東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ルカの福音書24章13-35節「心を燃やしてくださる方」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/11/01

ルカの福音書24章13-35節「心を燃やしてくださる方」

*** 10/31(日)主日礼拝 説教概略 ***

ルカの福音書2413-35節「心を燃やしてくださる方」


 皆さんは、最近、胸が熱くなること、感動を覚えることはありますか?胸が熱くされるような感動が日々の生活に豊かに与えられている。それはなんと幸せな事でしょうか。感動の数は「幸せのバロメータ」とも言われますが、神様とともに歩む日々は大小様々な感動で彩られる毎日です。 
 
 とは言え、かく言う私自身、忙しさの中で一つ一つを主の御前に恵みとして数え、味わうことが十分できていないことがあります。また、キリストと出会う前の私を振り返ると、冷めてしらけた人間だったなと思うのです。何事にも一歩引いて見ている私でした。よく言えば冷静、悪く言えば冷めていて無関心です。


 なぜなら、関心を持って頑張るほどに、期待を裏切られた時の心のダメージがより深いからです。期待して裏切られることを恐れるあまり、冷静でいることを心掛け、熱く頑張ることを控える自分でした。自分を愛し続けてくれる存在などないと思っていました。だから、どんな時にも愛してくれる存在があると期待すれば、裏切られ失望し傷つくだけだと思っていたのです。 
 
 しかし、その一方で、心のどこかで求めていたのだと思います。このような冷静さにギャフンと言わせるほどの「大きな愛」や「大きな感動」があることを。あるならば、ぜひそれを見たいという願いが心の奥にあったのだと思います。 

 その本当の思いを知っておられた神様が、わからずやの私にそのご愛を示してくださいました。キリストの十字架の愛を教えてくださったのです。本物の愛、無償の愛、見捨てられることのない愛です。イエス・キリストの救いは、知れば知るほどに感動します。自ら燃やそうとせずとも、いつの間のか心に熱いものがあふれてくる。心を燃やしてくださる主イエス・キリストです。


1. 失望した二人の弟子

 キリストが十字架で死なれ、失望した二人の弟子が故郷へ帰るところでした。彼らはキリストの墓がからっぽだったとの知らせを聞きましたが、復活したとは信じられず、諦めた気持ちで歩いていました。そんな時にある事が起こります。

14-15節です。 

ルカ24章14-15節
14 彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
15 話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた

 イエス様復活のニュースを信じられなかった彼らは、信仰抜きに論じ合っていました。「期待し裏切られたゆえの辛さ」、彼らの心にはそんな思いがあったのかも知れません。かつての私もそうでした。そこに、なんとよみがえられた本人であるイエス・キリストが来られたのです。ところが16節にこうあります。

ルカ24章16節
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。

 弟子たちは霊的な目がさえぎられていて、主キリストだとは気づきませんでした。「生きているはずがない」という思い込みが、盲目にしてしまったのかも知れませんね。そのような二人にイエス様は話しかけられます。

ルカ24章17節
イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった

 二人は暗い顔をしています。今日のタイトルにある「心燃やされる状態」とはまるで対照的ですね。炎は消え去って、暗い心になっていたのです。彼らの中では主イエスは殺されてしまったまま、自分たちとはもう離れ離れだと思い込んでいるからです。

この二人の弟子は18節にあるように、「エルサレムで起ったことを、あなただけがご存知ないのですか」と言って、説明を始めました。ある意味滑稽ですよね。イエス様こそ、エルサレムで起こった十字架刑の中心におられた方です。一部始終を知っておられるのです。それなのに「あなたはご存知ないのか?」と説明を始めるのですから。主が見えていない時、私たちがいかに的外れな歩みをしてしまうのか。その事にも気づきを与えられますよね。

 二人のうちの一人はクレオパという名前でした。彼はイエス様自身に、イエス様のことを一生懸命説明したのです。その内容は19-24節ですが、イエス様のすばらしさに始まり、十字架の死と復活が語られます。これだけの話ができる知識がありながら、その心は暗く沈んでいるのです。知識ではなく、主を信じてともに歩むことが大切だと分かりますね。


2.イエス様の説き明かし

 だからこそ、イエス様からしたら残念に思われたのかも知れません。25-26節。

ルカ24章25-26節
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」

 これは決して責めているのではないと思うのです。思い出しなさい!しっかり信じなさい!と激励されているのではないでしょうか。以前にも弟子たちに「信仰の薄い者たち」とハッキリ言われましたが、それは責める意図よりも、それを自覚して、今からしっかり信じなさいという励ましであったと思うのです。

その証拠に、イエス様は信仰の弱い彼らを見放すのではなく、聖書全体からご自分のこと、つまりキリストについて語られていることをじっくり説き明かされたのです。27節。

ルカ24章27節
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

 イメージしてください。この場にいられたらどんなにか恵まれただろうかと思いませんか?復活したイエス様からじきじきに、救い主について、聖書全体から説き明かしてもらえるのです。どんな神学校の授業にもまさって「世界一受けたい授業」ですよね。モーセ五書から始めてということで、まさに聖書の初めから、ご自身の今に至るまでの預言を説明してくださったのです。

