*** 2/11(日)主日礼拝 説教概略 ***
我ながらとても難しいタイトルをつけてしまったと少し後悔しております。なんだか神学校の授業のタイトルのようです。少し居心地が良くない感じもします。ただ、こういったことばを使わないとどうなるでしょう。
「私たちが神のうちにいるようになり、神も私たちのうちにいてくださる、その根拠」というだいぶ長いタイトルになり、悩ましいところでした。それに、少し難しそうなタイトルも、たまにはいいですよね。
今日、みことばから教えられることは、今すでに述べたことです。私たちが神様のうちにいるようになり、神様も私たちのうちにいてくださるということです。それは今日のみことばを読めば、3度繰り返されていることが分かります。私たちは主のうちに生きる者となり、主も私たちのうちにいてくださるという「親密な交わり」です。
それはまるで、愛し合うカップルが切望するような関係性です。愛する人が自分の中に生きていて、相手のうちにも自分の存在がいつもあるような。もはや切り離されることなく、いつも互いに寄り添いともにある関係性です。
それこそが神のみこころであり、この手紙の著者ヨハネが伝えたかった内容です。しかし、そうは言っても、なかなか実感がわかないとか、神様との距離を感じるという方もあるでしょう。それでヨハネは、この神と人との相互内在を保証する根拠を3つの点から語っています。私たちは単なる感覚で、「そんな感じがする~」というのではなく、論理的に、根拠をもって、この恵みを受けとめていきたいのです。みことばから、その明確な根拠を教えられ、そして私たちの主にある信仰を、ますます励ましていただきましょう。
1.信者に与えられた聖霊の存在によって
第一の根拠は聖霊です。私たちは、自身に与えられている「聖霊の存在」によって、神の内在を確かなものであると信じることができます。
13節 神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。
御霊、あるいは聖霊は、この世界を造られた父なる神様と一体であり、御子イエス様とも一つです。聖書の神様は、父、御子、御霊の三位一体の神様だからです。その中でも、キリストを信じる者のうちに住んで、導いてくださるのが聖霊なる神様です。聖霊は、私たちに神の義を示し、罪をわからせ、イエス様のおことばの真理を理解させてくださいます。勇気を与え、愛を増し加えます。イエス様を信じる前と、イエス様を信じてからでは、その人が大きく変えられていくのは、この聖霊の働きによるのです。
ですから、そうした具体的な目に見える実りによって、その人が神様との親しい交わりに入ったのだと分かります。
本当だろうか?と最初のうちは疑いまくっていた私です。しかし、イエス様を信じてから、実際に、聖書が以前よりもずっとわかるようになりました。自分の罪深さや愚かさも、より深く示され、わかるようにされました。心が励まされ、不思議な安心感、平安の中に歩めるようにされました。おそらく、以前に比べれば、人格面でもはるかに穏やかにもなったと思います。だとすると、以前はどれほど酷かったのか?と思う方があるかも知れません。酷かったのです!一部の友人からは、昔は「怖いぐらいだった」とも言われます。私が神のものとされ、聖霊によって変えられてきたのだと思います。
こうして、聖書が書いてある通り、皆さんも自分の中に変化が既に起こっていることをずっと体験してきたことでしょう。これこそ、神が私たちにおられ、私たちも神のうちにあるという証拠なのです。みことばと、実際の「実り」とが一致しているわけですから。御霊の臨在を否定する理由はどこにもありません。
2.イエスが神の御子だとの告白によって
第二の根拠は、イエス様についての告白です。私たちは、イエス様を、神の御子だと告白できているのならば、それが、神が既に私たちのうちにおられる証拠なのです。14-15節をご覧下さい。
14節 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。15節 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
もし、私たちが、イエス様は世の救い主、神の御子であると告白したのならば、神様はその人のうちにとどまっていると言えますし、その人自身も神のうちにとどまっているのです。時に、「自分には、非常に劇的な涙する体験があまりない、あるいは、驚くほどの奇跡なども特別体験していない・・・だから、大きく変わったとも思えない、だから、主が私のうちにおられるとは思えない。」そう思う方があるかも知れません。しかし、聖書はそうした劇的体験や奇跡が、神と人の相互内在の根拠ではないのだと教えているのです。
昔持たれた中高生キャンプで、ある先生がこのことを非常に分かりやすく語ってくださったのをよく覚えています。参加している子たちの多くは、幼い頃から教会に来ている子たちでした。ですから、「ひどい不良だったけど、劇的体験で悔い改めました!」というような子はあまりいないのです。そして、時に、教会とは無縁の生活を送って来て、劇的な涙・涙の体験をして救われた人を「うらやましく」思う。自分にはそういう経験がないから、救われていないのではと、悩む子もいたのです。
