*** 1/15(水)祈祷会 説教概略 ***
信仰生活の実践編が12章から始まったわけですが、その中核をなすものがやはり「愛」です。それでパウロは、この9節以降で互いに愛し合うこと、互いに尊敬し合うことを教えています。特に互いの存在を尊敬し合うこと、案外難しいものです。例えば、クリスチャン同士の交わりにおいても、尊敬することが難しい相手が思い浮かぶことがあるのではないでしょうか。しかし、愛に偽りがあってはいけませんと教えられています。十字架の愛を見上げながら、御霊の助けのうちに愛と尊敬をもって歩みましょう。
9節 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。
「愛」ということばには「アガペー」という無償の愛を示すことばが使われています。その愛には偽りがあってはいけません。演技や偽善ではなく「真実な愛」に立つことです。それは、14節や17節以降で語られている悪を行って来る者、敵対する者に対しても、祝福を返していく愛です。苦しめられているのに、なお愛する愛です。
ただし、悪に対してはしっかりと線を引いて離れることが教えられていますね。真実な愛は悪しきことには近づきません。それどころか、神様が「善」と見ておられることを愛し、熱心に求めていきたいのです。このような愛に堅く立ち、善から離れない歩みこそ、主が喜ばれる道です。この愛に土台を置いた上で、10節から13節までは、信者同士の兄弟愛を特に教えています。本日はこの兄弟愛を中心に、ご一緒に教えられて参りましょう。
10節 兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。
10節では、9節の愛とは異なる「フィラデルフィア」ということばを使っています。それは「兄弟愛」と訳されていますが、「友情」「友愛」を示すものです。尊敬し合う仲間の愛とも言えるかも知れません。キリスト者同士が、神の家族、兄弟姉妹としての真実な愛をもって手を取り合い、尊敬し合って行く交わりを教えています。
自分を高いところに置いて見下し、他の人をさばくのではなく、「互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う」のです。これはピリピ2章3節のことばと似ています。
「何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。」
このピリピ人への手紙では、神の栄光を脱ぎ捨てて十字架にまで従われたイエス様に目を向け、その姿に倣うようにと教えていますよね。相手が尊敬できる立派な人だから尊敬するのではないのです。自分を低くして相手をすぐれた者と見る。こうして尊敬し合う交わりを築くのが、神様のみこころです。相手をイエス様だと思って接する姿勢を意識できたらいいですね。イエス様に対して、私たちが上から目線で指導したり、従わせたりするようなことはないでしょう。簡単ではないことです。それでも、みことばに従って、尊敬し合う仲の良い兄弟愛が教会に満ちていくなら、教会はなんと温かく魅力的な場となることでしょうか。尊敬し合う姿勢は本当に美しいと思いませんか。
続く11-12節をご覧ください。
11節 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。12 望みを抱いて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。
神と人に対する「真実な愛」からは、純粋な熱意が生まれます。神様を本気で愛そうとする時、御霊が燃えるように働かれ、主に仕えることを心から喜べるようにしていただけるでしょう。隣人を本気で愛そうとする時、人々の救いを熱心に求めて忠実に奉仕し、人々の助けと励ましのために様々な苦難に耐える力も与えられるのではないでしょうか。ですから、偽りなき愛、そして熱い兄弟愛は、希望と忍耐をもたらすと言えます。単なる苦難は耐えがたいものですが、愛する人のための苦難だと思う時に、望みを抱いて耐える力をも与えられていくのではないでしょうか。
第一コリント13章では愛の教えがありますね。その7節では愛について、「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」とあります。愛はすべてを耐え忍ぶ力を生み出します。信じて望みを持ち続ける力も愛ゆえに与えられるのです。そして、愛するためにはひたすら神様に祈る必要がありますよね。「愛せないあの人を愛します!どうか力をお与えください!」と祈ることなしには、私たちは愛せないでしょう。
本日最後の13節です。13節
聖徒たちの必要をともに満たし、努めて人をもてなしなさい。 聖徒たちとはキリスト者ですよね。それぞれの生活に必要なものを「ともに満たし」と教えられています。自分1人で満たすようにとは教えられていないのです。互いに必要を満たし合う交わりです。「ともに満たし」の部分では、交わりを意味する「コイノニア」の動詞形が使われています。それは「共有する」、「仲間になる」という意味を持ちます。霊的にも物理的にも、お互いの必要を満たし合う仲間としてともに歩むということです。
競い合う相手ではありません。足を引っ張り合う存在ではない。「分かち合う仲間」なのですよね。ですから、この節の後半でも「努めて人をもてなしなさい」と語られるのです。それは、「自分から進んで人をもてなしなさい」ということです。当時は特に、巡回伝道者や旅人たちをもてなすことに心を配るようにとのことでした。この時代、交通機関が発達していません。ですから、旅をする人々は非常に大変で、多くの危険もありました。そういう人々にとって、旅先の教会やキリスト者の家庭に安心して滞在できることは、本当にありがたいことだったのです。そして、それによってキリスト者はもてなし合い、助け合っていたので宣教が進んだのです。
自分のことでいっぱいになるのではなく、他の聖徒の必要のためにささげ、意識的にもてなすのです。中国の昔話として、このような話を聞いたことがあります。あの世では、とても長い箸で食事をするというお話です。地獄の人々は、自分のことしか考えないので、その箸で自分の口に運ぼうとしますが、箸が長すぎて上手く食べることができません。そのため、いつも空腹です。一方、天国ではお互いのことを優先し、思いやるために、お互いの口に食べ物を運び合うことによっていつも美味しい物でお腹が満たされているというお話です。与え合うことの大切さを教える昔話なのでしょう。
私たちは、お互いの必要を覚えて、分かち合い、与え合うことで満たし合うことができます。実際、皆さん、畑で取れた物を分かち合ってくださったり、親戚や知人からただいた物をシェアしてくださったりしています。時には普段食べたことのない物等も分かち合われるので、とても豊かですよね。
それは霊的にもそうなのです。ある人が教えられた豊かな恵みを、黙っているのではなく、証ししてくだされば、他の人々も主のみわざに感動し励まされます。そして、分かち合う側も、分かち合われる側も、「互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う」ことによって、より豊かに成長させていただけますよね。愛と尊敬をもって、主にある良き交わりを築き、仲間として歩んでいきましょう!
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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