*** 11/17(水)祈祷会 説教概略 ***
アモス5章1-17節「主を求めて生きよ」
この5章でも同様に、「イスラエルの家よ、このことばを聞け」と始まります。
そして、預言者アモスによる哀歌(もしくは挽歌)が歌われます。哀歌は嘆きの歌、深い悲しみの歌です。挽歌と訳すこともできるかと思いますが、それは特に死者を悼み悲しむ歌と言えるでしょう。イスラエルの将来の深刻な姿を嘆き悲しむ歌です。
しかし、その歌を伝えることで、民が一人でも悔い改め、主に立ち返ることを神様もアモスも願っていたに違いありません。
この歌は下記のようにDの「頌栄」を中心とした同心円構造(キアスムス構造)を持っています。とても印象的に記憶に残るように文学的技法をこらした歌となっているのです。
1節にて「聞きなさい。哀歌を歌うから」と始まります。
その後2-17節までが一つのまとまりとして以下のような構造になっているのです。
A 2-3節 嘆きの歌(アモスに歌われる)
B 4-6節 主を求めて生きよ
*AとA'、BとB’、CとC’がそれぞれ同じテーマにおける対応関係にあります。
このように、Dの8-9節の頌栄が中心にあり、神をほめたたえる賛美がなされます。このところに立ち続ける限り、恵みと祝福が離れることはありません。
しかし、C&C’(7節、10-13節)のように正義を捨てて神に背く歩みは、そこから離れた者の姿です。
神様はそのような者たちにB&B’(4-6、14-15節)にあるように、主を求めて生きよと語りかけ、呼び戻そうといつもされているのです。
なお、それさえ聞き入れず、自分たちの思いのままに生きるとき、やがてそれはA&A’の深刻な嘆きの歌へと歩みを進めてしまうことになるのです。
このような構造を考察するとき、神様とその導きで著した聖書記者の心がより深く私たちに迫って来るような気がします。
1. 嘆きの歌
2.主を求めていきよ
ですから、4-5節で「わたしを求めて生きよ」と主が言われるのだと語られています。神様ご自身が「わたしを求めて、生きるように」と言われるのです。ベテル等の偶像礼拝の場所に行ってもそれらは何もしてくれない。だから、生きておられるまことの神、主を求めるようにと繰り返し語られます。
3. 神への賛美(頌栄)
アモスはイスラエルの民が、このお方に目を注げるよう願い、この哀歌の中心に神様への頌栄、賛美を配置しています。8-9節です。
むしろ、具体的に罪を犯したとしても、主を求めるのならば、そこに十字架の赦しがあります。回復がそこにあります。やり直す道があります。ですから、一生懸命罪から離れよう、罪から離れようと生きるよりも、主を求めて生きれば良いのです。 神様を求めて生き続けるのならば、結果として罪から守られ、愛と真実の中に生きる者へと変えられていくからです。