東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ヨブ記16,19章「イエス様がおられるから」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/02/16

ヨブ記16,19章「イエス様がおられるから」

*** 2/15(水)祈祷会 説教概略 ***

ヨブ記16,19章「イエス様がおられるから」

 先日の朝、ものすごいダルさと胃の気持ち悪さ、胃液の逆流する感じがありました。その日、一気に熱が上がり39.5度まで・・・ 数日間、体の不調はなんとなくありましたが、熱自体は概ね一晩で下がり、検査ではコロナ、インフルは出ず、結局よく分かりませんでした。ただ、やはりそれだけ体調が悪いと何もできず・・・神様を求めることすらほぼできない自分がいました

 みことばことはもちろんできず、神様に祈ろうとしても、もう次の瞬間、眠ってしまっている自分。そう考えると、ヨブは全身が悪性の腫物に覆われ、心身ともに極限の苦しさの中で、神様に向き合い、神様と語り合おうとする姿に恐れ入ります。私はその気力すら起きなかったので。同時に、そのようなヨブでさえ、神様のことをまだまだ知らない者であるとしているヨブ記です。私が神様の何を分かっているのだろう?分かっていなくても当然だと思わされました。だからこそ、ご一緒に神様を知っていきたいとも思わされます。

さて、苦しむヨブと見舞いに来た3人の友人との問答は31章まで続きます。その間、3人の友人は順番に繰り返しヨブを説得しようとしていますが、ヨブは自分が正しいというところに立ち続けているので、この3人もついには話すのをやめることになります。
そこで4人目が登場するわけですが・・・。その前に、ヨブの苦しみに理由にもう少し目を留めたいと思います。

161-2節 ヨブは答えた。そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。 

「みじめにする」のところは、「疲れさせる」と訳してもいいかと思います。厄介な慰め手ですね・・・。192-3でも、ビルダデへの応答としてヨブはこう言います。

192-3節 いつまで、あなたがたは私のたましいを悩ませ、ことばで私を砕くのか。もう十度もあなたがたは私を辱め、私をいじめて恥じることもない。 

一生懸命語っている3人の友人でしたが、どうにも自分たちの言い分こそが正しいとヨブに認めさせようとしているようです。こうやって読んで行って、気づくのですが・・・友人たちのことばには、「本当に大変だよね」といった同情やあわれみのことばが登場しないのです。

特に、ヨブのために「祈っている」ことを示唆することばも一切ありません。

痛みを理解し、その人のために「とりなしの祈り」をする。この点が全くないことにより、ヨブは少しも慰められていないのではないでしょうか。なんだかんだ、私たちは、「祈ってくださっている」というこの一点だけで、どれほど慰められていることでしょうか。祈られているということは、心を配っていただいているという事でもあります。

 

 ですから、ヨブの苦しみが友人たちによって少しも慰められていない理由は「孤独」でした。彼らは、あわれみの心と祈りをもってヨブを慰めることができたはずでした。しかし、むしろ追い打ちをかけてしまったのです。

1913-19でヨブは自身の孤独を率直に告白しています。 

13節 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。
14節 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。
15節 私の家に身を寄せる者や召し対の女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。
16節 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。
17節 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。 
18節 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。
19節 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。 

 財産を失ったゆえに、離れて行った人々もいたでしょう。見下されたのもそのせいがあるかも知れません。また、大事なものを失っただけでなく、全身を腫物で覆われてしまいましたから、もはや見た目も人間の体をなしていなかったのであろうと思います。

 友人たちもヨブだとは分からなかったとありました。そうなると、見た目がつまずきとなり、人からも疎まれがちですね。友人からも、兄弟からも、親戚からも、そして妻からも遠ざけられたら、私なら、もはや生きていけないという感じがします。

何より、苦しい時こそ、すぐ近くにいて、寄り添って欲しい人々です。でも、残念ながら人間です。理解できず、誤解され、あるいは偏見を持たれ、かえって分離をもたらすことも起こり得ます。

 少し整理すると・・・ 様々な不幸な災いや病も私たちにとって苦しいものですが、理由や原因がわからない点、つまり神様のお心が分からない点、そして理解し寄り添ってくれる仲間がいない「孤独」が大きく影響することを教えられるのです。

 逆に言えば、これらの部分に解決があるだけでも、私たちにとって大きな励ましになるように思います

 

 「神様のご計画」があると分かることや、理解し支えてくれる人がいるということが助けになるということです。ですので、ヨブの嘆きを味わっていると、イエス様の存在がどれほど尊く、ありがたいことなのかを実感します。この両方を持っておられるからです。

ヨブの3人の人間の友人たちには、イエス様の代わりになることは難しいことだったのです。なぜなら彼らは、神様のお心をヨブよりもはるかに知らない人々だったからです。彼らはイスラエル人でさえないために、余計に神様のことを分かっていないとも言えます。一般論や宗教論、道徳をぶつけているに過ぎません。そして、ヨブの苦しみを理解できずに、慰め手としては足りませんでした・・・。

また、ヨブ自身も、神様がそのご自身の正しさの秤に従って、正義をなしておられることを理解できないでいます。それゆえ、神様が敵にさえ見えてしまい、その間に入って仲介してくれる存在があればいいのにと嘆いています。

つまり、神と人との間の、圧倒的な溝を埋める存在の不在が重くにのしかかっているのです。人があまりにも無知で、神様の深遠なお心を理解できないゆえに

 しかし、神のみこころを完全にご存知の方、神ご自身であるイエス様が人になられ、仲介者として来られたことは大きいのではないでしょうか。

神のお心を完全に知っておられると同時に、人間の弱さと痛み、苦しみをよく知ってくださっている方です。この方が神の正義をなしながらも、人の立場に立って涙し、支えてくださる。インマヌエルなる方なのです。 

1620節 その方が、人のために、神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。 

 ヨブのこの叫びは、結果的にイエス様についての預言のことばを語ったことになります。ヨブ自身、どこまで理解していたかはわからないですが、彼の思いとして、救い主の到来を待ち望んでいたということかも知れません。

 人には理解できない神のお心をイエス様は完全に持っておられ、同時に人の弱さを持って、とりなしてくださる。この存在こそ、ヨブがこの苦しみの時に最も求めていた存在なのだと言えます

 そう思うと、私たちが思う以上に、イエス様というお方の存在が人には必要不可欠なのだと教えられるのです。十字架の上で死なれ、罪を赦してくださったという恵みはとてつもなく大きい。けれども、それだけではなく、私たちの痛みをともに担ってくださる「インマヌエル」なる主であることは、私たちにとって大きな慰めです。

神のみこころを正確に私たちに教え導いてくださるゆえに、私たちは「なぜ?どうして?」、あるいは「最悪です!ひどいです!」だけで終わらず、「主よ、これは何のための苦しみ、試練なのでしょうか」と、みこころを求めることができる者とされています。

同時に、私たちの弱さに同情できるイエス様がともにおられるので、このお方に背負っていただけることは、なんとありがたいことでしょうか。


 どんなに人から見捨てられても、主イエス様から見捨てられることは決してないのです。このお方が私たちのためにとりなしてくださるとは、なんと言う恵みでしょうか。

ローマ834-35節 
34節 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
35節 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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