東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 毎日の聖書【2月分】
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/02/05

毎日の聖書【2月分】

1日 創世記19章
 当時のソドムは、滅ぼされても仕方がないほどに荒れていた。不道徳がはびこり、性暴力が日常的にあったことがわかる。13章11~12節によれば、ロトは最初はソドムには住んでおらず、少しずつソドムの町に近づいて行ったことがわかる。そして、この19章では、もはやロトたちは、すっかりソドムの町の住民になっていた。罪の誘惑は、少しずつ始まる。これぐらいならいいだろう・・・1回だけだ・・・と。しかし、人の良心はマヒしやすい。徐々に抜け出せないほどの罪の泥沼に陥るのだ。
 2人の主の使いがソドムに来た時、ロトは熱心にお誘いし、自分の家にお迎えした(3)。しかし、「種なしパン(発酵させていないパン)」を焼いているところを見ると、旅人をもてなす備えがないことが見受けられる。18章6-8節のアブラハムとは対照的だ。経済的繁栄を自ら求めたロトだったが、実際にはソドムでの生活はすさんでおり、あまり豊かではなかったのではないだろうか。目の前の欲に流され、小さな罪の連続の中で、気が付いたら闇の中にいたのかもしれない。むしろ私たちは、たえず主イエスとの交わりにとどまりたいのだ。

2日 創世記19章
 主の使いたちは、ロトに神のご計画を告げた。このソドムの町を滅ぼそうとしているのだと(13)。そして出ていくようにと助言したのだ(14)。ところが、ロトの娘婿たちの反応は冷ややかだった。「彼の婿たちには、それは悪い冗談のように思われた」とある通りだ(14)。それどころか、ロトさえ、ためらっていた(16)。そして、ロトの妻に関して言えば、最後まで欲に惹かれており、天使の警告を無視したために振り返り、「塩の柱」になってしまった(26)。
 神は私たちに、いつでも愛に満ちた助言をくださる。私たちのためを思い、その最善の道を告げてくださる。でも、私たちはその時には耳を傾けない。大洪水のときも、ノアの話を真剣に聞けば、他の人たちも助かったかも知れない。そして、ことが起こってから後悔するのだ。私たちはそうであってはならない。今が救いの時だ、悔い改めるべきだ・・・そう言われている間に、決断しよう。

3日 創世記20章
 アブラハムはここで再び、妻サラを妹だと偽る罪を犯す(2)。神への信頼ができず、恐れにとらわれて同じ罪を繰り返しているのだ。その上、だまされた側のアビメレクからウソを責められると、彼は「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに私を殺すと思ったのです。」と言い訳をした(11)。さらには、実際サラは腹違いの妹なので、ウソではないと詭弁を弄した。
 「信仰の父」とも呼ばれる人物だが、彼は信仰深い時もあれば、不信仰で罪に陥ることもあり、これが人間なのだと思わされる。それでも見捨てないでくださり、この時も助けて下さった主がおられる(3-7)。それどころか、神の導きによって、住む場所や銀千枚をアビメレクは提供してくれた(15-16)。繰り返し罪を犯してしまう私たちだが、見捨てることのない「あわれみ深い神」に、心から感謝しよう。

4日 創世記21章
 ついにサラは身ごもり、男の子を産んだ(1-2)。その名はイサク(笑うの意)と名付けられた。6節にこうある。【サラは言った。「神は私に笑いを下さいました。これを聞く人もみな、私のことで笑うでしょう。」】
 かつて、神が告げられたことを信じられずに、不信仰にも笑ってしまったサラだった。しかし、今やみことばが実現し、彼女は90歳にして息子を産んだのだ。神の導きに従って故郷を出てから、なんと25年もの時が流れていた。神にはいつも最善のご計画がある。ただ、近視眼な私たちには、それが遅れているように見えてしまう。「まだですか?いつまででですか?」と、待てずに苛立ってしまうのだ。だが、信じて待ち望む者は幸いだ。その間、神に期待し、祈り続ける交わりをいただける。すぐに答えられると、すぐに感謝を忘れるような私たちだから、こうして待たされてこそ、信仰の訓練がなされていくのだろう。やがて、心からの笑顔をくださる主に感謝!

