*** 11/24(水)祈祷会 説教概略 ***
アモス5章18-27節「あなたの心を求めておられる主」
先週は主を「求めて生きよ」というテーマでした。罪を犯さないように、罪から離れようという消極的な歩みではなく、主を求めて生きていくことで、その結果、むしろ罪を犯したくなくなるし、主との交わりの中で守られていくことを教えられました。
今週は、主もあなた自身を求めているということで「あなたの心を求めておられる主」というテーマで教えられます。
18-20節は預言者アモスのことば。
21-27節のカッコ内は主のことばとして語られています。
1. 主の日が闇に災いに思える悲惨
これらはイスラエルの滅びの時、捕囚の予告として語られています。
アモス5章18節
ああ。主の日を切に望む者。主の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない。
「主の日」とはここでは直接的には、神のさばきによってイスラエルが滅んでいく日です。冒頭は「ああ」と訳されていますが、主の日に起こる悲惨を思い、預言者アモンが強い嘆きを現わしているのです。「ああ」の部分は訳によっては「災いだ」とも訳されます。「ああ、なんという災いだろうか・・・」と悲しみ嘆いているのです。
アモス5章20節
主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、そこには輝きはない。
こんなに悲しいことはないでしょう。主の正義のさばきの日が早く来るようにと祈り求めて来たはずの民です。しかし、主の日が自分たちに牙をむいてしまうのですから。
2. 主が嫌われる偽善
アモス5章21節
「わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときの香りも、わたしはかぎたくない。
信仰の伴わない中身のない儀式・集会は神様に嫌われてしまいます。愛のない働きはどんなに立派な外見を持っていても、役に立たない、意味がないとみことばは語ります(Ⅰコリント13章を参照)。22-23節でもこう語られていますね。
アモス5章22-23節
22 たとえ、あなたがたが、全焼のささげ物や穀物のささげ物をわたしに献げても、わたしはこれらを受け入れない。肥えた家畜の交わりのいけにえを献げても、わたしは目を留めない。
23 あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。あなたがたの琴の音を、わたしは聞きたくない。
3. 主が求めているものは、あなた自身、あなたの心
アモス5章24節
公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。
これは先週のみことば、5章7節、14-15節で、正義を捨てず、善を求めよ、正しいさばきを行なえと語られていました。人に対して公正に取り扱うこと、神の前に正しい道に生きること。隣人に対してあわれみを示し正しいことをする民。その民が精いっぱい主を愛してささげる物であれば、主は小さなささげ物であっても大いに喜んでくださいます。
アモス5章25-26節
25 イスラエルの家よ。あなたがたは荒野にいた四十年の間に、いけにえとささげ物を、わたしのところに携えて来たことがあったか。
26 あなたがたは自分たちの王シクテと自分たちの像キユン、自分たちのために造った神々の星を担いで来た。
荒野で歩んだ40年間、イスラエルの民はひたすら神様に養われていました。領地もないので、自分たちの手で収穫を得て、そこからささげるということが出来なかったのです。神様が天から降らせてくださるマナによって生かされていますから、ささげることは困難でした。では、ささげ物をできなかったこの時に、神様はお怒りになられたのでしょうか?? いいえ、主は求めもせず、できなかったからと言って何ら罰も与えませんでした。
その人は昼も夜もその教えを口ずさみます。それはしなければならないからではなく、思わず口ずさみたくなるということ。それほどに主の教えを味わい、喜びとして生きているのです。その人はなんと幸いなことかと、語られています。「ああ、災いだ」と語られるアモス書とは対照的です。 罪を犯さないようにとの減点方式の律法主義的歩みではなく、主ご自身を心から求め愛していくこと。罪を犯さないことや罪のきよめがゴールではなく、主ご自身との人格的交わりが私たちのゴール。その結果、罪からも離れさせていただけるのです。