜び」さえ抱きながら最高法院を後にしている。そして、彼らは「毎日」、宮や家々でイエスがキリストであることを教え、宣教をやめなかった。どうして、彼らはこのようにできたのだろうか?それは、彼らの喜びが人間的な喜びではないからだ。天の喜び、キリストにある永遠の喜びだからだ。モーセの献身について、ヘブル11:26にこうある。「彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。」エジプト王家の宝でさえ、キリストのために受ける辱めに勝てないのだ!それは、それゆえに受ける「報い」から目を離さなかったからであった。それは決して失われない「天の宝」である!!
14日(月)使徒6章1-7節
人が増えると問題も増える。ギリシア語を使うユダヤ人未亡人たちが、毎日の食べ物の配給でなおざりにされているという問題が起こった。その時に、使徒たちはとても良い判断をしている。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません」と言ったのだ(2)。使徒たちが食事の配給の問題、民族間のトラブル対応などに時間を取られるならば、みことばと祈りの奉仕は誰がするのだろうか。3節にあるが、「そこで」、彼らは霊的、人格的に評判の良い人を七人選んで、こうした務めをゆだねることを提案し、皆もそれを喜んで受け入れたのだ(5)。使徒以外の弟子たちも、みことばを尊んだと言えるだろう!!それで、使徒たちは「祈りとみことばの奉仕に専念」することができたのだ。それは、どのような結果を生んだのだろうか。「こうして、神のことばはますます広まっていき」、「弟子の数も非常に増えていった」のである。とてもシンプルだ!みことばと祈りを大事にしただけだ。ただし、それを皆で喜んで大事にした!だが、それでいい。それが神のみこころなのだ。あなた自身も、いつでもみことばを尊ぼう。後回しにしないように!!
15日(火)使徒6章8-10節
さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。(8)
使徒たちが立てた7人の中に、ステパノがいた。評判が良く、信仰と聖霊に満ちた人であったことが4-5節でわかる。また、8節でも恵みと力に満ち、すでに様々な神の不思議なみわざが彼と通して起こっていた。しかし、このステパノに対して反対し、議論をする者たちがいた(9)。ただ、ステパノは知恵と御霊によって語っていたので、誰も「対抗することはできなかった」(10)。人から出たものは勝手に滅んで行くが、神から出たものは人には滅ぼせない(5:38-39参照)。ステパノが自分のプライドのために、自分の知識で議論したのなら結果は違っただろう。だが、彼は神への信仰によって、御霊に満たされて語ったのだから、誰もかなうはずもない。もちろん、論破することが勝利ではない!しかし、神から来る真理のことばは、人の心に確かに刺さるのである!あなたのことばで語らず、御霊によって神のことばで語ろう!!
16日(水)使徒6章11-15節
反対者たちは、ある人々をそそのかして、ステパノがモーセと神を冒涜(ぼうとく)することばを語るのを聞いたと、ウソを言わせた(11)。そして、民衆や長老たちを扇動し、ステパノを捕らえ最高法院に連れて行った(12)。偽りの証人たちは、まったく事実でない証言をし、ステパノを冒涜罪(ぼうとくざい)で訴えたのだ(13-14)。
さて、あなたがステパノの立場なら、どう思うだろう? 偽りの証言をされ、罪人に仕立て上げられたのだ!焦るのではないか?怒りに燃えるのではないだろうか? だが、ステパノはまるで違った。15節にこうある。「最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた」。 なんと、「御使いの顔のように見えた」のだ。それは、なすべき正しいことをしているという確信に満ち、本当に平安に満たされていた表情だろう。この確信、この平安、この揺るぎない生き方。とても魅力的ではないだろうか。この人が持つ福音とは一体何なのか??多くの者が興味を持ったに違いない!
