民数記も終盤となりました。ここでは、約束の地での生活に備えて、神様が町の整備を命じておられます。特にタイトルにあるように「逃れの町」を各所に設けるようにと教えておられます。「逃れの町」という存在、私はとても慰められるなといつも思っています。逃れられる場があるというのは、人にとって大きな安心になります。
特に現代は、昔よりも色々なものから逃れられない時代になっていると言えます。本当の意味で1人になることが難しい時代です。どこに行っても監視カメラがあります。インターネットのおかげでテレワークもできますが、逆にどこに行っても仕事がついて回って来る時代です。
元々神様が備えよと言われた「逃れの町」とはどのような町だったのでしょうか。10-12節
さて、この逃れの町はイスラエル全体で6つ用意するように教えられました。13節です。
ヨルダン川を挟んで東側、西側にそれぞれ3つずつです。先々週、民数記の32章から学んだ際に、ヨルダン川の東側にどうしても残りたいと駄々をこねた3部族がいたことをお話しました。神様はそのような彼らの地域にも等しく「逃れの町」を備えて下さったと分かります。
そして、公平な裁判がなされた上で、その殺人が故意ではなく、誤ってなされたものであると判断されるなら、この人はいのちを奪われることはありませんでした。もちろん、すぐに日常に戻れるのではなく、逃れの町で暮らさなければなりませんでした。これは、事故を装って、有力者などを殺して土地を奪うといったような悪事を防ぐ意味もあったのでしょう。たとえ故意ではなくても、人のいのちを奪ったことの重さを、身に染みて過ごす必要があったのです。その時代の祭司が死ぬまでは、逃れの町から出ることは許されませんでした。
ただし、その時代の大祭司が死んだのならば、解放されるものであったことが分かります。25節、28節にこうありますね。
「血の復讐をする者」とのことばは、実は「血を贖う者、買い戻す者(ヘブル語:ガーアール)」とのことばであることは興味深いことです。
そして、大祭司の死をもって、逃れの町での期間が終わるとのことなので、大祭司の死がその人の代わりに贖いの役割をしたとも言えるかも知れません(過失であれ、人を死なせてしまった問題)。それは、まことの大祭司イエス・キリストにつながっています。キリストのいのちという代価を払って、私たちを罪と死の支配から買い戻してくださったのです。これが「贖い」ですね。
それから、逃れの町は6つでしたね。週報にも書きましたが、聖書では「7」が完全数で、その手前の6はそれに足りない不完全さを現わす数字です。神様があえて旧約時代の逃れの町を6つとしたのは、7つ目の完全な逃れの町が、イエス・キリストであることを示すためであったと考えられます。
実に、イエス・キリストこそ真の「逃れの町」なのです。これこそ完全であって、SNS等で誰かが私たちを責め立てようと、悪魔が告訴しようと、私たちはそこから逃れられる完全な赦しをいただいているのです。
時に私たちは自分で自分を責めます。しかし、主は、あなたの罪はすべて赦したと言われます。雪のように白くしたと言われます。この世界の造り主が、すべての罪の完全な赦しを宣言されている以上、この世の誰があなたを攻撃しようと、もはやその口実は完全に無意味なのです。イエス様のもとに避難しようではありませんか!!
また、このキリストをかしらとし、赦しの共同体である教会こそ、「現代の逃れの町」としての使命を担っているとも言えるでしょう。キリストのからだである教会こそ、現代の逃れの町であり続けたいと思います。どんなに罪深い者であっても、どんな失敗を犯した者でも、ネットで叩かれている人であっても、キリストのもとに身を寄せようとする人を、愛をもって受け入れるのが教会でありたいのです。そして、そこから立ち上がっていくための手を差し伸べる。そういう場でありたいと思います。
特に、逃れの町はどの地域からも1日ほど歩けばたどり着けるぐらいの距離の配置でした。それを考えると、現代の教会も各地域に誰もが行ける距離に生み出されることに大きな意味があると言えます。現代の日本では信徒も牧師も高齢化、全体としては数も減っているとさえ言われます。伝道の難しい時代です。
それでも、私たちはあきらめずに、教会を生み出していく祈りを続けるのです。
確かにインターネットは便利ですし、それで説教も聞ける時代です。けれども、果たしてそれが「逃れの町」になれるでしょうか。実際にこうした建物があり、交わりがそこにあり、安心して過ごせるシェルターのような役目も教会にはあるんですよね。
ユーゴーの「レ・ミゼラブル」という小説は有名です。その主人公ジャン・バルジャンは、極度の貧しさの中で、家族のためにわずか一斤のパンを盗んで19年も投獄されたのでした。出所後も、彼はどこに行っても冷遇され、行き場がなくさ迷っていました。人生は決してやり直せないという思いに打ちのめされていたのです。しかし、彼を救ったのは教会でした。彼は教会に逃れ、そこでとても親切にしてもらえました。
ただし、今後の生活の不安からでしょうか、そこで銀の燭台を盗んでしまいます。それでも、教会の司教は彼を赦し、それどこから彼を警察からかばって守ってくれました。それは彼にあげたものだと。ジャン・バルジャンは、人生で初めてこのような深い愛に触れ、心から悔い改めたのです。人のために生きていこうと変えられていくのでした。
この話はまさに、教会が何もかも失ったジャンにとって、「逃れの町」になった話と言えます。行き場もなかったし、教会に害を及ぼしてしまったはずのジャンを立ち直らせる愛を与えたと言えます。