東村山福音自由教会 ✞ Sunrise Chapel: 伝道者の書7章1-6節「むなしい人生から、実を結ぶ人生へ」
主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3:33)

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2024/02/19

伝道者の書7章1-6節「むなしい人生から、実を結ぶ人生へ」

*** 2/18(日)主日礼拝 説教概略 ***

 インスタントの時代です。スマホであれこれ完結してしまいます。買い物も遊びも、仕事まで。手軽に色々なことができます。お店に行かずとも、デリバリーで様々な外食が楽しめます。結婚式や葬儀でさえ、しばしばオンライン参加が可能になりました。確かに、間口が広がり、便利になって、良い面も多くあります。

 しかし、その一方で、苦労して犠牲を払って何かをする機会も減りました。忍耐深く待つことや、コツコツ積み上げていくことが減ってしまったのは、残念なことかも知れません。しかし、その弊害や問題をあまり考えないのも私たちです。


しんどいこと、苦しいこと、悲しいことからはさっさと逃げてしまうのです。その根本には、「今が楽しければ、それでいい」という刹那的な人生観があるように思います。結果、人が皆、笑顔になっているのならいいでしょう。本当の意味で幸せになれているのならいいでしょう。しかし、現実はむしろ逆ではないでしょうか。

ますます「むなしい人生」になっているのです。忍耐の先にある練られた品性を獲得できず、希望を持てない。試練を通して与えられる平安な義の実りもない。人の死と真剣に向き合うことで、人生を本気で考え直す機会も持たないでいる。神様はそれを、悲しみのうちに見ておられることでしょう。いつまでも残る良き実を結ぶ人生のために、今日のみことばは大切な真理を示してくれています。それは悲しみを知るということ。人生の大切な真理を学ぶために、人の死と向き合うことです。ご一緒に聴いて参りましょう。

 

7:1 名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる

 直訳では「良い名前」となりますが、単に良い名前を付けられたということだと、意味が通りません。良い名とは、人々からの良い評判です。新改訳のように名声と理解するので良いでしょう。良い香油はお金を出せばすぐに手に入ります。しかし、人々からの良い評判・名声は、時間をかけて築かれていくものです。誠実に人々に仕える積み重ねの中で、信頼を得ていくのです。

 ですから、富よりもずっと得難く尊いものです。

 「死ぬ日が生まれる日にまさる」ということも、意味は似ています。生まれた日はまだ人生の記録が1ページもありません。しかし、人生全体を通して良きものをこの世界にもたらしたならば、死ぬ日は生まれた日にまさるのです。そう生きるべきであるし、そう生きて欲しいと神様も願っておられます。いずれも、時間をかけてコツコツ積み重ねて初めて得られるものです。一朝一夕ではないのです。あなたの名前が、「二度と耳にしたくない名前だ」と言われず、その名を聞けば、皆が嬉しくなるような人生を送りたいのです。そして、死ぬ日が生まれた日にまさるために、2節以降のみことばに心を留めましょう。

 

7:2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。 

 宴会よりも、喪中の家に行く方がよいと語られています。もちろん、宴会・パーティが無意味だと言っているのではありません。その意義も十分あります。楽しいことは大事ですよね。ただ、楽なことや楽しいことは意識していなくてもできますよね。気が付いたら流れているものです。宿題をやるよりも遊ぶ方は何倍も楽ではないでしょうか。掃除をするより動画を見ている方が楽でしょう。ですから、意識しないと悲しい事、苦しい事とは向き合えないということです。

 そして、どちらがより人生にとって益になるかという点で言えばどうでしょうか?ここにあるように、祝宴の家に行くよりも、喪中の家を訪れる方が益になるのです。なぜでしょうか? 2節後半にありますね。「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ」と。

人の死と向き合う時、本当に色々なことを教えられるのです。恩師の中に既に召された方々がいますが、やはりそれぞれの生き様から、深く豊かに教えれたものでした。人には、人生の転機と呼ばれる振り返りの機会があります。その一つが人の死です。それは、楽しいバカ騒ぎする宴会の場ではないでしょう。「あの人の死を無駄にしてはならない!」とは言っても、「この楽しい宴会を無駄にしてはならない!」とは、言わないでしょう。どのような人の死であっても、向き合う時、私たちは必ずと言ってよいほど、自分の死と向き合わされます。まして、それが愛する人の死、尊敬する人の死であれば尚更です。それはきっと、自分の人生を本気で見つめ直す大切な機会になることでしょう。 皆さん、そうではないですか?

 

 3節に目を留めましょう。7:3 悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。

 悲しみは笑いにまさると語られます。私たちの感覚では、悲しみなんてないにこしたことはないいつも笑っていたいと思うのです。けれども、聖書は、神のみこころに沿った悲しみは、その時は辛くとも、後になって私たちを幸せにすると教えているのです。

 意外にも人を笑わせるユーモアのある人って、深い悲しみを経験している人だったりするのですよね。「喜劇王」とも呼ばれる天才エンターテイナーで、チャールズ・チャプリンという人がいました。音声の無い映画でありながら、ここまで表現し笑わせることができることに驚きました。実は彼は、両親に大きな問題が育ててもらえず、施設を転々とする孤独な極貧生活を歩んだのです。お金持ちの家で、楽しくワハハと笑いながら成長したのではない。超がつく苦労人です。だからこそ、人を笑顔にする道を本気で探求できたのかも知れませんね。

 ここでは、顔の曇りが、心を良い方へ育てるとも言います。死の危機に直面した時、その人の顔は一時的に曇るでしょう。悲しみや苦しみや不安に襲われるでしょう。しかし、だからこそ、自分がどう生きるべきなのか、人生はこのままでよいのかと真剣に考え、心が真っすぐにされていくのではないでしょうか。