17日(木)使徒7章1-8節
最高法院の場でステパノがモーセと神を冒涜しているとのウソの供述がされた。そこで大祭司は「そのとおりなのか」と、ステパノを問いただした(1)。ステパノは何と答えたのだろう? 2節でステパノは応答を始めた・・・「兄弟ならびに父である皆さん、聞いてください」と。自分を訴える者たち、問い詰める者に対して「兄弟ならびに父である皆さん」と呼びかける。それは、およそ「敵」に対しての呼びかけとはかけ離れたものであった。親しみと尊敬を込めた言い方である。さらに、話し始めた内容は、神の救いのご計画と人々の不信仰という歴史であった。ステパノは、目の前にいつ人々を責める思いではなく、過ちに気づいて、悔い改め、神の救いにあずかるように願ったのだ。最高法院という場にあって、彼は保身をまるで考えず、ただ福音をまっすぐに語るのであった。自分をさばくような人々を前にした時、語るべきことばは、聖霊が与えてくれるとイエスは言われた(マルコ13:11)。私たちも、時に批判的な人の前で問われることもある。だが、論破しようと思うのではなく、感情的に対立するのでもなく、御霊の助けを祈り求め、愛と尊敬のうちに証しをしたい。簡単ではないが、そのような時こそ、チャンスであることを忘れないでいよう。
18日(金)使徒7章9-16節
ここでは、ヤコブの子ヨセフを中心にしながら、先祖たちの歩みについてステパノが語っている。ヨセフは兄たちからねたまれ、エジプトに売り飛ばされた。しかし、9節にあるように、「神は彼とともにおられ」、「あらゆる苦難から彼を救い出し」(10)、エジプト王の全家を治める者に任命したのであった。その時、飢饉が起こったので(11)、ヨセフが神の知恵によって蓄えていた食料を求めて、エジプトを訪れた(12)。やがて、ヨセフの計らいで、ヤコブとその家族はエジプトに移住することになっていく(14)。このようにいつの時代も、ねたみや自己中心の罪が、神の人を苦しめる現実をステパノは語る。その意味では、ヨセフもキリストを指し示す姿であろう。ヨセフは、ねたんで攻撃する者があったにも関わず、神はその悪意さえ用いられて、結局はねたむ者たちを救うことになっている(14)。つまり、人がどんなに拒んでも、神の救いのご計画は妨げられず、進んでいるのである。私たちもどんな状況でも「神とともに歩むこと」を大事にしよう。神の計画は、人の悪意さえ用いるのだから!
19日(土)使徒7章17-29節
ファラオの娘に育てられたモーセは(21)、エジプトのあらゆる学問を教え込まれた(22)。そして、モーセが40歳になった時、彼は同胞のユダヤ人が虐待されているのをかばい、仕返しにエジプト人を殺してしまったのだ(24)。モーセは神の民のために行動をしたのであったが、結果は25節の通りだった。「モーセは、自分の手によって神が同胞に救いを与えようとしておられることを、皆が理解してくれるものと思っていましたが、彼らは理解しませんでした」。それどころか、『だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか』と、非難されたのである(27)。モーセはエジプトの高い地位にあった。だが、その地位を捨てる危険を冒してまで、同胞のため行動したのだが、理解されず批判されたのだ。主イエスもまたモーセのように攻撃され、殺された。他でもない同胞、ユダヤ人たちによって。クリスチャンを攻撃するのもしばしばクリスチャンである。なぜ、仲間同士で争うのだろうか。意見の違い、立場の違いに寛容でありたい。ねたみから解放され、すべての人の救いのために、互いの豊かさを尊重し合っていきたい。
20日(日)使徒7章30-35節
「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか」と言われたモーセ。良かれと思って犠牲を払っても、民は彼を受け入れなかった。それから彼はミディアンに行き、寄留者として過ごした(29)。40年たって、モーセはシナイ山の荒野で燃える柴にて、主の声を聞いた(31)。モーセはその主の臨在を前にして、震えあがった(32)。そこは聖なる場所であり、神は履き物を脱げと命じられた(31)。そして、主は34節で、言われたのだ。「今、行け。わたしは、あなたをエジプトに遣わす。」と。主は、モーセを通してエジプトにいるイスラエルの民を救い出そうとなさったのだ。35節にあるように、かつて「だれがおまえを、指導者やさばき人として私たちの上に任命したのか」と言われたモーセを、神が指導者、解放者として遣わされたのだ!人の声に惑わされてはならない。神が選び、神が立て、神が遣わされる時、その人が指導者だ。誰かがあなたを「ふさわしくない」と言おうと、主があなたをそこに置かれたなら、それが神の召し(Calling)だ!主が呼んだのだ。すべての召しは主から来る。主が呼ばれた時がその時だ。人の声より、主の声に拠って立とう!
