ピレモンへの手紙21-25節「信頼と期待」
1. ピレモンを信頼し、期待したパウロ
「あなただからこそ」・・・案外、私たちは、このようなことばで頼まれることが、自分の存在価値を見出す励みになったり、新しい世界に踏み出すキッカケになったりするのですよね。
「誰でも良かったんだよ」ではなく、「あなたにお願いしたいのだ。」と言われること、大事なことですよね。皆さんなら、そんな風に信頼され、期待されることをどう思われるでしょう。少しプレッシャーも感じるでしょうか。それもあるでしょう。それでも、やはり嬉しいのではないでしょうか。
パウロは、ピレモンに対してそのような信頼と期待をもってこの手紙を著したのでしょう。この手紙がピレモン個人に宛てられているという点からも、それが見えますよね。
2. なぜ、人を信頼し期待できるのか
では、パウロがここまで信頼し、期待できたのなぜでしょうか。ピレモンがそこまですごい人物だったからなのでしょうか。そうではないでしょう。信頼と期待の背後に、すべてを導かれる主への信頼と期待があったからです。「背後」というより、「土台」になっていると言った方がふさわしいかも知れません。
パウロは獄中にいましたから、ピレモンたちのもとに行けるかは何の保証もないことです。ただ「許される」とありますが、誰の許可なのでしょうか。これこそ神様ですよね。ピレモンたちの祈りを聞いてくださる神様が許してくださるに違いないとの信頼がある。祈りを聞いてくださると主がおられると信じ、期待しているのです。
「祈りの力」というのは、祈る人の心の力とか、祈りのことばの巧みさに依存するのではなく、「祈りに応えてくださる神様への信頼」なのですよね。パウロは主にあって人々を信じ、期待していたのだと言えます。ですから、実は、神様に信頼する人ほど、恐れずに人を信じ、大胆に人に期待していくことができるようになるのです。
3.その大切さ、その恵み
(1)人々を受け止めるネット、力ある働きになるから
パウロの多くの手紙に共通することですが、彼は自分と相手との信頼関係だけでなく、友人同士が結び合わされ、良い信頼関係を築けるように純粋に願っていた人でした。ここでも、自分とオネシモとピレモンという3人だけの関係だけでは終わりません。23-24節23節 キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。24節 私の同労者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカがよろしくと言っています。
こうして名前を挙げることで、さらにお互いにつながり、良き友情と信頼を築いて歩めるように努めているのです。ネットの網目というものは、張り巡らされる線が多くなるほどに強固になりますよね。頭の中でいいので、自分自身から、他の人に線を引いていく。その線がお互いに多くなるほど、網目が厚くなり、この交わりは豊かに強くなるのではないでしょうか。それにより多くの人を受け止められる交わりのネットになりますよね。また、そこに仲間が増え、協力者が増し加えられ、力ある働きをもたらすことも確かなことではないでしょうか。
(2)人を豊かに育てるものであるから
信頼され、期待されることは、その人にとって本当に良い機会になります。最初にお話ししたように、人は「神のかたち」に造られていますので、疑われるよりも、信頼され、期待される方がずっと輝くことができる存在なのです。 信頼され、期待されることを通して、そのような者になりたい、なろうとする思いが養われていくのです。若い世代の働きをなさっている方々を見ると、この姿勢が優れていると感じます。自分たちだけですべてをせず、若い世代に色々なチャレンジの機会を提供しています。しかも、そこで上手く行かないこと、問題が起こっても、彼らに責任を押し付けず、ゆだねた者として責任を取っていく姿勢を持っているのです。教えられます。何かがあれば、矢面に立ち、大きな盾となって応援してくれるような人こそ、後任を育てることができる指導者ですよね。
その点では、神様ご自身が最上のモデルでいらっしゃいます。神様は人の罪深さをよくご存じの上で、あまたの失敗をすることを知った上で、なお信じて期待してくださるからです。この世界を治めよと、小さな人間たちにゆだねてくださいましたよね。それは、愛してくださっているからです。愛してくださっているから、信頼と期待を私たちに置いてくださるのです。それをやめません。責任は全部、神様の側で引き受けて下さる覚悟で。成功のために「信頼と期待」を置くのではありません。人を育て豊かにするために、人との共同作業を喜んでしてくださるのです。
旧約聖書の十戒を例にとって説明しましょう。ヘブル語の先生から教えられ感銘を受けた。例えば「殺してはならない」とありますね。これは、人はどうせ気に入らないことがあると、すぐに殺すのだろう、だから戒めておくと言う意味ではないのです。むしろ逆です。わたしが愛しているあなたがたなのだから、「殺すなんて、あってはならないよね!あるはずがないよね?」との意味なのです。疑いから出た「殺してはならない!」ではなく、人への信頼と期待を込めた愛の教えです。守ることができることを信じて期待する、神様からの愛の呼びかけなのです。
それならば、私たちも同様の愛に立って、人を信じ、期待していく者でありたいと思いませんか。そのようにして、人は信頼され、期待されて、そこに居場所が生まれます。居場所が生まれれば、人は持っている豊かさを発揮して行けます。また、失敗しても、過ちを犯しても、尚、愛のゆえに何度でも信じてゆだねられるならば、人は変えられ、立ち直り、今まで以上に豊かにされます。 教会にどんなに人が増えても、お互いに対し、信頼し、期待し合える交わりがなければ、もろいものです。また、人は育ちません。しかし、神様が私たちを愛するゆえに、信頼し期待してくださっているように、私たちもお互いにそれをしていく時、交わりは豊かにされ、人がそこで育まれ、輝きを増して参ります。
オネシモもピレモンも、この後存分に主にあって用いられたであろうことを、信仰を目によって見つめたいと思います。天国で話を聞くのが楽しみですね。