東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記1章「荒野における神の守り」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/10/18

民数記1章「荒野における神の守り」

*** 10/17(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記1章「荒野における神の守り」

 木曜日にワクチンの1回目を受けました。注射自体はチクっとした程度でアッサリと終わりましたが、注射を打って15分もしないうちに左肩が凝り始め、やがて首・頭痛、そして腰にも来てパンパンに張ってしまいました。

 左腕にごく小さな異変が起きただけですが、体全体がそこを守り庇うかのように一緒に痛みを共有する。そんなことが私の体に起こったようでした。まさに先週のメッセージのように、キリストのからだに属する各器官は、一部が痛めば、そこをかばい合うように全体も一緒に痛む。身をもってそれを体験したところです。ただ、妻は腕だけが極端に痛くて、体の他の部分には何ら影響ないと言っていましたから、妻のからだは一体性がなくバラバラだねと言っておりました。(※筋肉がある人の方が影響を受けやすい?との声もあるようです。)

 冗談はさておき、私たちクリスチャンの信仰の歩みは、決して「一人ぼっち」のものではないのです。お互いを必要とし、お互いに支え合う交わりを持って歩むのが、キリスト者の信仰生活です。ですから、自分が倒れたらおしまいなんかじゃありません。あなたが倒れたのならば、起こしてくれる人がいる。あなたを支えともに歩む仲間が必ずいる

神様はそのような支え合う共同体を築きなさいと言っておられるのです。

 
 本日から学ぶ民数記は、まさに神の家族、信仰の共同体(仲間)としてともに歩むことが語られています。そして、厳しい荒野での歩みにおいて、主に信頼することの大切さ、その素晴らしさを教えられます。普通ならば、自分の国が存在せず、危険な荒野で何十年も過ごせば、人口がどんどん減ってもおかしくありませんでした。それなのに他国が恐れるほど、イスラエルの民は人口も多く、意欲も高く保たれていました。それは、ひたすらに神様の深い愛と力ある御手によって守られていたゆえなのです。

 

1. 人口調査をせよ

 そして、この民数記の舞台は、ほぼ何もないような荒野です。実は民数記のタイトルも、元のヘブル語では「荒野にて」と言うものでした。「民数記」というタイトルは、後に生まれたギリシャ語訳聖書(七十人訳聖書)から来たものです。ですから本来は「荒野にて」。ちょっと西部劇のようなタイトルですね。映画の撮影をしたらセットにあまりお金がかからなそうな・・・そんな舞台です。このように民数記では、過酷な荒野において、主なる神様がどのように何百万人という民を守り導かれたのか、みことばから教えられるわけです。

 まず、神様は、無秩序になりがちな荒野での生活の中で、明確な秩序と自らの使命や責任を担って歩めるように、人口調査(住民登録)ということを命じられました。


民数記1章1節
エジプトの地を出て二年目の第二の月の一日に、主は、シナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げられた

 この書が語っている時代背景です。エジプトを脱出して2年目。イスラエルの民はシナイの荒野にいました。エジプトとパレスチナの間にシナイ半島と呼ばれる逆三角形のような半島がありますね。その地域の荒野に滞在していたということです。そのような荒野にて、神様は当時のリーダーであったモーセに告げました。2-3節にその内容があります。

民数記1章2-3節
2 「イスラエルの全会衆を、氏族ごと、一族ごとに調べ、すべての男子を一人ひとり名を数えて、その頭数を調べよ。 3 あなたとアロンは、イスラエルにおいて、二十歳以上で戦に出ることができる者をすべて、その軍団ごとに登録しなければならない

 ここで語られていることは、イスラエルの全会衆を調べて、一人一人名前を確認しながら、20歳以上で戦に出ることができる男子を、兄のアロンとともに数え登録せよということでした。PCもない時代・・・とても大変な作業です。


2. 協力してなすように

 実はもう一つ、神様から指示がありました。4節です。

民数記1章4節
また部族ごとに一人ずつ、一族のかしらである者が、あなたがたとともにいなければならない。

モーセとアロン二人で担うにはあまりにも大変です。うちの教会の礼拝、数十人ですが、それでも数え間違いが起こります。それが数百万人ですよ!気が遠くなります。そこで部族ごとのリーダーを立て、これを行なうよう主は命じられました。

5-15節ですべて名前が出て来ます。神様は指名までされているので、モーセとアロンはそれに従うだけでした。神様は私たちに負えないものを、決して一人で無理して頑張るようにとはおっしゃらない方だと分かります。いつでも共に歩む仲間、協力し合う友を備えて、一緒に歩ませてくださるのです。

ですから、教会理念にも「キリストの愛に根ざして宣教する教会」としています。キリストの愛で愛し合う時、人々がクリスチャン同士の間に現わされた愛を見て、それがキリストの愛なのだと知ってくださるように。そのようにして、上辺の口先だけの宣教ではなく、愛に満ちた宣教をなしていきたいという理念です。

一人では愛を現わせませんので、一人ではなくみんなで一緒になしていくのです。イエス様も一人で弟子を遣わさず、ペアで、チームで宣教をすることを教えておられました。


3. 人口調査の結果

 さて、神様のこのご命令を受けて、実際にモーセとアロンたちは忠実に従いました。
 17-19節です。

民数記1章17-19節
17 さて、モーセとアロンは、これら指名された者たちを伴い、
18 第二の月の一日に全会衆を召集した。そこで氏族ごと、一族ごとに、二十歳以上の者の名を一人ひとり数えて、その家族表で本人を確認した。
19 主がモーセに命じられたように、モーセはシナイの荒野で彼らを登録した

