東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス書
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2022/03/09

アモス9章11-15節「主は回復される方」

*** 3/9(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス911-15節「主は回復される方」

神様が私たちに試練をお与えになるのは何のためでしょうか?
苦しめることが目的ではなく、試練を通して練られ、自らの愚かさに気づき主を深く知る者となるためでしょう。神の民は、主に愛されていますから、愛する子どもを懲らしめる父親のごとくに、主はやがて多くの子どもたちの救いをもたらすために、このイスラエルの子らを戒めました。

 一度崩されるのは、再び建て直すためでもあると教えられます。

2022/03/02

アモス9章5-10節「偉大なる主を恐れよ」

*** 3/2(水)祈祷会 説教概略 ***

 アモス9章5-10節「偉大なる主を恐れよ」

「主を恐れることは知識の初めである」と箴言にあります。

神の偉大さと神の愛と恵みの深さ・大きさを知ることが、最優先事項であり、それを知らずしてこの世界を知ったとはまるで言えないからです。

2022/02/25

アモス書9章1-4節「いのちの道を選ぼう」

*** 2/23(水)祈祷会 説教概略***
アモス書9章1-4節「いのちの道を選ぼう」

1節 私は、祭壇の傍らに主が立っておられるのを見た。すると、主は言われた。「柱頭を打ちたたき、敷居が震えるようにせよ。すべての者の頭を打ち砕け。彼らのうち、生き残った者をわたしは剣で殺す。彼らのうち逃()げられる者はなく、彼らのうち逃(のが)れられる者もない。

ここでは最後の幻、第五の幻が示されています。今度は祭壇の傍らに主が立っておられ、そこからさばきを下すという幻でした。この祭壇は偶像礼拝がささげられていた祭壇であると思われます。

2022/02/17

アモス8章11-14節「みことばの飢饉」

*** 2/17(水)祈祷会 説教概略 *** 

アモス811-14節「みことばの飢饉」

 私たちは新型コロナウイルスの影響で、一時期教会堂に集まれないという経験をしました。初めての事でした。そうなって初めて、ともに集まって礼拝することが「当たり前ではない」ということに気づき、集まること交わることへの飢え渇きが起こったように思うのです。

 人間には失って初めて、ようやく気づける・・・そういう弱さがいつもあるように思います。「まさか失われることはないだろう」と、タカをくくっている部分があるのですよね。

 そして、当たり前にそこにあるという感覚が、次第に与えられていることへの感謝・ありがたみを分からなくさせてしまうことがあります。

2022/02/12

アモス8章1-10節「イスラエルの終わり」

 *** 2/9(水)祈祷会 説教概略 ***

 アモス81-10節「イスラエルの終わり」

 かつて東洋経済オンラインの記事で、会社を衰退させるのはそこで働く人々の無関心であるという記事を読んだことがあります。仕事自体に無関心ということではなく、それぞれに自分の目の前の仕事はするものの、この会社がどのようなビジョンを持って歩んでいくべきなのか。どうしたら良くなるのか。そういうことに関心を持たないでいると、会社は衰え、やがて失われていくということです。

2022/02/02

アモス7章7-17節「主が召されたので」

*** 2/2(水)祈祷会

アモス77-17節「主が召されたので」

 渡辺和子さん著作の『置かれた場所で咲きなさい』というベストセラー本があります。花は咲く場所を選べないので、置かれた場所を受け入れて、そこで精一杯咲くことを大事にしましょうというメッセージがそこにあります。私たち人間も生まれる環境を選べませんが、それぞれに置かれたところで、精一杯生きて行けばいいということでしょう。

 ただ、その時に、誰がそこに置いたのか、誰がそこに植えたのかを考えると、私たちにとってそれは神様であるわけです。偶然そこにいるのではなく、主の良いご計画の中でそこに置かれているのです。

2022/01/29

アモス7章1-6節「思い直される主」

 *** 1/26(水)祈祷会 説教概略 ***(アップが遅れました)

アモス7章1-6節「思い直される主」

 人を育てる時、忍耐して待つことは本当に大変だと思います。代わりにやってあげた方が早いですし、さっさと答えを出してあげた方が楽なのです。ただ、その人自身の人格の成長のためには、人が代わりにやってあげたり、代わりに答えを出してあげたりしてはあまり益になりません。

 神様も私たちに対して、忍耐深く語りかけ、待っていてくださいます。

2022/01/26

アモス6章8-14節「主の声に聞く者こそ、主の民」

 *** 1/19(水)祈祷会時の説教概略となります ***
※1/26(水)分は1/28(金)にアップ予定です。

アモス6章8-14節「主の声に聞く者こそ、主の民」

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とのことばがあります。
試練に直面している時は、必死に神様を仰ぎ見て、助けを求めます。しかし、試練を乗り越え、平安な日々が続くと、神様への感謝の心を失い、いつの間にか主の恵みを自分の努力にすり替えます。口先では「神様のおかげです」と言いながらも、心のどこかで自分たち自身を誇り始めるのです。

2022/01/05

アモス6章1-7節「神への信頼とあわれみの心」

 *** 1/5(水)祈祷会 ***

アモス6章1-7節「神への信頼とあわれみの心」

 教会は、自分たちの満足を保持することに終始し、外で悩み苦しむ人々に心を向けなくなれば、神様の祝福を失っていきます。外のことは置いておいて、内側を整えようという発想で豊かになる教会はおそらくないでしょう。

