*** 10/24(日)主日礼拝 説教概略 ***
民数記2章「神の布陣」
月に2回程度は旧約聖書から語られるということで継続していますが、本日は先週に引き続き、民数記から教えられます。なお、祈祷会ではしばらく新約聖書の手紙を学んでいましたが、そちらが終わってアモス書になりました。
アモス書の時代は、民数記の時代よりだいぶ時間が進んでおり、なんとイスラエルが絶頂期を迎えている時代です。領土も非常に拡大し、経済的にも繁栄していた時代です。もう水に困って神様に祈るという時代を過ぎた。それだけ豊かな時代です。
しかし、それは同時に「神様なしには今日食べる物もない!祈らなければ!」という時代も終わったということです。どちらが良いのだろうかと考えさせられます。
なにせ、砂漠のような荒野では圧倒的に物がない。整っていない。だからこそ主に頼るしかなかったわけです。毎日神様の奇跡を経験しながら、神の奇跡の内に生かされていた。
しかし、土地を手にし、王が立てられ、城壁や要塞で守られ、貿易で得た金銀財宝がある時代になると、人は神に頼らなくなりました。日本も戦中、そして敗戦後すぐの時代は物がなかった。だからこそわずかな物を感謝して分け合う風潮もあったでしょう。
しかし、高度成長期を経て物質的に豊かになる代わりに、わずかな物を感謝して分かち合う雰囲気は失われてきたかも知れません。愛も冷めてきたと言えるかも知れません。
神様のみわざをより豊かに経験できるのは、あまり物がない時代なのかも知れませんね。
神様はそのような人の弱さを知っておられるからこそ、荒野の時代を過ぎても、イスラエルの民に「仮庵の祭り」を定期的に守るよう教えました。
この祭りの期間はあえて質素な小屋やテントで過ごし、あの苦しかった困難な時代に神様が守り導いてくださったことを覚えたのです。その時には、「マイムマイム」というダンスを踊ったとも言われます。日本でも有名なフォークダンスですよね。マイムとは「水」という意味のヘブル語で、あのダンスは「飲み水を発見した喜びと感謝」を示すものでした。
水ひとつも主がくださらなければ、手に入らない。今与えられているものが当たり前ではない。主の恵みであることを皆で覚えて感謝する祭りでした。
私たちもいつでも主が私たちを養ってくださるのだと告白して参りましょう。
1. 神の布陣とは
民数記2章では、神様が考案された「神の布陣」が語られています。神様のご指示で各部族が配置を決められ、進んで行く順序も定められたのです。それは神様が指示された布陣ですから、最強の陣営です。安心安全で理にかなった布陣です。
私は中国の三国志とか春秋戦国時代などの話が好きです。そこでは群雄割拠する国々が、いわゆる国盗り合戦をしています。日本の戦国時代も同様ですよね。NHKでも春秋戦国時代を舞台にした「キングダム」というアニメが放映され、家族で一緒に楽しんで見ておりました。そしてこれらを学ぶ度にいつも思うことがあります。
実際に戦うのは兵士ですが、やはり陣形を考え、適切な指示を出し導く「軍師」・「戦術家」の存在が非常に大きいということです。彼らは大きく戦局を変える存在です。日本では竹中半兵衛、黒田官兵衛など。三国志で言えば、やはり諸葛亮孔明が有名ですね。そして春秋戦国時代では「李牧」という軍略家が有名です。どんなに強い軍隊であっても、賢い戦略にかかれば一方的に敗れます。それぐらい、軍を指揮し導く人の存在は大きいのです。
それを踏まえるとき、神の民イスラエルの指揮官は誰でしょうか。全知全能の神様です。圧倒的に強いのは当然ですね。その教えに従うことで、生活のすべてが守られたのです。
さて、今日のみことばの内容を図に起こすならば、このようなものになります。スクリーンをご覧いただけるでしょうか。
これが神の指示なさった布陣です。上が北、右が東になります。まず真ん中に「幕屋」とあります。「ここに神がおられる」というしるしでもあります。この図からわかるように、すべての部族の中心に主がおられるという陣形です。神様の導きと守りの中で荒野でも生き残っていける最高の布陣でありました。
さて、1-9節を読んでいただきましたが、そこではユダ部族を筆頭とする3部族の構成について語られています。3節をご覧ください。
民数記2章3節
前方すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとのユダの宿営の旗の者でなければならない。
とあります。
彼らは陣営の東側に配備されました。そして9節を見ていただくとこうあります。
民数記2章9節
ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。
約18万6千という数字は、ユダとイッサカルとゼブルンの3部族の戦士の総数になります。この3部族が一つの塊になります。オレンジで囲った3部族です。同様に東西南北、すべての方角に3部族ずつ配置されているのです。
