東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス3章1-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/10/27

アモス3章1-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」

*** 10/27(水)祈祷会 ***
アモス31-8節 「語られたみことば、そこに生きる喜び」

1-2節の宣告 
 有名な申命記64節でも、「聞け、イスラエルよ」と主は命じられました。
とにかく何はなくても「主のことばを聞く」こと。そこから私たちの信仰は始まります
私たちがとやかく何かを言うことによってではなく、主が語られることばを聞く。そこからすべてが始まるのです。

 ここではまさに、主の語られる預言のことばの重要性を再確認させてくれます。

 2節に目を向けます。

アモス書3章2節
わたしは地のすべての種族の中から、あなたがただけを選び出した。それゆえ、あなたがたのすべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する。

 ここでは「神の選び」について語られます。
 地のすべての種族の中から、イスラエルの民を選んだと言われます。

申命記77節を開いてみましょう。

申命記7章7節
主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。

 イスラエルの民が選ばれた理由は従順だからでもなく、力があるからでもなく、大きな国だからでもありません。むしろ、まだ国もない小さな群であった時に、主はあなたがたを大いなる国民とすると言われ、契約をくださったのです。
 アブラハムに対する主のご契約はどうだったでしょうか。まだ息子イサクも生まれていない夫婦二人の時。主は星の数が数えきれないのと同じように、あなたの子孫もそのようになると言われました。「民族」とも呼べないような時に、夫婦二人で歩んでいた時に、主は既に選んでおられ、約束をしておられたことが分かります。

小さい者を主が選び、主を信じて歩み・・・その祝福を受けたからこそ民が増え、大きくなりました。その結果、神の力の証しとなりました。神様の選びとはそのようなものです。大きな力ある民だからではなく、小さく力なき者を通して主はご自身の力あるみわざを世界に示されるのです。結果、その小さな者たちが大きく力ある者とされ、神の福音の恵みが世界中に広がっていることは不思議な神様のみわざです。

そして、神に選ばれ祝福を受けた者だからこそ「使命と責任」があるのではないでしょうか。アモス32節のことば「すべての咎のゆえにわたしはあなたがたを罰する」とあるように、選ばれたゆえに選ばれてない民とは異なる責任があるのです。

新約聖書ローマ人への手紙にもこのようにあります。

ローマ15章1節
私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません

「福音の恵み」というとてつもなく大きなものをいただいた私たちだからこそ、自己満足で終わらず、福音を持たない弱さの中にある人のために、この恵みを現わしていく使命をいただいているのです。

私たちの群れも、小さかった時代と大きくなって来てからでは役割が変化していきます。人が増え、財力も増えるにつれ、それらを十分に主のため、隣人のために用いていく使命が増し加わっているのです。

神様は寝たきりの人に、出て行って人々をケアしなさいとは言われないでしょう。でも、健康で体力のある人には、その体力をもってぜひ弱い人を助けなさいと言われるでしょう。

イスラエルの民は、その点で多く得て繁栄したにも関わらず「自分たちの肉の思いを喜ばせる」ことばかりに力を用いてしまったのです。神を忘れた結果です。

 そのようなイスラエルに警告し、気づきを与え、立ち返らせようと主は招かれます。


3-6節では、7つの比喩的な表現を用いて語りかけています。

3節 約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか。

約束をしているから、二人の者が一緒に歩めます。
交わりもないのに、いきなり一緒に歩んでいるということはないですよね。

4a 獲物もないのに、獅子が森の中で吼えるだろうか。

獲物があるから、獅子が森の中で吼える。
意味もなく吼えたりはしません。

4b 何も捕えていないのに、若獅子がその洞穴で声をあげるだろうか。

何かを捕らえているから若獅子も興奮して声をあげるのであって、何もないのにただ声を出しているのはおかしいでしょう。

5a 罠も仕掛けられていないのに、鳥が地の鳥網にかかるだろうか。 

罠があったから、それにかかった鳥が網でもがいています。罠があるということは作った人、仕掛けた人がいるのです。だから鳥が罠にかかったのです。

5b 何も捕えていないのに、鳥網が地面から跳ね上がるだろうか。 

罠にかかった動物がいたから、罠が作動して飛び上がりました。

ここまでで5つの比喩をもって、理由があり物事が起こること。理由なしには何事も起こらない。そのような神様の造られた仕組みが世界にあることを明らかにしています。この世界にある美しい自然、宇宙、あらゆる物は造られた方があるから存在し続けられるのであって、だから緻密であり調和があり、豊かなのです。

