東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/04/17

ローマ書6章6-14節「自分を献げ、キリストが輝く」

*** 4/17(水)祈祷会 説教概略 *** 

 先日、娘からこんな質問を受けました。「初めての人や少し苦手なタイプの人とお話をする時に、どうしても緊張してしまう。どうしたら緊張しないで自然に話せるだろうか」というものでした。

2024/04/10

ローマ書6章1-5節「キリストにつくバプテスマ」

*** 4/10(水)祈祷会 説教概略 *** 

 十字架の死と復活を覚える時、そこにはキリストが私たちの代わりに死なれたという「代理贖罪」があります。私たちの代わりに罪のさばきを受け、そして私たちの「初穂」として、私たちを代表してよみがえられました。これは私たちの救いにとって最も重要なことです。しかし、十字架を覚える時、私たちはもう一つの大切な側面も心に刻む必要があります。

2024/04/03

ローマ書5章12-21節「恵みの力」

*** 4/3(水)祈祷会 説教概略 ***

 イースター礼拝では、死の力を打ち破るキリストの復活にある恵みを知る機会となりました。それは、信じる者に与えられる神の「恵みの力」です。かつては死に属していた者たちが、永遠の命をいただき、恵みに生きる者とされました。アダムから罪と死の力が世界に広がってしまいましたが、今私たちは、キリストの贖いによって、いのちの恵みを世界に広めていく者とされました


2024/03/27

ローマ書5章6-11節「キリストによる神との和解」

*** 3/27(水)祈祷会 説教概略 ***

 今週は受難週です。今週の金曜日が暦の上でイエス様が十字架に架かられた日として理解し、夜に受難日礼拝を持つ教会もありますね。私たちは先日の日曜礼拝と、この水曜の祈祷会において、主の十字架をともに見上げます。順番にローマ書を講解していますので、別の個所からとも考えました。ただ、内容的にイエス様の受難を覚えるのにふさわしい箇所であることを示されたので、そのままローマ書から語らせていただこうと思います。


2024/03/15

ローマ書5章1-5節「苦難さえも喜ぶ信仰」

*** 3/13(水)祈祷会 説教概略 ***

 神様との平和を土台として持つ人はなんと強いことでしょうか。神様への信頼があるので、苦難の中にさえも、神様のご計画を発見できます。苦難を通して、主が私たちを育ててくださり、練り上げ、希望へと至らせることを知っているからです。これは本当に幸せなことではないでしょうか。苦難さえも喜べるのはなぜか。みことばから教えられましょう。


2024/03/07

ローマ書4章18-25節「望みえない時こその信仰」

*** 3/6(水)祈祷会 説教概略 ***

 「きっと大丈夫だろう」とか、「そこそこの確率でこうなるだろう」と思えるものを信じるのに、あまり信仰はいらないかも知れません。それは「確率論」と言った方がいいでしょう。でも、信仰は、確率がどうであろうと関係ありません。たとえ、人の目には0%だと思えるような時でさえ、神様が「そうする」と言われたものはそうなるからです。
 アブラハムの信仰は、望みえない時こその信仰でした。パウロは、その信仰について説き明かしています。


2024/03/01

ローマ書4章13-17節「信じること(信仰)の勧め」

*** 2/28(水)祈祷会 説教概略 ***

 若い頃、私は聖書の内容を分かりやすく伝えさえすれば、使命を果たしていると思っていた節があります。しかし、聖書の物語や戒め、教えをどれだけ伝えても、神様を信じましょう!イエス様を心にお迎えしましょう!と勧めなければ、十分に福音を伝えたとは言えないと、改めて示された時がありました。信じることを積極的に勧めることは、勇気がいることで躊躇しがちです。しかし、背中を押してくれる存在が、実はとても大切なのです。「信じることを勧める」ということ。みことばから教えられましょう。


2024/02/24

ローマ書4章9-12節「信仰の父、割礼の父」

*** 2/21(水)祈祷会 説教概略 ***

 クリスチャンになりたての頃、信仰生活というものがよくわかっていなくて、先輩クリスチャンたちを「見よう見まね」でマネしていた自分がいます。やさしい雰囲気を出してみようとか、「アーメン」の言い方をまねてみたり(笑)。でも、それはとても外面的で、本質にならっていないことに気づくわけです。


