1.働きを主とともに振り返る
私たちが主の前に静まり、たましいのケアを受けるために必要な事が語られています。ここでは、弟子たちが、それぞれの働きを振り返り、イエス様に報告しています。
30節 さて、使徒たちはイエスのもとに集まり、自分たちがしたこと、教えたことを、残らずイエスに報告した。
彼らは少し前の6章7節で、イエス様から二人ずつで派遣されていました。そして、12-13節では彼らがどのような働きをしてきたのかも分かります。それによると彼らは、人々が自分の罪を悔い改めて、神に立ち返るように宣教しました。また、悪霊を追い出し、病人を癒しました。とても大変な尊い働きをし、本当に多くの人と接してきたことでしょう。こうして使徒たちは、働きを終え、主イエス様のもとに戻って来ました。そこで彼らは、働きの一部始終をイエス様に報告したのです。ここで大事なことが二つあります。
(1)一つは、主イエス様とともに働きを振り返ることです。
ここでは使徒たちは「イエスのもとに集まり」とあります。いつでもイエス様のもとに戻って来ることです。絶えず、イエス様に報告し、イエス様とともに振り返るのです。決して一人ぼっちで振り返るのではありません。イエス様と語らいながら、一緒に思い返すのです。イエス様に話し、福音の光に照らされながら回顧していきます。皆さんも、先週一週間をイエス様とともに振り返りませんか。どのような一週間だったでしょうか。どのような恵みが、どのような苦労があったでしょうか。振り返って恵みを数え感謝したいのです。また、傷ついたことや、嫌だったこともあるでしょう。それらを主に打ち明け、主がどのように手当してくださるのか、心を主に向ける時を定期的に持ちたいのです。
イエス様のカウンセリングです。それが祈りとみことばの時間(静かな夜、早い朝など)。イエス様は使徒たちと一緒に働きを振り返り、使徒たちが本当に一生懸命頑張ってきたこと。そしてそれゆえに疲労し、食事さえも十分に取れていないことを聞きました。ですから、31節で、さあ、「静かなところに行き、休みなさい」と示されたのです。
(2)もう一つ大事なことは、残らず報告したとある点です。
30節を味わうと分かりますように、彼らは「自分たちがしたこと」「教えたこと」について、残らずイエス様に報告をしたのです。どのようなことをしたのか。何を教えたのか。「残らず」ですから、出来事だけではないでしょう。当然に人々の反応についても分かち合ったでしょう。素直に受け入れた人。癒されて喜ぶ人。感謝のことばを言ってくれた人。一方で反対を受けたこと。拒まれたこと。非難され、ののしられたこと。それについて、自分たちがどう感じたのかも伝えたのではないでしょうか。イエス様は知っておられるから、何も言うまいではありません。キャンプ中、ある子が初めてイエス様を信じたと私に報告してくれました。「おめでとう!」と握手をし、一緒に喜びました。誰かに言われてではなく、自分から私に言ってくれたことがとても嬉しかったです。自分のことばで、心の思いもすべて伝えることを主は喜ばれるのです。それは、自分だけで重荷を背負わないためにも大切な道です。燃え尽きない道です。そうすることで、主と私の人生、主と私の共同の働きにすることになるからです。
私たちはしばしば、自分で責任を負い過ぎるので、疲れてしまうからです。0歳だった長男が川崎病になった時、妻は自分を責めてしまいました。もっと私が衛生面に気をつけていればと。でも、どんなに気をつけてもなるものはなります。神様の許しなしに起こることは一つもないのです。主のご計画があるのです。
