*** 11/3(水)祈祷会 説教概略 ***
アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」
主は、わたしがあなたとともにいるではないか。すべてを与えることのできるわたしはでは足りないのか?私たちに問いかけます。そのような問いかけを意識しながら、みことばに聞いて参りましょう。
1. イスラエルの罪
9節の「アシュドデ」とは南のペリシテ人の都市のことです。そのアシュドデとエジプトの宮殿に告げよと語られています。これらの外国に向かって何を告げよと言われているのでしょうか。9節内の『 』内に、サマリアの町の大いなる混乱と抑圧を見よとあります。
アモス3章10節
彼らは正直に事を行うことを知らない。──主のことば──彼らは自分たちの宮殿に、暴虐と暴行を宝物のように蓄えている。」。
「彼らは正直に行うことを知らない」とあります。
神様の前に誠実でないこと、人に対しても誠実でないことが、そもそもの問題の根っこであると気づかされます。騙して不正に利得を得たり、脅したり搾取したりしているという現実かも知れません。神の前に正直でない時、人に対しても愛のない冷たい歩みになっていくと言えます。
2. 罪に対する報いとして
11節では、神様はこれらの恐ろしい罪の山ゆえに、イスラエルの権威を地に落とすと警告されます。その宮殿までもかすめ奪われると語られます。
アモス3章12節
主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。
アモス3章14節
まことに、イスラエルの背きのゆえにわたしが彼の上に報いる日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られ、地に落ちる。
アモス3章15節
わたしは冬の家と夏の家を打つ。象牙の家は滅び、大邸宅も消え失せる。──主のことば。」
3. 偶像から離れ、生ける神とともに
何を語られているのでしょうか。
ヘブル書13章5節前半
金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。
すべてをもってすべてで満たす方が、片時も離れずにあなたとともにいるではないか?
それでは足りないのか?と問われているようです。
すべてを持っておられ、すべてで満たすことのできる主が私たちのもの。
私たちは主のものではないでしょうか。