2024/02/16

ローマ書4章1-8節「主に信頼して、ゆだねる」

*** 2/24(水)祈祷会 説教概略 ***

 「主に信頼して、ゆだねる」・・・おそらく幾度も耳にしてきたことばでしょう。けれど、信仰によって義とされ始まった信仰生活なのに、気が付くと信頼できておらず、ゆだねていない自分を発見する。そんな信仰生活だと言う方が少なくないのではないでしょうか。

2024/02/07

ローマ書3章27-31節「誇りは取り除かれた」

*** 2/7(水)祈祷会 説教概略 ***

 日本の茶室には「にじり口」と呼ばれる狭い入り口があります。千利休が、聖書の「狭い門から入れ」との教えからインスピレーションを得た可能性も指摘されます。戦国時代、その入り口は狭いために、鎧や刀を置いて無防備なままで入る必要がありました。茶室はある種の聖なる空間と考えられ、地位も名誉もプライドも脇において、ただ相手と親しく茶を飲みかわす空間でした。私たちの信仰生活はまさにそうで、人間的な物を持ち込まないために、ただ神様の恵みによって、行いによらず価なしに救われるのです。それは、自分を誇る生き方から、神を誇り、神を賛美する人生へと変えられていくためです。


2024/01/31

ローマ書3章21-26節「信仰義認、その土台にある神の犠牲と忍耐」

*** 1/31(水)祈祷会 説教概略 ***

 「ただほど怖いものはない」と言われます。それは、この世の中で、見返りなしに与えられるものがほぼないからです。しかし、神様は公平で恵み深く、愛なる方です。ですから、人の行いや財産によって差がつく救いではなく、すべての人が等しく救われる、信仰による義というものを備えられたのです。生まれた環境や地位によらず、能力によらず、ただ信じるのみです。ゆえに、すべての人のための福音であると、私たちは胸を張ることが出来ます。価なしに義とされる救いの恵みを、みことばから教えられて参りましょう。


2024/01/18

ローマ書3章10-20節「赦された罪人としての交わり」

*** 1/17(水)祈祷会 説教概略 ***

 今日のテーマは赦された罪人としての交わり」ということです。ちょうど、昨日のママsカフェでも、子どもたちが自分の過ちを認められるように育てていくというテーマでありました。そこで大切なことは、罪を認めること。そして、自分たちが罪人であることを、率直に言い現わせる交わりを築くことです。



2024/01/11

ローマ書3章1-9節「すべての人が罪の下(もと)に」

*** 1/10(水)祈祷会 説教概略 ***

 ここは普通に読んでいると、とても混乱しやすい難解な箇所に思えます。なぜなら、パウロが主張しているのか、それとも、他の人々が「パウロはこう主張しているのだ!」と、非難していることなのかが分かりにくいからです。

 ですので、まずパウロが言おうとしている結論を抑えましょう。それは9節にあります。

9節 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。 

2023/11/29

ローマ書2章25-29節「文字ではなく御霊による」

 *** 11/29(水)祈祷会 説教概略 ***

 「下剋上球児」という高校野球の監督を主人公としたドラマがあります。主人公は実は無免許で高校教師をしており、彼はそのことを心から悔いて教員をやめ、警察に出頭します。周囲の人々は彼を厳しく非難しました。他の先生たちも同様です。ただ、生徒たちは彼をとても慕っていました。


2023/09/14

ローマ書2章17~24節「自分自身を教えること」

*** 9/13(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書21724節「自分自身を教えること」

 今日学ぶべき大切な真理は「自分自身を教えること」です。他人を教えることに夢中になっていて、自分自身に教えていないという問題が起こります。しかし、本来は、人に教える立場の者こそ、誰よりもみことばから「教えられやすい器」であることが求められています。神様に喜ばれる人は、自分にみことばを聞かせる人です。

 

