「子どもが過ちを犯した時」
1.あやまちを認められる人に育てる
ローマ書3:9-10 9節 では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。10節 次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
さらに23節でも、「すべての人は罪を犯して」と語られています。大切なことは、自分が罪人であると認めること。あやまちを認められる人になること。子どもたちをそのように育てたいのです。
そうじゃないと、友人関係でつまずきます。仕事でも、自分の非を認められない人は信頼を得られません。夫婦関係、親子関係も破綻する大きな原因になるでしょう。夫婦こそ、お互いに「悪かった、ごめん」と言い合い、赦し合うことが何より大事な関係ですよね。
自分を「罪なし」とする正当化の罪、自分は正しいんだと高ぶる罪を神様は最も嫌われますし、自分の非を認めない人は赦されようがありません。
ですから、ぜひ自分の非を認め、謝ったり悔い改めたりしていけるように育てていきたいものです。
2.では、どうしたらいいのか?
(1)「赦し」の提示が前もってなされていること
先ほどのみことばにあるように、「義人はいない」のです。しかし、社会一般として、義人を求める風潮もありますよね。しかし、完璧を求める相手を前にしては、非を認めにいのです。赦してもらえない相手、恥をかかせてくる相手には、自分の非を認めて謝ることはとても難しいのです。
今の社会で考えてみますと、有名人は世間のバッシングが強いので、非を認めにくくなっているのではないでしょうか。ちゃんと認め、謝るなら、それを評価する風潮もないと「謝罪するだけ損」と考えてしまうでしょう。
正直に認め、謝罪することが本当に尊く、立派なことなのだと教えてあげないといけないのです。勇気がいることなのです。それを評価しないなら、恥をかき、傷つけられるだけなら誰も言わなくなってしまいます。
そもそも、なぜ、クリスチャンが罪を認められるのでしょうか。
それはイエス様の十字架という完全な赦しが先にあり、砕かれ悔い改める心を喜んでくださるからです。
参考)マタイ18:15(個人的な交わりの中での罪。恥をかかせず、悔い改めへ)
(2)実際に赦し、神の赦しと償いへ
「それは立派だ!よく勇気をもって正直に話してくれた」と伝え、一緒に悔い改めの祈りをしてあげましょう。神様はちゃんと罪を認める人を必ず赦してくれるのだと伝えましょう。
→ 第一ヨハネ1:9
人に対して害を与えてしまっているなら、償う方法を一緒に考えてあげましょう。神様の赦しを受けて「スッキリ」。それで終わり。というのでは片手落ちです。
聖書は損害を与えているなら、償うようにと教えています。償うことで、あやまちを犯した本人も、自分の問題を向き合い、正しく対処する喜びと平安を得ることができるのです。
(3)悔い改めの先には大いなる希望があることを伝える
罪を犯した者、過ちを犯した者を神様は用いてくださいます。時に、自分を正しいとし、人を裁いてばかりの人以上に、自らの過ちのゆえに頭を低くして一生懸命歩む者を神様は用いてくださるのです。
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