5日 創世記21章
 神のみこころに従わなかった結果は、イサクが生まれてもなお残っていた。女奴隷ハガルによって生まれたアブラハムのもう一人の息子イシュマエル。この子が、イサクをからかっているのをサラが見かけたことで、この問題が再発する(9)。ようやく生まれた大事な跡取り息子が女奴隷の息子にからかわれ(笑われ)、サラは過剰に反応したのだ。
 やがてサラはこの母子を追い出すようアブラハムに進言し、神もその通りにせよとおっしゃったので(神のご計画だが)、ハガルとその子イシュマエルは家を追われることになった(11-13)。荒野をさまよう母子。やがて水が尽き、イシュマエルは衰弱して死にかけ、ハガルもあきらめて泣いていた。しかし、彼らに対してもあわれみ深い神は、井戸へと導き助けてくださった(19)。その後も、神はこの少年とともにおられ、成長させ、一つの民族としてくださった(20)。イスラム教の創始者マホメットは、イスラムの伝承においてイシュマエルの子孫であると伝えられている。神のやさしさ、あわれみ深さに教えられる。

6日 創世記22章
 1節で、「神がアブラハムを試練にあわせられた」と始まる。その内容は、ようやく与えられた息子イサクを、「全焼のささげ物として献げなさい」(2)というものだった。これ自体はとても過酷な試練であって、同じことを求められても果たしてアブラハムのようにできるか甚だ疑問である。ただ、彼のことばには神への信頼がある。5節で「私と息子とはあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」と言っている。また、イサクにも神ご自身がささげ物を備えてくださるのだと答えている(8)。アブラハムは、主の声を聞くまで不安だったのだろうか。藪に角をひっかけている羊を見るまで不信に満ちていたのだろうか。いや、神を信じていたから、このような発言があったのではないだろうか。
 アブラハムのように、神が良いお方であることをいつでも信じて歩みたい。主の山には備えがある(アドナイ・イルエ)

7日 創世記23章
 サラが生涯の幕を閉じた。127年の生涯であった(1)。アブラハムはその死を悼み悲しみ、そして泣いた(2)。アブラハムにとってサラは愛する妻であり、信仰の友、霊的な戦いの戦友でもあったのだろう。その人の死を悼み、「涙できるほど親しい人がいること」は、幸せなことだと思う。そこそこの距離の人の死には、涙も出ないことが多い。
 しかし、その思いを知ってか、墓地のために法外な値段をふっかける者がいた。墓用のほら穴だけで良かったのに、畑までセットで高く売ろうとしたのだ(9-11)。アブラハムは、法外な値段をふっかけられたが、争わずに支払った(16)。妻への愛ゆえ、不要な争いをせず、十分なお金を払ったということかも知れない。
 ただ、現代でも同じように、人の死に乗じて不当に儲けようという人々もいることは大変残念だ。その点、キリスト教葬儀関連の良心的な値段には、心から敬意を表するし、人の死という厳粛な現実の前に、そのような品格を誰もが保つものでありたい。

8日 創世記24章
 時が流れ、アブラハムも年老いた(1)。その時、アブラハムは息子イサクに妻を迎えるために、最年長のしもべを遣わすことにし、二つのことを誓わせた(2-10)。一つは、カナン人の地に住んでいるものの、カナン人から妻を迎えてはならないということ(3)。二つ目は、アブラハムの住んでいた国にイサクを連れて行ってはならないということ(6-8)。
 これらの二つの誓いの目的は、いずれもイサクの信仰が守られ、彼が神の約束にしっかり留まれるようにするためだった。この時のアブラハムは、神のみこころにかなわないなら、イサクの結婚は「なし」になっても良いというスタンスである。嫁が必要なことは確かだが、それでもみこころから外れる選択をするぐらいなら、嫁さえいらないという断固たる態度である。私たちは情に流されたり、人間的な考えに頼ったりして、しばしば神のみこころから離れてしまうことがある。アブラハムは過去にそれで失敗をした。ハガルの件だ。でも、ここでは優先順位を明確にして誓わせた。私たちも何が優先されるべきことなのかをいつでも明確にし、神のみこころを求め続けたい。

9日 創世記24章
そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください。」(12)
 アブラハムに遣わされたしもべは、このように神に祈った。主人アブラハムから、その息子イサクの嫁探しを任されたしもべは、自分の目、自分の判断力を頼りとせず、神にこれをお願いし、神の導きにより頼んだ。すると、彼がまだ神に「言い終わらないうちに」、将来のイサクの妻となるリベカが現れたのだ(15)。私たちもしばしば体験することだ。神に祈り、どうしたものかと悩んでいたことがある。しかし、祈っているその最中にも、神は事を起こしておられて、万全に備えられていたことを知った。
 大切なことほど、神にまず祈り、神の導きを求めよう。もうすでに備えがあることを後から知らされるかも知れない。