2023/09/08

ローマ書2章12~16節「神の前に正しく生きる」

*** 9/6(水)祈祷会 説教概略 ***

「ナルニア国物語」の原作者、CS・ルイスは、人の心に与えられている「良心」こそ、私たちが神様に造られた大きな証拠だと言いました。聖書を学んでいなくても善悪を判断する心が人にはありますまた、悪いことをすれば心が痛むので、それが悪いことなのだと分かりますよね。法律や道徳を勉強したから身についたのではなく、生まれながらに人には「良心」というものがあるのではないでしょうか。これこそ人が神に造られた証拠でしょう。

2023/08/24

ローマ書2章6~11節「神の公正なさばき」

*** 8/23(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書2611節「神の公正なさばき」


ここでは「交差並行法(キアスムス)という構造が用いられています。
「並行法」というのは、詩篇等でよく用いられており、同じ内容をおもに二行に分けて表現する方法です。例えば、アモス書1:2では「①主はシオンからほえ、②エルサレムから声をあげられる」と二行に分けて語られています。①一行目も②二行目も「同じ内容」ですが、「異なることば」で表現することで、意味の厚みや豊かさをもたらしています。」

2023/08/10

ローマ書2章1~5節「さばくのではなく・・・」

 *** 8/9(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書215節「さばくのではなく・・・」

 先日の礼拝説教でも少しお話しましたが、私たちは他人の問題を見つけ、さばいてしまうことは電光石火のごとく早いように思われます。しかし、今日のみことばを味わうなら、それはまず自分自身に向けられるべき視線であることを教えられます。

1節 ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。
2節 そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。
3節 そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。

 他の人がしている罪深い行い。不従順、不信仰の姿。それらに対して、私たちはとても敏感に、さばく思いを持って見つめてしまいます。2節と3節にある「そのようなことを行う者たち」とは、直前の28節以下に登場した様々な罪を行う者たちでしょう。

 彼らに「真理に基づいた神のさばき」が下ることを私たちはよく知っているとパウロは言います。しかし、他人の罪の問題にはよく気づき、そこに神のさばきがあると知っているのに、自分の姿については、どうしても見えにくい、気づきにくいのだということです。

 特に、「選ばれた民」という意識を持つユダヤ人たちは、異邦人に対して上から目線で厳しくさばきつつ、実は自分たちも同じ罪の性質を持っていることを棚に上げてしまっていました。しかし、みことばは、1節にあるように「すべて他人をさばく者よ」と語ります。

 それは、ユダヤ人に限らず、これを読むあらゆる者に向けられた主のメッセージだと受け止めましょう。これはいつの時代でも起こることです。

 旧約のわかりやすい例は、ダビデと預言ナタンのやり取りでしょうか。第二サムエル記12をお開きください。預言者ナタンはダビデにあるお話をします。貧しい家にて家族同然に過ごしていた「たった一匹の子羊」を、多くの家畜を持つ富豪が、自分の家畜を惜しんで奪ってしまったという話でした。それを聞いたダビデの反応が5節から語られています。 

5節 ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。
6節 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」 

 義にもとる行為だ!!神の前に罪深いことだ!!ダビデは激しく正義の怒りを燃やし、この富豪をさばきました。

 しかし、7節でナタンはこう言います。「あなたがその男です」と。これはダビデに、自分の姿を客観的に教えるための話でした。

 私たちもまた「あなたがその人です」とみことばから語られる必要があります。

 このみことばをあの人に聞かせてあげたいと、他人にみことばを適用する習性はないでしょうか。気持ちはわかりますが、まず自身が主のみことばの前にまっすぐに立つことが大切ですよね。

 イエス様も山上の説教の中で明確にこう言われました。マタイ7:1-2 
7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。

 今日のローマ書の2:1でも、他人をさばくことは、自分自身にさばきをくだすことだと教えられています。私たちに必要なことは、さばくことではなく、自分自身を振り返り、悔い改めながら生きていくことです。

 また、他の人が罪を犯しているのなら、その人のために自分自身のこのように祈るべきでしょう。そして、御霊の助けのうちに、柔和な心で正すようにと、ガラテヤ書では教えられていますよね。柔和な心とは、自分を他の人の上に置かない姿勢です。むしろ、へりくだって自分を弱くし、小さくし、その人の立場や目線に立ってということです。

 誰かが罪に陥った時に、自分にも同じ弱さがある、自分も同じ罪人なのだという「徹底したへりくだり」の中で関わる必要があります。それがあって、初めて柔和な心で他の人を良い道に連れ戻せるのです。

