東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書12章9-14節「神を恐れよ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2025/01/20

伝道者の書12章9-14節「神を恐れよ」

*** 1/19(日)主日礼拝 説教概略 ***

 伝道者の書も、いよいよ最後となりました。学ぶ前と学んだ後とで、いくらかでも理解が進み、神様のみこころを1mmでも深く知るようになっていることを願います。この書から、この世界が人には理解できない不条理に満ちていることを様々な角度から教えられてきました。それが「空の空」「むなしい」ということばで表現されているのです。しかし、この書は不条理でむなしいことだけを伝えているのではありませんよね。



 そのような世界でどのように生きたら、幸せに歩めるのか、その方法を教えているのです。ですから、伝道者の書は、「人生の教科書」です神様に造られた人間が、この世界で喜びや感動をもって幸せに生きるカギを示してくれているからです。そして、その「人生の教科書」が与えてくれるカギとは何でしょうか? 理不尽な世界で、なお希望を見失わず、かえって人生を楽しめる幸いな道を歩むカギとは何でしょうか? それが13節で語られていること。

「神を恐れよ」「神の命令を守れ」。これが人にとってすべてであると。
ここに答えが集約されています。ご一緒に教えられましょう。

 

1. 神の知恵をまとめる労苦

9節 伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。
10節 伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。
 この書を著したであろうソロモン王は、自らを「伝道者」と名乗り、神の知恵のことばを一心に伝えてきました。そのために思索し、探求し、多くの箴言、つまり格言をまとめました。10節にあるように、特に思索を繰り返しながら、適切なことばを探し求めました。そうした努力を惜しまず、必死にやってきたのです。彼の苦労がうかがえますよね。彼が頑張ってきた理由は11節にあります。

11 知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。

 神様から教えられた数々の知恵は、「突き棒のようなもの」であるからです。「突き棒」とは、牛などの家畜を突いて、正しい方向に導く道具です。ですから、これらの知恵のことばは、私たちを正しい方向へと導くものだというわけです。また、それらのことばが編纂されたこの書は、「よく打ち付けられた釘のようなもの」だとも語られます。釘がしっかりと打ち付けられていると固定され、安定しますね。つまり、神の真理のみことばは、何によっても揺るがされない確かなものだということです。そして、これらの確かなことばに従う者もまた、神のみこころにしっかり固定され、揺るぎない状態になるわけです。揺るぎない確かな土台があること。人生において非常に有益ですね。力強いこと。何よりも、「これらは一人の牧者によって与えられた」とありますように、羊飼い、真の牧者なる神様から与えられている。この神様の牧会によって、人は右にも左にもぶれずまっすぐに良い道に歩めるようになるだから、彼は思索し、探求し、ことばを探し求めて頑張ったのです。そのために、多くの時間と犠牲を払ったのです!

 

2.良い働きでさえ・・・  

 ところが、こうして、著者はこの素晴らしい書を残しましたが、おそらくその働きに多大な時間と労力を献げるほどに、ある一つのことに気づかされていったようです。それは何でしょうか。これらのとても良い作業もまた、神様なしには「むなしい」ということです。

12 わが子よ、さらに次のことにも気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。 

 神様の教えを学び、それを書き記すことは本当に良い働きです。しかし、その良い働きでさえ、神様を見失う「罠」となり得ると気づいたわけです。それで、彼は「さらに次のことにも気をつけよ」と言って、まとめてきたことに加えました。これらの良い働きでさえ、神様なしにやればむなしく疲れ果てるぞ!気をつけよ!と。

 例えば、神学校は神様のことを学ぶ場ですね。でも、気が付いたら課題をこなすことに心が支配されている。いつの間にか単位を取ることが目的になってしまっている。そんなことがあるものです。ソロモンも、人生のために必要な神の知恵を書こうと時間をささげ、あらゆることから神の真理を学ぼうと必死に努力したのでしょう。

 しかし、書くこと自体、学ぶこと自体にあまりに時間と労力を奪われ、いつの間にか肝心の神様が見えなくなってしまった。そういう経験をしたのではないでしょうか。書いても書いてもうまく表現できない。納得のいくことばが見つからない。その悩みはきりがない!学び続けて頭がパンパンになる。理解しきれないでいる。疲れ果てるのです!でも、それは当たり前です。有限で小さな人間が、無限で偉大すぎる神様を学ぼうとしても、学び切れるはずがないのですから。伝えようとしてことばを尽くしても、伝えきれるはずがありません!

 

3.神を恐れよ、神の命令を守れ。それがすべてである。

 それで、著者は言うのです。本当に必要なことは、「神を恐れること」なのだと。「永遠の神を恐れることを忘れてはならないのだ」と。いや、それがすべてであると!

