東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/11/03

アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」

*** 11/3(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス3章9-15節 「わたしでは足りないのか?」


 私たちの心は何によって満たされるのでしょうか。多くの物を所有することなのでしょうか。贅沢をすれば満たされるでしょうか。物で満たそうとすると、際限なく欲があふれ、かえって満足から遠ざかることでしょう。

 主は、わたしがあなたとともにいるではないか。すべてを与えることのできるわたしはでは足りないのか?私たちに問いかけます。そのような問いかけを意識しながら、みことばに聞いて参りましょう。



1. イスラエルの罪

 

9節の「アシュドデ」とは南のペリシテ人の都市のことです。そのアシュドデとエジプトの宮殿に告げよと語られています。これらの外国に向かって何を告げよと言われているのでしょうか。9節内の『 』内に、サマリアの町の大いなる混乱と抑圧を見よとあります。

 サマリアは、北のイスラエル王国の首都・中心地でありました。神様は、南の方の外国の国々に向かって、サマリアという都が、とんでもない状態にあることを告げ知らせよとおっしゃっているということです。

 近くのアシュドデから始まり、遠方のエジプトに至るまで、サマリアに起こっている混乱と弱い者たちへの圧政を「知らしめる」ということです。選びの民だからどんな悪いことをしても、何の報いもない!などということはありません。悪いものを正しくさばかれることもまた主の救いの大切な一面です。

 しかし、本来であれば、神の民として良い評判こそが近い国にも遠い国にも伝えられて行って欲しいことです。ただ、どんなに神様に選ばれようと、自分たちから神を捨てて歩んでしまうのならば、混乱と虐げとが起こり、神様はそれを正しくさばかれるということです。物欲に心を奪われて、神様から離れてしまうことの危険を物語っています。

 現代を歩むクリスチャンたちも、形ばかりの教会を築き、主を恐れることを忘れ、物欲に心奪われて生きるのならば、そのような教会はやがて消え去り、「教会、無くなったんですって」という知らせがあちこちに届くことになるかも知れません。

 そのような知らせではなくて、「大変な時代にあってもキリストの教会はいつも光の中を歩んでいて、変わらず真理に立って輝いていますね!うらやましい!」と思っていただけるような歩みをしたいですよね。そのためにも、私たちの肉の思いに従うのではなく、御霊の人として、神中心に歩んで行くことが必要です。

 10節を読むと具体的な問題点が語られています。

アモス3章10節
彼らは正直に事を行うことを知らない。──主のことば──彼らは自分たちの宮殿に、暴虐と暴行を宝物のように蓄えている。」

 「彼らは正直に行うことを知らない」とあります。
 
 神様の前に誠実でないこと、人に対しても誠実でないことが、そもそもの問題の根っこであると気づかされます。騙して不正に利得を得たり、脅したり搾取したりしているという現実かも知れません。神の前に正直でない時、人に対しても愛のない冷たい歩みになっていくと言えます。

「彼らは自分たちの宮殿に、暴虐と暴行を宝物のように蓄えている」と語られます。

「皮肉」を込めた表現です。不要なはずの暴虐、暴行をまるで宝物や財産を貯めこむかのように、蓄え続けていると言うのですから。私たちは愛と真実をこそ、教会に蓄えたいと思いませんか?キリストという宝で満ち満ちた場所になるような交わりを持ちたいのです。

教会に来たら、無くならない宝の山で満ちているとしたら、魅力的ですよね。

なお「暴虐」とのことばは、英語ではViolenceです。神を離れて行くとイスラエルの民であろうとも、殺伐として暴力が満ちていくのだと人の罪の重さを考えさせられます。

このことばは、創世記6章の大洪水の直前の状況でも使われています(創世記6:11,13)。 

その時は、神様の前に暴虐が山ほど積み重なって、さばきを受けるより道がなかったのです。それゆえ、あの大洪水によって世界の多くの部分がひとたび滅んでしまいましたよね。そのノアの時代を思い出させるような悪い状況がイスラエルに起こっていたということでしょう。 