 私もこの点で至らなかったことがあり、悔い改めさせられたことがあります。先日のキャンプにおいて、十字架につけられたイエス様とその両隣にはりつけにされた二人の囚人の話をしました。それを聞いたあるスタッフが分かちあってくれました。自分はこれまで一人目の囚人が、イエス様をののしって、お前が本当にキリストなら、自分と俺たちを救え!と言う姿を見て、ひどいやつだとさばいてきた。でも、今回、自分の中にも似たものがあることに気づいた。自分たちは、どこかで救われるのが当然のこのように思っているんじゃないか。愛の神なら人を救って当然かのように考えている。しかし、むしろ、救われてはいけないほどの罪人であることが事実なのだと。本当は、もう一人の囚人が言ったように、自分たちは、その報いとして、むしろ十字架にはりつけにされることが当然の側なのだと気づかされたと言います。

 実際のその場面のみことばを開きましょう。ルカ2341-42節 

23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」 

本当にその通りです。私たちは、自分の犯し続けている罪を考えたら、十字架にはりつけにされることの方が「当たり前」なのです。だから、「自分と私たちを救え」と主に命じるなんてとんでもない。まして、他の人をさばく立場にはないのです。

ですから、この囚人は「救ってください」とさえ言わなかった。救われるのに相応しくないとわかっていたから。ただ、このような取るに足りない者ですが、私を思い出してくださいと。それで十分だという謙虚さ、彼なりの信仰でした。

彼に対して主がなんと言われたのでしょうか。

23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 さばく心ではなく、砕かれ悔いた心を主が喜ばれることがよくわかります。

 ですから、さばくことができる側の人間ではないのだという自覚が必要です。他人をさばいていながら、自分がその報いを受けていないとしたら、それは主のいつくしみ深さのゆえ、忍耐と寛容のゆえです。私たちは主のこうしたあわれみと寛容さに、心から感謝をしたい。滅びないで済んだことは、ただ主のあわれみ以外の何物でもないと受け止めたいのです。4-5節をご覧ください。 

4節 それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。
5節 あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。

 他人をさばいてばかりいて、自分が真摯に悔い改めないなら、それは神の審判の日に向かって、自分への神の怒りを蓄えていることなのだと語られます。神様のいくつしみ深さ、忍耐、寛容をあなたがたは軽んじているのではないかと語られています。

実は「神の怒り」が私たちを心からの悔い改めに導くのではありません。怒りは確かに私たちに恐れを与え、私たちを砕くかも知れません。でも、そこから主のふところに大胆に飛び込めるようにされるのは、主のいつくしみがあるからです。主が怒るに遅く、あわれみ深く、いくつみと忍耐、寛容さに満ちているからです。

どんな罪を犯そうとも、一日に千回ひどい罪を犯そうとも、なお赦すことができる忍耐と寛容をお持ちだからです。愛のお方だからです。

だから、私たちは悔い改め、悪の道から方向転換し、主のもとに飛び込めるのです。そうであるなら、他の人を主の道に立ち返らせることは、「さばく」ことではなく、その人を愛することでしょう。

その人の姿を見て自身の罪に涙し、一緒に悔い改めていくことでしょう。

 神様の豊かないつくしみ、忍耐と寛容を心より感謝します。


2023/08/02

ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」

*** 8/2(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」

26  こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、27  同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。 

 ここでは、神様によってデザインされた本来の良い関係を不自然なものに替えてしまったことが語られています。特にここでは「同性愛の肉体関係」の問題を語っています。これは実に、当時のローマ社会で、蔓延していた問題でした。

2023/07/20

ローマ書1章22~25節「造り主のみをほめたたえる」

*** 7/19(水)祈祷会 説教概略 ***

ローマ書1章22~25節「造り主のみをほめたたえる」

 ある方が、どうしてプロテスタントの教会では、「イエス様の肖像画や像に向かってお祈りをしないのか」と疑問に持っておられました。イエス様の絵に向かってお祈りすると心が落ち着くのだと。もちろん、私も礼拝堂の十字架を前にしてひざまずいて祈ることもありますし、絵を見て祈ってはいけないということはないでしょう。

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