10日 創世記24章
 しもべが見つけたリベカという女性は、とても優しく、そして働き者であったことがわかる。単なる働き者ではなく、人のために労を惜しまない人であるように思う。旅人としてこの町に来たアブラハムのしもべに対し、リベカは水を飲ませただけでなく、そのラクダにも飲ませてくれた(18-19)。10節によれば、ラクダは全部で10頭。しかもラクダはとてもたくさん水を飲む。20節にあるように、リベカは井戸まで「走って行き」、しかも「すべてのらくだのために水を汲んだ」のだ。なんという行動力だろうか。そして、人のために犠牲を払える人であることがよくわかる。
 優しさがあっても、行動力がない人もいる。そう考えると、彼女は愛があって、それを実行する行動力もあって、体力も十分だったことだろう。とても良い妻となることが想像できた。私たちもまた、信仰があるだけでなく、愛があると口で言うだけでなく、犠牲を厭わず、信じて行動できる者とならせていただきたい。

11日 創世記25章
 ついにアブラハムも死を迎えた。175歳だった(7)。それと、「幸せな晩年を過ごし、年老いて満ち足り」て、死んだことが告げられている。これはとてもすばらしいことだ。年を取って、「何の楽しみもない」と嘆く老年を過ごす人も多い。しかし、神と親しく歩む者は、幸いな晩年を過ごし、満ち足りて召されていくことを、私たちは知っている。
 この時、イサクだけでなく、イシュマエルもともにアブラハムを葬っていることは興味深い(9)。12節から18節にかけては、イシュマエルの子孫や住んだ知識なども歴史として語られている。神は約束した通り、彼もまた一つの民族となさった。神はどこを切り取っても、真実な方である。約束を必ず守られる。この世界には、100%真実である人は一人もいない。ことば通りに行いが一致する者がいない。したくても成し遂げる力もない。しかし、神は真実で、おことば通りになさっている。だから、アブラハムも約束通り子孫を得、その子孫は星のように多くなって、アブラハムは満ち足りてこの世を去ったのだ。

12日 創世記25章
 イサクはその妻リベカが不妊の女であったので、彼女のために主に祈った(21)。そして、主はその祈りに応えられた。色々なことをすぐにあきらめがちな私たちだが、とにかくまずは祈ろうと思わされる。そして、リベカは双子をみごもった。ただ、お腹の中で双子がぶつかり合っていた。なんとなくその不仲を感じ取ったのだろうか。リベカは心配になったのだ。そこで、やはり彼女も神にみこころを求めた(22)。
 そこで主は、彼女の胎内に「二つの国」があるのだと教えられた(23)。それぞれの子が、それぞれの国を形成していくということだ。この時代は、まだまだ全地に人が満ちていない時代だ。神のご計画は、ご自身が造られたこの世界中に人が満ち、皆でこの世界を治めることだ。こうして、イサクもリベカも、思うようにならないことや心配なことに見舞われた。しかし、彼らが取った行動は、まず祈ることだった。神のみこころを求めて祈ることだった。そして、そこには人間の考えをはるかに超えた、壮大な主のご計画があったのだ。

13日 創世記 25章
 イサクとリベカの子として、兄エサウと弟ヤコブが生まれた。イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した(28)。これは単純に「偏愛」ではないかも知れない。バランスが取れた可能性もあるし、イサクがエサウを好んだのを見て、リベカがヤコブをフォローした可能性もある。神のご計画によれば、やがて兄が弟に仕えるというものであった(23)。リベカは、これを知っていたので、神のみこころを意識したのかも知れない。
 一方で、そこには人の罪も入り込んでいる。エサウは長男としての恵みを神から受けていた。しかし、その恩恵を軽んじてしまったゆえに失ったのだ。32節で、彼のことばは「見てくれ。私は死にそうだ。長子の権利など、私にとって何になろう」であった。彼は疲れてお腹が減っており、ヤコブの作った一杯のスープと引き換えに、大切な長子の権利を売り飛ばしたのだ(33)。「豚に真珠」との諺が聖書由来だと考えられているが、まさにこれは豚に真珠である。価値のわからない豚に真珠を与えることは悪いこと。私たちもまた、神からの恩寵の価値をわからず、愚かに生きているなら、それは失われてしまうことを知ろう。

