*** 1/28(日)主日礼拝 説教概略 ***
ある人が、自分の子どもに誕生日プレゼントに何が欲しいかと尋ねたところ、「愛がほしい」と言われたと言います。親としても愛しているつもりだったので、何が足りないのだろうかと悩んだようです。ハグをしたらいいのか、好きな物を買ってあげればいいのか、ほめてあげればいいのか・・・。「愛」ということばは、誰でも知っています。しかし、多くの人が本当の意味での愛を知らず、愛に飢え渇いているように思うのです。
このような世界に対して、私たちは、神様からいただいた「まことの愛」を示していきたいと願います。
今日、このみことばから教えられることをお伝えしましょう。
第一に、まことの愛は人間の中にはないので、神様が御子イエス様を与えてくださった、ここに神の愛が示されたということ。だから、神との交わりの中で愛を知る必要があるのです。
第二に、神様からの愛をしっかりと受け取った私たちが、神の愛をここに、この交わりに現わしていきましょう
ということです。
そうすれば、人の目には見えない神様が、この愛の交わりの中に現わされていくのだということです。これが証しとなり、宣教となります。
1.御子イエスの犠牲、ここに神の愛が!
愛はどこから出ているのでしょうか。どこから来たのでしょうか。聖書はこう語ります。7節の中頃ですが、「愛は神から出ているのです」とあるのです。つまり、人は聖書が語るまことの愛を生み出すことができないということ。ですから、8節ではこう語られています。
8節 愛のない者は神を知りません。 神は愛だからです。
まことの愛は、神様のところにしかないというのです。その聖書が教える「まことの愛」とは、何でしょう。ギリシャ語では「アガペー」ということばで表されていますが、無条件の愛、敵さえも愛する愛、犠牲をも厭わない愛などと説明できるでしょう(もちろん、もっと豊かで深みのあるものです)。
しかし、私たちの愛は、自己中心的であったり、感情的なものであったりして、まことの愛とは似て非なるものです。それゆえ、満たされないのです。では、この愛は人間には全く無関係で、どうにもならないのでしょうか。7節によれば「愛は神から出ている」のですから、神様に求めれば良いのです。こうして神のまことの愛を知り、その愛に生きていけることも教えられます。
もし人間の中で、不完全であるにしても、この「まことの愛」に生きている人々がいるとしたら、彼らは神様から愛を受け取った人でしょう。反対に、その人の中に聖書の愛がまるで見当たらないなら、その人はまだ神を知らない人でしょう。私は未信者の時代に、この人の愛は他の人のそれとは明らかに違うなと感じた人が、実はクリスチャンであったと後から知ったということがあります。
けれども、クリスチャンが努力して愛を、生み出しているのではないですよね。すべてのクリスチャンは、神様からの愛を受け取り、神様から愛を教えられ続けている途上にあるのです。より厳密に言うのならば、むしろ自分のうちには愛がないことを認め、神の愛を受け取った人。その愛に生きるようになった人々です。9節にこうあります。
9節 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって神の愛が私たちに示されたのです。
9節の原文では、最初に「それによって神の愛が私たちに示されたのです(カンマ)」との文章で始まります。日本語と順序が逆です。「それによって」に当たる部分、何によって示されたのかが、その後に説き明かされていいきます。何によって示されたのでしょうか。神様は、代わりのきかないひとり子を世に遣わし、この方の尊い犠牲によって、信じる者にいのちを与えてくださった。これによって、愛を示されたのです。
「ひとり子」とは、代わりのきかないOnly Oneという意味があります。たくさんある中からではない。大切な唯一無二の愛する子を、罪人のためにささげてくださったのです。ここに神の愛があるのです。10節でも、このように語ります。
10節 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ここも9節と構造が同じです。原文では最初に「ここに愛があるのです(カンマ)」といきなり始まります。聴衆は「え、ここに?それはどこに?」と疑問を抱きながら、続きを聞くでしょう。すると、「ここ」とは、私たち人間の中ではなかったとわかります。そこではなく、神が私たちを愛された、ここに「愛」があるのだと語られるのです。しかも、「私たちが愛したのではなく」とのことばは、完了形です。それは私たちが「神を愛して来なかった」「神を愛したことがなかったのだ」と伝えているのです(愛したつもりであったとしても・・・)。
ということは、「私たちが神を愛したから、神も私たちを愛してくれたのだ」という条件付きの愛ではないことがはっきりします。私たち人類は、歴史上、神を愛して来なかったのです。愛せなかったのです。それなのに、神は人間を愛してくださって、愛するひとり子を与えてくださった。これがまぎれもない事実であるとわかるのです。
