東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス書1章3節~2章5節「諸外国へのさばきの宣告」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

2021/10/14

アモス書1章3節~2章5節「諸外国へのさばきの宣告」

*** 10/13(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス書1章3節~2章5節「諸外国へのさばきの宣告」

 アモス書は、テコアの羊飼いだったアモスを通して、絶頂期で神をも忘れ、欲のままに歩んでいたイスラエルに対して主の愛の警告がなされている書です。その本論は、諸外国への神のさばきの宣告から始まっています。まるで外堀を埋めるように、そして、どの国のことも細部に至るまで神様が良くご存知であることを知らせるように。

 ですから13節~2章の3節までは、イスラエル王国から見れば実は外国のお話(そこには南のユダも含まれていますが・・・)。イスラエルの周辺にある諸外国の問題についても神様がしっかりと見ておられることが説き明かされています。

  まず、繰り返されている独特な表現について少し説明しておきたいと思います。



 「主はこう言われる」という語り出しに続き、すべての国に対して繰り返される表現があります。それは「三つの背き、四つの背きのゆえに」との表現です。

 例えば、3節では、「ダマスコの三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない」と語られています。6節でも、ダマスコの部分が「ガザ」に変わっただけで、続きは同じです。9節以降も同様で、ツロ、エドム、アンモン人、モアブ、ユダと同じ表現が繰り返されています。 

 この独特な言い回しは、背きが一つどころではなく、三つ、四つと積み重なり増し加わっているという深刻さを表現しようとしているのだと思われます。「一つ、二つ」ではないのです。「三つ、四つ、それ以上に・・・」と背きの罪が重なり、神様の目にさばかれるべき深刻な状態になっていることを伝えているのです。

 神様は本当に寛容なお方で、諸国の民が罪深い歩みを続けていても忍耐深く悔い改めることを待っておられます。しかし、人が人を虐げ、あるいは無残に殺し、あまりにも不道徳な歩みが増し加わる時、神様は様々な形でその民に対してさばきをなさいます。それは都を失うこと、領土を失っていくこと、他国の奴隷にされ、あるいは滅ぼされていくこと。歴史を見ると、どんなに栄えた強国も「栄枯盛衰」とのことばに当てはまらないこと国はないという事実からも、神様のこれらのさばきは現実であると知ることができるでしょう。

 ここでは神様がそれぞれの国のどのような歩みに対して怒っておられるのか。そして、そこにどのようなさばきがくだされるのか。このことが語られていきます。

 ここから資料の地図を参照くださると位置関係が分かりやすいと思います。


 3-5節で語られているのは、ダマスコを都とするアラム人についてです(①地図で右上のシリアと書かれている地域になります)。

 3節の後半に「鉄の脱穀機でギルアデを踏みにじったからだ」とさばきの理由が明示されます。この時代、アッシリアが一時的に弱かったと先週お話しましたが、まさにその機に乗じて北から覇権争いに加わっていたのがシリアことアラム人の国でした。

 そして、ギルアデ(地図:黄色で囲まれて地域)と呼ばれる北イスラエルの一帯に彼らが手を伸ばしてきました。この地域に対して「鉄の脱穀機で踏みにじった」と主は言われます。それはももしかしたら鉄製の戦車、あるいはそれに類する軍隊で、まるで脱穀をするかのように人のいのちを奪ったということでしょう。それは容赦なき蹂躙、あわれみのない残虐な軍事行動。このようなあわれみのない行動に対して、神様は怒りを露わにされます。彼らに対して、神様は4節にあるように火を送ると言われます。それはさばきの火です。それゆえ彼らは宮殿を失い、その他の町も失って、撤退を余儀なくされるということです。

  同様に、6-8節ではガザを都とするペリシテ人への宣告です。地図では地中海に面した南西の地域(左下の方)になります。ペリシテ人については、サウル王、ダビデ王の時代には最も強力なライバル国であり、何度も彼らと戦いました。ペリシテ人たちは、捕らえたイスラエル人たちをエドムに奴隷として売り飛ばすという人身売買をしていたようです。これは非人道的なことであり、イスラエルに対する侮辱でもありました。神様はそうした罪深さのゆえに、わたしは彼らを顧みず、彼らの王を打ち、民を打つと語られます。

 9節からはツロです。ツロと言えば、ダビデ王とソロモン王の時代には、非常の親しい同盟関係にありました。ツロの王はイスラエルの神殿建設のために協力し、木材をたくさん援助してくれたほどです。まさに親しい兄弟姉妹の契りを交わしていたのです。

 ところが、時代が変わり、この兄弟の契りなどなかったものとして振る舞う時代になっていました。9節にあるように、兄弟の契りを覚えていなかったために、彼らはイスラエルに対してひどいことをし、エドムに奴隷として売り渡すということさえしました。

 続いて11節からはエドムに対するさばきです。地図の南東(右下)にあるのがエドムです。彼らは剣で自分の兄弟を追い、あわれみをかけずいつまでも怒りを保っていたと語られています。これは、元々ヤコブとエサウの兄弟ゲンカから始まったものです。