14日 創世記26章
 イサクの時代に大飢饉が再び起こった。その時、ナイル川の恩恵に守られているエジプトへ行くことが想定されたのだろう。しかし、神はエジプトに行かず、この地に留まるよう語られた(2-3)。それは、アブラハムとの約束を成就するためであった(4-5)。それでイサクは、ゲラルの地に留まり、そこでペリシテの王を頼るかたちになった。その時、アブラハムの時と同じ事件が起こった。イサクはリベカを「自分の妹」だと偽ったのだ。リベカが美しく、その地の人々が野蛮にも、リベカを奪うために自分を殺すのではないかと恐れたからであった(7)。アブラハムの時から数えて同じような罪が3度目となった。
 人は同じ罪を繰り返すし、親子は同じ弱さを何かしら受け継いでいると言えるのではないだろうか。人は神から、自分に似た者を産むという賜物をいただいている。良いところも、悪いところもある意味似るのだ。でも、だからこそ親は子により適切な助言ができる。私たちも親や子の罪を責める前に、自分にも同じ弱さがあるのではないかと振り返りたい。そして神は、この繰り返される罪に対しても、あわれみを示し助けてくださったのだ(8-11)。

15日 創世記26章
 イサクは神のおことばに従い、ゲラルの地に留まった。その結果、神の祝福を受けて、百倍の収穫を得て(12)、彼は裕福になった(13)。しかし、14節で、彼はその地に住むペリシテ人たちから妬まれ、出て行くよう圧力をかけられたとわかる。私たちも不当な妬みを受け、相応の理由なく嫌がらせを受けるがある。その時、私たちはどうしたら良いのだろうか。その関係性の中にも、主がおられることを知ることだ。その中で、主のみこころを心から祈り求め、神の前に誠実な道を選ぶことだ。
 イサクはどうしたのだろうか。17節によれば、イサクは争わずに、その場を去って移り住んだ。移った先の井戸、すなわちアブラハムが以前掘った井戸においても、「この水はわれわれのものだ」(20)とゲラルの住民が主張し、イサクは別の地に新たに井戸を掘ることになった。一見、ただ弱気に追われているように見える。しかし、22節でイサクは言った「今や、は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」と。結果として広い所を備えられた。これから民が増えていくのに良い地を主が備えておられたのだ。神がふさわしい場所へと導いてくださっていたのだ。

16日 創世記26章
 イサクは、井戸の問題でいつもペリシテ人から追われているように見える。しかし、行く先々でイサクはいのちの象徴である水(井戸)を発見している。神の祝福が追ってきているのだ。そして、あまりにも神の祝福に守られているイサクを見て、ついにペリシテ人たちも音を上げ始めた。神の守りと祝福を見て、怖くなったのかも知れない。彼には勝てないと思ったのかも知れない。そこで和平条約を結んで欲しいと言いよってきた。その盟約を結ぶ際に彼らは言った。28-29節。
「私たちは、主があなたとともにおられることを確かに見ました。ですから、こう言います。どうか私たちの間で、私たちとあなたとの間で、誓いを立ててください。あなたと盟約を結びたいのです。私たちがあなたに手出しをせず、ただ良いことだけをして、平和のうちにあなたを送り出したように、あなたも私たちに害を加えないという盟約です。あなたは今、主に祝福されています。」 私たちは一見、虐げられ、奪われたと思う時があるかも知れない。敗北したように思えることがあるかも知れない。だが、本当の勝利は主のもとにある。負けたように見えて、実に勝利している。主に従う者はそうなのだ!

17日 創世記27章
 イサクは年老いて、この世を去ろうとしていた。そこで長男のエサウを呼んで祝福を与えようとしていた。そのためにエサウに、まず狩りに行かせて獲物を取って来させようとしていた。死を前にして、エサウの狩猟の料理を食べ、祝福を与えようとしたのだ。
 だが、その隙に乗じたのが妻リベカであり、リベカの指示で動いたヤコブだ。イサクの目がだいぶ見えなくなってきているのを利用して、エサウの振りをして祝福を横から奪ってしまったのだ。それにしても、イサクは相手がエサウのつもりで祝福の祈りをし、それがヤコブのために有効なものとなったことは興味深い。イサクの意志に沿わない祝福であるのに、結果、有効となっていることはとても面白い。そこには神の主権があるということだ。人の思いこみや勘違いがそこにあってさえ、主のわざはそこに滞りなく起こる。祝福を与えるのは人ではなく、神だからだ。私たちも、人間からの評価を求めることなく、たえず神の祝福に目を留めて歩みたい。