 ですから、真に知恵ある者は、その悲しみのただ中に置かれている喪中の家に出向きます。

7:4 知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。 

 愚かな者は、いつでも楽な選択肢、楽しい道ばかりを選んでしまうのです。私たちの生まれながらの性質、肉の性質は、基本的にそうだと思うのです。放っておけば、愚かにも何も考えずに楽しさや、楽なことばかりを選んでしまいます。

清瀬福音自由教会の岩井先生の件、皆さんにもお祈りいただいています。すい臓癌の末期で、多くの臓器等に転移し、抗がん剤治療も難しいと言われています。先週の礼拝説教が一区切りとなり、療養に専念なさるとのことです。その最後となるかも知れない説教ですので、YouTubeで拝見しました。また、当教会の役員、CSJY教師、ユース等のグループのあるlineでも紹介をいたしました。本当は全員の方に紹介したいのですが、全員に連絡できる手段がありませんでした。今後やはり教会全体の連絡手段が必要だと感じています。それでも、おそらく40名以上の方にご紹介した感じになるかと。ただ、その中でご覧になられた方がどれだけいるだろうかと。正直多くはないのでは?と予想しています(笑)。ただ、そういうものかなと思うのです。なぜなら、私自身、正直なところ気乗りしなかったからです。私の心の中では、弱り切っている岩井先生の姿を拝見することが辛い、避けたいと思いがあったからです。それこそ、趣味の動画などを視聴する方が気楽です。それでも、今日のみことばに押し出されるようにして、拝聴させていただいたことは、本当に恵みでした。かなりお痩せになった姿。また、声も以前の先生の力強い朗々としたものではありませんでした。涙をこらえる場面も少なからずありました。39度近い熱がある中で話され、途中で立ち続けられず、座って話されました。それでも、先生のことばのひとつひとつ、祈りやみことばの朗読ひとつひとつに、圧倒的な力があると感じました。

これまでも岩井先生の説教を何度か拝聴した者です。しかし、今までのそれとは別次元の迫力を感じました。先生が、今、愛する人々に伝えなければならないことを、いのちを削るようにして語っておられるのでしょう。そこには、死を覚悟した人にしか伝えることができな厳粛さがありました。「ああ、私の説教と祈りが、毎週こういうものであれば良いのに」と願わずにはいられませんでした(逆立ちしてもできませんが・・・)。でも、そのように思えたことが幸いでした。まだまだ成長しなければならないと改めて教えられました。

また、その説教やお姿を拝聴して、いい加減に今を生きている人に、本気で自分の人生と向き合っていただきたいと、改めて切に願いました。むなしい何も残らない人生ではなく、大切なものを残すことができる実を結ぶ人生を歩んで欲しいのです。時は刻々と流れ、気が付いたらむなしさの中で人生を振り返る。主にあって出会ったすべての人に、そうなって欲しくないのです。ですから、5節にあるように知恵ある者の叱責にこそ、心を留めて欲しいのです。7:5 知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。 死の現実を学ぶことの大切さを知る者が「知恵ある者」でした。その人のことばを軽んじないでください。あなたのためです。 

愚かな者の歌とは、「今が楽しければそれでいい」と訴えるような、中身のない刹那的な快楽の歌でしょう。しかし、そういうことばで誘惑して、本当に大切なひとりの人生を台無しにしても、彼らは責任を取ってはくれません。私たち自身もまた、安易な気休めのことばによって、友人や家族を不幸にしてはなりません。人が真剣に、生と死に向き合うことを妨げてはならないのです。「楽しければいい」、「気軽に生きなよ」と無責任に語り、その人が悲しんで顔を曇らせ、そこからまっすぐな心が生まれることを妨害してはならない。そうではないでしょうか。

6節で、むなしい笑いに流される問題にとどめを刺します。

7:6 愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。これもまた空しい。

 宴会やパーティにつきものの、意味のない馬鹿笑いは、その時は楽しくはじけていますが、良い実が残るようなものではないので、むなしいと語られています。それは「鍋の下の茨がはじける音のよう」とたとえられています。茨は燃えやすいのです。けれど、すぐに消費されてしまう燃料。パチっとはじける音がしても、炎を持続させることができません。愚か者の笑いとは、一瞬で終わり、その後何も残らないと教えているのです。

私も漫才やコント、馬鹿らしいことが大好きです。でも、笑いのためだけの笑いはむなしいと感じます。自分に注目して欲しいだけのエンタメはむなしいでしょう。実に、岩井先生の説教の中に、ダジャレも登場していました。礼拝堂では、きっと皆さん悲しみの中でかたずを飲んで聞いていたことでしょう。しかし、それほど面白くもないダジャレが飛び出した瞬間、空気がやわらぎ笑い声が入っていました。自分のために笑いを取るのではなく、心配している皆さんの緊張を和らげ、安心させるために先生がジョークをもそこに語っている姿でした。すべてのことをキリストのために。すべてのことを福音のためにしている姿です。

 

私たちは何をするにしても、キリスト中心です。キリストの愛にとどまるのです。

 

ご一緒にみことばに聴いて参りました。すぐに手に入る楽しみは、簡単に失われるものです。一方で、尊くいつまでも残る価値あるものは、多くの苦しみ悲しみを通って、練り上げられた人生の中に発見し、身に着けられるものです。だから、一時的刹那的な快楽に流されて生きるのではなく、自ら喪中の家に出向いてでも、その尊い教えを乞う者となりましょう。あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えてください。あなたの神を恐れて生きる者となってください。限りある人生がむなしいものとならないために、真に賢い者の助言に真摯に耳を傾けてください。本当に見るべきものを見てください。本当に聴くべきことばを聴いてください。主はあなたに今日も語っておられるのです。


 引用元聖書
<聖書 新改訳2017
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