 兄であったエサウは、自分の受ける分だった祝福をヤコブに奪われ、彼を殺したいほど憎みました。一時的に和解をするものの、やはり根深く憎しみを保ってしまったということが、この不幸を招いています。神様はこの赦さない心、そこにある復讐心に対して正しくさばかれるということです。彼らも決して繁栄できず、滅びに向かいます。

 5番目に、13節に登場するアンモン人へのさばきの宣告です。アンモン人というのは、アブラハムの甥ロトの子孫になります。ロトはこの世的な繁栄を求めて移住していったことが創世記でわかります。有名なソドムに住み、あまりの罪深い町ゆえに天からの火で滅びるということが起こります(隕石でしょうか?天国で神さまに聞いてみたいところです)。

 神の民として生きることよりも「繁栄」という名の偶像に流されていった傾向があります。彼らは最初に登場したアラム人と同じように、ギルアデの地域に乗り込んできて、妊婦を切り裂いたと表現されています。妊婦を切り裂くというのはまさに情け容赦ない軍事行動だということでしょう。彼らはやがてバビロンに滅ぼされていきます。

 最後は6番目は、モアブに対する宣告です。21節からのところです。死海の東側、エドムのすぐ北です。モアブ人ももとは神の民の一族でしたが、何度となくイスラエルに敵対して来ました。そして、以前イスラエルとエドムが協力してモアブを打ち破ったことがありますが、それに対する復讐として、エドムの王を殺して、骨を焼いて灰にしたというのです。

 骨を灰にするといった行為は当時の社会において、死者を侮辱する行為でありました。2-3節を読むと神様がかなり厳しくさばかれる様子がわかります。モアブ人の復讐心、憎悪、死者への侮辱的行為、そこにかなり深刻な罪の問題を見ておられるということでしょう。

こうして見ると最初の6つの外国の背きというのは、いずれも人を人とも思わない残酷な行動、復讐心にかられて無慈悲な虐殺等を行ったことへの神様の正義の怒りが語られているのだと分かります。復讐心、憎しみは思いもよらぬ凶悪な力となることを教えられます。その現実を私たちも直視する必要があるでしょう。

確かに私たちは武器を持って復讐するといったことは、そんなに誘惑とはならないかも知れません。けれども、誰かに傷つけられた時に、見えない武器で報復することは少なからずあることではないでしょうか。相手が嫌がる言動をもって誰にも見えないように復讐していることがあるかも知れません。

ナイフは持たないとしても、ことばのナイフで心を刺すのです。それは人には見えないものですが、神様に見えているものであり、時に武器で殴る以上の深刻なダメージを心に負わせてしまうことがあるものです。

私たちは決して自分で復讐してはなりません。御手おゆだねすべきであります。復讐は神のなさることです。すべてをご存知の方だけが、正しくさばくことがおできになるからです。ここからわかるように、主は神の民だけでなく、すべての国民(くにたみ)をご存知で、それぞれの罪にふさわしくさばかれる方なのです。


 そして、この後に南のユダ王国へのさばきの宣告が24-5節でなされます。

 7番目に登場したユダも、北イスラエルから見れば外国ではあるものの、ユダの背きの内容は明確に他の外国と区別されています

 それは、ユダの場合は「主のおしえを捨てた」ということこそが問題とされているからです。最初の6つの国々は、異教徒ですから、信仰の問題は問われていないのです。同じ人間に対する無慈悲な愛なき行動を背きとしています

 けれども、ユダに関しては、主の教えを捨ててしまったこと主の教えに歩まないことへのさばきです。

 それはより高度で、より高い基準だと言えるでしょう。

 「神の民であるあなたがたは、当然ながら復讐や憎悪で動くべきではない。そんなことは以前から教えられて来ている。これらを行わないのは当然のことであって、あなたがたにはもっと良いものを与え、期待してきたのに、あなたがたは教えをあっさりと捨ててきた」

 主はそのように神の民に語りかけておられるように思うのです。

 より良きものを主は期待しておられる。またそうできるよう助け、導きを与えて来ました。それでも、この民は主を裏切り、主を捨てて、という歩みを繰り返したということなのです。

 でも、それは「神の民」だからこその神様の厳しさであり、同時に大切な使命を与えられ、期待されているという喜ばしい真実でもあるのです。

 神様がご自分の民を大人扱いしてくださっているということです。高い期待を持って、わたしが愛するあなたがたなら、大丈夫ですよね・・・と信頼しておられる。だからこそ、求めておられることが、他の諸外国と異なるのです。

 極悪なことをしないようにで終わらず、主の教えに積極的に生きるようにと召されているのではないでしょうか。神の民はいつの時代でも、地の塩、世の光となるべき使命と責任、そこにある祝福、報いが備えられています。

 だからこそ、神の民からもっともっと良きものを世界に発信していくことを喜びとして、使えて参りたいと思います。

 

  





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