2021/11/29

アモス書4章12-13節「神に会う備えをせよ」

*** 11/28(日)アドベント第一主日 礼拝説教概略 ***

アモス書4章12-13節「神に会う備えをせよ」

 先日、人生で初めて「遺書」を書きました。正式なものではなく、どちらかと言うと家族への手紙です。ワクチンの接種の時に、万が一のことがあってはと・・・書きました。過去にアナフィラキシーもありましたし、何が起こるかわからないので書いた次第です。

 ある本の中で、神様は私たちのことをこんな風に見ているんじゃないか?とありました。それは「人は、まるで死なない者であるかのように生きている。そして、まるで生きていなかったかのようにして死んでいく」と。

2021/11/24

アモス5章18-27節「あなたの心を求めておられる主」

*** 11/24(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス5章18-27節「あなたの心を求めておられる主」

 先週は主を「求めて生きよ」というテーマでした。罪を犯さないように、罪から離れようという消極的な歩みではなく、主を求めて生きていくことで、その結果、むしろ罪を犯したくなくなるし、主との交わりの中で守られていくことを教えられました。

今週は、主もあなた自身を求めているということで「あなたの心を求めておられる主」というテーマで教えられます。 

2021/11/19

アモス5章1-17節「主を求めて生きよ」

*** 11/17(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス51-17節「主を求めて生きよ」

 この5章でも同様に、「イスラエルの家よ、このことばを聞け」と始まります。
そして、預言者アモスによる哀歌(もしくは挽歌)が歌われます。哀歌は嘆きの歌、深い悲しみの歌です。挽歌と訳すこともできるかと思いますが、それは特に死者を悼み悲しむ歌と言えるでしょう。イスラエルの将来の深刻な姿を嘆き悲しむ歌です。

 しかし、その歌を伝えることで、民が一人でも悔い改め、主に立ち返ることを神様もアモスも願っていたに違いありません。

 この歌は下記のようにDの「頌栄」を中心とした同心円構造(キアスムス構造)を持っています。とても印象的に記憶に残るように文学的技法をこらした歌となっているのです。

2021/11/10

アモス4章1-13節 「聞かれるべき神のことば」

*** 11/10(水)祈祷会 説教概略 ***

 みことばは語られ続ける必要があります。しかし、語られ続けるだけでは足りず、みことばは聞かれる必要があるのです。どんなに語られていても、目の前にあっても、聞き入れなければ、みことばが人の心で湧き出る泉となることがありません。  

2021/11/03

アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」

*** 11/3(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」


 私たちの心は何によって満たされるのでしょうか。多くの物を所有することなのでしょうか。贅沢をすれば満たされるでしょうか。物で満たそうとすると、際限なく欲があふれ、かえって満足から遠ざかることでしょう。

 主は、わたしがあなたとともにいるではないか。すべてを与えることのできるわたしはでは足りないのか?私たちに問いかけます。そのような問いかけを意識しながら、みことばに聞いて参りましょう。

2021/10/27

アモス3章1-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」

*** 10/27(水)祈祷会 ***
アモス31-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」

1-2節の宣告 
 有名な申命記64節でも、「聞け、イスラエルよ」と主は命じられました。
とにかく何はなくても「主のことばを聞く」こと。そこから私たちの信仰は始まります
私たちがとやかく何かを言うことによってではなく、主が語られることばを聞く。そこからすべてが始まるのです。

 ここではまさに、主の語られる預言のことばの重要性を再確認させてくれます。

2021/10/20

アモス2章6-16節 「イスラエルに対する宣告」

*** 10/20(水)祈祷会 ***

 25節までのところでは、イスラエルの周囲の国7か国の不道徳、非人道的な罪、無慈悲に殺戮、人身売買などへの神様のさばきの宣告がありました。

 そして、いよいよ本題とも言える、北のイスラエル王国に対する宣告が語られます。その内容は、やはり神を信じない国々に対するものとは全く異なるものでした。それは、神のご契約に対する背きの問題でありました。

2021/10/14

アモス書1章3節~2章5節「諸外国へのさばきの宣告」

*** 10/13(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス書1章3節~2章5節「諸外国へのさばきの宣告」

 アモス書は、テコアの羊飼いだったアモスを通して、絶頂期で神をも忘れ、欲のままに歩んでいたイスラエルに対して主の愛の警告がなされている書です。その本論は、諸外国への神のさばきの宣告から始まっています。まるで外堀を埋めるように、そして、どの国のことも細部に至るまで神様が良くご存知であることを知らせるように。

 ですから13節~2章の3節までは、イスラエル王国から見れば実は外国のお話(そこには南のユダも含まれていますが・・・)。イスラエルの周辺にある諸外国の問題についても神様がしっかりと見ておられることが説き明かされています。

  まず、繰り返されている独特な表現について少し説明しておきたいと思います。


2021/10/06

アモス書1章1-2節「アモス書を知る」

*** 10/6(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス書1章1-2節「アモス書を知る」


1. 著者

 
 テコアの牧者(羊飼い)アモス。
 テコアはエルサレムの20キロほど南に位置する小さな町。
(下の地図、四角で囲まれたところ)

 

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