東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: ローマ書4章1-8節「主に信頼して、ゆだねる」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/02/16

ローマ書4章1-8節「主に信頼して、ゆだねる」

*** 2/24(水)祈祷会 説教概略 ***

 「主に信頼して、ゆだねる」・・・おそらく幾度も耳にしてきたことばでしょう。けれど、信仰によって義とされ始まった信仰生活なのに、気が付くと信頼できておらず、ゆだねていない自分を発見する。そんな信仰生活だと言う方が少なくないのではないでしょうか。


 しかし、本日のみことばによれば、キリストが現れる前の旧約時代の信仰者たちも、律法を行うことではなく、信仰によって歩んでいたのだということが語られています。

 なぜ、信仰から行いへとすり替わってしまうのか。その問題も考えつつ、みことばに教えられましょう。

 

 パウロは、ユダヤ人読者たちを説得するために、4章で「アブラハムの信仰」を例にとって、説明をしています。アブラハムは、ユダヤ人たちにとっての歴史的な先祖であり、尊敬されている人物です。そのアブラハムが、信仰によって義と認められた原型であるということです。旧約初期のアブラハムの信仰と、新約聖書の時代のキリスト者の信仰は、全く別のものなのか。それとも本質的には同じ信仰であるのか。その点をパウロは説き明かしています。伝統的に、ユダヤ人の多くは、アブラハムは、割礼をはじめとする「行い」によって義とされたと理解していました。しかし、そうではないのだと説き明かされています。

2  もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。 人間の側で「行いで義と認められたに違いない!」と思ったとしても、肝心の神様が裁判官ですから、その神様が「いいえ、彼の行いでは、義となりません」とおっしゃればそれまでです。事実、旧約聖書がそれを明確にしています。3  聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。 これは創世記156節の引用です。ここにある通り、アブラハムの時代においても、彼は行いによってではなく、信仰によって義とされたことが明らかに語られていたのです。(十戒を初めとする旧約聖書の律法がまだ授けられていない時代です)。その時から、行いによる義ではなく、割礼による義ではなく、信仰による義が語られていたのです。私たちの理解でも彼は、「信仰の父」と呼ばれますね。

では、どうして、歴史の中で行いによる義へとすり替わってしまったのでしょうか。それは、イスラエルの民が高慢になり、自分たちの行いを誇るようになったからです。自分の自己顕示的働きが、主の顕示(臨在)を見えなくしてしまいます。ですから、神様はしばしばイスラエルを砕き、減らし、自分たちの行いを誇ることを悔い改めさせようと何度もなさいました。

例えば、ギデオンがミディアン人と戦う時、神様はわざわざ兵士の数を減らしましたよね。3万人以上いたのに300人まで減らされました。理由はこうです。

士師記 7:2 主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。

つい最近聞いたお話ですが・・・リージェント・カレッジで教鞭をとり、30冊以上の著書を世に残したユージン・ピーターソンという長老派教会の牧師がいました。彼は、十分な休みを取らず、働きすぎる人の問題について、自己中心で自意識過剰な人ほど、その傾向があると指摘しています。

本当は主が精力的に働いてくださることで、私たちは支えられ、安心してゆだねていける。なのに、自分が働かなければダメだと思い込んでいるわけです(万能感)。しかし、実際は、自分がいなくなったところで組織はそうそう止まったりはしないのです。

私たちの教会も、昨年私が40日間、サバティカルで留守しました。でも、教会は止まることなく歩みを続けていました。おそらく3か月、半年でも大丈夫でしょう。また、私が完全にいなくなったとしても、別の牧師が立てばいいことですし、本来そうでなければならないとさえ思います。誰か一人が抜けたら動かなくなるようでは、逆にチームとしてどうなのか?という問題さえ感じます。

「信仰によって主にゆだねる」ことを、人間の行いにすり替えてしまう根っこにあるのは、このような人間の高慢の罪、自意識過剰という歪んだ性質にあるということです。動かしておられるのは主であり、主が守り支えておられるのに、自分こそが必要不可欠な存在だと、私たちは思いたいのです。救いはただ主のからのみ来るのに、主の働きを人間の小手先にしてしまう課題です。
先週は、エペソ28-9節でも、人が行いを誇らないようにするために、神は行いによらず信仰による義、恵みによる救いをもたらされたことを学びました。

 

さて、ここでパウロは別の例を挙げています。それは労働とその対価についての話です。これによって、行いと信仰の違いをより明確にしています。

4  働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。 

 ここでは主の働きではなく、この世の労働について語られています。定められたルールに従ってお仕事をした。その労働に対する対価として、お給料が支払われますね。このお給料は「恵み」でしょうか? 基本的には「対価・報酬」ですね。

 労働に対して当然に支払われるべきもの。むしろ、支払われないなら訴えられてしまう性質のものです。また、それゆえに、労働自体も怠慢であってはいけません。きちんと定められた条件を満たさないと、クビになることもあるわけです。

 これが「行いによる義」という考え方です。

 奉仕を頑張った、これだけやった。だから神様、報いをくださいという考えです。

 しかし、神様はご自分の義を労働の対価とは全く考えておられないのです。働けなかった人にも、等しく無償で与えるプレゼントです。それが「恵み」ですよね。5節にこのようにあります。

5  しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。 

 この聖書の救いの良き知らせ、恵みの福音は、労働の対価ではないのです。これだけのことを成し遂げたから、神様から恵みと祝福をもらえますという性質ではないのです。神様は、すべての求める人に無条件にあげたいのです。

 

さらにパウロは、アブラハムだけではなく、ダビデの例を挙げて、信仰による義を強調していきます。ダビデもまた、ユダヤ人たちからすれば、本当に尊敬されている信仰者であり、愛されている人物です。そのダビデもまた、良い行いによってではなく、神のあわれみによって、信仰による赦しを教えています

6  同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。 7節 「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。8節 幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」 

 これは詩篇32篇からの引用です。この詩篇32篇は、おそらくダビデ自身が重い罪に悩み苦しんでいた時のことを語ったものです。この時、彼は自分の罪のことで、骨が疲れ切るほど、一日中うめいてしまうほどに弱り、渇き切っていました。

 しかし、神様を信頼して、罪を告白したことで赦しを受けたのです。「不法を赦され、罪をおおわれた」とは、まさに神の前に義とされたということですよね。そのような人はいかに幸いであるかと語ります。

 そしてこの引用元の詩篇32篇の10節で、ダビデはこう語っています。

10節 悪しき者は心の痛みが多い。しかし 主に信頼する者は 恵みがその人を囲んでいる。

 ここでは、悪しき者の反対を「正しい者」と、あえて言いません。悪しき者の反対を、「主に信頼する者」と語っています。主に信頼する者こそ、神の前に義なる者だからです。その人は、さばきではなく、滅びや恐怖ではなく、恵みに囲まれると言います。良い行いをする者ではなく、割礼を受けた者ではなく、主に信頼する者です。

 

 ご一緒にみことばに聴いて参りました。 主に信頼しない人は、自意識過剰なほどに自分で働きます。自分が休まず働かないと事が進まないと思い込む万能感にとりつかれています。結果、信仰による義から、行いによる義へとずれていきます。

 しかし、本当は主なる神様こそが精力的に、私たちが寝ている間も働いておられるのです。もっと主に信頼しておゆだねしましょう。それができないと、私たちは安心して眠れません。寝ている間も働いてくださる主に心から信頼し、期待し、ゆだねていこうではありませんか。その人のまわりを、主の恵みが取り囲んでいるからです。




引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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