2023/09/19
伝道者の書4章7-12節「二人は一人にまさる」
2023/09/14
ローマ書2章17~24節「自分自身を教えること」
ローマ書2章17~24節「自分自身を教えること」
2023/09/12
2023/09/08
ローマ書2章12~16節「神の前に正しく生きる」
「ナルニア国物語」の原作者、CS・ルイスは、人の心に与えられている「良心」こそ、私たちが神様に造られた大きな証拠だと言いました。聖書を学んでいなくても善悪を判断する心が人にはあります。また、悪いことをすれば心が痛むので、それが悪いことなのだと分かりますよね。法律や道徳を勉強したから身についたのではなく、生まれながらに人には「良心」というものがあるのではないでしょうか。これこそ人が神に造られた証拠でしょう。
2023/09/04
第一ヨハネ3章4~10節「変えられた私たち」
第一ヨハネ3章4~10節「変えられた私たち」
2023/08/30
ヨハネ13:34-35「愛に根ざした伝道」(共同体としての愛の伝道)
テーマ説教 ヨハネ13:34-35「愛に根ざした伝道」
2023/08/24
ローマ書2章6~11節「神の公正なさばき」
ローマ書2章6~11節「神の公正なさばき」
2023/08/21
伝道者の書4章1-6節「一握りの静けさ」
伝道者の書4章1-6節「一握りの静けさ」
2023/08/13
第一ヨハネ2章28節~3章3節「私たちは神の子どもです」
第一ヨハネ2章28節~3章3節「私たちは神の子どもです」
2023/08/10
ローマ書2章1~5節「さばくのではなく・・・」
*** 8/9(水)祈祷会 説教概略 ***
ローマ書2章1~5節「さばくのではなく・・・」
他の人がしている罪深い行い。不従順、不信仰の姿。それらに対して、私たちはとても敏感に、さばく思いを持って見つめてしまいます。2節と3節にある「そのようなことを行う者たち」とは、直前の28節以下に登場した様々な罪を行う者たちでしょう。
私たちもまた「あなたがその人です」とみことばから語られる必要があります。
このみことばをあの人に聞かせてあげたいと、他人にみことばを適用する習性はないでしょうか。気持ちはわかりますが、まず自身が主のみことばの前にまっすぐに立つことが大切ですよね。
今日のローマ書の2:1でも、他人をさばくことは、自分自身にさばきをくだすことだと教えられています。私たちに必要なことは、さばくことではなく、自分自身を振り返り、悔い改めながら生きていくことです。
また、他の人が罪を犯しているのなら、その人のために自分自身のこのように祈るべきでしょう。そして、御霊の助けのうちに、柔和な心で正すようにと、ガラテヤ書では教えられていますよね。柔和な心とは、自分を他の人の上に置かない姿勢です。むしろ、へりくだって自分を弱くし、小さくし、その人の立場や目線に立ってということです。
誰かが罪に陥った時に、自分にも同じ弱さがある、自分も同じ罪人なのだという「徹底したへりくだり」の中で関わる必要があります。それがあって、初めて柔和な心で他の人を良い道に連れ戻せるのです。
私もこの点で至らなかったことがあり、悔い改めさせられたことがあります。先日のキャンプにおいて、十字架につけられたイエス様とその両隣にはりつけにされた二人の囚人の話をしました。それを聞いたあるスタッフが分かちあってくれました。自分はこれまで一人目の囚人が、イエス様をののしって、お前が本当にキリストなら、自分と俺たちを救え!と言う姿を見て、ひどいやつだとさばいてきた。でも、今回、自分の中にも似たものがあることに気づいた。自分たちは、どこかで救われるのが当然のこのように思っているんじゃないか。愛の神なら人を救って当然かのように考えている。しかし、むしろ、救われてはいけないほどの罪人であることが事実なのだと。本当は、もう一人の囚人が言ったように、自分たちは、その報いとして、むしろ十字架にはりつけにされることが当然の側なのだと気づかされたと言います。
実際のその場面のみことばを開きましょう。ルカ23章41-42節
23:41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」23:42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