13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。 

 「これが人間にとってすべてである」・・・このことを皆さんは信じますか。一部ではない。人間にとってすべでてある。

 そもそも「神を恐れる」とは、どういうことでしょうか。今、ここに全知全能なる神様が生きて臨在されていると認めて生きることです。偉大な神様が今ここにおられる!私のすべてを見て、知っておられる!と、神の臨在を覚えて生きること。これが神を恐れる賢い歩みです神を恐れることが知識の初めであると聖書が語る通りです。

 しかし、その逆の愚かで不遜な歩みとは何でしょうか。詩篇141にこうあります。「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」と。最も愚かな生き方は、「神はいない」と思って生きてしまうことです。神がいないかのように生きていくことです。14節にこうあります。

14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。  

 神様がいないかのように生きるなら、すべてをご存知の存在がないとしてしまう。正しいさばきもないと考える。だから、悪い道を平気で歩んでしまうでしょう。人の目にバレなきゃいいと考えます。外面さえ良ければいいと思い、心はどんどん醜く歪んで行くでしょう。動機も気持ちも問われないので、むなしくなるのです。結果、愛もやさしさもない恐ろしい世界が出来上がるでしょう。

 イエス様のたとえ話に、不当なひどい裁判官の話があります。彼のセリフはこうです。「私は神をも恐れず、人を人とも思わないが」と。神をも恐れない不遜な人は、人を人とも思わなくなります。あるいは、イエス様の横で十字架に磔になり、「お前はキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った犯罪人について。もう一人の罪人がたしなめてこう言ったのです。「おまえは神を恐れないのか」と。すべてをご存知の聖なる神様を恐れないので、自分の罪に気づき涙することも、悔い改めることもできないのです

しかし、神様を恐れる時、神様の声が聞こえてきます。神を恐れる者は、書いていても、学んでいても問われます。「人よ、あなたは何のために書いているのか。何のために学んでいるのか。」と。いつしか完璧に仕上げることが目的になっていたり、美しい表現で伝えることがゴールになっていたり、人から「感動しました」と言われることがご褒美になっていたりするのです。主は、そこにおられるのでしょうか。

神様を恐れるならば、神様がこれらのすべての工程において、私たちの心のすべてをご存知であると信じているはずです。

13節では「神の命令を守れ」ともあります。神の命令の中心は、「神を愛すること、隣人を愛すること」です。それも精一杯。ですから、これらが見えなくなるような働き方、学び方は、結局は神様の命令を守っていないのです。神を恐れていないのです。例え私がここにいる全員を感動させる説教ができたとしても。物凄く分かりやすい表現で説き明かせても。一回も咬むことなく、どもることなく伝えられたとしても。そこに神様を恐れる信仰がないなら、その説教はむなしい表面的なもので、神の命令を守っていないのです

なぜなら、主ご自身を伝えるために語るのだからです。主を愛するゆえに奉仕するのだからです。そうであるなら・・・百回噛もうと、山ほど間違えようと、「しどろもどろ」であろうと、神様を心から愛し、イエス様の十字架を伝えることを喜びとする説教者の方が、ずっと神様に喜ばれ、用いられるのです

これら動機も心もすべてご存知の神様が、正しくさばかれるのです。ならば、主の前にひれ伏し、十字架をひたすら仰ぎ見るのみです。

しかし、同時に、私たちはこの書から本当に豊かな励ましをいただいています。この書では、神を恐れて生きることは、神様から与えられている恵みを喜び楽しんで生きることだと、何度も教えられてきたのです!

実に、この書では「楽しむ」ということばが沢山登場しています。12章までの書ですが、18か所ほど登場します。そして、ところどころ現れる小さな結論においても、神が与えてくださっているものを、神とともに楽しめと教えられているのです。それはつまり、日常生活のあらゆるものを神様からのプレゼントとして受け取って生きることです。神を恐れるとは、正しい動機で、正しい道を歩むだけではない。一切のものを神様が豊かに与えて下さっていることを、大いに感謝し、それらを楽しんで生きることでもあるのです! すると、書物を書くにしても、神様の恵みを書き記すこと自体が嬉しく楽しくなるのです!学ぶにしても、みことばの深さ豊かさ、神の麗しさを知ること自体が感動的で楽しい時間になるのです!

 ご一緒に教えられて参りました。「神を恐れよ。これがすべてである!」と主は語っておられます。神様がいないかのように生きてはなりません。今も目の前に臨在される神様の偉大さを覚えては、心の深みまでも問いかけていただく歩みです。また、その愛の温もりをいつも感じながら、与えてくださる良きものを楽しみ、喜んで生きることです。主である神様をいつも恐れて歩みましょう。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 引用元聖書

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