 そして、登録された人の総数が46節のところで語られています。

民数記1章46節
登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。

 603,550人。つまり戦える20歳以上の男性の人数です。それでいくと、女性、子どもたち、老人も合わせれば確実に3倍以上でしょう。少子化とは無縁のイスラエルの民ですから、もっとかもしれません。
 
 さらには、そもそもここにカウントせず、別枠でカウントされる部族もいたのです。それは神に仕える働きに任命されたレビ人でした。47節以降にそのことが触れられています。
49節にこうあります。

民数記1章49節
「レビ部族だけは、ほかのイスラエルの子らとともに登録してはならない。また、その頭数を調べてはならない。

 彼らは神の聖なる幕屋の仕事がありましたから、軍務に就くことは許されませんでした。



4. 人口調査の意味 そこにある主のお心

 
 さて、このようにして人口調査がされましたが、このことにどのような意味があったのでしょうか。まず、大前提として、神様は人口調査をしないと、人数を把握できなかったのでしょうか?どう思われるでしょう?もちろん、人口調査など神様には不要です。全部知っているわけですから。では、なぜ、これが必要だったのでしょう?

それは、この民自身が守られ、有意義に歩めるように。約束の地に向かうにあたって必要な良い備えだったからです。

もちろん第一に、これは軍隊をしっかり組織して、戦う意識を自覚して歩むということがありました。あらゆる外敵から、夜盗から、野の獣から、近隣諸国からも弱い者たちを守らなければなりませんでした。ただ人数がいればいいというのではありません。自分たちが家族を、仲間を守るのだ!という自覚、意識が人を強くします。教会も会社も部活動も同じです。「誰かがやってくれるだろう」という人の集まりは、おそらく長くはもちません。お互いがお互いを守る。大切にする。その姿勢が、過酷な旅路、試練の中にあってもお互いを支えていくのではないでしょうか。

第二に、神様は各人が自分のアイデンティティを明確にできるようにされました。それぞれが自分の所属がどこにあり、自分の役割が何であるかが明確にされました。時に出身部族不明、親が誰かわからない。そんな問題があったことと思います。国もない、領土もない、定住する家もない、国境もない・・・そんな状況下では、ますます自分がどこの誰か分からなくなる。しかし、丁寧に調べては、この人はどこの誰なのか。どこに属しているのか、何才なのか。確認し登録されるわけです。

主のご命令ですから、いい加減なことができません。それは、自分がどこの何者なのかを丁寧に確認できる機会でありました。私たちは自分が何者か、どこに所属しているのかということが明確でないと、何をするにも苦しみます。居場所がないと不安で仕方がありません。神様はこの民が何者であるのか、どこに所属して何のためにそこに置かれているのか、住民登録やそれぞれの役割を命じることで、はっきりとさせてくださいました。よく見てみると、先ほど触れた5-15節のところでも、神様は誰でもいいから代表を出せと言わず、一人一人部族ごとに名前を挙げて指名していますよね。指名するということは、神様がその一人一人を知っているということです。

例えば、教会の出席簿も、教会の力を誇示するためのものではなく、ともに礼拝をささげた一員であるという証しなのです。私もそこに確かにいました!ええ、あなたも確かに一緒に礼拝しましたね!という証しです。インターネット動画の視聴者も、視聴数「1」という数字の奥に、おひとりおひとりの尊い仲間がいる。数えられる、カウントされるということは、その共同体の一員とされているということです。そこに数えられているという事の中に、ともに礼拝をささげている一員であるという意識をしっかり大切にしたいと思うのです。ですから、「ひとりぼっち」という方がいらっしゃらないようにと願います。

そのようなことを主から語られていた時に、ふと私自身、教会の兄姉のために一人一人丁寧に覚えて祈っているだろうかと改めて問われました。祈りのリクエスト表を作ってくださる方もいらっしゃるし、それを見て毎日祈ってくださる方もいらっしゃる。本当に尊いことだと思わされるとともに、私自身、まだまだひとりひとりをしっかりと覚えて祈ること、足りてないなと思わされます。そして、ふと最新の祈りのリクエスト表を見ていましたら、ある方の課題欄に、「先生の身も心もお守りください」とありました。ご自分の祈祷課題を書くところです。

そこにあえて私のことを書いてくださっている。祈っていただいているのだなと、恐縮しましたし、そのことを通して私自身もっとみなさんのために祈りたいなと思わされました。

人は「誰かから必要とされること」なしには生きていけない存在です。人の死というのは、実は人から忘れられた時であると、とある名言にありました。マザーテレサも、「誰からも必要とされていないという孤独の中で死ぬことが、人生最大の不幸だ」と言いました。

 

ご一緒に語られて参りました。 ともすると混乱し、無法地帯、無秩序になりがちな荒野での生活の中で、この民がどの国の人々よりも秩序正しく、互いの存在を大切にして歩めたのは、主の導きゆえでありました。

神様は今日、あなたに語っておられます。

「わたしはあなたを覚えている。あなたを知り、あなたの名を呼び、あなたを私の大切な民として数えている。わたしの働きのために、ぜひ一緒に歩んで欲しい」

主はそのように望んでおられるのではないでしょうか。
 



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