東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 民数記3-4,8章「主のものとされている喜び」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/11/08

民数記3-4,8章「主のものとされている喜び」

*** 11/7(日)主日礼拝 説教概略 ***

民数記3-4,8章「主のものとされている喜び」


 子どもの頃に「花いちもんめ」という遊びをしました。2チームに分かれて「誰々さんが欲しい」と相手の誰かを指名して取り合っていくゲームです。自分の名前を呼ばれると嬉しいのですが、反対に自分の名前が呼ばれないとさみしい気持ちになりました。

 人は誰かから求められ、必要とされ、そこに属することで安心する存在です。実に、造り主なる神様は、私たちの本当の居場所となってくださる方です。「あなたが欲しい、あなたでなければ」と親しく招いてくださっているのです。

 聖書はその神様からのラブレター、招待状であると言えます。

そのようにして呼ばれ、招きに応じて救いにあずかった者たちが教会に集っています。そこに「主なる神のものとされている喜び」があります。「ああ、嬉し、わが身も、主のものとなりけり~♪」と賛美歌にもある通りです。

しかし、主のものとされていることには「目的」もあります。

 「ああ、嬉し~、終わり!」ではなく、その喜びの中で主の尊いお働きのために召されていることを覚える時に、本当の意味で主のものとされている喜びに満たされます。ご一緒に主のものとされている恵み、そこにある喜びを教えられて参りましょう。

 

1. 神のものとされたレビ人

 
 本日の説教個所としては民数記34章、そして8章と広い範囲になります。しかし、テーマとしては「神のもの」とされたレビ人についてです。彼らは神様と民に仕える祭司の一族であり、神のみこころを自分の思いとして歩むことを求められていました。

 約束の地に入って領地を得ることが出来てからも、レビ人だけは自分の土地を得ることは許されませんでした。どんなに酪農が好きでも、それをすることは叶いませんでした。なぜなら、土地を耕すことが彼らの仕事ではなく、神様こそが彼らの相続地であると教えられたからです。それほどに神様のもとで仕えるという働きは尊く専門的なものであり、十分に習熟する必要があったのです。

 例えば、315節を御覧ください。

民数記3章15節
レビ族をその一族ごと、氏族ごとに登録せよ。あなたは生後一か月以上のすべての男子を登録しなければならない。

 他の部族は20歳以上の男子を戦士として登録するようにありました。それなのにここでは、生後1か月で登録です。もちろん、具体的な働き自体は3050歳でなければという規定もあります。しかし、まだ自分のことを何一つできない赤ちゃんから、もう神に仕える者として訓練されるべき立場に登録されるのだと言うのです。

 日本でも例えば歌舞伎の世界などは、デビューはだいぶ後になるとしても、かなり幼い頃から稽古を始めますよね。歌舞伎に限らず幼い心と体に染みつかせるという教え方があるものです。クリスチャンホームというのも、そこが大きな恵みであると思うのです。幼い頃から心と体と知識とすべてにおいて神様のことを学ぶ恵みがありますね。



2. レビ人の使命、役割

 では、レビ人たちの具体的な役割、使命は何でしょうか? 36-8節。

民数記3章6-8節
6「レビ部族を進み出させ、彼らを祭司アロンに付き添わせて、仕えさせよ。
7 彼らは会見の天幕の前で、アロンに関わる任務と全会衆に関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。
彼らは会見の天幕のすべての用具を守り、またイスラエルの子らに関わる任務に当たり、幕屋の奉仕をしなければならない。

 6節には「祭司アロンに付き添わせて」とあります。アロンとその子らはレビの家系の中でも特別で、「大祭司」として立てられた人々でした。そして他のレビ部族は、この大祭司のリーダーシップのもとで仕える使命があったのです。

 具体的には神の幕屋に関わる奉仕がありました。8節に「天幕のすべての用具を守り」とあります。それは、人々が勝手に幕屋に近づいて器具に触れないように守るということです。ただ、器具を壊されないように守るのでしょうか?確かにそれもあったことでしょう。

 しかし、より重要なことは、むしろ神の民の側を守ることであったのです。なぜなら、神の幕屋は聖所と呼ばれるように聖なる所です。神の聖さで満ちています。もし、勝手な時・勝手な方法で幕屋に近づき触れるならば、ともすると人は自らを滅ぼすことになりました。特に罪に汚れた者が、聖なる神様を軽んじて汚れたままで触れようとするとき、その罪深さのゆえに滅んでしまうのです。実はレビ人でさえも、自分の分を超えてしまうと死が待っていました。例えば420節に

民数記4章20節
彼らが入って行って、一目でも聖なるものを見て死ぬことのないようにするためである

 とあります。神様はそうなって欲しくないゆえに守らせたのです。

 レビ人は神の聖さを守りつつ、同時に人々のいのちを守るためにそれらを管理していたと言えます。レビ人が仕えていたのは神様のためだけでなく、実に人のためでもある。そのように主は導かれたのです。


