東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書6章1-12節「何が人のために良いことか」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/02/06

伝道者の書6章1-12節「何が人のために良いことか」

*** 2/4(日)主日礼拝 説教概略 ***

 この罪の世では、理解できない不条理が満ちています。正しい者が損をし、まじめな人が傷を負う。納得のいかないことが多くあり、努力が水泡に帰すこともある。それは、1節で、「私が日の下で見た悪しきことがある」と語られている通りです。

 日の下、それは天の神様を抜きにした、地上のみの世界のことです。神様を無視して、人間の価値観だけで生きるなら、この世に望みはなく、不条理と悪意に満ちた暗闇の世界です。これらの悪が人の上に重くのしかかっていると語られています。




 私たちは今日、神なき世界の悪、不条理な現実を学びつつ、その中で、何が人のために良いことなのか、それを知る者とならせていただきましょう


1.日の下で見た悪しきこと(神なき人生の不幸)

 2節にこうあります。

2 神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。 

 本当に人生は何が起こるかわかりません。あらゆる物を与えられ幸せの絶頂のような人でも、それらを急に失い楽しみを奪われてしまうことがあります。それは空しいこと、人には理解不能な理不尽なことです。それはこの世界における「悪しき病」だとも表現されています。続く3節でも、こうあります。

3 もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。 

 多くを所有し、長く生かされ、偉そうに生きても、その価値に満足せず、さらに墓にも葬られないような人生を送るなら、その人生はむなしいのです。それは、地上の人生が一日にも満たなかった死産の赤ちゃんにさえ及ばないと言います。

 「墓にも葬られない」とはどういうことでしょう。簡単に言えば、誰からも尊敬されず、感謝もされていない人。むしろ嫌われ、憎まれている人の姿です。聖書では、丁重に葬られた人と、そうでない人を比較すると、「どう歩んできたのか」が如実にわかります。実は「どのように葬られるか」は、どのように生きて来たかの集大成なのですよね。人は、死ぬ時に、人々からの本当の評価がわかるものでしょう。

 外国の格言に、「生まれた時にはあなたが泣き、周りの人は笑っていたでしょう。しかし、あなたが死ぬ時には、その逆になるように生きなさい」という教えがあります。生まれた時、私たちはオギャーと泣き、家族がそれを喜び笑っています。しかし、「あなたが死ぬ時には、あなたが笑顔で、周りの人が泣いてくれる。そういう人生を送りなさい」ということです。死ぬ時には、死ぬ自分自身が「満ち足りた人生であった」と笑顔で世を去り、人々はあなたを心から慕うゆえに、涙をこらえきれない。そういう人生を歩みなさいと。これらはキリスト教的な格言ではないですが、「なるほど」と思わされます。

 皆さんは大丈夫でしょうか?周囲の人々が死を悼んでくれる人生でしょうか。私が死んで皆さんが満面の笑みだったらどうしようかと思います。6節にもこうあります。

6 彼が千年の倍も生きても、幸せな目にあわなければ。両者とも同じ所に行くではないか。 

 みことばは、どれだけ多くを所有し、どれだけ長く生きようと、神と人とを愛さない自己中心の人生はむなしいと教えているのです。聖書中最も長生きをした人物は、メトシェラという人で、969歳まで生きました。あと30年ほどで1000歳です。しかし、その倍である2000年生きても不幸であるなら、わずか1年でも喜びと感謝にあふれ、心満たされ幸せな歩みした方が良いのだと言うのです。

 神を知らない者の現実について、みことばは続けて語っています。7節です。

7 人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。 

 ここでは、食欲を満たそうとどんなに労苦しても満たされないむなしさを語ります。どんなに美味しい物を食べても、もうこれで満足、明日から何もいらないとはなりません。「食欲」ということばには、「魂」や「欲求」という意味もあり、食欲に限らず私たちの魂の求めや欲求は、それを満たすために必死に労しても、それによって満たされるものではないのです。それは知識の探求も同様です。もうすべてを知って最高に幸せということはないのです。

8 知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう。人の前でどう生きるかを知っている貧しい人も、何がまさっているだろうか。 

 賢い人も愚か者も、所詮同じように死を迎える。ならば、その差は一体何になるのでしょうか。貧しい人ほどお金で解決しない分、知恵で生き残る賢さを身に着けられることがあります。しかし、その知恵がある分幸せかと言うと必ずしもそうではないでしょう。

 9節では、「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」という興味深い表現があります。目の前にないものばかりを貪欲に求め続ける「欲望の一人歩き人生」より、今目の前にあるものを大切にして生きる方が優れていると言うのです。「ない物ねだり」のむなしさです。そうした人生は、一生が不満で終わってしまうのではないでしょうか。

