東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記35章10-15節、22-28節「逃れの町」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2023/02/21

民数記35章10-15節、22-28節「逃れの町」

*** 2/19(日)主日礼拝 説教概略 ***
民数記3510-15節、22-28節「逃れの町」

 民数記も終盤となりました。ここでは、約束の地での生活に備えて、神様が町の整備を命じておられます。特にタイトルにあるように「逃れの町」を各所に設けるようにと教えておられます。「逃れの町」という存在、私はとても慰められるなといつも思っています。逃れられる場があるというのは、人にとって大きな安心になります。

 特に現代は、昔よりも色々なものから逃れられない時代になっていると言えます。本当の意味で1人になることが難しい時代です。どこに行っても監視カメラがあります。インターネットのおかげでテレワークもできますが、逆にどこに行っても仕事がついて回って来る時代です。

 「SNS疲れ」というものも問題になっています。「返事をしないと悪い」という感覚。自分の投稿に対する否定的、攻撃的な反応への恐れ。家に帰ってくれば解放されたはずの人間関係が、家でもSNSで続く。いじめも学校だけで終わらず、SNS上では夜中まで続きます。

 ネットで叩かれたら世界中の人から叩かれている感覚。やめたらやめたで、自分だけ置いていかれたような孤独の恐怖が待っている。そんな時代ですから、改めてイエス・キリストという逃れの町があることをともに覚えたいと思います。

 

元々神様が備えよと言われた「逃れの町」とはどのような町だったのでしょうか。10-12

10 「イスラエルの子らに告げ、彼らに言え。ヨルダン川を渡ってカナンの地に入るとき、11 あなたがたは町々を定めて、自分たちのために逃れの町とし、誤って人を打ち殺してしまった殺人者がそこに逃れることができるようにしなければならない。
12 この町々は、復讐する者からあなたがたが逃れる場所となる。殺人者が、さばきのために会衆の前に立たないうちに死ぬことのないようにするためである。 

 殺意があって殺した場合は、もちろん殺人罪(※大切な人を失った家族などが、法的根拠に則って等価値の復讐をすることがある意味合法的になされました)でしたが、故意ではなく誤って人を死なせてしまった場合にも、復讐する人から命を狙われる危険が強くありました(こちらは合法ではない)。

 特に、この時代は紀元前1400年頃、今から3400年も前の話です。現代日本のように、警察組織などが整備されたわけではありません。誰かが事故で亡くなった・・・その時に、誰がやったんだ、悪意があったんだろう!などと家族等が感情的に復讐し相手を殺してしまう。そうして、報復合戦が起こるようなことは当たり前にあったことでしょう。

 神様は、上辺の結果だけで判断するのではなく、その人の心や動機に目を留めてくださるのです。ですから、動機が精査され、公平な裁判がなされるまでは、勝手に復讐してはならないという教えをくださいました。

 こうした動機をきちんと精査するという点は、現代の司法でも重要な要素となっていますよね。少なからず聖書が法律や法治国家の成立に影響を与えたと言えるでしょう。特に英米法などの土台には聖書があると言います。日本の憲法も米国から来たものであると考えると、この日本でも、知らないうちに聖書を土台とした法で守られていることに気づかされます。一般恩寵ですね。

 

 さて、この逃れの町はイスラエル全体で6つ用意するように教えられました。13節です。

13節 あなたがたが与えるべき町は六つの逃れの町で、それらは、あなたがたのためのものである。 さらに、その配置については14節でこうありますね。
14節 このヨルダンの川向こうに三つの町を、カナンの地に三つの町を与えて、逃れの町としなければならない。 

 ヨルダン川を挟んで東側、西側にそれぞれ3つずつです。先々週、民数記の32章から学んだ際に、ヨルダン川の東側にどうしても残りたいと駄々をこねた3部族がいたことをお話しました。神様はそのような彼らの地域にも等しく「逃れの町」を備えて下さったと分かります。

 そして、公平な裁判がなされた上で、その殺人が故意ではなく、誤ってなされたものであると判断されるなら、この人はいのちを奪われることはありませんでした。もちろん、すぐに日常に戻れるのではなく、逃れの町で暮らさなければなりませんでした。これは、事故を装って、有力者などを殺して土地を奪うといったような悪事を防ぐ意味もあったのでしょう。たとえ故意ではなくても、人のいのちを奪ったことの重さを、身に染みて過ごす必要があったのです。その時代の祭司が死ぬまでは、逃れの町から出ることは許されませんでした。