 実に現代を歩む私たちも、神様に仕えることは人々を守ることでもあると意識したいのです。私たちキリスト者が神の聖さを平然と無視するならば、人々に神の聖さを表すことができません。教会がこの世と何ら変わらない「単なるエンターテイメント」の場となり、みことばが後回しにされるならば、かえって人々はいのちを失ってしまいますよね。塩はしょっぱくなくては役に立ちません。

 私たちの交わりは、誰もが気さくに来られる楽しい場でありたい!でも同時に、神様のいのちにあずかる霊的な場であることをも皆で大切にしていきたいのです。そして、レビ人が神の聖さをしっかり現わすために仕えることによって、神様の聖さを民全体が学びました。自分勝手な礼拝の仕方ではなく、神様が示されたことに忠実に従うことを知り、神様を恐れ敬うことを体験的に学んだのです


3.私たちも主のものとされた祭司 

3章の12-13節はレビ人が生まれながらにして神のものであること、神に献身して歩む部族であることが語られています。

民数記3章12-13節
12 「見よ。わたしは、イスラエルの子らのうちで最初に胎を開いたすべての長子の代わりに、イスラエルの子らの中からレビ人を取ることにした。レビ人はわたしのものとなる。 
13 長子はすべて、わたしのものだからである。エジプトの地でわたしがすべての長子を打った日に、わたしは、人から家畜に至るまで、イスラエルのうちのすべての長子をわたしのものとして聖別した。彼らはわたしのものである。わたしは主である。」

「すべての初物は神のものである」という考え方が聖書にはあります。この世界を造られたのは神様。人間を造られたのも神様。もともとすべては神様のもの。だから、人がこのことを忘れることがないように、いつでも初物を神様のものと考える習慣です。

ですから私たちも収入をいただいた時に、まず神様にささげる分として献金を取り分けます。「自由に使ってたまたま余ったので、献金でもするか」ではなく、「こうして生活できるのは神様の恵みです!感謝して一部をお返しします」と最初に聖別してお献げしますよね。そしてレビ人は、イスラエルの民の初物、長子の代わりとして、神様のために直接献身する者とされていたのです。

814節でもこうあります。

民数記8章14節
こうして、あなたはレビ人をイスラエルの子らのうちから分け、レビ人はわたしのものとなる

とあります。さらに、18-19節のところでも繰り返されています。

民数記8章18-19節
8:18 わたしは、イスラエルの子らのうちのすべての長子の代わりにレビ人を取った。8:19 わたしは、イスラエルの子らのうちからレビ人をアロンとその子らに正式に付け、会見の天幕でイスラエルの子らの奉仕をし、イスラエルの子らのために宥めを行うようにした。それは、イスラエルの子らが聖所に近づいて、彼らにわざわいが及ぶことのないようにするためである。」

レビ人がすべての長子の代わりに、神のものとなって神と聖所に仕える。そのことを通して神の民は祝福を受けたのです。

 そして、この819節では、先ほどの36節にもありましたように「レビ人は大祭司であるアロンとその子らに付き添う存在」であることが再度確認されています。実はアロンという大祭司の完成形がイエス・キリストです。キリストこそ天の幕屋に仕えるまことの大祭司です。

 民数記の時代、アロンのもとにレビ人が選ばれて彼らに付き添って仕えました。では、現代において大祭司キリストに付き添う存在は誰でしょうか。もちろん、牧師や教師、献身者は言うまでもありませんが、実にすべてのキリスト者なのです。第一ペテロ29-10節をご一緒に開きましょう。 

第一ペテロ2章9-10節
9節 しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
10節 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています

 かつては神の民ではなかった者たちを神様がキリストを通して神の民に加えられたのです。ここにいる私たち、誰もがそうではないでしょうか。神の民に加えられ、神のあわれみを受ける者になったのです。その彼らに向かって、9節にあるように「選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民」、そして「神のものとされた民」だと語られています。

キリストを信じたすべての私たちは他の誰の手にも落ちることがない、神のものとされた存在なのです。誰かが気安く傷つけてよい存在ではない。主のものとされているのならば、悪魔でさえ勝手に手出しできない「神所有の民」です。悪魔が声をかけたとしても、私たちの前にはSold Out売り切れゴメン」の札がもうぶら下がっているのです。

そのようにして「主のものとされた私たち」だからこその尊い使命があり、それこそ私たちの喜びであり誇りなのです。私たちはまだ救われていない方々より、いくらか早く選んで召し出していただいた者たちです。主の聖なる祭司です。神の国の親善大使でもあり、人々に神の聖さとそこにある救いを示す役を与えていただきました。

偶然この時代に神の民とされたのではなく、また偶然ここにいるのではありません。神様のご計画の中で、この時代に主のものとされているのです。レビ人が、イスラエルの民のために不用意に神の聖さで滅びることがないよう仕えたように、私たちも世の人々が神を知らずに滅びることがないように仕えたいのです。

 ご一緒に語られて参りました。私たちはもはや、何者によっても奪われることなく、神の愛から引き離されることなき主のものとされました。なんと幸いなことでしょうか。悪魔でさえ手出しできないのです。この恵みが素晴らしいこそ、ただで受けたからこそ、主のために私たちもお仕えし、滅びに向かうことから人々を守りたいと願います。




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