18日 創世記27章
 エサウは、弟ヤコブがしたことで非常に彼を恨んだ(41)。「殺してやろう」と、殺意を抱いたことが41節で語られている。そして、このことが母リベカの耳に入り、リベカは非常に焦ったことだろう。彼女は急いでヤコブに、彼の兄の殺意について伝えている(42)。そして、この殺意が収まるまで、ヤコブのおじラバンのところにとどまるよう指示したのだ。
 確かに、ヤコブが長子の祝福を受けることは神のみこころだった。けれど、イサクを騙し、エサウを出し抜いて・・・といった方法は、決して神の望まれるものではなかったのだと思う。それらは罪深い方法だからだ。結果、エサウから殺意を抱かれるほどに憎まれた。目的がどんなに優れていて、神のみこころであったとしても、その道筋においても、みこころから離れることを是としてはならないと思う。それがエサウの殺意の元となったことから教えられる。良いことを目指すのだから、その過程でもまた、主のみこころを求めたい。どこを切り取っても「良い」というのが、私たちの神、主なのだから

19日 創世記28章 
 エサウがヤコブに殺意を抱いた一方で、父イサクはこの出来事を主にあって受け止め直している。ヤコブを祝福のうちに送り出しているのだ。3-4節では「全能の神がおまえを祝福し、多くの子を与え、おまえを増やしてくださるように・・・」と、ヤコブへの祝福のことばが語られている。そこでは、神がこの地をおまえに継がせてくださるようにと、ヤコブのこの地への帰還まで含めて祝福されていることがわかる。
 6節では、エサウがこれらの一連の出来事を知ったことがわかる。その時のエサウの心情はどんなものだっただろうか・・・。ヤコブを殺したいほど憎むエサウだった。彼は、ヤコブに負けまいと、必死になって両親の愛と関心を自分に向けようとし、アブラハムの子イシュマエルの娘から妻をめとってしまう。しかし、イシュマエルは、神が定めた継承者ではない。アブラハムの子孫なら誰でもいいだろうという、「浅はかな判断」にエサウの軽率さがある。それは、かつて、大切な長子の権利を、一杯のスープと引き換えに売ってしまった軽率さにつながる。神の教えにせよ、神の祝福にせよ、エサウはそれらの重さを理解していないのだ。私たちもキリストの十字架とそこにある救いの恵みを軽く見てはならない!

20日 創世記28章
 ヤコブはベエル・シェバの家を追われ、波乱が待ち受けているハランに向かった(笑)。そして、ひとりぼっちになった。これまで感じたことのない孤独、不安の中に置かれたのだろう。ある場所で眠ったが、夢を見た。主が夢の中でお語りになったのだ。その夢の中の光景は、天使がはしごを昇り降りするものだった。雲の隙間から光が差し込み、はしごのように見える現象を「天使のはしご(ティンデール現象)」と言うのは興味深い。
 そこで主は、ヤコブに多くの子孫を与え祝されること、そしてヤコブを故郷にやがて連れ帰り、その地を与えることを約束し、励ましてくださった(13-15)。そこでヤコブは大切なことに気が付いて言った。【ヤコブは眠りから覚めて、言った。「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」】(28:16)
 神が常にともにおられたのだ。ヤコブがひとりぼっちになった時、初めて神がそこにおられることに気づいたのだ。今まで守られ過ぎていて、気づかなかったのだ。こんなに愛され、見守られ、心配されていたことに。あなたはどうだろうか。

21日 創世記29章
 ヤコブは孤独な旅を続け、より東の国の人々の地に入った(1)。そこに井戸があり、この井戸のところでヤコブは将来のお嫁さんとなる、ラバンの娘たちに出会うことになる。6節で、「ほら、娘のラケルが羊を連れてやって来ます」とのことばを聞き、ヤコブの胸は高鳴ったことだろう。邪魔者に去ってもらい、早速そのラケルと二人きりで話したいヤコブは、策を弄したのだ。彼は、まだ日は高いし、群れを集める時間でもない、羊たちに草を食べさせに牧草地へ戻ってはどうかと提案した。ところが、8節にあるように、「それはできません」とあえなく断られてしまうのだ。
 この場面は、かつてアブラハムのしもべがイサクのお嫁さん探しに来た時と、非常に似ている。その共通点は、井戸を舞台にしていること。ここでお嫁さんとなる人と出会うということだ。だが、全く似ていない要素がある。しもべは絶えず祈りながら、信仰によって嫁探しをしていた。しかし、ヤコブは自分の浅はかな知恵で行っていたのだ。私たちも自分の浅はかな知恵による小細工に走らず、絶えず主に祈り求めつつ、みこころを求めて行動したい!

