東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【7月】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/06/30

毎日の聖書【7月】

1日(火)使徒4章15-22節
 ユダヤ人の指導者たちは、ペテロとヨハネによる癒しと宣教を見て脅威を感じ、対応策を話し合った(15-16)。そして、今後、イエスの名によって誰にも語ってはならないと脅迫したのだ(17-18)。私たちならば、この手の脅迫に安易に屈してしまうだろう。人は弱い・・・。だが、それに対して、ペテロとヨハネはどのように応じたのだろうか?
 19-20節「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」神の御前に何が正しいかは明白だ。ペテロとヨハネは、「話したい」ではなく、「話させて欲しい」でもなく、「話さないわけにはいかない」と言ったのだ。ある宣教師は言った。「主イエスのこと、聖書のことを一切話さなくなる時、それは私の死ぬ時である」と。少なくとも彼らはそのように生きたのだろう。だが、そこには神の守りもある。21節にあるように、彼らは再度脅すことはできたが、罰することはできなかった。多くの人がみわざのゆえに、神をあがめていたからである(21)。

2日(水)使徒4章23-24節
 脅迫されつつも、釈放されたペテロとヨハネは、仲間のところに行って、事の次第のすべてを残らず報告している(23)。この交わりはすばらしい。私たちはしばしば語らない。共有しない。報告をほとんどしない。それは、祈りを生まないことである。わからないことは祈りにくい、祈りようもない。しかし、この出来事の共有、困難な状況の共有は祈りを生んだのだ。24節で、これを聞いた人々が「心を一つにして、神に向かって声をあげた」とある。すべてを造り、すべてを治める神に、彼らは心を一つにして祈り始めた。みことばを思いめぐらしながら、神のみこころを求めて。日本人の美徳は配慮と遠慮であろうけれど、しばしば行き過ぎる。それゆえ、内緒にし過ぎて祈りの輪が広がらない。ともすると、神の助けを得る機会を減らしてしまわないだろうか?一人で祈ることも確かにできる。だが、二人でも三人でもイエスの名によって・・・とあるように、「ともに祈る」恵みが教えられていることを忘れないようにしよう。


引用元聖書
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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