ルカの福音書24章36-43節「疑わず、平安のうちに」
キリストの弟子たちの多くも、「死んだ人がよみがえるはずがない」という思い込みが、イエス様の約束のことばよりも、また目の前に現れたイエス様の姿よりも優先され、なかなか信じられませんでした。私たちは「自分の考え、思い込みを神とせず、神様ご自身を神とし、神のみことばに素直に聞いていく者でありたい」と思います。ともに教えられて参りましょう。
1. 弟子たちの目の間に現れた復活の主
もちろん、全員ではないでしょう。けれどおそらく大半の弟子が、残念なことに喜びや感動ではなく恐れに囚われました。「幽霊を見ているのだ」と思ったのです。面白いのは、イエス様の復活は全然信じられないけれども、幽霊の存在は俄然信じているということです。
2. 疑いの原因
これに対してイエス様は、彼らの弱さに寄り添ってやさしく教え諭してくださいました。38-39節です。
イエス様は弟子たちの幽霊話に付き合い、大丈夫、手足もありますよ、肉体がありますよと教えてくださいました。イエス様がこのように丁寧に寄り添い示してくださる方だからこそ、疑いを、疑いのままで終わらせてはならないと思うのです。
そこで必要なことは、心を開くことです。自分の思い込みの奴隷にならないで、心を開いて神の真実に目を注ぐことです。なぜなら、偽りは私たちを不自由にし、真理は私たちを自由にするからです。
イエス様は38節でこうおっしゃっていますよね。
「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。」と。
取り乱さず、疑わず、ただ神を信じていなさい。そんな主のメッセージが込められています。もちろん、誰もが疑ってしまうことはあります。人間ですから、誰でもあることです。
それに、真実を知りたいがゆえに「疑問を持って問いかけていく」ことは良いことです。「聖書はなぜ信頼できるのか?」「イエス様の十字架と私、どう関係があるのか?」「どうしたら人は救われるのか?」と。
ところが、何を語られようと、何を示されようと頑なに疑い、信じようとしない心も私たちの中には起こり得ますよね。イエス様のことばは、直訳的に訳すと「あなたがたの心に、疑い(複数)が起こってくるのは、なぜですか?」と訳せます。この問いに、「なぜ疑いが起こるのだろう」と考えさせられます。なぜでしょう??
私自身が考えさせられたことは、自分の思い込みの奴隷になっているゆえだということです。人が死んだら、よみがえるはずなどない。死者がよみがえるなどあり得ない。弟子たちは神のみことばよりも、イエス様の約束よりも、その自分たちの考え、常識こそが正しいと思い込みました。ゆえに、目の前に起こっていてさえも受け入れられず、ひたすら疑ってしまったのではないでしょうか。
それはもう少し違う言い方をすると、「神様がなさったみわざよりも、私の考えの方が正しい」、「神様のおことばよりも、私の判断の方が正しい」と、どこかで思っているということではないでしょうか。その目で復活の主を見てさえ「幻だ、幽霊だ」と非科学的な言い訳で処理しようとさえした弟子たちです。それは結局、神の言い分より、私の言い分を愛している「自分の思い込み信仰」と言えるのかもしれません。
「私はダメだ、私は変われない」と頑ななほどに信じ切っているので、神様が「あなたは生まれ変わる!キリストによって新しくなる!」と明確に言われていても信じない。
周囲の人が「変わったね!」と率直に言ってくださっても、尚、そんなことはあり得ないと、疑い続けてしまうのではないでしょうか。
しばしば私たちは、自分たちの受け入れやすいみことばばかり選んで受け入れ、自分の考えに合わないものは無視してしまうのです。神様の主権よりも、自分自身を主権者にしているということです。神様が主権者であると認めることは、自分には受け入れがたくとも、「神様のことばが自分の考えより上にあるのだ」と受け入れ、信じていくことです。
3. 寄り添ってくださる主
このように頑固な弟子たちに主は何をされたのでしょうか?40-43節です。
おもしろいことに、41節によれば、弟子たちは「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていた」のです。幽霊ではないと分かって嬉しいのに、まだ信じられないのです。
イエス様は、どこまでも信じれ切れない弟子たちに、今度は目の前で魚を食べてご覧に入れました。口から入った魚がレントゲンのように透けて見える・・・わけもなく、ちゃんと体内に消えて見えなくなる様子をしっかり見せました。「ほら生きているでしょ!わたしです!」と示されたのです。
イエス様にここまでさせるのは、弟子たち、私たちの心が疑い深いからに他なりません。不安で、こわがりで、思い込みが激しくて、素直に受け入れることができない私たち。しかし、主はあきらめずに、寄り添って、わからずやの私たちに手を差し伸べ続けておられるのです。
だからこそ、私たちはどこかで信じて飛び込む必要があるのではないでしょうか。
既に信じていると言う者たちも、疑いによって平安から遠ざかるのではなく、信じて主の平安の中へと進みましょう。
4.疑いから平安へ
主イエス・キリストは、私たちにまことの平安を与えたいと切に願っています。平安とはヘブル語でシャロームです。シャロームは、神様と親しい良い交わりがある時に受けられる最も安心できる幸福です。
有名な二人の画家の話を再びすることをお許しください。
王様が二人の画家に「静けさ」というテーマで絵を描かせました。一人は波一つ立たない湖の絵を描きました。湖面にはきれいな月が写り込み、いかにも静かで平穏に満ちた絵でした。ところが、もう一人の画家は全く別の絵を用意しました。激しい滝の景色です。ゴーゴーと滝が落ちる音が聞こえてきそうで、静けさとは程遠く思えました。王様はなぜ、これが静けさなのかと尋ねました。画家は言いました。「あちらの画家が描いた絵は、確かに静けさそのものでしょう。しかし、あまりにも現実離れしています。私の絵をよく見てください。滝が激しく流れる横で親鳥の翼で守られているヒナたちが安らいでいるのです。」
確かに私たちの現実はこのように、激しい滝が流れ、いつも心が騒ぐ喧騒の日々です。しかし、親鳥の翼の下に守られるヒナたちは、そんな滝などお構いなしに、安心して過ごしているのです。シャロームとは、まさにこの滝の絵に現わされているように思います。神に信頼し、その御翼の中で休むのです。「ここは実は安全ではないのか?」と疑い出せば、安心のはずの場でさえ、不安になるのは当然ですよね。
この世の歩みは試練の連続かも知れません。しかし、主なる神様の御翼の陰にかくまわれ、この方を信頼してピッタリと身を寄せましょう。外がどんな状況でも平安があるのです。
よみがえられた主は、死にも勝利された力ある神様です。この方の御翼の陰にこそ、真の平安、シャロームがあります。疑い、拒む心は何物も生み出すことができません。心を開いて真実を見つめて参りましょう。疑いから平安へと前に進みましょう。