けれど、「そうした経験は必ずしも必要ではないのだ。そうではなく、あなたがイエス様を信じる告白をしているなら、それは御霊によらなければできないことであり、あなたは確かに救われているのだ」と力強く語ってくださいました。
感情的な感覚ではなく、劇的体験ではなく、神の約束という揺るぎない土台の根拠の上に、私たちの救いはあるのです。イエス様を信じているなら、あなたは神のもの、神もあなたの神となってくださっているのです。
3.愛にとどまっていることによって
第三の根拠は愛に生きていることです。
16節 私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
「私たちは自分たちに対する神の愛を知り」とあります。「知る」ということばは、知識として知っているということではありません。それは体験的に知るという意味が含まれています。実際に神様のご愛を味わい、体験して知るようになったのです。
それはイエス・キリストの十字架に現わされているということでした。神が人を愛してくださった。愛する御子をくださった。「ここに愛があるのだ」と4章10節のところで語られていましたね。
この愛を受け取り、この愛こそ本当の愛だ、力ある神の愛だと信じている。その人はすでに神のものとなり、神もその人のものとなってくださっているということです。この愛にとどまっているならば、神のうちにとどまっていることであり、神はそこにおられるのです。
このようにして、3つの根拠をもって、神と私たちが、相互に内在することを教えられて参りました。
第一に、聖霊の働きを通して、私たちはそれを実際に体験して知ることができます。
第二に、イエス様を神の子、救い主だと告白できた瞬間から、私たちは神のうちに、神は私たちのうちにおられるのです。
第三に、愛にとどまっている者は、神と一つとされる交わりの中にあるということです。
これらは、実に、三位一体の神様のお姿がモデルです。父なる神様、子なるイエス様、聖霊なる神様が、愛の交わりにおいて一心同体となっておられる関係性。実にその中に、信じた私たちも招き入れられ、私たちのうちにも主がおられるという交わりです。
果たして、聖書の神様以外に、どこにそのような親しい愛の交わりを大事にしてくださる神様がいらっしゃるでしょうか。確かに、世界には様々な宗教があります。熱心な人々がいます。それは立派です。でも、よくよくお話を聞いていると、その活動に熱心になっているのであって、神様との心の通い合う交わりに対する熱心さではないことに気づくのです。
いや、実はクリスチャンの中にも、この素晴らしい神様との親密な交わりを知らないままである人もいることでしょう。礼拝はしている、聖書は読んでいる、奉仕はしている。しかし、この親密な交わりを本当に知っているでしょうか。それを喜び楽しんでいるでしょうか。昔、一生懸命家の上の方に飾ってあるイエス様の絵に向かって話しかけ、祈っていますという方がありました。神棚のような感覚があったのでしょうか。しかし、「イエス様を信じているなら、そんなに遠くないのですよ」とお伝えしました。「すでに、あなたとともにおられるのですよ」と。もはやお互いが、そのうちに存在しているという、一体性さえ与えられている関係です。
では、私たちがどこか遠いところに行く時はどうでしょうか。飾ってある絵を持って歩くことは難しいでしょう。けれど、主は私たちが行く先々でも、いつも離れずともにおられるのです。たとえ、キリストと口にするのもはばかられるような国に、連れて行かれたとしても。主の臨在が常に私とともに行き、どこにいようと私たちを安らがせ、力を与えてくださるのです。
最後に、いつでも、どこに行っても、私たちが神様のうちにいることができ、神様も私たちのうちに、ともにおられることを別のみことばから味わいましょう。詩篇139:7-12です。
7節 私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。
どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。
8節 たとえ 私が天に上っても そこにあなたはおられ
私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。
9節 私が暁の翼を駆って 海の果てに住んでも
10節 そこでも あなたの御手が私を導き あなたの右の手が私を捕らえます。
11節 たとえ私が 「おお闇よ私をおおえ。私の周りの光よ夜となれ」と言っても
12節 あなたにとっては 闇も暗くなく 夜は昼のように明るいのです。 暗闇も光も同じことです。
引用元聖書
<聖書 新改訳2017>
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