残念ながらクリスチャンであっても、クリスチャンホームであっても、神を恐れることを失うと人が偉くなり、愛が失われ、Violence(家庭内暴力や虐待)が実際に起こります。ことばや無視(ネグレクト)もViolenceの一種かも知れません。それが罪の現実です。

私たちは決して自分を過信しないで誰もが神を離れては混乱し、暴虐や抑圧的な態度を取り得ることを謙虚に受けとめたいと思うのです。


2. 罪に対する報いとして 

 
 11節では、神様はこれらの恐ろしい罪の山ゆえに、イスラエルの権威を地に落とすと警告されます。その宮殿までもかすめ奪われると語られます。

それでも神様のあわれみがいつも合間に挟まれて、厳しくさばくとおっしゃりながらもあわれみの御手を差し伸べておられることに気づきます。12節ではどうでしょうか。

アモス3章12節
主はこう言われる。「羊飼いが獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶだけでも取り戻すように、サマリアに住むイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長椅子とともに救い出される。 

 羊が獅子に食べられもうほとんど食べられているとしても、それでも少しでもと羊の体の一部を獅子から取り戻そうと必死になる羊飼いのように・・・実に神様も、もはや罪が増し加わり国としては滅ぶしかないとしてさえ、全部は助からないとしても、ごく一部だけでも救い出さそうと願っておられるのです。主の愛が語られています。

つまり神様はこのような罪が山のように増し加わっている中であってさえも、そのあわれみによって、すべてを滅ぼし尽くしはしない、むしろそこにさえ救いの手を差し伸べようとされている。

アモス3章14節
まことに、イスラエルの背きのゆえにわたしが彼の上に報いる日に、わたしはベテルの祭壇を罰する。その祭壇の角は折られ、地に落ちる 

 「ベテルの祭壇」とは、北イスラエル王国が建設された時に、ヤロブアム1世が建てたものです。その背景を読みましょう。 Ⅰ列王記12:25-29 

ヤロブアムの野心。人心がダビデ王家に戻って行かないように、つなぎとめるために金の子牛を造り、一つをベテルにおいて祭壇とした。目に見えるもので人を繋ぎとめようとしたということです。ですから、このベテルは罪深い偶像礼拝の総本山のようなもの。

力なき金の子牛、偶像の祭壇は必ず朽ちて滅びる時が来ます。それと同じように、形あるもの、見えるものに頼る時、私たちはやがて朽ちていくものであり、むなしくアテにならないことを覚えたいのです。目には見えないけれど、確かに生きて働いておられる主を信頼しましょう。

アモス3章15節
わたしは冬の家と夏の家を打つ。象牙の家は滅び、大邸宅も消え失せる。──主のことば。」  

 「冬の家、夏の家」これは贅沢の象徴です。夏と冬とで住み替えるわけで、2つの邸宅を持つという贅沢さ。あるいは「象牙の家」「大邸宅」も贅沢さの象徴でしょう。

 もちろん良い物を受けてはならないということではありません。美味しい物も、良い家も味わっていい。しかし、神様を忘れて、それらの贅沢が偶像となるならば、深刻な滅びへの道を歩み始めることになることは気をつける必要があるでしょう。

 


3. 偶像から離れ、生ける神とともに 

 
 何を語られているのでしょうか。

 あなたが神を知らずに歩んでいるとしたら、今、どのような人生を送っていると想像するでしょうか。神を離れて歩むのならば、その想像した姿へと進んでいくことにはならないでしょうか。罪を宝物のようにして蓄えてしまうのではなく、恵みを宝物としてしっかり味わい蓄えていきたいですよね。

 目に見える繁栄は、やっぱり魅力的に見えるものです。しかし、真に栄えている裕福な人とは、与えられているものを心から感謝し、わずかな物でも満足して生きる人です。

ヘブル書13章5節前半
金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。  

 そして、続いて、主ご自身のお約束が続きます。わたしは決してあなたを見放さず、あなたを』と言われているからだと。

 すべてをもってすべてで満たす方が、片時も離れずにあなたとともにいるではないか?

 それでは足りないのか?と問われているようです。

 すべてを持っておられ、すべてで満たすことのできる主が私たちのもの。
 私たちは主のものではないでしょうか。



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