22日 創世記29章
【朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「あなたは私に何ということをしたのですか。私はラケルのために、あなたに仕えたのではありませんか。なぜ、私をだましたのですか。」(25)
 人は、挫折や失敗をして痛みを知ることがなければ、本当の意味で成長することがない。ヤコブもまた、それが必要であることを誰よりも主なる神が知っていたのだ。人をだまし、小手先の策でここまで生きて来たようなヤコブだった。だが、ここでは彼が騙される側になったのだ。妻としてラケルを求めていたヤコブに、暗闇を利用して、姉のレアを与えるということをしたのだ。こうして、ヤコブもまた騙されることの悔しさ、悲しさ、怒りを知ることになった。兄エサウがなぜ、自分をそこまで恨むのか。いくらかでも知る機会になったことだろう。私たちが痛みを通る時、傷を受ける時、決して無意味ではない。あなたも誰かを傷つけ、悲しませてきたことを知ろう。

23日 創世記30章
ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見た。ラケルは姉に嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」(1)
 姉レアと妹ラケルはライバルになっていた。一夫多妻ということ自体問題であったが、姉妹が競い合うかたちになった。レアは夫ヤコブから愛を受けられないながらも、子どもを多く与えられるという主からの愛を受けとっていた。彼女は子どもたちに、神への感謝を表す名前をつけていた(29:32-33他)。しかし、ラケルは違った。美しさを与えられ、ヤコブからも愛されていたが、レアに嫉妬した。自殺をほのめかしさえしたのだ。
 その象徴的なことばが8節でもあり、「私は姉と死に物狂いの争いをして、ついに勝った」と言って、女奴隷によって得た子をナフタリ(争うという意味を持つ)と名付けた。残念ながら、これで満足できなかったことは言うまでもないだろう。人に争いで勝っても私たちの心は決して満たされないのだ。主がくださる恵みを大切にしよう。そこに満足のカギがある。

24日 創世記30章
 ラケルは子を得るために人間的な方法に頼っていく。14-16節では、姉レアの息子がとって来た「恋なすび」という植物を取引で自分の物にする。「恋なすび」というのは、ナス科の薬用植物で「マンドラゴラ」と呼ばれるもの。これを食すると子ども授かりやすくなるという何の根拠もない迷信があった。ラケルは子どもが欲しい一心で、レアの子ルベンがせっかくお母さんのために取って来た植物をも取り上げてしまったのだ。
 人が神を離れて、自分の望ものを思いのままに求めて行くときに、このような悲惨な現実が起こることに気づかされる。「主は与え、主は取られる」ヨブが語ったあの信仰があるならば、あるがままに感謝して生きて行けるのではないだろうか。一方、レアは神からの慰めを十分に受け取っていた。18節では「神は私に報酬を下さった」、20節では「神は私に良い賜物を下さった」と子どもの存在を、神に感謝しているのだ。主こそが与え、主こそが取られるお方である!

25日 創世記31章
 おじのラバンの元に身を寄せていたヤコブだったが、転機が訪れる。ここには二つの変化がある。一つの目の変化はラバンの態度の変化だ。1-2節によれば、ヤコブの成功を妬んだラバンの息子たちの姿があり、ラバンの態度も以前とは変わってきたことがわかる。好意的ではなくなっているのだ。人の態度はコロコロ変わりやすい。その意味では、永遠に不変で一貫しておられる神の存在はなんとありがたく、頼りになることだろうか。
 二つ目の変化は、ヤコブの成長だ。以前は自分の悪知恵ばかりを頼りにしていたが、3節では主からの語りかけがなされ、彼はその主の声に従う者へと変えられつつある。いよいよ父たちの国に帰りなさいと主が言われたのだ。5節でもヤコブは言う。「しかし、私の父の神は私とともにおられる。」と。自分の声を聴く者から、主の声を聴く者へとなり、神が私とともにおられるのだという心強い確信が培われてきたのだ。試練は苦しいけれども、ヤコブがこうして辛い環境に置かれたがゆえに、主をより頼む者とされたことは大きい。

