東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス4章1-13節 「聞かれるべき神のことば」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2021/11/10

アモス4章1-13節 「聞かれるべき神のことば」

*** 11/10(水)祈祷会 説教概略 ***

 みことばは語られ続ける必要があります。しかし、語られ続けるだけでは足りず、みことばは聞かれる必要があるのです。どんなに語られていても、目の前にあっても、聞き入れなければ、みことばが人の心で湧き出る泉となることがありません。  


 4章の始まりは3章の冒頭と同じように主のみことばに聞きなさいというメッセージから始まります。当時のイスラエルのすべての問題の根はここにあります。みことばが語られていなかったので、聞けなかったのでしょうか。それならまだ、申し開きが出来たことでしょう。そうではなく、語られているのに聞き入れなかった。その罪ゆえに深刻な状況が迫っていたのです。

『嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語』という本を最近味わっています。

 そこに登場する牧師のことば。「ドイツが救われるか滅びるかは、神のことばが聞かれるか聞かれないかにかかっているのだ」と彼は言いました。

「語られるか、語られないか」ではなく、「聞かれるか聞かれないか」にかかっていると。

 彼はまた、こうも言いました。「神様のことばはとこしえに変わることがない。しかし、それは聞かれなければならない。そうでなければ何の変化も起こらないのです。」 

 変わることなきみことばが目の前で語られていても、人々が聞かないのならば何の変化も起こりはしないのだと。アモス書のテーマはまさにそれでしょう。みことばは語られ続けてきた。みことばは絶えず目の前にあった。しかし、聞くか聞かないかという選択肢の中で「聞かない」を選び続けて来た結果、神の聖さの前に国ごと滅びようとしていたわけです。

 1節の続きに参ります。「サマリアの山にいるバシャンの雌牛どもよ」と語られます。

 これは、イスラエルの欲にまみれて私腹を肥やす女性たちを指していました。「バシャンの雌牛」というのは獰猛で、よく肥えている牛だったそうです。彼女たちは「弱い者を虐げ、貧しい物を迫害した」と神様から指摘されているのです。なお、「虐げる」ということばには「皮をはぐ」という意味もあります。ただでさえ貧困ゆえに、やせ細っている者たち。彼らから、さらに皮まではぐようにして搾取する獰猛な姿に神様は怒りを覚えておられるのです。さらには自分の夫(ご主人)に命じて、お酒を持って来させ、お酒に溺れる者もあったようです。ご主人への敬意も失われていたということかも知れません。

 2節から、神様が「ご自分の聖にかけて誓われる」との語り出しで、さばきのことばが語られます。これからその時代が来る。2-3節では、これらの女性たちがアッシリアに捕縛され、奴隷として連れて行かれるということが語られています。

 4-5節は神様からの手厳しい皮肉です。一見すると、書いてあることは当時の神の民の礼拝スタイルのようなものです。しかし、礼拝の対象は偶像の神であり、その方法も彼らの都合最優先でした。ですから、「さあ、いつもやっているように、ベテルやギルガルに行って背きの罪を重ねるがいい!それで救われるならやるがいい!」と主は怒りを込めて皮肉っているのです。「ベテル」というのは先週扱いましたが、ヤロブアム1世の時代に、金の子牛の像を立てて、ここに神々がいると言って拝ませた場所でした。

 残念ながら作り物の像、偽物の神には何もできません。自分たちの形を保つことさえさえもできないのです。人より劣った存在ですらありますよね。

その現実を6-11節で神様は明らかにしておられます。

 6節、前半の「あなたがたのすべての町で、あなたがたの歯を汚さず」だけを読むと、意味がわかりにくいですよね。ところが、後半を読むと分かってきます。「すべての場所で、パンを欠乏させた」とあり、神様が食べ物を不足させる(飢餓をもたらす)ので、(食べられなくなるので)歯も汚れなくなるということかと分かります。

 7-8節では日照りが起こり、水不足が襲うということが語られています。当然収穫にも影響を与え、飲み水がなくて困り果てるのです。6-8節では、食糧難、水不足が神のさばきの一つとして起こるということが宣言されているのです。