21日(月)使徒7章36-40節
モーセに対して、指導者として認めないという者たちもいたが、神がモーセを選んで立てたのであった。そのモーセは、36節にあるように、エジプトから人々を解放し、エジプトでも航海でも、荒野でも様々な不思議やしるしを行った。なんと力強い働きだろうか!!認めなかった者たちが、見る目のない者であったと分かる。だが、多くの預言者はそうであり、主イエスも最後まで人々が救い主と認めなかった。モーセはシナイ山で十戒等、主のみことばを授かった(38)。だが、39節にあるように、モーセに従うことを好まず、かえって彼を退け、エジプトに帰ろうとさえ言ったのであった。結局、人は、自分の不信仰のゆえに、正しい神の人に従おうとしないのだ。相応しくないからではなく、器でないからではなく、従わない人々の問題がそこにあるとわかる。やがて彼らは自分たちの都合で、偶像を造っていこうとするのである(40)。私たちにとって都合のいいリーダーは、結局は、何もできない操り人形のような「偶像そのもの」である。主と主が立てた器に従おう!
22日(火)使徒7章41-43節
神が遣わした預言者や指導者に従わない民の姿は、何もキリストの時代だけではなかった。モーセが自分たちの思うタイミングで戻ってこないと、彼らは急に不安になり偶像を求めて行く。なぜ、モーセではなく神がいつもともにおられることを忘れるのだろうか。私たちも目に見える人に依存する。能力のある人、やってくれる人に頼り過ぎてしまうのではないか。時にこうして、人を潰してしまう。さて、41節にあるように、彼らは子牛の像を造り、この偶像にいけにえを献げた。それゆえ、神は背を向けてしまい、彼らがしたいようにさせた(42)。ことばで言っても聞かない者は、実際に偶像に頼った結果を刈り取る方が身をもって学べる。この結果、43節最後にあるように「わたしはあなたがたを、バビロンのかたへ捕らえ」移されて、初めて気づくのだ・・・。我らの道を確かなものにするのは主だけであること。決して忘れてはならない。主だけがあなたを幸せになさる方である!
23日(水)使徒7章44-50節
ステパノのメッセージは続く。彼は聖霊によって、正しく聖書を説き明かし、人々の目を開かせようと語る。まず、モーセは神が命じられた通りに、あかしの幕屋を造った(44)。ユダヤ人たちは、この幕屋を受け継ぎ、ヨシュアの時代にカナンの地までそれを運び入れた。この幕屋にて、この民はいつでも神の臨在を覚えつつ、献げ物をしていた(45)。さらにダビデの時代を通り、ソロモンの時代になると、ソロモンは神のために家(神殿)を建てた(47)。だが、いと高き神は、手で造った家にはお住みにならないのだとステパノは説明している(48)。実はソロモンもそれを認めていたのだが、しばしばユダヤ人たちの中には、理解できない者もいた。旧約の幕屋も神殿も、天にあるものの「写し」や「模型」であることをヘブル書は語っている。つまり、まことの神は、その写しや模型に住むのではないのだ。むしろ、神には「遍在性」という超越的な性質があり、あらゆる場に臨在されるのだ。だから、空間に束縛される存在ではない。こうしてステパノは真実を語っているのだが、神を自分たちの理性の檻に閉じ込めようとする者たちには、理解できないのであった。さて、あなたはどうだろうか?あなたの神は小さすぎはしないだろうか?偉大な神、超越的な神を、小さな力なき存在に変えてはいけない。
24日(木)使徒7章51-53節
51節でステパノは指摘している。最高法院の者たちに向かって、「うなじを固くする、心と耳に割礼を受けていない人たち」と言うのだ。「うなじ」が固いというのは、首を縦に振らないということ。「はい、信じます」と言わない頑固者だ。また、「割礼」とは、神のものとされている証しであったが、特に神は心の割礼こそ大切にすべきだと教えておられる。心においても、耳においても、神の民らしく素直に聞き従う者であって欲しいとの神のみ教えだ。だが、この者たちは違った。指導的立場にありながら、いつでも聖霊に逆らう歩みをしている(51)。そこで、「あなたがたの先祖たちが迫害しなかった預言者が、だれかいたでしょうか」とステパノは大胆に語る(52)。結局、先祖たちの不信仰の姿から、この指導者たちは学んでいない。むしろ、その悪しき習性を継いでしまっている。御使いたちを通して与えられた、主の愛に満ちた律法を、自分たちの自己正当化の道具とし、結果、それを守らなかったのだ(53)。私たちは旧約聖書から、多くの教訓や警告をいただいている。拒む不信仰な歩みではなく、聖霊によって信じて歩む者となろう!そこに主の愛があるのだから!!
25日(金)使徒7章54節
ステパノのメッセージにて、あなたがたは「この正しい方を裏切る者、殺す者」となったと語られ、最高法院の議員たちは怒りに燃えた。54節によれば、はらわたが「煮え返る思い」でステパノに向かって歯ぎしりしている。「はらわた」に関する聖書のことばは、しばしば出て来る。預言者エレミヤは、はらわたが痛むほどに、民の滅びの幻を見て胸を痛めた(エレ4:19)し、主イエスは民への「深いあわれみ」のゆえに、はらわたが痛むような思いで、民をかわいそうに思っておられた(マタ9:36)。また、ダビデは、自分のたましいや、自分のうちにあるすべてのものが、神をほめたたえるよう自身のからだに呼びかけた。 しかし、この時の議員たちは、正しい人への憎しみのゆえに、自分のプライドのゆえに、はらわたが煮え返っていたのだ。私たちはしばしば、怒りや憎しみのゆえに、はらわたが煮え返り、胸をいっぱいにするかも知れない。だが、それは神のみこころから離れていることだ。私たちは、同じようにはらわたに異常を来たすにしても、胸が痛むにしても、正しい良いことのために、人への愛のゆえに、痛む者でありたい。
26日(土)使徒7章55-60節
ステパノはここで、人々の感情任せの石打ちの刑によって殺された。彼の目は天に向けられ、神の右におられる主イエスを見つめていた(55-56)。人々は自分たちのしたことが、神殺しという大罪であると責められたと思い、ますます怒り、彼を町の外に引きずり出して石を投げたのだ。この時、58節でサウロが登場している。石打ち刑の際には、証人たちが最初に石を投げるというルールがあった。それで彼らは、上着をサウロの元に抜いで置いた。おそらくサウロには一定の権限があり、彼がこの死刑を承認し、見届け人であったということだろう。サウロの罪深さが著者によって表現されていると言える。サウロは人々を冷静にさせようともせず、事情を確認せず、感情的な石投げを認めたのだ。だが、それとは対照的に、ステパノは平安に満ちていた・・・それどころか、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」とまで祈りながら、眠りについたのだ(60)。
27(日)使徒8章1-3節
1節に「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」とある。彼が指示したり、命じたわけではないが、彼自身がそれを望んだのであろう。この罪は決してなかったことにはならない。さらに、その日、ステパノ殺害を皮切りに、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こったのだ。人の感情はしばしば連鎖反応となる。悪しき感情の連鎖は、本当に恐ろしい罪の性質の現れである。私たちはむしろ、喜びや感謝の連鎖が起こるようにしていきたい。こうして、人々は諸地方に散らされることになった。2節からは、そんな危機的な折でも、敬虔な信仰者がステパノの死を悼み丁重に葬りをしていることがわかる。そして、3節で、サウロの罪深さはより一層明らかにされている。教会を荒らし、男女関係なく引きずり出し、牢に入れたのだ。これらは記録としては、ほんの数行だ。だが、迫害された者たちにとっては、どんなにか恐ろしかったことだろう。愛する者から引き裂かれ、そのまま獄死した人もいるだろう。しかし、それでも私たちは希望を確かに持てることを忘れてはいけない。なぜなら、ここからかえって福音が世界に広がったのだから。このサウロでさえ、愛に生きるキリスト者へと変えられていくのだから!!
28日(月)使徒8章4-8節
迫害によって人が散らされた時、そのことによってかえって福音が広がった。4節によれば、散らされた人たちはみな、沈黙して離散したのではなく、みことばの福音を伝えながら巡り歩いて行ったからである。6章で選ばれた12使徒とは別のピリポもまた、散らされてサマリアの町に行き、そこでキリストの福音を伝えた(5)。彼は用いられ、また様々な不思議なしるしも起こり、人々は非常に関心を持ったのだ。こうして「その町には、大きな喜びがあった」と8節で語られている。不思議な神のみわざだ。迫害がなければ、行く予定のなかった町々があるはずだ。だが、散らされたことで、様々な地域に福音が伝えられたのだ。痛みを伴う悲しいことはいつでも起こり得るが、主はそれをも用いてくださると知るのだ。
29日(火)使徒8章9-13節
ピリポが福音を伝えて行ったサマリアの町には、シモンという名前の魔術師がいた(9)。彼は「自分は偉大な者だ」と人々に話していた(9)。自分で私は偉大だという者は大抵胡散臭い。とはいえ、彼の魔術に人々はすっかり騙され、「この人こそ、『大能』と呼ばれる、神の力だ」と言っていた(10)。これはよく考えると、「大能」ではなく結構な「大罪」ではないか。自分を神のように見せるという問題だ。彼としては、さぞ気分が良かっただろう。ただ、そんな彼がピリポと出会う。ピリポの語る福音を聞いた人々が、キリストを信じてバプテスマを受け(12)、魔術師シモンも信じてバプテスマを受けたとある(13)。その信仰は本物とは言い難かったのだが。彼は魔術師でありながら、本物の神の力に驚き、魅了されたのだ。ただ、彼は神ご自身を求めたのではなく、その力を求めたのだ。それは、善悪の知識の実を食べ、神のようになりたいと願ったアダムとエバの罪にも似ている。神になりたいのか、神の偉大さを知らせる人になりたいのか。そこには天と地ほどの差がある。
30日(水)使徒8章14-20節
サマリアで多くの人がみことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネが来て、信じた者が聖霊を受けるように祈った(15)。こうして彼らは聖霊を受けたのであった(17)。すると、それを知った魔術師シモンは、使徒たちのところにお金を持って来て、「私にもその権威を下さい」と言ったのだ(18-19)。お金でその権威が買えると考えているところに、シモンの問題が垣間見える。権威は神にあり、神が与えたいと思う者にその力が与えられるのだ。
だから、ペテロは言った。「おまえの金は、おまえとともに滅びるがよい」と(20)。金で神の賜物を購入しようとしているゆえであった。神のくださるものを、そのような価値の低いものにしてはならない。やはりここでも、シモンは神様ご自身やその救いを求めていない。その力を欲し、お金でそれを買えるとさえ考えているのだ。この過ちに気づかない限り、悔い改めない限り、彼は神の恵みを知ることは決してないだろう。神の主権を心から尊び、その権威の下に謙遜でありたい!
31日(木)使徒8章21-25節
魔術師シモンは、お金で聖霊の賜物を買おうとした。だが、ペテロにその動機に問題があることを指摘されている。21節では、聖霊の賜物を受けることができないのは、「おまえの心が神の前に正しくないからだ。」と指摘する。そして、22節では、「だから、この悪事を悔い改めて、主に祈れ。」との助言もしている。もし、シモンが自分の悪事を理解し、真摯にその罪を悔い改め、イエス様に従おうとするならば、赦されるし、聖霊を受けられるだろう。だが、24節を読むと、彼は自分で祈ろうとしていない。ペテロに頼んで、自分の悪事についての神のさばきが自分の身に起こらないよう、祈ってくれと頼んでいる。なぜ、素直に言われた通りに祈らないのだろうか。そこにこそ、シモンがイエス様を信頼しようとしていない証拠が見えてしまう。ペテロに頼むのではなく、主イエスに頼むべきなのだ。ペテロやヨハネが癒すのではないし、彼らが聖霊を付与できるのではない。祈りに聞かれる主のみわざである。頑なな心をやめて、言われたままに、素直に悔い改めよう。また、祈ろう、求めよう。
引用元聖書
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