 ただし、その時代の大祭司が死んだのならば、解放されるものであったことが分かります。25節、28節にこうありますね。

25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。 

「血の復讐をする者」とのことばは、実は「血を贖う者、買い戻す者(ヘブル語:ガーアール)」とのことばであることは興味深いことです。

 復讐の背後にある思いとは、失った大切なものを買い戻そうとする思いなのかも知れません。ただ、その悲しみのあまり、憎しみが強くなり、見境なく報復してしまうという問題が起こり得ます。 ですから、主が逃れの町を備えられたことは、復讐される者だけでなく、復讐しようとする者の人生をも保護する意味もあったのではないかとも思うのです。 

そして、大祭司の死をもって、逃れの町での期間が終わるとのことなので、大祭司の死がその人の代わりに贖いの役割をしたとも言えるかも知れません(過失であれ、人を死なせてしまった問題)。それは、まことの大祭司イエス・キリストにつながっています。キリストのいのちという代価を払って、私たちを罪と死の支配から買い戻してくださったのです。これが「贖い」ですね。

それから、逃れの町は6つでしたね。週報にも書きましたが、聖書では「7」が完全数で、その手前の6はそれに足りない不完全さを現わす数字です。神様があえて旧約時代の逃れの町を6つとしたのは、7つ目の完全な逃れの町が、イエス・キリストであることを示すためであったと考えられます。

実に、イエス・キリストこそ真の「逃れの町」なのです。これこそ完全であって、SNS等で誰かが私たちを責め立てようと、悪魔が告訴しようと、私たちはそこから逃れられる完全な赦しをいただいているのです。

時に私たちは自分で自分を責めます。しかし、主は、あなたの罪はすべて赦したと言われます。雪のように白くしたと言われます。この世界の造り主が、すべての罪の完全な赦しを宣言されている以上、この世の誰があなたを攻撃しようと、もはやその口実は完全に無意味なのです。イエス様のもとに避難しようではありませんか!!

 また、このキリストをかしらとし、赦しの共同体である教会こそ、「現代の逃れの町」としての使命を担っているとも言えるでしょう。キリストのからだである教会こそ、現代の逃れの町であり続けたいと思います。どんなに罪深い者であっても、どんな失敗を犯した者でも、ネットで叩かれている人であっても、キリストのもとに身を寄せようとする人を、愛をもって受け入れるのが教会でありたいのです。そして、そこから立ち上がっていくための手を差し伸べる。そういう場でありたいと思います。

特に、逃れの町はどの地域からも1日ほど歩けばたどり着けるぐらいの距離の配置でした。それを考えると、現代の教会も各地域に誰もが行ける距離に生み出されることに大きな意味があると言えます。現代の日本では信徒も牧師も高齢化、全体としては数も減っているとさえ言われます。伝道の難しい時代です。

それでも、私たちはあきらめずに、教会を生み出していく祈りを続けるのです。 

確かにインターネットは便利ですし、それで説教も聞ける時代です。けれども、果たしてそれが「逃れの町」になれるでしょうか。実際にこうした建物があり、交わりがそこにあり、安心して過ごせるシェルターのような役目も教会にはあるんですよね。

 ユーゴーの「レ・ミゼラブル」という小説は有名です。その主人公ジャン・バルジャンは、極度の貧しさの中で、家族のためにわずか一斤のパンを盗んで19年も投獄されたのでした。出所後も、彼はどこに行っても冷遇され、行き場がなくさ迷っていました。人生は決してやり直せないという思いに打ちのめされていたのです。しかし、彼を救ったのは教会でした。彼は教会に逃れ、そこでとても親切にしてもらえました。

 ただし、今後の生活の不安からでしょうか、そこで銀の燭台を盗んでしまいます。それでも、教会の司教は彼を赦し、それどこから彼を警察からかばって守ってくれました。それは彼にあげたものだと。ジャン・バルジャンは、人生で初めてこのような深い愛に触れ、心から悔い改めたのです。人のために生きていこうと変えられていくのでした。 

この話はまさに、教会が何もかも失ったジャンにとって、「逃れの町」になった話と言えます。行き場もなかったし、教会に害を及ぼしてしまったはずのジャンを立ち直らせる愛を与えたと言えます。

 私は、すべての人に自分をあきらめないで欲しいと思います。人生をあきらめないで欲しいと思います。キリストにあって人生は必ずやり直せます。必要ならキリストのもとに避難したらいいのです。

 教会が何でもカンペキを求め、ミスを赦さないような「針のむしろ」になってはならないですよね。むしろ、お互いの失敗や弱さを愛のゆえに互いに補い合い、支え合う共同体となる必要があるのです。

 とりあえず教会に行けば、なんとなるのではないか?こんな自分でも居場所が与えられるのではないか?やり直せるのではないか?道はあるのではないか?キリストの教会は、そのような希望に満ちた場です。そのためにも、私たちはかしらなるキリストを堅く信じ、十字架の赦しを語り続けていく者でありたいのです。キリストにある希望を告白し続ける者でありたいのです。ここに完全な逃れの町があることを証していきたいのです。 


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