 ただ、一番の問題は、6節と8節のそれぞれの最後にあります。

「それでも、あなたがたはわたしのもとには帰って来なかった」

未来の話をしていますが、必ずそうなるとご存知の神様の視点では「帰って来なかった」という完了自制が使われます。実はこのことばが、この後も繰り返されています。9,10,11節と各節の最後に全く同じ表現で「それでも、あなたがたはわたしのもとには帰って来なかった」と結ばれるので、非常に印象に残る表現ですよね。

1~2章では「三つの背き、四つの背きのゆえに、わたしは彼らを顧みない」とのことばが印象的に繰り返されていましたよね。このように神様は、文学的な印象に深い表現をふんだんに用いています。

聖書がこのような文学的技法の宝庫であるのには理由があります。それはこの書が、単なる歴史の記録でもなく、個人の日記でもなく、神様が工夫をもって人に聞かせようとしているからです。少しでも耳に残るよう、心に残るようにとの配慮からです。同じ表現の繰り返しは耳にも記憶にも残りますよね。特に旧約聖書の時代、各人が聖書を手にしていたわけではありません。赤線を引いたり、ノートに記録したりが難しい時代に、朗読者のことばを聞いて学んでいました。ですから、聞いて印象に残るということは大切だったわけです。

 神様のおことばは、ただそこにあるだけで終わってはならず、それが人に聞かれる必要があったということであります。


 戻りますが・・・911節で繰り返されていることは、神様が様々な災いによって、真剣な悔い改めを促されること、そしてそれにも関わらず「それでも、あなたがたはわたしのもとには帰って来なかった」という人間の強情さです。

 人間の強情さというのは、一番深刻な問題かも知れません。例えば、生活習慣病ってありますね。かなり多くの人が該当者、もしくは予備軍です。私も気をつけないといけない者の一人です。ただ、頭では「気をつけなければ」と分かっていても、なかなか食生活を変えるとか、好きなものを控えるということ。難しいですよね。甘い物を控えなければ、塩分を控えなければ、油を控えなければ・・・それを続ければ体がボロボロになる・・・と分かっていても難しい。忠告され続けても難しい。

 むしろ、「中途半端に気を付けているつもり」が一番やめられないところかも知れません。行くところまで行くと、もうお手上げになり、きっぱり辞められるということあります。

先ほど紹介した『嵐の中の教会』ですが、そこに登場する村の教会は、元々はものすごく生ぬるい形骸化した教会でした。昔からの習慣だから教会に集っているという、文化・習慣の惰性のようなかたちで教会に来る者たちでした。ある意味、当たり前のように教会に来ているし、アーメンと言うのはベテラン。まさに、熱くも冷たくもなく、「ぬるすぎて吐き出されてしまう教会」であったのです。そこそこやっているからこそ危険。

しかし、ナチスの台頭が起こり始める中、ある牧師の着任によって、彼らの信仰が覚醒し、生まれ変わっていく様子が感動的です。その中心に間違いなくみことばがありました。

 イスラエルの民に起こっていたことも似ているかと思います。中途半端に神の民だという意識があり、礼拝行為らしきものをし、どこかで「自分たちはそこそこ正しい」と思っている。あるいは神様のあわれみ深さに甘えている面もあるのかも知れません。

 そのような民に向かって、最後、12-13節で主ご自身の姿を語りながら、こう語られています。12節の最後。「あなたの神に会う備えをせよ」と。すべてを知り、すべてをご存知の方。光も闇も高さも低さも造られ、すべての上におられる方。このお方に「会う備えをしなさい」と語られています。すべてを知り、正しくさばかれる神の前に、あなたがたは堂々と胸を張って出られるだろうか?と迫られています。 

様々な苦しみを通る時、何をしてもうまくいかないと思う時、災いの中で恐怖を覚える時、それは立ち止まって振り返るべき時です。考えるべき時です。それらを通して神様は何を語ろうとしておられるのか。今、神様に堂々と胸を張ってお会いできるだろうか。それを問われ考える機会にできたらと願うのです。 

 主のことばが語られる。私たちは主のことばに聞くという選択肢をし、それを小さなことから積み重ね、主にお会いする備えをさせていただきましょう。

 




教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *