*** 10/27(水)祈祷会 ***
アモス3章1-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」
1-2節の宣告
有名な申命記6章4節でも、「聞け、イスラエルよ」と主は命じられました。
とにかく何はなくても「主のことばを聞く」こと。そこから私たちの信仰は始まります。
私たちがとやかく何かを言うことによってではなく、主が語られることばを聞く。そこからすべてが始まるのです。
2節に目を向けます。
アモス書3章2節
わたしは地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。
ここでは「神の選び」について語られます。
地のすべての種族の中から、イスラエルの民を選んだと言われます。
申命記7章7節
主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。
イスラエルの民が選ばれた理由は従順だからでもなく、力があるからでもなく、大きな国だからでもありません。むしろ、まだ国もない小さな群であった時に、主はあなたがたを大いなる国民とすると言われ、契約をくださったのです。
アブラハムに対する主のご契約はどうだったでしょうか。まだ息子イサクも生まれていない夫婦二人の時。主は星の数が数えきれないのと同じように、あなたの子孫もそのようになると言われました。「民族」とも呼べないような時に、夫婦二人で歩んでいた時に、主は既に選んでおられ、約束をしておられたことが分かります。
ローマ15章1節
私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。
「福音の恵み」というとてつもなく大きなものをいただいた私たちだからこそ、自己満足で終わらず、福音を持たない弱さの中にある人のために、この恵みを現わしていく使命をいただいているのです。
約束をしているから、二人の者が一緒に歩めます。
交わりもないのに、いきなり一緒に歩んでいるということはないですよね。
獲物があるから、獅子が森の中で吼える。
意味もなく吼えたりはしません。
罠があったから、それにかかった鳥が網でもがいています。罠があるということは作った人、仕掛けた人がいるのです。だから鳥が罠にかかったのです。
アモス書3章7節
まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない。
人は造られた被造物に過ぎません。吹けば飛ぶような小さな存在です。それでも神様はこの小さなちりに等しい者たちに目を留めてくださるのです。
それどころか、まるで親しいパートナーであるかのように、預言者たちを通して人に教えてくださるというのです。「預言者たち」と訳されていますように、ここは複数形です。主はいつの時代でも、様々な預言者を通してご自分の計画を人にしっかりと教えてくださいました。前もって語り、道を示し、危険な場合には方向転換するようにと促されました。
これが恵みでなくて何でしょうか。
ついには、終わりの時、新約の時代には最高の預言者としてイエス様を遣わされました。御子によって、神様はご自身のことばをはっきりと語られたのです。ですから、このすばらしい救いの福音を受け入れないなら、もはや知らせる手段がないほどです。8節にこうあります。
アモス書3章8節
獅子が吼える。誰が恐れないでいられよう。神が語られる。誰が預言しないでいられよう。
エレミヤ書20章9節
私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない。』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。
主のことばを宣べ伝えるのはもうやめよう!二度と語るまい!と思って、うちに留めておくようにしたとしても、それは自分の中で燃え盛る火のようになって、語らないではいられなくなるとの告白です。
以前サバティカル研修休暇ということで1カ月ほどお休みをいただき、ゆっくり休みつつ学ぶ機会をいただきました。しかし、後半になると語りたくなってきた自分を発見しました。学んで恵みを吸収している。それを自分の中だけに留めておけない。伝えないではいられない。そんな思いが湧いてきました。
主のことばは心の中に閉まっておいても豊かに用いられません。与えられたみことばを語り、行動で現わし、そこに生きて初めて私たちも満足します。
「語らなければならない」、「従わなければならない」のではありません。
「語らずにはいられない」、「賛美せずにはいられない」、「みことばに生きないではいられない」。それほどすばらしい主のみことばです。