*** 3/31(日)主日礼拝 説教概略 ***
民数記11章18-23「主の手が短いというのか」
以前知人の教会を訪れた時に「あきらめません」という賛美曲を初めて聞きました。その教会では一つの大きな試練があって、祈りの中にありました。しかし、心を込めて、中には涙ぐむようにしながら「イエス様、私はあきらめません。どんなに涙がこぼれてきても」と歌っておられる姿に、とても励まされたのを覚えています。
一度崩されるのは、再び建て直すためでもあると教えられます。
「主を恐れることは知識の初めである」と箴言にあります。
私たちは新型コロナウイルスの影響で、一時期教会堂に集まれないという経験をしました。初めての事でした。そうなって初めて、ともに集まって礼拝することが「当たり前ではない」ということに気づき、集まること交わることへの飢え渇きが起こったように思うのです。
人間には失って初めて、ようやく気づける・・・そういう弱さがいつもあるように思います。「まさか失われることはないだろう」と、タカをくくっている部分があるのですよね。
そして、当たり前にそこにあるという感覚が、次第に与えられていることへの感謝・ありがたみを分からなくさせてしまうことがあります。
*** 2/9(水)祈祷会 説教概略 ***
自分は何者なのか?この世界に必要な存在なのか?
悩む子は多いのではないでしょうか。
自殺願望、消えたい・・・。
コロナ下でそういう子も増えているかも知れません。
人がどれほど尊い存在として神様に造られ、愛されているのか。聖書から自分が何者なのかをぜひ子どもたちに知って欲しいと願います。
人を育てる時、忍耐して待つことは本当に大変だと思います。代わりにやってあげた方が早いですし、さっさと答えを出してあげた方が楽なのです。ただ、その人自身の人格の成長のためには、人が代わりにやってあげたり、代わりに答えを出してあげたりしてはあまり益になりません。
神様も私たちに対して、忍耐深く語りかけ、待っていてくださいます。