「御霊によって生きる」
序. イエス・キリストを信じるすべての人の内には、聖霊が住まわれる(内住の聖霊、御霊)。聖霊は、クリスチャンの内にいて力を与え導かれる。ヨットが風をしっかりと帆で受けて前進することができるように、私たちの信仰生活も自分の手で必死にこぐような歩みではない。聖霊の風をしっかりと受けて前進するもの。そういう意味で、聖霊は信仰生活の原動力である。みことばにおいて、「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と命じられている。
序. イエス・キリストを信じるすべての人の内には、聖霊が住まわれる(内住の聖霊、御霊)。聖霊は、クリスチャンの内にいて力を与え導かれる。ヨットが風をしっかりと帆で受けて前進することができるように、私たちの信仰生活も自分の手で必死にこぐような歩みではない。聖霊の風をしっかりと受けて前進するもの。そういう意味で、聖霊は信仰生活の原動力である。みことばにおいて、「御霊に満たされなさい」(エペソ5:18)、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)と命じられている。
創世記で神様はアブラハムに空の星を見なさいと言われました。イエス様は群衆に、野の花や空の鳥を見なさいと語りかけました。神様によって造られたこの世界がいかに壮大で、いかに緻密に造られているのか。また、造られたこの世界が持続しているのも、主が豊かに管理し、保っていてくださることをお示しになり、ご自身を現わされました。
2週前のメッセージで、同じく詩篇119篇のこの直前の個所から語られました。おもに「みことばに親しむ」ということが中心テーマでしたね。神様のみおしえを愛し、いつも自分の心に思いめぐらして、自分の思いになるかのようにするということでした。
1節 主は嵐の中からヨブに答えられた。
光の中を歩もうというテーマですが、「光の中を歩む」って何なのでしょうか。
罪を一つも犯さず、きよく正しく生きることでしょうか。
けれど、神のことばである聖書は、人は誰もが生まれながらに罪人であると教えていますよね。ですから「私にはまったく罪がない、闇など一切ない」と言うことは、正直とは言えず、かえって「闇の中を歩んでいる」のではないでしょうか。
早いもので3月となりました。今年度最後の月です。今年度、私たちの教会では、「受ける者から、与える者へ」というテーマで取り組んできました。
民数記も終盤となりました。ここでは、約束の地での生活に備えて、神様が町の整備を命じておられます。特にタイトルにあるように「逃れの町」を各所に設けるようにと教えておられます。「逃れの町」という存在、私はとても慰められるなといつも思っています。逃れられる場があるというのは、人にとって大きな安心になります。
特に現代は、昔よりも色々なものから逃れられない時代になっていると言えます。本当の意味で1人になることが難しい時代です。どこに行っても監視カメラがあります。インターネットのおかげでテレワークもできますが、逆にどこに行っても仕事がついて回って来る時代です。
聖書は、個人主義的な信仰ではなく、神の民、神の家族としてともに歩むことを大切にしています。「ひとりぼっちのクリスチャン」という考え方は聖書のどこにもありません。実際、神様は、信仰というものを共同体として、交わりの中で保つことを教えておられます。なぜなら、神様ご自身が、そもそも「三位一体」という交わりの神様でおられるからです。神様ご自身こそが、「父、御子、御霊の親しい交わり」を常に持って、協力してお働きをされているからです。
人を慰めるために口を開いたのに、かえってその人を落ち込ませてしまうということが起こります。正論を並べ、その人の問題点を指摘し、「こうすればいいじゃないか」と方法論をぶつけます。そこには、人の痛みを理解し、寄り添う姿勢が欠けているのです。
ヨブの3人の友人のうち、最初はエリファズ、次にビルダデが語りました。そして、最後にこのツォファルです。最後に発言していることから、この3人の中では一番若く経験が浅いのではないかとも言われます。それでいて知識はあるとの驕りが感じられ、この3人の中でも最も「人の心を理解することに欠けている」人物であるように見えます。
私たちの今年度の年間聖句は何だったでしょうか。
第二コリント2章7節 一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。
「受ける者から与える者となる」ということを目指して歩んでいる途上にあります。