そして、9節にあったように、イスラエルの民が出発するときには、東側のユダを筆頭とする3部族が最初に出発します。この2章に記されている記録を追っていくと、図表の①~④の順番になります。東のユダたち3部族、次に南のルベンら3部族。③番目に西側のエフライムら3部族。最後に北側のダン族を筆頭に3部族。という順番でありました。ただし、②と③の間に、実はレビ人(メラリ、ゲルション、ケハテ)が天幕を解体して移動して参ります。それは17節で語られています。やはり行軍するときも主が真ん中にということが意識されていました。
ここに、神様のどのようなみこころが示されているのでしょうか。
2. 神中心であること
なんと言っても、2章を図にするとこのように神様が中心だとすぐに分かります。このような民数記の陣営の配置図は色々な資料にあり、時に東西南北の書き方の違いからユダが下に配置される図もあります。それでも、中心の神様だけは真ん中なので変わりようがないのです。
私たちの交わりも常に主が真ん中におられる交わりでありたいのです。私たちの日々の戦い、毎日が戦いでもありますが、その中心に主を据えて歩みたいのです。
それは神様のいのちのみことばが中心ということです。神の御霊に導かれることへの従順でもあります。誤りなき神のことばが私たちにとって最も信頼できる究極の指針です。行くにも、戻るにも、留まるにも主のみことばに聞くとき、そこに勝利と平安があります。34節にあるように「すべて主が命じられたとおりに」歩んでいる時には、心も体も守られていたのです。
参考のために、第二サムエル記5章18節以下のところ、ご一緒に味わってみましょう。ダビデ王の時代です。どんどん領土が拡大していく時代です。18節で、ペリシテ人がレファイムの谷間を侵略してきました。その時19節でダビデは主に伺います!主の答えは「攻め上れ」でした。そしてその通りにして勝利しました。今度は22節です。再びペリシテ人が同じレファイムの谷間を侵略してきます。ダビデはこの時も主に伺います(23節)。すると、今度は、主はなんと言われたでしょう?「上って行くな。彼らのうしろに回り込め」です。まるで軍師のように、どのタイミングでどこから攻めるべきか。主が言われ、従う時に勝利できました。
私たちの時代においては、聖書を通して主が道を示されます。行くべきか、そうでないのか。どのタイミングなのか。祈りのうちに、毎日の小さな決断をみことばから積み重ねる先に、大切な決断においても主のみこころが分かるようにされて参ります。
3. 家族の交わりを大切にする
34節にこうあります。
民数記2章34節
イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれの氏族ごと、一族ごとに進んで行った。 ここではそれぞれの「氏族ごと、一族ごとに進んで行った」
軍の編成を考えたら、同じ部族で固める必要性は特になかったであろうと思います。しかし、神様は同じ氏族・一族ごとにまとめました。それどころか、3部族ごとのチームはお互いの距離感の近い部族たちを組み合わせてチームにしています。
元々12部族というのは、ヤコブの息子たちが始まりでした。その息子たち、実は母親が同じではありませんでした。レア、ラケルの他に、2名の女奴隷がいました。彼女たち4人からそれぞれ生まれています。できるだけルーツの近い者たちを一緒に歩むように配しているのです。そこにも主のご配慮があったと言えます。
それと同時に、主はこの民を一族、家族単位で団結させたのは、家庭の交わり、家族のつながりを祝福し、尊んでおられるからです。ヨシュアは民にしっかりとその信仰を保つように促す時、「私と私の家とは主に仕える」と言いました。その決心が、その家族をも主の元に導くのです。福音は家族の交わりを回復していく力を持ちます。「父母を敬うことを教え、兄弟姉妹が助け合うように、子どもたちを尊ぶように」とみことばは教えていますよね。
もちろん、家族で教会に集っているのは自分一人だと言う人も多くいらっしゃいます。時にさみしく感じられるかも知れません。
心配しないでください。私も最初は一人で集っていました。本当です。しかし、今では家族7人で集っています。さらにインターネット参加も含めると親族9人で、この教会の礼拝に参加しています。1人で始まるとしても、主はそこに家族、一族、仲間(友人)をも加えてくださるのです。
「信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」とのみことばもあります。
そして、何よりも教会は肉の家族を大事にすることを教えつつも、さらに血のつながりをはるかに超えて、主の愛で結び合わされる神の家族です。ただ、それができるのは、この神の布陣があるからこそです。真ん中の「神の幕屋」の部分がなくなるなら、そこが他の者にすり替わるなら、すべてのバランスは失われるでしょう。
第一のものと第一にするからこそ、第二、第三の交わりが主にあって祝され整えられて参ります。