26日 創世記31章
9節 こうして神は、あなたたちの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。
 ラバンは義理の息子ヤコブに対して、欺き何度も報酬を変えた。それでも、神がヤコブに害を加えることを許さなかったので、ヤコブは働いた分の報酬を十分に獲得でき、家畜の群れを大いに増やすことができた(7-9)。神が働いてくださったのだ。
 そして、何よりもそのことをヤコブが信仰の目で理解していることが重要だ。神のみわざが確かに起こり、守られているのにそれに「気づかない」ということが多々ある。毎日、主が豊かに与え、その義なる右の手で守っていてくださるのに、私たちがボーっとしていて気づかないのだ。それは非常に残念なこと。主は、神により頼み、みことばに従う者に、恵みを与えないはずがない。主がくださるものをしっかりと見つめよう!

27日 創世記31章
 ヤコブとラケルたち家族は、ついにラバンの家を出ることにした。関係はあまり良くない状態になっていた。そのためラケルは、父の所有のテラフィム(偶像)を盗み出した(19)。そして、ヤコブは「ラバンを欺いて」「自分が逃げるのを彼に知られないようにした」とある(20)。盗み、欺き、秘密にしている・・・。彼らはまだ信仰において、人格において十分に成熟していないと言える。これらの背後には「恐れ」があったようだ。31節でヤコブ自身がそう言っている。恐れにとらわれ、またもや人間的な方法、罪深い行動を夫婦そろってしてしまったようだ。
 しかし、その一方で主は彼らの知らないところで、豊かに働いておられたのだ。29節のラバンのことばによれば、神から「ヤコブと事の善悪を論じないようにせよ」と告げられていたのだ。私たちにとって、このことを知ることがとても重要だ。主は私たちの見えないところ、私たちが寝ている間にも、豊かに働いておられ、すでに様々な備えをしておられるのだ。このことを信じよう!!

28日 創世記32章 
 いよいよヤコブは故郷へ帰ろうとしていた。しかし、難題が待ち構えていたのだ。兄エサウとのことだ。そのいのちを狙うほどに、彼はヤコブを憎んでいる。ヤコブは様子を伺おうと、使者をエサウのもとに遣わした。それによると、エサウは400人もの人を連れて迎えようとしていた。それでヤコブは・・・6節にあるように非常に恐れ、不安になった
 私たちは誰でも恐れ、不安を抱く存在だ。それでもそこに支配されないよう神の愛にとどまることが大切なのだ。ヤコブはそこで、神に祈った!9-12節にその祈りがある。以前の彼との違いが、この祈りの中にはある。少しずつだが、彼は変えられているのだ。そこでは、「私は恵みとまことを受けるに値しない者です」と祈っている。また、率直に「私は恐れています」(11)とも神に訴えている。自らの罪深さや愚かさを自覚し、その弱さを率直に認め、神に懇願する者となったのだ。強がることをやめ、自らの弱さ、罪深さを認める者となろう。そうやって素直に祈り求める者に、神が助けを与えないことなどあるはずがない。

29日 創世記32章
 ヤコブが一人だけ後に残ると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。(24)
 「ある人」とは、読んでいくと神の使いであり、神ご自身であるとわかる。ヤコブから挑んだのではなく、神の側から挑んでいる。それは、ヤコブを育てるため、彼が神ご自身と真剣に向き合うようになるための神からの挑戦だった。この格闘中に、ヤコブは自分のももの関節が外れてしまったが、それでも必死に格闘した。いつもならずるをして逃げそうなヤコブだが、もう逃げたくなかったのかも知れない。必死に求めていたのだ
 だから26節で、「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」と、神がおっしゃったが、ヤコブは「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」と言って、しがみついたのだ。私たちにしばしば欠けているものは、コレではないか。優等生な信仰者である必要はない。いつでも神は、必死になって、本気で求めてくることを喜ばれる。ヤコブはこの信仰の格闘を通して変わった。その名は「イスラエル」と名付けられた。人を押しのける者(ヤコブ)から、神と闘う者(イスラエル)へと変えられたのだ。私たちも神を必死に求める者になろう。

引用元聖書
<聖書 新改訳2017
聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

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