それを踏まえ、その上で、6節ではいよいよ本当に伝えたい核心へと迫って参ります。

6a 角笛が町で鳴らされたら、民は驚かないだろうか。

角笛が町で鳴らされたら、当然民は驚くはずです。敵が攻めてきた!危険だ!と。これはあくまで比喩ではありますが、神様が預言者を遣わし、警告のことばを語らせたならば、「危険が迫っている、このままではいけない」と驚きと恐れを持って行動するものであろうとのメッセージです。6節後半はより明確になります。

6b 町にわざわいが起こったら、主がそれをなされたのではないか。

町にわざわいが起こった。敵が攻めてきた、大きな試練が襲った。主が許容されたから、町にわざわいが起こった。そこには様々な意味、メッセージがある。それをしっかり受け止めましょうということではないでしょうか。生きるも死ぬも神様の御手の中にある。

それを忘れて、力なき偶像に頼る歩みをするとき、滅びに向かってしまいます。

先週も語りましたが、主がその怒りの理由、そのさばきの内容、それらを明確に人間に伝えてくださるのはあわれみ、やさしさなのだということです。滅ぼしたいなら、宣言などせずにすればいい話です。しかし、主は語りかけ、警告し、忍耐のうちに待っていてくださるのです。主の忍耐は私たちにとって「救い」なのです。

主は幾度も選ばれた民に、主の救いを思い出すよう促し、滅びが迫っていることを教えてくださいます。悔い改めの機会を与える神のご愛なのです。 

ですから、7節のことばが私たちに響いてくるのです。

アモス書3章7節
まことに、神である主は、ご自分の計画を、そのしもべである預言者たちに示さずには、何事もなさらない

 人は造られた被造物に過ぎません。吹けば飛ぶような小さな存在です。それでも神様はこの小さなちりに等しい者たちに目を留めてくださるのです。

 それどころか、まるで親しいパートナーであるかのように預言者たちを通して人に教えてくださるというのです。「預言者たち」と訳されていますように、ここは複数形です。主はいつの時代でも、様々な預言者を通してご自分の計画を人にしっかりと教えてくださいました。前もって語り、道を示し、危険な場合には方向転換するようにと促されました

 これが恵みでなくて何でしょうか。 

 ついには、終わりの時、新約の時代には最高の預言者としてイエス様を遣わされました。御子によって、神様はご自身のことばをはっきりと語られたのです。ですから、このすばらしい救いの福音を受け入れないなら、もはや知らせる手段がないほどです。8節にこうあります。
アモス書3章8節
獅子が吼える。誰が恐れないでいられよう。神が語られる。誰が預言しないでいられよう。

 間近で獅子が吼えているとしたら恐れないでいられません。まして、神様が語っておられるなら、私たちは恐れおののきつつ、主の語り掛けを無視するなどできるはずもないのです。預言者エレミヤは、このように告白しています。

エレミヤ書20章9節
私が、『主のことばは宣べ伝えない。もう御名によっては語らない。』と思っても、主のことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに耐えられません。もうできません。

 主のことばを宣べ伝えるのはもうやめよう!二度と語るまい!と思って、うちに留めておくようにしたとしても、それは自分の中で燃え盛る火のようになって、語らないではいられなくなるとの告白です。

 以前サバティカル研修休暇ということで1カ月ほどお休みをいただき、ゆっくり休みつつ学ぶ機会をいただきました。しかし、後半になると語りたくなってきた自分を発見しました。学んで恵みを吸収している。それを自分の中だけに留めておけない。伝えないではいられない。そんな思いが湧いてきました。

 主のことばは心の中に閉まっておいても豊かに用いられません。与えられたみことばを語り、行動で現わし、そこに生きて初めて私たちも満足します。

 「語らなければならない」、「従わなければならない」のではありません。

 「語らずにはいられない」、「賛美せずにはいられない」、「みことばに生きないではいられない」。それほどすばらしい主のみことばです。 




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