本当にその通りです。私たちは、自分の犯し続けている罪を考えたら、十字架にはりつけにされることの方が「当たり前」なのです。だから、「自分と私たちを救え」と主に命じるなんてとんでもない。まして、他の人をさばく立場にはないのです。
ですから、この囚人は「救ってください」とさえ言わなかった。救われるのに相応しくないとわかっていたから。ただ、このような取るに足りない者ですが、私を思い出してくださいと。それで十分だという謙虚さ、彼なりの信仰でした。
彼に対して主がなんと言われたのでしょうか。
23:43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」 さばく心ではなく、砕かれ悔いた心を主が喜ばれることがよくわかります。
ですから、さばくことができる側の人間ではないのだという自覚が必要です。他人をさばいていながら、自分がその報いを受けていないとしたら、それは主のいつくしみ深さのゆえ、忍耐と寛容のゆえです。私たちは主のこうしたあわれみと寛容さに、心から感謝をしたい。滅びないで済んだことは、ただ主のあわれみ以外の何物でもないと受け止めたいのです。4-5節をご覧ください。
実は「神の怒り」が私たちを心からの悔い改めに導くのではありません。怒りは確かに私たちに恐れを与え、私たちを砕くかも知れません。でも、そこから主のふところに大胆に飛び込めるようにされるのは、主のいつくしみがあるからです。主が怒るに遅く、あわれみ深く、いくつみと忍耐、寛容さに満ちているからです。
どんな罪を犯そうとも、一日に千回ひどい罪を犯そうとも、なお赦すことができる忍耐と寛容をお持ちだからです。愛のお方だからです。
だから、私たちは悔い改め、悪の道から方向転換し、主のもとに飛び込めるのです。そうであるなら、他の人を主の道に立ち返らせることは、「さばく」ことではなく、その人を愛することでしょう。
その人の姿を見て自身の罪に涙し、一緒に悔い改めていくことでしょう。
2023/08/09
伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」
伝道者の書3章16-22節「気づかせてくださる神」
申命記29:29にこうあります。
「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」
2023/08/02
ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」
ローマ書1章26~32節「悪意に流されずに生きる」
2023/08/01
第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」
第一ヨハネ2章24-27節「御子のうちにとどまる」
今日のテーマは「とどまる」ということですが、残念ながら我が家のベランダの鳩は、とどまることなく、つい昨日、巣立っていきました。約2か月、我が家のベランダで同じ屋根の下暮らしてきましたので、少しさみしい気もします。
さて「とどまる」ってどういうことなのでしょうか。「とどまる」とは、「同じところに居続ける」という事です。
2023/07/28
使徒の働き1章12-14節「祈りの備え」
使徒の働き1章12-14節「祈りの備え」
2023/07/24
第一ヨハネ2章18-23節「イエスはキリストである」
第一ヨハネ2章18-23節「イエスはキリストである」
子どもの頃の話になりますが、イエス・キリストとは、イエスが名前で、キリストが苗字だと思っていたことがありました。しかし、実は、聖書の時代のユダヤ人たちは、基本的に苗字というものがないのですよね。ですから「だれだれの子」と親の名前で区別したり、「マグダラのマリア」のように地名を入れたり、あるいは「大工のヨセフ」のように職業で区別したりしていました。実はイエスという名も一般的な名前なので、ナザレに住んでいたことから「ナザレのイエス」と呼ばれました。
2023/07/20
ローマ書1章22~25節「造り主のみをほめたたえる」
ローマ書1章22~25節「造り主のみをほめたたえる」
ある方が、どうしてプロテスタントの教会では、「イエス様の肖像画や像に向かってお祈りをしないのか」と疑問に持っておられました。イエス様の絵に向かってお祈りすると心が落ち着くのだと。もちろん、私も礼拝堂の十字架を前にしてひざまずいて祈ることもありますし、絵を見て祈ってはいけないということはないでしょう。