東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書3章21-26節「信仰義認、その土台にある神の犠牲と忍耐」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/01/31

ローマ書3章21-26節「信仰義認、その土台にある神の犠牲と忍耐」

*** 1/31(水)祈祷会 説教概略 ***

 「ただほど怖いものはない」と言われます。それは、この世の中で、見返りなしに与えられるものがほぼないからです。しかし、神様は公平で恵み深く、愛なる方です。ですから、人の行いや財産によって差がつく救いではなく、すべての人が等しく救われる、信仰による義というものを備えられたのです。生まれた環境や地位によらず、能力によらず、ただ信じるのみです。ゆえに、すべての人のための福音であると、私たちは胸を張ることが出来ます。価なしに義とされる救いの恵みを、みことばから教えられて参りましょう。



1.信仰義認

21節 しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。 

 「しかし今や」とは、旧約時代に対して「キリストが来られた新約時代である今では」ということでしょう。律法と預言者たちの書、つまり旧約聖書によって証しされてきた「神の義」。これが今や、律法によらずに、神の御子によって示されたのです。
 ユダヤ人クリスチャンの中には、未だに割礼や旧約律法に重きを置く者たちがいました。しかし、今や、律法ではなく、キリストによって神の義が示されたのだとパウロは諭すのです。22節です。

22節 すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。 

 ここは解釈に議論がある個所です。脚注にあるように「イエス・キリストの真実によって」と解釈する学者もいます。確かに、真実とも信仰とも訳せる「ピスティス」ということばが使われていますし、文法上は可能です。ただし、この箇所を「キリストの真実によって」と解釈するにしても、全体の文脈を考えると、信仰がテーマになっていることは間違いありません。具体的には、この箇所の内容は、117節で既に触れられていました。

117節 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 

 「義人は信仰によって生きる、信仰に始まり信仰に進ませる」と、基本的な考えが提示されています。それを深く掘り下げたのが今日の個所です。そして、続く4章においても「信仰による義」がテーマになっています。そうした文脈を考慮すると、全体としてはキリストの真実による義ではなく、キリスト信仰による義と理解するのが自然でしょう。イエス・キリストが来られたことでもたらされた「キリスト信仰」。これによって、信じるすべての者に神の義が与えられるということです。

 もちろん、キリストは真実な方で、そこに神の義があることは確かです。それにより私たちの信仰が支えられています。ですから、私たちの側の信仰ばかりが強調されることにも、やはり注意が必要ですね

 これらを踏まえた上で、22節にある「神の義」とは何かということに目を向けましょう。簡単に言えば、神の基準において、正しい者とされていることです。罪がなくなることではありません。罪を犯してきたし、これからも犯す私たちです。しかし神は、それらすべてについて「無罪判決」をくださったのです。それを受け取る者は「行い」によらず、ただキリストを信じれば良いのだと。そこに差別はないと語られるように、年齢も性別も国籍も関係なく、過去にどのような歩みをしてきたかに関係なく、ただキリストを信じるだけで義としていただけるのです。

 ここに神の愛が、ここに神の豊かな恵みがあるのです。ではなぜ、神様は人の行いによる救いではなく、信じるだけで救われるという「信仰による義」を与えられたのでしょうか。端的に言えば、行いによるならな、誰も救われないからです。

23節 すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、 

 すべての人は罪を犯している。罪人であって、自力ではこの罪からの解放はないからでした。良い行いによって律法の要求を満たすことは、人には不可能だったと直前の個所で、旧約を引用しながら語られてきました。イエス様以外に、罪なき人はいないのです。神の栄光を受けられない罪人ゆえに、恵みにより信仰を通して救われるのです。

24  神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。 

 人の努力、善行では神の律法の基準を誰も満たなかったので、神は恵みによる救いをくださっているのです。ですから、ユダヤ人であろうとギリシャ人であろうと、それ以外の誰であろうと、等しくこの「恵み」を受けられるのです。そして、この恵みを受けるただ一つの道が、キリストを信じる信仰とされたのです。
 
 「価なしに」とあります。「価なしに」とは、「対価を払うことなしにタダで得られる」という意味です。マタイの108節では「あなたがたはただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。この「ただで」という部分が同じことばです。イエス様によってもたらされた神の義、この救いは、価なしに、つまり私たちは何ら対価や犠牲を払うことなく、タダで受けられるプレゼントなのだということです。だからすべての人が得られるのです。

 この24節では、キリストによる「贖い」ということばも出て来ますね。これは人身売買の時に使われたことばでもありますが、「代価を払って買いとる、買い戻す」という意味です。私たちは御子のいのちという代価によって、罪と悪魔の支配から、神のもとに買い戻していただけたのです。ですから、どこをどう切り取っても、私たちの良い行いの成果ではないのです。ですから、信じるだけで救われるのです。

 

2.その土台にある神の犠牲と忍耐

 しかし、この救いは、神様の側で多大な犠牲を払ったゆえにもたらされた恩恵であることを私たちは忘れてはならないのです。信じるだけで、どんな罪をも赦され、神の子とされるという点だけを見たら、都合が良すぎるでしょう。しかし、その背後には、神の御子のいのちという「尊い代価」という土台があるのです。

 25節では、その尊い代価として、イエス様が「血による宥めのささげ物」となられたとあります。イエス様の尊い血潮が流され、いのちの犠牲が払われました。私たちを救うために支払われた代価は、神の子なるキリストのいのちなのです。なんと尊く大きな犠牲でしょうか。これ以上はないでしょう。

さらに25節後半には、「神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられた」とあります。人類は、とうの昔に滅ぼされていても、文句を言えないほど、罪を犯してきました。創世記の6章、ノアの時代には、もう世界をすべて滅ぼしてしまうほどの悪と罪が地上に増大していたのです。ノアたち家族や動物が生かされたのは、ひたすらに神様の忍耐とあわれみによることだったのです。

父なる神様は、その痛みをご自分で担って、見るに堪えないほどの人の罪や汚れを、耐えに耐えて滅ぼさず、生かしてくださり、悔い改めの道を用意してくださいました。神の目には、上辺ではなく、人の心が見えています。そうであれば、神の目に見える悪は、人間が見えている悪よりもはるかに多く、はるかに汚らわしいものでしょう。聖なる神様にとって、それらの罪の汚れは身の毛もよだつような嫌悪すべきものでしょう。そう思いませんか?私はすべて人の心が全部見えたら、幻滅し過ぎて誰も愛せなくなるのではないかと思ってしまいます。しかし主は、愛のうちに絶えず忍耐され、今ここにキリストによって神の義を啓示して、救いの御手を延ばし続けておられるのです。

ペテロの手紙 第二 39にこうあります。
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。 

 神様は本当に忍耐深いお方です。ひとりでも多くの者が、すべての者が悔い改めに進めるよう、今なお忍耐して、ご自身で痛みを引き受けて待っておられるのです。

 傷つき耐えてくださる主の愛に、私たちはどのように応えたら良いのでしょうか。それはまず、義とされるために払われた尊い犠牲をしっかりと見つめ、この恵みの上であぐらをかかないことです。私たちの側では「価なしに」なのですが、神様の側でこれ以上ないほどの代価を払ってくださったのです。この愛を受けとめ、この愛を人々に現わしていきましょう。主のしてくださったことを忘れず、その恵みを語り告げましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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