 しかし、そう思うと不思議です。彼らの信仰が立派でなかったからこそ、弱かったからこそ、主が寄り添いこの特別講義をしてくださったのですから。

 神の国は不思議で、優秀で良くわかる人が有利になるものではなく、信仰の弱い者、遅れてきた者、未熟な者が、かえって主のあわれみを受けて恵まれるという逆転がしばしば起こるのです

この二人は、この人がイエス様だと分からなかったのですが、どんどんその話に引き込まれ、心躍るような思いで説き明かしを聞いていたのではないでしょうか。

私も交わりの中で信仰の話、神様のことを語り合うと心が熱く燃やされます。「時間を忘れて」ということがあります。こうしてただ夢中でイエス様の話に聞き入り、一緒に聖書のみことばを味わっていく中で、いよいよ彼らの目が開かれる瞬間が訪れました。

30-31節のところです。

ルカ24章30-31節
30 そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
31 すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

 イエス様がパンを取り、神様をほめたたえ、裂いて渡された時、彼らの目が開かれました。パン裂きはキッカケに過ぎず、むしろ、イエス様と知らずに聖書の救いについて語り合い、次第に心が開かれ、目が開かれていったということではないでしょうか。彼らがイエス様だ!と分かった時から、イエス様の姿が見えなくなりました。彼らが主イエス様だとわかったならば、もう大丈夫。だから他の人のところに行かれたということでしょう。


3.心燃やされ、目が開かれた弟子たち 

 事実、彼らはとても大切な事実に気づきました。32節です。

ルカ24章32節
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。

 暗く沈んでいた彼らの心は、気が付けば熱く燃えていました。主イエス様と一緒に過ごす時、主の導きの中でみことばが語られるとき、私たちは心燃やされるのです。

自力で燃やそうなどと思う必要はありません。ただ、主とともに過ごし、語り合うならば、気が付いたら「もう燃やされている」のです。

 この後この二人はどうなったのでしょう。立ち上がり、エルサレムに戻って行きました。そして弟子たちの集まりの中に加わり、復活された主イエス様について語り合いました。既に他の弟子たちの間でも、復活の主と出会ったという話で盛り上がっていたのです。

ルカ24章35節
そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。

 彼らは、他にも同じように心燃やされた弟子たちと語り合いました。燃やされた者たちの交わり・・・どうなるか想像がつきますね。これこそ、もう消すことができない「炎上」状態です。薪は一本だけではすぐに消えてしまいますが、集まるならば豊かに燃え続けます。かつての私のように、多少シケっている薪があっても、その中に入ればいつの間にか火がつきます

 皆さんの中にも自分は少しも熱くない。どこか冷めていると思われる方がいるかも知れません。あるいは、本当はもっと感動し、もっと胸が熱くなる日々を歩みたいのだけれど・・・と悩んでいるかも知れません。あるいは、あきらめの気持ちが強くて、一歩も二歩も引いているかも知れません。それでも心配はありません。「自分で燃やす必要がない」と分かったのですから。

キリストとともに歩むのならば、また教会の交わりの中に過ごすならば、みことばを親しく聞いていくのならば、気が付いた時には、いつの間にか熱くなっているからです。心を燃やすのはあなたではなく、主イエス・キリストだからです。

最近、主がくださった胸熱の感動を少しお分かちしたいと思います。あるご年配の未信の方、少し記憶に弱さを抱えておられ送迎なしでは教会に来ることが難しい方がおられます。ところが、どうしても教会に行きたくて仕方がなくなり、居てもたってもいられなくて、数十分も道に迷いながら雨の中ご自分で礼拝に来られました。そして、教会に来て「心からほっとできた。嬉しい」と喜んでおられました。そんな姿に触れ、少なからず感動を覚えました。

ある青年は、先日持たれたユースの交わり企画で、「久しぶりに長時間、教会で過ごせて、みことばにじっくり触れ、神の家族と過ごせた。心が燃やされました」と言ってくれました。バタバタしてしまい、良い準備ができず至らなかったと反省している私でしたが、「やって良かった」と励まされる感動を主がくださいました。

また、ある信徒の方からは「新しい教会の開拓は考えるのですか」と尋ねられました。コロナ下で、誰もが今をどう生きるか、自分のことをそうするかで必死です。それでも、新しい教会を生み出したいと関心を持っておられる。一緒に語り合いながら胸が熱くなりました。

 

 神様は今日も、私たちに親しく語りかけておられます。わたしと親しくともに歩んでほしい。わたしを知ってことを求めなさい。その時、この世のものから味わえない感動と喜びがあなたを包み、あなたを励まし、あなたを強くする。

エレミヤ810節「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ」 





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