東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: アモス5章1-17節「主を求めて生きよ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2021/11/19

アモス5章1-17節「主を求めて生きよ」

*** 11/17(水)祈祷会 説教概略 ***

アモス51-17節「主を求めて生きよ」

 この5章でも同様に、「イスラエルの家よ、このことばを聞け」と始まります。
そして、預言者アモスによる哀歌(もしくは挽歌)が歌われます。哀歌は嘆きの歌、深い悲しみの歌です。挽歌と訳すこともできるかと思いますが、それは特に死者を悼み悲しむ歌と言えるでしょう。イスラエルの将来の深刻な姿を嘆き悲しむ歌です。

 しかし、その歌を伝えることで、民が一人でも悔い改め、主に立ち返ることを神様もアモスも願っていたに違いありません。

 この歌は下記のようにDの「頌栄」を中心とした同心円構造(キアスムス構造)を持っています。とても印象的に記憶に残るように文学的技法をこらした歌となっているのです。


 1節にて「聞きなさい。哀歌を歌うから」と始まります。
その後2-17節までが一つのまとまりとして以下のような構造になっているのです。


A 2-3節  嘆きの歌(アモスに歌われる)

B  4-6節  を求めて生きよ

C    7節   公正・正義の放棄

D     8-9節  頌栄(神をほめたたえる)

C’   10-13節  正義を捨てて背く

B’  14-15節 善を求めよ、愛せよ(=を求めよ)

A’ 16-17節 嘆きの歌(国中至るところで歌われる)

AA'BB’CC’がそれぞれ同じテーマにおける対応関係にあります。

このように、Dの8-9節の頌栄が中心にあり、神をほめたたえる賛美がなされます。このところに立ち続ける限り、恵みと祝福が離れることはありません。

しかし、C&C’(7節、10-13節)のように正義を捨てて神に背く歩みは、そこから離れた者の姿です。

神様はそのような者たちにB&B’(4-6、14-15節)にあるように、主を求めて生きよと語りかけ、呼び戻そうといつもされているのです。

なお、それさえ聞き入れず、自分たちの思いのままに生きるとき、やがてそれはA&A’の深刻な嘆きの歌へと歩みを進めてしまうことになるのです。

このような構造を考察するとき、神様とその導きで著した聖書記者の心がより深く私たちに迫って来るような気がします。 


1. 嘆きの歌

さて、2節は二行詩の嘆きの歌の形になっています。

 前半の「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない」ここが一行目。「彼女は自分の地に捨て置かれ、これを起こす者もいない。」が二行目の詩にあたります。神との結婚を控えたおとめとして、イスラエルが描写されます。

 本来であれば、婚約し結婚に向かう花嫁というのは、華やかで幸せの象徴のようなものでしょう。特に「神の花嫁」ですから!本当に幸せ(シャローム)になれる立場であったのです。ところが、その幸せを前にして倒れてしまうという悲惨を歌っています。

 婚約までしながら、偶像の神に浮気をして、結婚を破綻にしてしまうのです。愚かとしか言いようがありません。自ら幸せを放棄してしまうのですから・・・。

 その悲惨さは3節でも、別の表現をもって伝えられます。敵との戦いにおいて、兵を出征させて必死に戦っても、10分の1に減って帰って来るというわけです。

 人口が激しく減っていく様子は深刻です。神を離れては何をしても上手く行かず、確実に滅びに向かう様子が厳しく語られているのです。同様に、その悲惨さは16-17節でも語られています。

 2-3節で歌われた悲しみは、最後の16-17節でさらに広がりを持って歌われます

2-3節ではアモスが哀歌を歌っている構図ですが、16-17節では今度は国中のあちこちで嘆きの歌が起こることを語っています。すべての広場で、すべてのぶどう畑で・・・嘆きが起こるというのです。

17節の終わりに、「それは、わたしがあなたがたの中を通り過ぎるからだ」と理由が語られます。神様が素通りしてしまい、彼らの中に留まって下さらないという意味もあるでしょうか。あるいは、この意味は、神がさばきをもってイスラエルの真ん中を通り抜けると、嘆きしか残らないという理解かも知れません。

いずれにせよ、神様を離れては何一つ、良い実を結ぶことができないのです。一番の嘆きの理由は神から離れていることにあります。それはヨハネの福音書15章のぶどうの木の例えからも分かります。枝が木の幹を離れては、木からもらえる水分、あらゆる栄養素を受けることができないので、もはや枯れていく道しか残されていません。


2.主を求めていきよ 

 ですから、4-5節で「わたしを求めて生きよ」と主が言われるのだと語られています。神様ご自身が「わたしを求めて、生きるように」と言われるのです。ベテル等の偶像礼拝の場所に行ってもそれらは何もしてくれない。だから、生きておられるまことの神、主を求めるようにと繰り返し語られます。

