東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 使徒2章43-47節「教会のコイノニア」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

最新情報

2024/01/24

使徒2章43-47節「教会のコイノニア」

*** 1/24(水)祈祷会 説教概略 ***

 ここ数年、コロナウイルスの大感染という経験したことのないようなパンデミックを通らされました。いまだ、その途上にあるとも言えます。そして、特に、このパンデミックは私たちの交わりを止め、分断や孤立を生みましたね。そういう中で、今、改めて教会の「交わり」ということを考える必要を覚えています。私たちの「交わり」は主の前にあって、十分でしょうか。孤独を覚えている人はいないだろうかと感じています。




 みことばから教えられ、ともに考えていきたいと思います。

 ペンテコステの時、聖霊が信者に与えられ、一日に三千人がイエス様を信じてバプテスマを受けたという大いなる日でした。そこからは、今まで以上に密な愛の交わりが始まっています。これらは教会の交わりの一つのベースとなるものだと言えます。特に、主を恐れ、みことばに教えられ、キリストを中心とする交わり互いに愛し合い、仕え合い、分かち合う姿があります。教会のこの交わりこそが、証しとなり多くの人々から好意を得ていたこともわかります。宣教の一部となっているのですよね。みことばに聞きましょう。

1.主を恐れる交わり

43節 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。

 御霊に満たされたキリスト者たちによる交わりが生まれていました。神の御霊によって、真理に目が開かれているので、神様への「恐れ」が生じていたのです。不敬虔の罪というものは、神を侮る、軽んじる姿勢の産物です。

 ですから「神への恐れ」が根本にあり、土台となってこそ、真に敬虔な交わりが生まれてくると言えます。
 
 実際、神への恐れがあるからこそ、神の力がそこによく現れました。多くの不思議としるしがなされたとあります。聖霊に満たされたキリスト者の群は、ただ楽しく集まっていたのではなく、その根底に、その心に、いつも主への恐れが生じていたということなのです。

 だから、主のみわざもそこに起こるのです。
 
 教会の交わりは楽しく、喜びにあふれるものであって欲しいと私はいつも願っています。でも、その根底には、神様を心から愛する姿勢と恐れる心が常になければならないとも思っています。神様を恐れる者たちの集まりだからこそ、品位のない交わりにならず、罪深い話題で盛り上がるものとならず、人の悪口や仲間はずれのようなことにならない交わりであると思うのです。むしろ主の御名が高くされる交わりとなるはずです。 

2.賜物をもって仕え合う

第二のことは、賜物をもって仕え合う交わりということです。
44~45節にこうあります。

44節 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
45節 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
 
 「共有」ということばに、コイノーニアの形容詞形が使われています。それはまさに、色々な物を分かち合い、共有するという意味のことば。一緒に参加するという意味もあります。

 救われた者たちは、神様から与えられていた物を独り占めせず、分かち合い共有していました。財においてより多く与えられている者は、それを用いて人々を助け、貢献することができるという恵みがあります。同じように、肉体において強さを持つ人もいます。健康で力があり、肉体的な労働において、あまり強くない人を助け、補うことができます。

 あるいは、語ることが他の人より豊かに与えられているなら、それをもって他の人の代わりに語るべきでしょう。時間的にゆとりがある人は、時間のない方の分を補うこともできるでしょう。

それらはどれも主からの賜物です。

すべてにおいて、他の人より、より多く与えられている部分で、仕え、補い合う。それが教会の交わりではないでしょうか。私たちはそのようして、自分に与えられた強さ、賜物を出していくことで、支え合うことができます。それは時代を越え、どのような状況でも共通する信仰の共同体のあるべき姿ではないでしょうか。

 

3.食事をともにする

46節 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 

 喜びと真心をもって食事をともにしていたと語られています。食事を共にするということは「とても親しい交わり」です。

学生時代、クリスチャンの集会が毎週夜ありました。そこで何が楽しかったかと考えると、終わったあとに何人かでご飯を食べに行くのが楽しかったです。ご飯を食べながら、他愛もない話から、神様の素晴らしいみわざまで、色々なことを語り合ったのを思い出します。学びの時間も大切ですが、このような食事の交わりの中で、私たちの心や信仰は豊かに育まれていくのではないでしょうか。

しかし、ここ数年はコロナでこの交わりの部分が非常に制限されました。しかし、昨日は「ほっとカフェ」で茶菓の交わり、そして昼食も可能な方々で一緒に食べました。今晩は、ユースの集まりが上野家であります。ようやく食事の交わりが日常に戻ってきましたよね。修養会なども持って行きたいですね。

 

4.主が救われる者を加えて下さる

2:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。 

 こうした信仰の共同体としての歩みの上に、神様は豊かな祝福を下さいました。多くの人々に好意を持たれると共に、「主毎日救われる人々を加えて一つにしてくださった。」のです。ただし、ここでは、主語が神様になっていることに気づきますね。こうした信仰の歩みが人を救いに導いたのではなく、主がこの共同体の愛の交わりを祝福し、民全体から好意を持たれるようにしてくださった。それによって、主は新しく救われる仲間を加え、一つにしてくださったのです。 

そして、救われるだけではなく、この交わりの仲間に加えられることが必要です。特に、ひとりぼっちの孤独な人がいないようにするのは、私たち先に救われ、先に教会に集っている者たちの責任です。声をかけて、よく話を聞き、交わりにお招きしたいですよね。

洗礼を受けたクリスチャンの半分ぐらいは、教会からいなくなっているという統計もあったように思います。病床洗礼などもあり、様々な事情があることですから、数字的なことだけでは、一概には言えないとは思います。

けれども、救われて洗礼を受けるまでが、教会のなすべき働きではないのですね。洗礼はむしろ主に従っていくという決意表明、信仰生活の門出です。そこから信仰の共同体の仲間にしっかりと加わり、結び合わされて、こうした親しい交わりのうちに共に歩むわけです。

ですから、伝道宣教は、ただ人が救われればいいという発想ではありません。彼らがキリストの弟子として、主に従う者となっていけるよう、そして教会の交わりにしっかりと入って来られるように導くことが必要なのです。私たちはそこまでを含めて、救いというものを理解しないといけませんね。

  個人的には教会の交わりが、まだまだ不足していると痛感しています。交わっている人と、そうでない人の差が大きいと言ったら良いかも知れません。そこをどのように補えるのだろうか。今日の祈りの交わりでは、そうした問題提起についても、意見交換していただけたら感謝です。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会へのメールはこちらから

名前

メール *

メッセージ *