東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス書9章1-4節「いのちの道を選ぼう」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/02/25

アモス書9章1-4節「いのちの道を選ぼう」

*** 2/23(水)祈祷会 説教概略***
アモス書9章1-4節「いのちの道を選ぼう」

1節 私は、祭壇の傍らに主が立っておられるのを見た。すると、主は言われた。「柱頭を打ちたたき、敷居が震えるようにせよ。すべての者の頭を打ち砕け。彼らのうち、生き残った者をわたしは剣で殺す。彼らのうち逃()げられる者はなく、彼らのうち逃(のが)れられる者もない。

ここでは最後の幻、第五の幻が示されています。今度は祭壇の傍らに主が立っておられ、そこからさばきを下すという幻でした。この祭壇は偶像礼拝がささげられていた祭壇であると思われます。

そこで主は言われました。「柱頭を打ちたたき、敷居が震えるようにせよ」と。通常、地震が起こった時は地面から揺れて、それが柱に伝わり、破壊されていくという順序になることでしょう。しかし、この表現は、柱の頭を主が打ち叩かれ、そこから敷居や床へと振動が伝わって崩壊していくと理解できます。上から下へと力が流れています。つまりそれは、神様が上からの力で破壊なさることを示しているのです。

 そのように崩壊していく中で、生き残る者があっても、なお、主は剣で生き残りの者を殺すと語られていますので、そのさばきが徹底的なものであることが分かります。

2節からは、神様のさばきからはどこに行こうとも逃れようがないこと、それほど神様の臨在はあらゆるところにあることを示します。2-4節前半まで。

2節 たとえ、よみに入り込んだとしても、わたしの手が、彼らをそこから引きずり出す。たとえ、天に上ったとしても、わたしが彼らをそこから引きずり降ろす。

3節 たとえ、カルメルの頂に身を隠したとしても、わたしが彼らをそこから捜し出して捕まえる。たとえ、わたしの目を避けて海の底に身を隠したとしても、わたしが蛇に命じて彼らをそこでかませる。

4節前半 たとえ、敵の捕虜となって行ったとしても、わたしが剣に命じてそこで彼らを殺させる。

 「たとえ~しても」という文章が2-4節まで繰り返されています。「よみ」とは死と滅びの世界、しかし神様の御手はそこにも及ぶ。よみに隠れても意味がないのです。

 反対に天に上ろうがそこにも主の御手が届き、そこから引きずり降ろされるのです。

 3節のカルメル山は、エリヤがバアルの預言者と戦った場所です。カルメル山のような高い場所に隠れても、主の前には意味がありません。あるいは海の底のような低いところに隠れようとも、蛇に命じてかませるとあります。この蛇はウミヘビと言った可愛いものではなく、レビアタンと言われる海の巨獣のようなものを指すのではないかと思われます。

 そしてまた、4節では敵の捕虜になろうとも、神様が剣に命じて命をも奪うとあります。つまり、どこに逃げようと、どこに隠れようと、神様から逃げおおせることは不可能だと言うことです。ここにある神様のご性質は、神様の全知全能の力を現わし、特に「偏在性」と呼ばれるものです。

神様はあらゆるところに同時に存在し、そこに力を及ぼすことができる方。主の手は長いのです。この性質については、詩篇139篇が有名ですね。8-10節を読んでみます。

139:8 たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。
139:9 私が暁の翼を駆って海の果てに住んでも
139:10 そこでもあなたの御手が私を導きあなたの右の手が私を捕らえます。

 今日のか所と少し似ています。ただし、この詩篇139篇は神様との良い交わりのうちに、私たちがどこに行こうとも、主がそこにもおられ、守り支えてくださることがテーマです。とても良い意味で神様の偏在性が語られているのです。

 ところが、本日開いているアモス書では、主を敵に回した場合の話になっています。その場合、主がどこにでも同時におられるという遍在性は、非常に恐ろしい性質に変わってしまいます。どこにも逃げられないという意味ですから。

 私たちは、神様がいつでもどこでも、どんな時でもともにおられるということを、恵みとして、喜びとして受け止めたいのです。しかし、神様に背き、敵対し、悔い改める心を失ったまま歩めば、せっかくのすばらしいご性質が人にとって恐ろしいものに変わるということをも真剣に受け止めたいのです。

是非、神様の圧倒的な力がいつでも私たちを守り支えてくださるものとして歩みたいですね。4節後半のことばが、まさにそれを示していますよね。

わたしは彼らの上に目を注ぐ。それは、わざわいのためであって、幸いのためではない。」

 神様が私たちの上に目を注いでくださるというのは、本当にとても幸せなことであるはずです。見守ってくださり、助けを与えてくださるのですから。詩篇3318節をお開きください。そこにこのようにあります。

33:18  見よ 主の目は主を恐れる者に注がれる。主の恵みを待ち望む者に。

 主なる神様を恐れる者、またそれは言い換えると、主の恵みを待ち望む者でもあります。そのような者にこそ、主の目は注がれるのだと。ここでは主の目が注がれることは、主の恵みと祝福を豊かに受けることを意味します。

 ところが、今日のみことばでは、「わざわいのためであって、幸いのためではない」と断言されているのです。ですから、神様が味方であるならば、良いことのはずのものが、主に敵対したことでその分恐ろしいものになってしまう現実を教えてくれています。人はこの二つの道から選ぶことができるのです。

 日曜夜の大河ドラマでは「鎌倉殿の13人」というタイトルで、源頼朝を主役として源平の戦いを描いています。先日の放送では、頼朝率いる源氏の軍に、上総介広常(かずさのすけ ひろつね)という人が仲間に加わる話がありました。この上総介(かずさのすけ)の軍隊は2万もの兵力があり、彼が味方についた方が勝つと言えれていました。という事は裏を返せば、彼が敵に回れば源氏軍は勝ち目がないという話であります。

 神様の軍団は、これよりはるかに多く、そして強く圧倒的です。敵に回しては核兵器も何ら意味を持ちません。神様だけは敵に回してはいけないのです。神様を敵に回すということは「悪魔の側につく」ということであり、悪魔が滅びることは聖書に明言されていますから、言わば台本でもう決まっているようなものです。

 しかし、この時代のイスラエルの人々は結論が決まっているにも関わらず、負ける側に自ら転じてしまったのです。本当に愚かなことです。私たちは自分自身の細かな未来のことは分からないのですが、実は大きな結末は聖書から知ることができるのです。それは神様が完全勝利をなさり、悪も罪もことごとく滅ぼされるということです。

 味方に向かって注がれる愛に満ちた主の目と、敵に向かって注がれる怒りに満ちた主の目。どちらを望むべきなのか。答えは明白です。申命記30:19-20

30:19 私は今日、あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

30:20 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためである。まことにこの方こそあなたのいのちであり、あなたの日々は長く続く。あなたは、主があなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われたその土地の上に住むことになる。

 いのちと死、祝福とのろい。これらが私たちの歩む道にあります。

 みことばは「いのちを選べ」とはっきりと教えてくれています。それは難しいことではありません。イエス様を信じて、主の御声に聞いて歩むことです。シンプルです。

主を愛し、主の声に聞き従うその道は、幸せへの道です。神様の敵になる道ではなく、神様の愛のうちにあるいのちの道を歩んで行きましょう。毎日の歩みの中で、私たちは選択を繰り返していますね。先日、人は1日に多い時には35千回近く選択をしているとお話しました。私たちは、いのちの道につながる選択を大事にしていきましょう。 




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