その愛は、10節にあるように、愛する御子が、私たち罪人のために「宥めのささげ物」とされたということです。人の罪に対する神のさばき、神の聖なる怒りがあり、その怒りを宥めるため、御子キリストが身代わりになられたのです。
私たちは勝手に神様に背き、離れて歩んできました。そして、神様の愛に少しもお返しできないような小さな者です。いつも自己中心で、同じような過ちを繰り返します。感謝も忘れ、代わりに不満や怒りに満ちています。この愛を受けてなお、私たちは不従順なのです。
私が神様なら、「あなたたちへのわたしの愛は無駄になった」と思えてしまうでしょう。しかし、そのような救うに値しない者のために、無条件で愛する子を惜しまず与え、私たちにいのちを得させてくださったのです。
ここに、神の愛があるのです。
ある牧師が、過去の失敗を振り返って証しをしています。自分は妻と子どもたちを愛し、彼らのためにいつも熱心に祈っていた。しかし、その祈りとは裏腹に、次第に家族の関係は悪くなり、冷え切ってしまったのです。それは、実は愛から出た祈りではなかったからでした。妻が家事を問題なくこなせるよう、子どもがいい子で、勉強も手伝いもちゃんとできるよう祈っていた。それは、まことの愛ではなく、歪んだ自己愛でした。自分に都合の良い人になるようにとの祈りだったのです。そこに愛はなかったのです。それで彼は、自分がまず神様のご愛をしっかりと教えられ、その愛で家族を愛せるようにと祈り求めることを決断したのでした。神から愛を受けることなしには、人は愛がわからないのです。
2.互いに愛し合う、ここに神の愛が!
私たちはこの愛を神様から受け取りました。自分の愛の無さを認め、キリストを信じて神との愛の交わりに与る者とされたのです。ヨハネは、これを受けた者たちにしか出来ないことを伝えています。それはイエス様のみおしえでありました。11節をご覧ください。
11節 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」
愛し合う理由は、神がこれほどまでに愛してくださったからです。神様の愛は口先ではなかったですよね。歴史的な事実として、御子を遣わし十字架の死にまで従わせたのですから。神様が明確に、確かに、こんなにも愛してくださったのだから、私たちも互いに愛し合いましょうと言うのです。
最初の7節で、こうありました。「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。」と。「愛する者たち」との呼びかけは、「愛されている者たち」とも訳せます。11節も同様の呼びかけがありますね。
それは、この愛を受けたあなたがたなのだから、この互いの交わりの中、ここに「神の愛」があるようにしていきましょうという意図かも知れません。神の愛を受けていない人に、愛し合いましょうと言ってもそれは難しいことです。
神を知るようになり、神の愛を味わっている私たちだから、その愛で互いに愛し始めることができるわけです。そして、もし、まことの愛で愛し合うなら、何が起こるのでしょうか。12節です。
12節 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
なぜ、急に「いまだかつて神を見た者はいません」と言い出すのでしょうか。人の目には見えない、霊的な神の存在を、人々に現し、証しする方法を提示したいからです。
神様は第一の方法として、愛する御子によってご自分を現わしてくださいました。
ヨハネの福音書1章18節をご覧ください。
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
ここにあるように、人となられた御子イエス様によって、目に見えない神とその愛を知ったのです。しかし、イエス様は天に昇られ神の右に着座されました。ですから、それ以降、神様は第二の方法を備えておられました。何でしょうか。
それは、御子を信じた者たちが、互いに愛し合うことによって神の愛を現すことです。キリストを信じた者たち、クリスチャンが、神の愛を受け取って、この愛で愛し合うことです。この世に対して、この世界に対して、「愛を表わしていく」使命をいただいているのです。この愛を知った私たちが現わさないなら、どうやって示すのかということです。
ですから、私たちはこの世に対して「さあ、この教会の交わりに来てください。見てください。『ここに』神の愛がありますよ。ここにキリストが生きておられるのですよ」と声を大にして言いたいのです。神様は目に見えない。しかし、神の愛は目に見えて確かに行われている。だから、私たちも神の愛をここに現わし、キリストの臨在を世界に証ししたいのです。
この愛がこの群れに、私たちの交わりに十分現れているだろうか。まだまだ不十分に思えます。しかし、あの人は愛が足りないと指摘するのではなく、まず私が愛そうと、一人一人が信仰をもって決意することから始まるでしょう。主の愛を受け、キリストの弟子とされた者なのですから。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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