東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書3章27-31節「誇りは取り除かれた」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/02/07

ローマ書3章27-31節「誇りは取り除かれた」

*** 2/7(水)祈祷会 説教概略 ***

 日本の茶室には「にじり口」と呼ばれる狭い入り口があります。千利休が、聖書の「狭い門から入れ」との教えからインスピレーションを得た可能性も指摘されます。戦国時代、その入り口は狭いために、鎧や刀を置いて無防備なままで入る必要がありました。茶室はある種の聖なる空間と考えられ、地位も名誉もプライドも脇において、ただ相手と親しく茶を飲みかわす空間でした。私たちの信仰生活はまさにそうで、人間的な物を持ち込まないために、ただ神様の恵みによって、行いによらず価なしに救われるのです。それは、自分を誇る生き方から、神を誇り、神を賛美する人生へと変えられていくためです。




1.取り除かれた「人間的な誇り」  
 27節で、パウロは「私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と問いかけます。そして、それは既に取り除かれたのだと言うのです。ここで言う「誇り」とは、人として必要な尊厳のことではありません。これは「自慢」とも訳せることばで、自分の手柄を誇る行為でしょう。では、何によって取り除かれたのでしょうか。「信仰の律法」によってであると言います。実は以前の訳では「信仰の原理」と訳されていました。ノモスというギリシャ語が使われていて、原理や法則とも訳せますし、律法とも訳せます。パウロが、旧約における「行いの律法」と対比して語っていると考えると「信仰の律法」と訳す方が良いでしょう。

 では、信仰の律法とは何でしょう。28節で説き明かされています。 
28節 人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。 
 これはすでに22-24節で語られたことでした。律法を守る行いとは関係なく、ただキリストを信じる信仰によって義と認められるいうことです。この救いは、神の恵みによるのですから、人間の側に何の手柄もないのです。

これは、同じくパウロが著したエペソ人への手紙2:8-9で、とても明確に語られています。
エペソ2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
 人間が自力で達成するような救いではなく、神からいただく「賜(たまわ)り物」なのです。それは受けるに値しない者が、恩寵によってありがたく賜った物。そして、神様は、このことによって人間がだれも誇ることのないようになさったのです。


2.神をほめたたえる者へ  
 実はこの点(誇れないこと)が、私たちにとって本当にありがたい神様のご配慮だと思わされます。「成功につける薬はない」とのことばがありますように、人間は自分の行いを誇り、天狗になってしまうと手が付けられません。他の人や神様を見下し、多くの過ちを犯してしまうでしょう。その人自身のためにならないのです。ですから、人が自分の行いを誇るのではなく、「神の栄光をほめたたえる者」となるよう、「人間的な誇り」を取り除いてくださったのではないでしょうか。ローマ書に戻りますが、先週学んだ23節のところで、人は罪を犯して、神の栄光を受けることができないと語られていました。人が最初に罪を犯した時、「神のように賢くなりたい」という願望があったのでした。罪の根深いところに、人は自分を高くしたい、あがめられたいという思いがあります。バベルの塔においても、人は結託して神に届くほど高い塔を建てようとし、散らされましたね。人間的な誇り、自分の行いを自慢する歩みは、神様と私たちを対立させ、神の栄光から遠ざける罪深い歩みであると言えます。

 ですから、私たちの救いのスタートにおいて、人の余計な「誇り」をすべて除かれ、そこから神様との歩みが始まるというのは、本当に大切で相応しいことだと思います。このようにして人の誇りを除かれて始まる信仰生活です。罪のゆえに神の栄光にあずかることができなかった者たちですが、自分の罪深い誇りが取り除かれ、徐々に神の栄光を誇る者へと変えられて行くのです。パウロは、少し先のローマ書52節で、このように語ります。

5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。 
 最後の「喜んでいます」の部分は脚注にありますように、「誇りとしています」と訳せることばです。327節の「誇り」ということばと同じことば(その動詞形)です。私たちは、自分のプライドをへし折られ、自慢できる部分も奪われ、何も誇れないと嘆くことがあるかも知れません。「私には自慢できるものがない」と自らの無力を悲しむ人もいらっしゃるでしょう。しかし、そのようにして、私たちの人間的な誇り(プライド)が取り去られることで、代わりに神のみをほめたたえる者となるならば幸いだと思うのです。クリスチャンの成熟は偉くなることではなく、神を誇る者となることです。私自身も、自分が天狗になるたびに、主から鼻をへし折られる経験を幾度もしてきました。でも、それは主のあわれみです。主を誇る者となるための神様の愛であったと思うのです。当時も、ローマの教会にいた多くのユダヤ人クリスチャンたちが、キリストを信じてなお、律法の行いや割礼にこだわり、人間的なものを誇っていた現実があったのでしょう神の救いの力を、人の行いの力にすり替えることで、救いの豊かさが隠されてしまっていたのでしょう。私たちはひたすらに主をほめたたえ、主に栄光を帰すことができる幸いを喜び、誇りとしたいですよね。


3.すべての人に等しく与えられる福音  
 この土台に立つとき、ユダヤ人であるかどうかとか、割礼の有無であるとか、そんなことは全く重要ではないのだとわかります。パウロは改めて、29-30節で、この問題について明確な主のみこころを教えていますね。

29節 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもあるのではないでしょうか。そうです。異邦人の神でもあります。30節 神が唯一なら、そうです。神は、割礼のある者を信仰によって義と認め、割礼のない者も信仰によって義と認めてくださるのです。 

 すべての人に等しく開かれ、等しく与えられる神の救いです。誰にも遠慮せず、堂々とお伝えできる良き知らせ、福音なのです。なんとありがたいことでしょうか。営業マンが、自社の商品を売り込む際に、その商品に徹底して惚れ込むことが大事だと言われます。しかし、自分が心から「良い」と思えないものは、気持ちを込めて売り込むことが難しいのです。その点で言えば、私たちのこの良き知らせ、福音は、どこをどう取っても良い物で、嘘偽りなしに価なしに受けられるのですから、なんと嬉しいことでしょうか。イエス様についても、この救いについても、私たちは胸を張って最高に良きものとしてお伝えできるのです。ぜひ、さらにみことばから学び、福音に惚れ込んで、証して参りましょう。


4.信仰はむしろ、律法を確立させる  
 そして、この信仰による義は本当にすばらしいものであることが、31節からもわかります。31節 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。 ここにあるように、律法は決して無効にならず、それどころかこの信仰によって律法はかえって確立されるのだとパウロは言います。それは、神が遣わされた御子キリストを信じることこそ、神の願い、神の求めであり、律法の要求のすべてだからです。律法はそもそも神の愛と聖さを示す良いもので、人には満たせなかったのですが、イエス・キリストによって律法はすべてを全され、成就されたからです。人の行いによらず、主への信頼の中で律法が全うされ、律法の本来の意義が達成されるとは、すばらしい神様のご計画です。

 主は今日もお語りになっています。神様は人の行いによらず、信仰によって義とされる救いを備えられました。人がその行いを誇らないためです。そうして、神の栄光をほめたたえ、キリストを誇る者となるためなのです。キリストを誇りとする者として、これを隠さず胸を張って伝えていきましょう。すべての人に開かれた、何にも代えがたいイエス様の福音なのです。



引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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