 しかし、ある物をしっかり見つめて感謝して生きる人は、いつでも満たされ、毎日を楽しめますよね

 例えば、自分の妻・夫に、子どもたちに、親たちに、友人や職場の人たちに、ない物ばかりを求めていませんか。その方々に神様から既に与えられている良き物を見つめ、感謝しているでしょうか。ない所ばかりを見つめ、批判してばかりいることは、神様のみこころではありません。

 そのうち、そこにある恵みさえ取り去られ、その人々が離れて行ってしまうかも知れません。そして、大抵の場合、失ってから気づき、後悔するのです。

これらを通してみことばが伝えていることを整理すると何を伝えているのでしょうか。

人は、たとえ多くを所有し、長く生き労苦を惜しまず生きようとも、さらに「もっと、もっと!」と求め続けても、それによっては満たされず、幸せにはなれないということです。 



2.「何が人のために良いことかをご存じの神」を信じる  

 では、どうしたら良いのでしょうか。そのヒントがありました。3節には「彼が良き物に満足すること」と。また、9節では「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」とありました。これらによれば、人が、今目の前に与えられている良き物を感謝し、十分に満足するなら、わずかな物しか持たずとも、短い人生であろうとも、豊かで幸せであるということです。

 では、目の前の良き物の本当の価値を知り、それによって満たされるには、どうしたら良いのでしょうか。それは、自分を造られた神様を知ることです。人は自分の造り主、世界と自分の生みの親なる主を知る必要があります。自分は何者であるかを知り、自分を造られた方を知るようになるために、10-11節で語られています。 

10 存在するようになったものは、すでにその名がつけられ、それが人間であることも知られている。その人は、自分より力のある者と言い争うことはできない。 

 人間が神様によって造られ、神様からアダムとエバと名付けられました。人という呼び名も神がくださったものでした。名づけられた側の人間は、造られ名付けられ生かされている側です。ですから、「その人は、自分より力のある者と言い争うことはできない。」とあるのです。造ってくださった神に対して「なぜ、自分をこのように造ったのか」と文句を言える立場にありません。言ったところで何も変える力が私たちにないのです。

 11では、多くのことばを並べたところで、私たちはこの世界を変えることも、自分の寿命を延ばすこともできないことを教えています。偉そうに述べても、明日のことさえわからない私たちです。尾崎豊という歌手の曲に、「僕が僕であるために」という曲があります。愛しているのに、君を傷つけてばかりだという内容の後に「こんなに君を好きだけど、明日さえ教えてやれないから」と続きます。誰かを愛していても、命を延ばしてあげることはおろか、明日さえ教えてあげられないのが人なのです。

ですから、神様のおこころを知る必要があるのです。12節でこう締めくくられます。

12 だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。  

影のように過ぎ去るはかない人生です。そのような私たちの人生において、「何が人のために良いのか」、「これから後に何が起こるのか」これを誰に聞けばいいのでしょうか。

人には分かりません。いつ災害が起きるのか。どこが100%安全なのか。人には分かりません。いつ事故に遭うのか、いつ病になるのか。いつまで生きられるのか。未来もすべて考えた上で、何が最善なのか、何が良いことなのか。人には断言できないのです。しかし、人にはわからないが、神様はご存知なのです。主なる神様は、ご自身のみことば・聖書を通して、また、世界中の人が知る御子キリストを通して、あなたに語りかけ、あなたを招いておられるのです。

本日のみことばも「絶望」を伝えたいのではないのです。不条理な世の中でお先真っ暗だと言いたいのではないのです。人がおごり高ぶり、自分は死なないかのように生きていることへの警告です。ない物ばかりを求めて、与えられている物を感謝できない歩みへの警告です。今与えられている存在の一つ一つを感謝し、その恵みが私に十分であると信じない人は、一生涯、ずっと不満と後悔に生きるしかないのではないでしょうか。

 神様はすべての人に、幸せに生きて欲しいのです。神無き「日の下」での人生の闇を教え、その闇の道を改めて、造り主なる神のもとにある幸いな道へと歩むよう招いておられるのです。幸せになって欲しいと願い人を造り、また、人に幸せへの道を教えておられるのです。神の御子までも与えられたのですから。

 今日、みことばを聞いたこの時が、この招きに応じるその時です。この書の伝えたいメッセージの一つが、121節にあります。 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。 

 今、目の前にある人、物、あらゆる恵み。それを心から楽しみ喜び、感謝できるようになるために、あなたの創造者を覚えましょう。むなしく人生を過ごし、あらゆる物を失っていき、「何の喜びもない」とさみしくつぶやく日が来ないように。あなたの創造者を覚えましょう。


引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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