そして、いよいよ本題とも言える、北のイスラエル王国に対する宣告が語られます。その内容は、やはり神を信じない国々に対するものとは全く異なるものでした。それは、神のご契約に対する背きの問題でありました。
そして、こう続きます。「彼らが金(かね)と引き換えに正しい者を売り、履き物一足のために貧しい者を売ったからだ。」と。7節でも同様に、「弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げている。」と続きます。神様よりもお金や物に心を奪われてしまっているという現実(偶像礼拝の一種)を指摘されます。
さらに、その続きは性的な不道徳の問題です。子と父が同じ女性のもとに通っていると指摘されています。これは、ほんの一例に過ぎないでしょう。8節では、神の聖なる祭壇、神殿を汚す行為。不正な利益を得て、それをぶどう酒につぎ込み神の神殿で飲んだくれている。自身の快楽のために弱い者からかすめ取るという、神とそのおことばから離れて、愛なき不道徳な歩みがあふれていたということです。
当時のイスラエル王国は、絶頂期を迎え、経済面、領土面などは繁栄していました。そのような繁栄の中で驕り高ぶり、物質に囚われ、神を忘れてこの世の繁栄に心を奪われてしまっていたのです。
先週の礼拝では民数記を学びましたが「荒野」が舞台でしたね。イスラエルには国も領土も財もない、何もないような時代を通っていたのでした。あるのは「神の守り」のみです。神様を頼るより他なかった時代です。
アモス書の舞台はそれと比べたら「物にあふれている時代」です。国が生まれ、領土も非常に広くなり、その肥沃な大地において多くの農産物、物資を手に入れることができ、強国として名をとどろかせていた時代です。
しかし、どんなに物質的に豊かになっても、それに取り込まれ、神とともにあるいのちを失ったら、なんとむなしいことでしょうか。それは、なかった時代の方がかえって良かったとさえ言えるのではないでしょうか。
もしかしたら、イスラエルは荒野で神様を頼みとしている時の方が、信仰面では訓練され、磨き上げられる時であったかも知れません。
日本も戦後すぐは物がなくて本当に大変な時代であったと思いますが、その後高度成長期を経て豊かになりました。でも、物質的に豊かになることを通して、失ったものも多くあるのだろうと思うのです。謙虚さを忘れ、貧しい中で分け合う喜びを失い、あるもので感謝する姿勢など・・・目に見えない大切なものを多く失ってきたことでしょう。
以前にもお話したことがありますが、このような有名なエピソードがあります。中世ヨーロッパにて、優れた神学者であったトマス・アクィナスと教皇イノセント2世の逸話です。あるとき、トマスが教皇イノセント二世を訪ねました。教皇は莫大な額のお金を数えていました。教皇はトマスに言いました。「トマス君、教会はもう『金や銀はわたしにはない』とは言う時代は終わったね」。トマスは答えました。「はい、本当にそうですね。しかしそれと共に、教会はもはや『イエスの御名によって立ち上がれ、そして歩け』と言うこともできなくなりました」。この話の背景には使徒の働きの3章の出来事があります。弟子たちは「金銀は私たちにない。でも、私たちにあるものをあげよう!」と言って、「イエスの御名によって立ち上がり歩け」と命じて、足の不自由な人をいやしたのです。
教会がこの世的な力に頼るようになりすぎたゆえに、ない中で祈り信仰によって歩むということが失われつつあることを風刺する話でしょう。食べ物がなくて、「神様、今日食べる分を下さい」と必死に祈り、与えられた喜びに涙する時代は終わったという話です。
私たちも経済的に大変になってきたと言っても、祈らなくともスーパーやコンビニに買いに行けば必要なものは十分手に入ります。病気や怪我をしても、祈らないで薬や医者に頼ることもできるのです。
しかし、この世のモノに頼りすぎて、主に頼らなくなることは残念なことです。
以前キャンプで関わっていた中高生の中に、自分はケガをすると薬の前に必ずお父さんに祈ってもらっていたと。薬も神様からの恩恵ですが、「薬で治らない時だけ祈る」となってはいないだろうかと思わされます。
まず主に祈り求めていくということが失われてしまいがちです。
9-11節のところでは、神様はアモスを通して、イスラエルの民に向かって回想させるメッセージを発しておられます。9節では、アモリ人を滅ぼし尽くしたのは主ご自身であると語られます。アモリ人というのは、カナンの地の先住民の総称でした。イスラエルの民が自分たちの領土としたこの地に、元々住んでいた民です。
このアモリ人は、巨人のように体が大きく、強大な民でした。9節の中で「杉の木のように背が高く、樫の木のように強かった」と描写されます。おもしろい比喩表現ですね。杉の木は、まっすぐに伸びてかなり高くなりますよね。そして、樫の木はやはり「堅い頑丈さ」が特徴です。
このアモリ人たちは、背も高く体も強い屈強な民族でした。さらに神をも恐れない不道徳で、凶悪な面を持っていましたから、イスラエルの民はおびえ惑って、この地に進むことをためらったほどでした。それこそ捕虜にされるぐらいなら死んだほうがマシだということもあったかも知れません。自分はまだしも家族がされたら・・・と恐れたのです。
だからこそ、神様はアモリ人の罪をさばかくためにイスラエルに力を与え、アモリ人に勝利させて、この地を与えたのです。それはただ神様のご計画であり、神様のみわざでありました。神の恵みにより、イスラエルは領土ゼロのところから、一気に肥沃な大地を得ることができるようになったのです。神様に感謝しても、し足りないものでした。
荒野をさまよう前はもっとひどい状態でした。10節では、さかのぼって、エジプトの奴隷状態から救い出された話を主が思い出させています。エジプトでは自由がなく、人口が増えてくれば、男の赤ちゃんはみんな殺される・・・奴隷として暴力を受け、重税に苦しみ続ける・・・まともな生活ができない環境でした。
そこから救い出したのは、他でもない神様です。10の大きな災い、奇跡をなさり、エジプト脱出後も数々の奇跡をもって守り導かれました。
10節では、荒野で40年もの間、神様が彼らを守り導き、アモリ人たちの地を所有させてくださったこと、11節では預言者やナジル人を選んで立てたのも主ご自身であったことが語られます。ナジル人で有名なのは士師記に登場するサムソンです。髪の毛を切らず、酒を飲まず、ただ主にお仕えする者であり、忠実な神のしもべと言えます。神様から不思議な力を与えられて、神の民を導きました。時にかなって、主がそのような人々を用いて、神の民を守られたのです。
ところが、この民は神様のそのような恵みのみわざに泥を塗るように歩みました。
12節のことばは痛烈ですね。ナジル人にお酒を飲ませれば力を失います。預言者に預言するなは、牧師に「説教するな」というようなものでしょう。神様のみことばを聴こうとしなかった。それどころか主が遣わしても、その人を迫害する。
つまり、神様を侮辱し、神様の権威を貶めることが起こっていたのです。これらが積もり積もって・・・まさに「三つの背き、四つの背き、それ以上」となって、目に余り、「神様の怒りの表明」がされました。
それでも尚、この民が本当に幸いだと思うことは、神様が預言者を通して、ご自身の怒りを、明確なことばで説明してくださっているということです。
何が悪いのか、何に対して主がお怒りになっているのか、何が起ころうとしているのか。丁寧に語られているわけです。私たちが感情的に怒れば、そうはいきませんよね。権力があれば、丁寧に説明などせず、もうクビだ!明日から来なくて良いとなる。