6節を見ていただくと、預言者アモスのことばとしても「主を求めて生きよ」と念を押されています。結局はここに尽きるのです。

主を求めないと、主のさばきが炎のごとくに降りかかり、誰も消す者がいなくなると。これは14-15節でも同じテーマでありまして、そこでは「善を求めよ。悪を求めるな」と言い換えられています。

主を求めて生きることは、すなわち善を求め、悪から離れる道なのです。

なぜなら主は愛の方。良いお方。この方を求めるなら、私たちは愛と良いもので満たされます。それは隣人への愛となり、優しさとなり、良いわざへと私たちを進ませます。

そして、主である神様を求め、悪から離れるなら15節の最後にあるように「もしかすると、主があわれんでくださるかも知れない」とのことばに行きつきます。それでもかなり深刻な状態ゆえに、「もしかすると」、「あわれんでくださるかもしれない」になります。この表現は現状の厳しさをより際立たせていると言えるでしょう。

 それでもやはり神様にすがる道しかないのです。そして、主は本気で悔い改め、求める者には必ず答えてくださる方です。それは聖書全体が明確に主張していることです。

 

3. 神への賛美(頌栄)

 
 アモスはイスラエルの民が、このお方に目を注げるよう願い、この哀歌の中心に神様への頌栄、賛美を配置しています。8-9節です。

8節 すばるやオリオン座を造り、暗黒を朝に変え、昼を暗くして夜にし、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ方。その名は主(ヤハウェ)。

9節 主は、強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。

 8節は印象的です。宇宙にある星座を指し示して、それらを造られた方とほめたたえます。この地球上にあるものではなく、その外、はるか遠くに見える星々さえもすべて造られた方であると。そして、暗黒を朝に、明るい昼を再び夜に自在に変えるお方。それらもまた地球の外にある太陽、月、地球の自転・公転などを支配しておられるということに他なりません。そして、海の水を呼び集めて、それを地の面に注ぐ・・・これは雨の仕組みですよね。

 海の水が蒸発して、空に上り、雨雲となって移動してきて雨を地面のある地域に降らせる。現代の社会ではこれは常識かも知れません。しかし、2700年以上も前の時代です。コンピューターも何の機械もない時代に、これの仕組みが当たり前のように聖書では語られ教えられているのです。星座の話もそうでしょう。人がまだ地球のこと、宇宙のこと、全然わかっておらず、仮説ばかりで生きていた時代に、聖書は驚くほど正確にこの世界の仕組みのことを語っています。ノアの箱舟の縦横高さ比率は、現代の大型タンカーで採用される黄金比ですし、ヨブ記を見れば星座の話、星の周囲をまわる衛星の話、詩篇では海流のことが語られ、人が当時、まだ全く知らなかった情報であふれています。

 これらの壮大なすべてを造り、造られただけでなくそれを維持して活動させている方。その方の名前はヤハウェ(太字の)、全知全能の神様なのだとほめたたえているのです。ヤハウェということばの背後には、モーセと神様とのやり取りがあります。

14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」 

 神の名を尋ねたモーセに神は答えられました。「わたしは、『わたしはある』という者である」と。驚くべき答えで「わたしはある」というのが名前だと。それは存在そのもの。ここに存在する。それが神の呼び名であるという事。何にも依存せず、何者によってもいのちをもらわずに、初めからそこに、そして永遠に存在する方。「わたしはここいる。確かにいるのだ。」そう語りかけられているのです。神はそこにいることが当然、大前提のお方なのです。神様の存在は、人の反応いかんに左右されません。私が信じようと信じまいと、存在するという事実に何らの影響を与えられません。それが「わたしはある」というお方、ヤハウェです。

 ですから、9節にあることは当然すぎる結論で、宇宙まで支配しているのですから、イスラエル人にとっては絶対敵わないと思われた「アッシリア」さえも、神様の前には「踏みにじられる」ちっぽけな存在です。その要塞は紙くずのごとくに破壊されるのです。

 

ゆえに「主を求めて生きよ」と語られていること、私たちも受け止めて参りましょう。

 罪という問題を考える時、私たちはあの罪、この罪と一つ一つの具体的なものをイメージします。しかし、罪の本質は神様から外れていくこと、離れて行くことです。神を求めることを失い、自分を頼みとし、結果、神様の望まない歩みを終始していく。そして不幸せになり、滅びへと向かってしまうということです。

 主を求めない・・・実にこれが罪の根本の問題なのではないでしょうか。

 むしろ、具体的に罪を犯したとしても、主を求めるのならば、そこに十字架の赦しがあります。回復がそこにあります。やり直す道があります。ですから、一生懸命罪から離れよう、罪から離れようと生きるよりも、主を求めて生きれば良いのです。
 
 神様を求めて生き続けるのならば、結果として罪から守られ、愛と真実の中に生きる者へと変えられていくからです。



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