神様によって召された者ためには、神様はすべてを働かせ益としてくださると、ローマ8章にありますよね。つまり、すべての責任は主が取ってくださるのです。だから、一人で抱えず、神様に祈り共有し、神様と私たちの共同の働き・共なる歩みにするのです。最終的な責任は、天においても地においても主権を持っておられるイエス様にあるのです。だからこそ、私たちは主に信頼して、大胆に働きを続けることができますよね。失敗さえ、益になさる主がいるのですから、何と心強いことでしょう。先週ご奉仕したキャンプの二日目に、千葉県最大のプール、海のすぐそばの「蓮沼ウォータガーデン」に行くプログラムがありました。朝早くから準備をし、天気もいいし、子どもたちはやる気満々!ところが、そこに向かう高速道路で、連絡が入りました。津波の警報で今日は休園。場所取りのために、朝6時には現地に着いて3時間待っていた先発チームもいました。それなのに・・・ガッカリですよね。晴れていましたが、雨天時のプログラムに変更になりました。最大の山場を失って子どもたちは不幸でしょうか。この日に設定したスタッフが悪いのでしょうか。主のなさることは不思議です。その日の夜の集会、一日ウォータガーデンで過ごしたら、子どもたちの半分は寝るだろうと予想していたのですが・・・子どもたちが思いのほか元気でとてもよく聞いてくれました。メッセージが心に残ったことが、その後の分かち合いから伝わりました。その上、変更になったプログラムもとても楽しかったようで、絵日記にそれらを書いている子が多くいました。こうして主とともに、働きを振り返る時、別の景色が見え始めます。神様と私の共同の働きとされるので、そこには主による不思議な驚きと感動が見え始めるのです。私たちの心は慰められるどころか、大いに励ましをいただくのです。
2.主とともに静まる
こうして、主イエス様に弟子たちが報告した時、イエス様はふさわしいことばをくださいました。
31節 するとイエスは彼らに言われた。「さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。」出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。
ここでは「行って」と「休みなさい」が命令形です。まず「寂しいところに行きなさい」、そして「休みなさい」と命じられたのです。使徒たちは、多くの人の相手を一気にするようになりました。まともに食事すらできないほどの多忙さです。それでイエス様は彼らに相応しい休息を指示されたのです。
どんなに良い働きであっても、働き自体が神様との交わりを妨げてしまっては本末転倒です。働きに没頭し、なすことに追われるだけで、主の臨在がそこに感じられないなら、やがて働き自体も枯渇していきます。私たちは、定期的に主のもとに静まる必要があります。他の人のたましいのケアをするためには、自身のたましいのケアを欠かしてはならないのですよね。
では、相応しい休息とは何でしょうか。
働きをやめて遊び回ることでしょうか。神様からも離れて過ごすことでしょうか。
確かにイエス様は「あなたがただけで寂しいところに行きなさい」と言われました。ただこの「あなたがただけで」の意味は、イエス様抜きでという意味では決してありません。それは、このすぐ後の文脈から明らかで、イエス様も一緒に行動しています。ですから、あくまで「助けを求めて来る群集から離れて」という意味です。「こうして欲しい」「ああして欲しい」と求めて来る者たちに与え続ける働きから、わずかな時間でも離れなさい。そして、あなた自身が主のケアを受けなさいということです。それは何の妨げもなく、神様と親しく語り合う時です。そのために、人気のない寂しいところへ行かせようとされたのです。そして、絶えず動いているあなたの手を止め、「わたしを思いなさい」と言うのです。ただ「わたしのもとで休みなさい。わたしのもとに静まりなさい」と。
私たちには、教会で、あるいは教会外で様々な働きがあります。それは皆さんが社会でも、教会でも用いられている証拠です。尊いことです。嬉しいことです。しかし一方で、そこには「危険な忙しさ」も潜んでいます。忙しく心を与え続け、心を失ってはならないのです。忙しすぎると、免疫はもちろん、思考能力も落ちますよね。すると、罠にかかりやすくなります。サタンの罠です。ですから、主にある回復が必要です。与えるためにも、受けることが必要です。与えたいなら、絶えず主から受けてください。愛したいなら主の愛にもっと安らいでください。
枯れることのない主の「いのちの泉」に絶えず飲みに来ましょう。そして、「主よ、お語り下さい。しもべは聞いております」といのちのことばを求めて祈るのです。他のことは脇において、静まり、神様からのたましいのケアをいただこうではありませんか。